四月一日




 かつてカードキャプターなるものをやっていた少女、木之本桜の誕生日は、4月1日である。
 学年で一番年下の誕生日である彼女は、春休みと重複する期間であるため、誕生日当日にはあまり多くの人に祝ってもらっていなかった。
 家族と、親友である大道寺知世、兄・桃矢の親友である月城雪兎くらいのものである。
 もっとも、それを不幸だと感じた瞬間など、桜には無い。
 春休みが明ければ祝ってくれる友達は多いし、当日に集まってくれた人たちもとても充実しているからだ。
 ただ、例外として、去年の4月1日だけは少し不満というか物足りなかった。
 桜の「いちばんのひと」である李小狼が、香港に帰国していたため、いなかったのだ。
 勿論電話はあったし、手紙もプレゼントも送られて来たが、恋人が出来て初めての誕生日で、桜は初めて不満な誕生日というものを知った。
 だから、今年の誕生日は、特別楽しみだった。
 小狼は友枝町に永住できるように手続きをして帰ってきたからだ。
 恋人として過ごす小狼の誕生日、クリスマス、バレンタインにホワイトデー。
 二人は色々なことを体験してきた。
 それはとても幸せなときで、だから桜は、疑いもしなかった。
 誕生日に、何か不幸なことが起きるだなどということを。




 四月一日の朝。
 桜は起きてから、まずは念入りに髪の手入れをした。
 寝ぐせのついた髪で小狼に会うのはかなり恥ずかしいからだ。
 いつもより5分は長く髪を梳き、思い出したように食卓に向かった。

「今日は怪獣みたいに歩かないんだな、さくら」

 大学講師として考古学を教える藤隆は、桜の誕生日に家にいられないことをとても残念そうにし、桜に謝ってから一昨日発掘にでかけた。
 一週間ほど泊まりこみでするらしく、その間の家事当番は桜と桃矢の2人で全て分担している。
 といっても、誕生日である今日は、桃矢が気を遣って全て受け持ってくれている。

「さくら、怪獣じゃないもん!」

「はいはい、とっとと食っちまえよ。すぐに洗うんだからな」

「うん。いただきます」

 桃矢が用意してくれたのはハムエッグを乗せたトーストだった。
 黄身は半熟、ハムの塩加減絶妙、トーストの焼き具合も完璧、と非の打ち所がない。
 添えてあったホットミルクも、飲みやすい温度になっていた。
 さらに、朝食ながら、藤隆が用意していったデザートが出された。
 いたれりつくせりである。

「うぅ、しあわせだよ〜」

「おまえの幸せは安いな……」

 桃矢は呆れたような、しかしながら優しい顔で桜を見つめた。
 桜が気付く前に、表情を呆れのみに切り替えてしまったが。

「食い終わったら食器を寄越せ。さっきも言ったけどな、すぐ洗うからよ」

「ごちそうさま。おいしかったよ」

「おそまつさま」

 桜から食器を受け取った桃矢は、宣言どおり、流し場に向かって食器を洗い始めた。
 桜は自室に戻り、今日の日のために新しく買った服に着替えた。

「李君、気に入ってくれるといいなぁ」

 亡き母・撫子のおさがりでも、知世のデザインした服でもない、自分の服。
 お小遣いのやりくりには苦労したけれど、桜はとても気に入っていた。
 それを恋人である小狼が気に入ってくれたとしたら、これは桜のと〜ってもお気に入りな服に昇格することだろう。



 桜は待ち合わせの20分前に着いたのだが、小狼は既にいた。

「小狼君、おまたせ!」

「ああ、さくら。待って……なかったぞ」

「ほぇ?」

 なんだか小狼に違和感がある桜だったが、少なくとも、目の前にいる小狼がニセモノだということはない。
 桜ほどの魔力の持ち主をだませる者など、この世界に存在しないのだ。
 もっとも、桜は魔力を使って検知したりはしないが、いちばん大切な相手を間違えたりはしない。

「あ、さくら、新しい服……か?」

「うん! 小狼君も、今まで見たことない服だね」

 小狼の服は、彼の礼服に印象が似ていたが、袖の長さなど、実用的になっている。
 香港で買ってきたものなのかもしれない、と桜は思った。

「小狼君、よく似合ってるね!」

「え? そ、そうか……」

「うん!」

 褒められたはずなのに、何故小狼は、沈んだ顔をするのだろうか。

「さくらは……似合ってないな」

「え?」

 桜は耳を疑った。
 もしも本当に似合っていなかったとしても、小狼はそういうことを言う人物ではない。
 彼は優しいから、どう直せばもっといい、とかそういうことをさりげなく言ってくれるタイプだ。

「あ、あの、どこが……ダメかな?」

「……どこ、とかじゃなくって……」

 桜と小狼の間を流れる空気が、重くなっていく。
 二人とも、酷く苦しげな表情をしていて、誰かが見れば、別れ話をしているのではないかと疑いそうなほどだ。

「あ、あのね、小狼君……何か、わたしに隠したりしてる?」

「隠してなんか…………ない」

 異様に長い間を持って、悩んだ末ひねり出したように小狼が答えた。

「そう……」

「さくらは、おれといて楽しいか?」

「え? そんなの、楽しいしうれしいに決まってるよ!」

「そうか……。おれは、楽しくもうれしくもないな……」

「え……」

 桜は、もう何がなんだかわからなくなってしまった。
 小狼は、今何を言ったのだろう?
 聞こえていた、意味がわかってしまった。
 お誕生日の朝から聞くには、およそ最悪の言葉。
 気付けば、目からは涙が溢れていた。

「さくら、なんで……」

 小狼は、手を伸ばして何か言おうとして、しかし、それをやめてしまった。

「くそっ!」

 そして、どこかへと走り去ってしまった。
 その手で抱き締めてくれたなら、この涙も収まったかもしれないのに。
 優しい言葉をかけてくれれば、さっきのは聞き間違いだと思えたのに。
 桜の望むものは全て無く、涙は流れ続けた。



 桜のもとから逃げるように去っていった小狼は激しい後悔に襲われていた。

(クソッ! なんでエイプリルフールなんて日がさくらの誕生日だったんだ!
 これじゃ、ちゃんと祝ってやることもできないじゃないか!
 しかも、今日のおれはなんだかボロボロに言われたし、さくらはなんでか泣いてしまうし! くそ、なんなんだ!)

 後悔に襲われて、襲われて、どこに行けばいいかもわからず走り続けた。

「李君! 待って!」

 その先で山崎貴史と会ったのは、とても運が良かったとしかいえないだろう。

「山崎か……」

「李君、君にどうしても謝らなくちゃいけないことがあるんだ」

「どうしても? いや、そうじゃなくって、ええっと逆になるんだから……」

「それが違うんだよ、李君! エイプリルフールに嘘をついてもいい、っていうのは本当なんだ。
 だけど、嘘以外を言うと、言った相手が呪われて、自分は大罪人扱いされて処刑されるっていうのは、僕の嘘なんだよ!
 ごめん! いくらなんでも酷い嘘だったよ」

「えっ……」



 桜が意気消沈をして帰ってきたことに、木之本家にいた誰もが驚いた。
 桜は明言しなかったものの、小狼とのデートをしにいったことは皆が知っていた。
 それが、こんなに早く、目に涙すら浮かべて帰ってくるなど、誰が予想しようか。

「ただいま……」

 あまりに沈んだ声で言われたため、桃矢はからかうことどころか、玄関に迎えに行くことも出来なかった。
 桃矢の部屋にいた雪兎もまた、同様だ。
 ただ、二人とも、桜が泣いていた、いや、今も泣いているという気配は察していた。
 桜が階段を上っていく時、桃矢が歯を鳴らしたことに、雪兎はもちろん気付いていた。

「あれ、どうしたんやさくら? ……さくら?」

 ケルベロスの気遣う声に反応せず、桜はベッドに倒れこんだ。

(小狼君に、嫌われちゃったのかな……?)

 理由はわからない、けれど、そう考えただけで、涙が溢れてきた。
 せめて周りに心配をかけまいと、声を殺すものの、ケルベロスも、封印の本の中のカード達も気付いていた。
 行動を起こしたのは、カード達だった。
 倒れこんだ桜の周りを、ふわふわと囲むように飛んで回って、桜に元気を出して、と囁く。
 勿論、本当に声が出ているわけではない。
 だが、桜自身の魔力で作られたカードの意思は、ちゃんと桜に伝わり、桜は顔を上げた。

「さくら……」

 ケルベロスは声をかけ、しかしかけていい言葉が見つからず、名前だけを呼んだ。
 カード達は、くるくると回り続けていたが、やがて体を起こした桜の手元に収まった。

「占い……?」

 さくらカードから伝わった意思は、占いをしようというものだった。
 さくらカードは、クロウカードとほぼ同じカード構成であるため、色々な占いを行うことができる。
 カード達は、気を紛らわすために言ってくれたのだろうか?

「多分、違うよね……」

 カード達は、きっと何かを直感していて、それを告げたいのだ。
 だから、何かの手順を踏むことなく、手に収まったカードの一番上をめくった。
 そのカードは『希望』。
 唯一、クロウカードに存在しなかったさくらカードである。

(今、何かの希望が、来る……?)

 桜がそう直感したとき、携帯電話が鳴った。



 桜が電話を受けた時、桜が泣いていることに対しての桃矢の怒りは頂点に達しようとしていた。

「あのガキ、ぶっとばしてやる!」

 普段はクールな桃矢が、怒りを露わにし、近くに怒りの対象――小狼がいたのなら殴り殺しそうな雰囲気を漂わせている。

「待って、桃矢!」

 彼の怒りの緩衝材となっているのは、彼の親友で、最も大事な存在、雪兎だ。
 雪兎がいなかったのなら、桃矢はとっくに完全にキレていた。

「止めるな、ゆき。今回は許せねえ」

「気持ちはわかるけど、待って、桃矢。きっと、何か理由があったんだよ」

「どんな理由であれ、さくらを泣かせていい奴なんていねえよ!」

 怒りに任せてガレージに置いてあるバイクに乗り込もうとする桃矢を、雪兎はしがみついて止める。

「確かにそれはわかるよ! ぼくも、もう1人のぼくもそう思ってる。
 けどね、桃矢。小狼君は、さくらちゃんが選んだ、さくらちゃんのいちばんの人なんだよ。
 その彼が、さくらちゃんを泣かせるなんて、絶対に望むはずがない。
 彼じゃないか、泣かせてしまったことに気付くことが出来ないほど追いつめられていたんだよ。
 彼を信じよう」

 雪兎が一度も目を離さずに語るものだから、流石にその気迫に飲まれ、桃矢の怒りが少しだけ収まった。
 少なくとも、今は動かずにいられるくらいには。

「これ以上さくらを泣かせてやがったら原因であろうとなかろうとぶっとばしにいってやるからな」

「桃矢は、本当にさくらちゃんが大事なんだねえ」

 あはは、と笑う雪兎は、頭上の魔力に気付いていたが、そういうことに気付けなくなっている桃矢に対して教えるのも酷だと、あえて黙っていた。
 頭上には、『浮歩』を使用して宙を移動し、桜の部屋の窓に向かっている小狼の姿があった。



『もしもし、さくらちゃん?』

「千春ちゃん? ど、どうしたのかな?」

『あのね、ちょっと聞きにくいんだけど、今日、李君に変なこと言われなかった?』

「ほぇ?」

 何故、あの場にいなかった千春がそんなことを聞いてくるのか、桜にはわからなかった。

『もし言われてなかったんならいいんだけどね、ちょっと山崎君が気になることを言ってて』

「山崎君が?」

『うん、あのね。山崎君、今日の朝に李君に会ったんだって。でね、今日って4月1日、つまりエイプリルフールでしょ?
 だから、素直でだまされやすいからだまし甲斐のある李君に、エイプリルフールについてのウソをついたんだって。
 けど、今日ってさくらちゃんの誕生日でもあるでしょ? だから、変なこと言われてないかなって思って。
 あ、山崎君がついたウソっていうのはね……』

 千春は、山崎が小狼に教えた嘘を細大漏らさずに伝えた。
 それを聞いた桜は、小狼に嫌われていないかもしれないという『希望』が見えて、部屋の中に浮いているはずのケルベロスを見つめようとして、
 窓の外に浮いていた、小狼と目が合った。

「小狼君!?」

『え、さくらちゃん、どうしたの?』

「って、あわわ! ご、ごめん、千春ちゃん、切るね。今度かけ直すから!」

 桜はあわてて返事すら待たずに電話を切り、窓を開けた。

「さくら……ごめん! おれ、嘘をついた! さくらの服は似合ってて可愛かったし、さくらと会えて本当に嬉しかった!
 なのに、嘘をついて、さくらを泣かせた! 謝って済まされることじゃないかもしれないけど、本当にごめん!」

 小狼は開口一番謝った。頭を下げたまま喋り続けたが、そこに山崎という名前は出てこなかった。
 彼は、友人のせいにする、という方法をとらず、あくまで自身の過失として、このすれ違いを解消しようとしたのだ。
 小狼君らしいな、と桜は思い、小狼に笑顔を向けて、

「あやまらなくていいよ、小狼君。エイプリルフールは、だまされた方がおばかさんなんだもん」

「さくら……」

「それにね、千春ちゃんから聞いたよ。小狼君、エイプリルフールって今日初めてだったんだよね。
 山崎君はウソが上手いから、だまされちゃったね」

「ああ……、だけど、騙されて、酷い嘘ついて傷つけたのは結局おれだし……」

「だから、いいんだよ、小狼君」

 小狼は言わないが、桜の言ったことも嘘としてとらえていたはずなのだ。
 桜が傷ついたというのなら、自分の言葉を逆に受け取った小狼も同じように傷ついたはずだ。
 だから、おあいこ。小狼君が謝る必要なんてないんだよ、と桜は考えていた。

「ただ、わたしの質問にちゃんと答えて欲しいな。ウソをつかないで」

「ああ、なんでもちゃんと答える」

 桜は、深呼吸をすると、少しだけ顔を赤くして、尋ねた。

「小狼君のいちばんのひとは、誰?」

「もちろんおまえ……さくらだ!」

「わたしも、小狼君がいちばんだよ」

「さくら……!」

 窓を飛び越え、小狼は桜を抱き締めた。
 桜も小狼の体に手を回し、その体を強く抱き締めた。
 ほとんどゼロの距離で向かい合った顔が、自然に近づこうとした時、

「あー、ほんとはヤボなことしたないんやけどな。わいやカードたちの前でこうぶちゅーっとやるのはどうやろな」

 すっかり忘れ去っていた声が聞こえて、桜と小狼はバッと音がしそうな勢いで離れた。
 二人とも、りんごか赤信号かというような顔の赤さだ。

(うう、ケロちゃん、タイミング最悪だよぅ……)

(あのぬいぐるみ、やっぱり決着を付けておく必要があるか……)

 一度タイミングを逃すと、なかなかキスのきっかけなどなく、二人とも動けずにいた。
 空気を悪くしたのを察して、ケルベロスはさくらカードの封印の本を持って外に出たのだが、それでも二人は動かない。
 ケルベロスが出てから何分か、はたまた何時間か、あるいはたった数秒か、時が流れて、小狼はなんとか気を持ち直し、

「渡しそびれてたからな」

 と、プレゼントの包みを取り出した。
 桜もなんとか気を取り直して向き直る。

「わぁ、ありがとう!開けていい?」

 小狼のああ、という返事に桜は丁寧にリボンと包装を解き、中身を確認した。

「おっきいくまさん!」

 中身は、くまのぬいぐるみだった。
 以前貰った「小狼」と名づけたくまのぬいぐるみと同じ形ながら、やや大きく、しかも前よりも上手に作られていた。

「前にも渡したから、どうかなとも思ったんだけど」

「とっても嬉しいよ! ねえ、この子も『小狼』って名前にしていい?」

「さくらがいいならいいけど、ややこしくないか?」

「ううん。よろしくね、『小狼』!」

 包装に使われていたリボンの色が綺麗だったので、それを首に巻いて命名をした。
 今このときから、くまのぬいぐるみは「小狼」になったのだ。
 新しい『小狼』を、小さい『小狼』の横に置いた桜は、包装紙を丁寧に折りたたみ、途中で手を止めた。

「どうした? 手でも切ったか?」

 心配して手元を覗き込んだ小狼も、動きを止めた。
 包装紙に描かれていたのは、キスをする天使たちの姿だったのだ。
 その姿は、恋人と二人でいる部屋では、どうしても連想してしまう。
 恋人とのキスを。
 その情景を思い浮かべて、小狼は顔から湯気でも出るのではないかと思うほど赤面した。

「あ、あの、小狼君!」

「な、なんだ?」

 桜は、なんだか思索をしたのち、

「まつ毛、まつ毛がね、目に入りそうなの!」

「おれの?」

「そうなの。取ってあげるから、ちょっと目を瞑ってもらえない?」

「あ、ああ」

 やたら意気込んでいる桜に目の付近をいじられるのは危険な気もしたが、気圧された小狼は結局目を閉じた。
 桜が近づいてくる気配を感じて、まぶたに触れる手を感じた。
 手が離れて、もういいかな? と薄目を開けると、視界には桜しかなかった。

「え?」

 まぬけな声を上げた次の瞬間、小狼の唇に何か柔らかい感触が有って、次の瞬間、顔を真っ赤にした桜は一気に飛びのいた。

「え、もしかして、いまの……」

「えへへ、小狼君、わたしのウソにだまされちゃったね」

 桜は真っ赤な顔のまま、悪戯っぽく笑った。
 小狼は、顔を赤らめて、幸せな嘘を考え始めていた。



 この後、二人がどれほどの嘘を重ね、どれだけの幸せを重ねたか、それは秘密。
 桜の今年の誕生日は、今までの誕生日で一番幸せだったことは確か。
 これから、二人はどれだけ幸せを積み重ねていくのか。
 たとえ嘘で引き裂かれそうなときがきても、二人には無敵の呪文がある。
 二人なら、絶対 大丈夫だよ。