ただ流れるままに
〜一ヶ月前〜
我が学園は全国きっての進学校である。創立以来、厳格な規律を重んじ、学業一辺倒という方針で生徒を指導している。
その成果はすさまじく、毎年多くの生徒が超難関有名大学への進学に成功し、
進学率をデータ化すれば全国ナンバーワンとなる教育機関であることは間違いない。
要は超が三つも四つも、下手をすれば五つもついてしまうようなエリート学園なのである。
「では、生徒議会を始めます」
こんな学園にも勿論生徒会は存在する。
生徒がよりよい学園生活を送るために、様々な問題を学園がサポートしつつ、解決案を実行する。それが本来の生徒会だ。
しかしこの学園では話が違ってくる。何も出来ないくらい圧倒的に地位が弱いのだ。
この生徒会は進学校であるがために、学園側からの抑制力はかなり強い。
さらに、問題らしい問題も起こらないことも、生徒会側にとってはまさに『問題』だ。
校風があまりにも厳格すぎるがために問題を起こす余裕のある生徒はいない。
更に元々勉強が趣味という学生が、難関校進学に向け、この勉学の監獄へと入学してくるのだが、
学校での行事に大きな関心を示さない生徒が大多数で、生徒会が動くような行事など片手で数えられるほど。
まだ問題がある。他の学校とは違い、圧倒的に学年行事が少なく、しかも小規模だ。
文化祭は、各クラスがテーマに沿った研究を発表しあうという学会みたいな内容。
園外活動といえば歴史ある日本の古都への修学旅行くらいのもの。体育祭に至っては存在すらしていない。
断言しよう。生徒会は、点数稼ぎの場でしかない。生徒会に属し、籍を置くだけでも、有望な将来への布石が打てるのだ。
僕はそのよこしまな考えだけで一年から生徒会の書記になり、2年後期の現在では生徒会長の座にまで上り詰めた。
入学時から生徒会メンバーだった僕が、来期の続投も担当することになるのは確実だろう。
点数が稼げるとはいえ、余暇の時間を取られる生徒会は人気が無い。
ここで結果を出せば嫌でも進学できるのだ、面倒事は誰もが回避したがるに決まっている。
面倒事を面倒と思わない変わり者、或いは成績の面で余裕のある優秀な生徒、そして願ってもいないのに押し付けられた者。
このどれかが生徒会に属し、決められた場所決められた時間に集まっている。ちなみに、僕は1番目と2番目にあたる。
卒業間近な今の時期、議題に挙がるのは卒業式の運営、そして来年の行事について軽く検討するくらいのものだった。
本来ならば。
僕は淡々とした口調で話を始めた。
「まず今年度に行った、体育祭におけるクラス対抗35人36脚、及び園内借り人競争、ヘキサアスロンリレーですが───」
書記が丁寧な字でホワイトボードに文字を埋めていく。
解説すると、40人41脚はテレビでもやっていた大人数での二人三脚。そのまま競技として取り入れたのだ。
二番目の競技は借り物競争の“物”を“人”に変えただけだが、学年問わず全校生徒の一人をそのまま名前で載せているので、難易度は高い。
最後のヘキサアスロンリレーは、トライアスロンをリレー形式にした競技で、6つの競技をリレー形式で繋ぐという、いわば大規模な障害物リレー。
ギリシャ数字で3を示すトライを、無理矢理6を示すヘキサに変えて勝手に作り出した、いわば造語だ。中の種目は……思い出したくもない。
これが第二回体育祭で行った主な大種目。教育会では大きく取り上げられたであろう。
「次に文化祭におけるコスプレ喫茶運営、ミスコンの開催にドラムやベース等の音楽機材、並びに演出での火薬使用───」
ホワイトボードが文字で埋まっていく。まるでカビが急速に繁殖しているかのようだ。
今年の文化祭も酷かった。今言った項目は聞こえはギリギリありえるが、中身が恐ろしいことになっている。
コスプレ喫茶は男女共々、古今東西ありとあらゆるジャンルの衣装が取り揃えられ、外から来た一般客の入りが恐ろしい数字を叩き出していた。
ミスコンでは露出度の高い衣装は勿論、最終審査は水着審査にまで発展していた。よく中止にならなかったものだ。
また音楽機材と火薬は有志のライブコンサートで使用された。学内から、更には卒業したOBまで駆けつけ、類稀なき盛り上がりを見せた。
どれもこれも、今までの文化祭とは大きく逸脱している。それどころか、他校ですらもまず実行はしないだろう。
「図書館に搬入された若者向けの文庫本や雑誌、屋上並びに水泳部の使用時以外の室内プール自由解放───」
今日の議題は、読み上げる僕自身、頭の痛くなるような内容ばかりだった。
突然だが、学園に関する説明を訂正したい。
確かに、この学園は日本一の進学校であることに変更はないのだが、一昨年を境に大きく校風が変わってしまった、いや、変えられてしまった。
たった一人の女生徒によって、この学園は大きな革命が起こってしまったのだ。先ほど並べられた議題の山は、全て彼女によってもたらされたものばかり。
本来なら行事の確認程度で済んだのだが、今年は去年を含めた後始末で生徒会も各委員会も混乱の一途を辿っている。
ここ最近に起こった急激過ぎる改革は、学園全土に、
ネイティブアメリカン───つまりインディアンしかいないアメリカ大陸に突如ヨーロッパ人が踏み込んできたような衝撃を与えたのだった。
『真面目』の模倣たるこの学園に現れた侵略者は爆弾で校風を破壊し、おびただしい量の瓦礫を生み出した。
僕達はその瓦礫を拾い、完全な形で元に戻すという使命を、学園側から託されたのだった。
「以上、前生徒会が行った新たな生徒会活動に関する処置ですが───」
比較的控えめな文字で書いているにもかかわらず、ホワイトボードは文字で埋め尽くされた。
以前の学園には性質上存在しなかったものを、前生徒会……いや、たった一人の女生徒が作り出したのだ。
「たのもー!」
突如ドア越しから聞こえてきた声と乱暴なノック音に、一同は身を強張らせた。
音の発生源であるドアの向こうに立つ生徒は、器用に足でドアを開けると、「失礼」と短く言って両手に抱えた大量のプリントを僕の前に置いた。
あまりの重さに机が悲鳴を上げる。
「どう君、これだけ見てもまだ送迎会やらないっていうの」
バンッ、とわざとらしいほど大きな音を立てて彼女は机を叩いた。
僕の目の前で迫る彼女こそ、この学園に大量の革命をもたらした元生徒会長である。
入学後すぐに生徒会長の席につき、以後大胆な発想と底なしの行動力でそして生徒の心を引き込む話法で圧倒的な支持を得ていた。
学園側にとって悩みの種以外の何でもなかったが、彼女自身の成績はトップクラスなので口も出せず、
また下手に抵抗しようものなら生徒からの反発も大きいものだった。
「延べ1000とんで25人!現生徒会のメンバー以外は集まったわ!」
プリントには数人の名前とクラス、出席番号が記入されていた。署名だ。
「相変わらず妥協しない人ですね」
「当然でしょう。もう最後なんだから。あと一ヶ月足らずで卒業する3年生に、せめてイタチの最後っ屁くらいやらせたいと思わない?」
「先輩、不潔です。女性なのですからせめて華を咲かせると、オブラートに包んで言って下さい」
「どうでもいい!伝わればそれでヨシ!」
「よくありません。この署名は先生方に提出し、許可を得たら議会で取り上げるので、先輩は大人しくしていてください」
「あのタヌキとキツネに渡したら資源の無駄じゃない。どうせ見て見ぬフリして燃えるごみに直行よ。資源ゴミにすらなりゃしないわ」
「先輩、教師の前でその俗称は控えて下さい」
監査役の教師が、コホンとわざとらしい咳をした。
「さ、もう先輩の用事は済んだでしょう。受験生なんですから、早く帰って入試対策でもしていて下さい」
「いーやーだ。今ここで送迎会開催の決定を聞くまで動かないからね。大体、わたしの成績は知っているでしょう」
前述したとおり、先輩は頭がいい。しかも模試では本気を出せば、どの大学でもS判定が出るほど。
元生徒会長という肩書き上、プレッシャーにも強いので、本番当日に失敗するのはありえない。
「それでも先輩がここにいる理由はありません。先輩は“元”生徒会長であって、“現”生徒会長は僕です」
「心優しい先輩が、後輩のために肉を裂き骨を削りながら、こうして心配してるんじゃない。
ああ、あの忠実で可愛いパピヨンだった君が、今では凶暴なマンドリルに見えるよ」
「全世界のマンドリルに謝って下さい……埒が明きませんね。先生、議会が終わるまででいいので追い払ってくれませんか。
隙を見てまた戻ってくるので、議会中は片時も目を離さないようにして下さい。多少乱暴にしても構いません、全責任は僕が取ります」
「でも───」
「この生徒会の会長は、先輩ではなくこの僕です。信用できませんか?」
女の教師は2,3秒思考すると、先輩の襟首を掴んだ。
「に゛ゃっ!?」
「よろしくお願いします」
「に゛ゃぁぁぁぁぁあああああっっ!!!」
教師は無言で引きずり出した。
「半年前の夜、わたしの部屋で一緒に、朝まで体と体で語り合った君はどこへ行ったーーっ!」
「徹夜の格闘ゲーム如きに誤解される表現を使わないで下さい。セクハラです、先輩」
体が教室から消えた。ドアから様子を伺う。
「鉄面皮ーっ!鉄面皮ーっ!鉄面皮ーっ!鉄面皮ーっ!鉄面皮ーっ!鉄面皮ーっ!てつめん」
廊下に引きずり出された後も聞こえてくる罵詈雑言を適当に聞き流し、完全に見えなくなった事を確認してから、ドアを叩きつけるようにして閉めた。
流石に少々腹が立ったが、過度の反応は彼女に付け入れられるだけだ。伊達に一年半も顔を合わせてはいない。
流石の先輩も、教師相手、しかも女性に実力行使はできまい。
この議会における、最大にして最強の脅威は消え去った。
「さあ、会議を続けましょう」
先輩が生徒会に属してから、学園長への報告は義務となっていた。
応接室にもなる学園長室は、大きなデスクの正面にガラス張りの机、その机を挟んだ対面にソファーという、オーソドックスなスタイルで配置している。
一見質素にも見えるが、ガラス張りの机は豪華な装飾が施され、ソファーには最高級の材質の物を選んでいる。
仕事に使うペンも高級品揃いで、一介の生徒には公表できない程の額がこの部屋には積み込まれているだろう。
「学園長、これを」
先輩曰く『タヌキ』と呼ばれる学園長は眉毛を上げ、困惑した表情で署名を受け取った。 困惑と言っても、実際は大して困惑していないだろう。
なにせ最大の悩みの種はもうすぐこの学園から消滅してしまうのだ。
先輩が生徒会を引退したことにより、この学園における支配権は名実共に学園長の手に再び移った。
先輩の影響力は、学園長ですら霞んでしまうほど強大だった。
「この署名は卒業する生徒への送別会開催の希望です。はっきりと数えてはいませんが、全生徒分の名前が載っていると思われます。いかが致しますか」
パラパラ書類をめくる手を止め、作ったような笑顔で僕を見ながら言った。
「君達の熱意は素晴らしい限りだが、残念ながらこの書類は受け取れない。署名運動は規則で禁止されているのだよ。
ここでこの書類を認めてしまえば、学園の代表である私が規則違反になってしまうだろう?それは許されないことだ。分かってくれるね」
学園長は更ににっこり微笑んだ。
「それが学園長の意思なら、僕は従うだけです。失礼しました」
「待ちたまえ」
一礼をして背中を向けようとした僕に、学園長は声をかけた。表情は崩れていなかった。
「彼女はどうしてる?」
「議会が終わるまで担当の先生が付きっきりで監視した後に帰りましたよ。学園長は安心して椅子に座っていてください。僕が完璧に抑えますよ」
「生徒会が移行して半年、君は実によくやってくれている。元の学園に戻りつつあるのは、全て君のおかげだ。
君の兄上も姉上も素晴らしい人物だったが、君はそれ以上の逸材だと、私は見ている。君がいなければ、この学園も私もどうなっていたことやら」
「買いかぶりすぎです。僕は兄さんや姉さん、そして一家の名に恥じないよう行動しているだけです」
僕の実家はここからだいぶ離れているが、兄も姉も揃ってこの学園を卒業し、大学への進学を果たしている。
兄は既に僕の一家が経営する会社の子会社を経営し、姉は既に博士号を得ているほど優秀な科学者だ。
続く僕も彼らに負けないほどの功績を残さねば、自分自身の面子は立たない。必死になるのも当然だ。
「本来の君にはこの学園を統率できるほどの実力は十分ある。しかし相手が彼女では荷が重かっただろう。
君の学外での評価を知っているかね。彼女の暴走を止められないのは学園と他生徒会の対処が悪いと言われている。
つまり、君の評価はいいとは言えない」
「それが何か?」
「もし無事に卒業式を終えたのなら、私は君には最高の大学にも楽にパスできるような、最高評価での推薦をしたいと思っている。
君の兄上や姉上以上の、だ。勿論海外の大学でも構わない。君が行きたい大学へ、私が送ってあげよう」
なるほど、上手い手だ。僕が生徒会に入った理由を熟知し、かつ意欲を向上させるように仕向けている。
学園長が姑息と呼ばれるような手を使うほどまでに、彼女が学園長に及ぼした影響は大きかったのだ。
学園長はゆっくりと腰を上げると、僕の目の前に立ち、見上げて言った。表情は変わらない。
「どうかね。君にはおいしい話だと、私は思うのだが」
仏のような顔の下には、どのような思惑があるだろうか。少なくとも、畏怖の念は存在しないだろう。
「考えておきます」
僕は今度こそ踵を返すと、学園長室を出て行った。
窓から茜がさす、誰もいない廊下を暫く歩いた後、ポケットから二冊の生徒手帳を取り出した。
去年の手帳と、今年の手帳。今年は学園の規則に大きな手が加えられたため、前年の規則と比較するために、去年の手帳も常に持ち歩いていた。
今年の手帳を開く。確かに『署名禁止』の項目が載っていた。
続いて去年の手帳を開く。今年の手帳に比べて幾分か薄いページをめくっていく。
「貴方には恐れ入りますよ、学園長」
最後までめくり終えた手帳を閉じて元の場所にしまうと、足の動きを戻して歩き出した。
───先輩の的確な表現には恐れ入る。同じ策を張る人間でも、先輩と学園長は人間として決して合わないだろう。
去年の手帳に、著名の禁止という項目は載っていなかった。
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〜一週間前〜
目覚ましが作動する前にスイッチを切る。これが僕の日課だった。
人間、一度生活のリズムが決まってしまえば、一週間単位であろうと就寝時間も起床時間も自動化してくる。
定期的な睡眠サイクルは今朝もいつもと変わらない平日が始まることを告げていた。
一回だけ欠伸をすると、身だしなみをして顔を洗い、コップ一杯の牛乳を飲みトーストを焼いて食べ、
テレビでニュースをチェックしながら手早く着替えを済ませると、戸締りを確認して家を出た。
比較的裕福な家庭である僕は、寮に入らず近くのマンションを借りて学園を行き来している。
学園まで徒歩5分、学園とは正反対の方向に歩いて10分の場所に電車の駅とバス停。
それを挟んだ商店街から少し裏に入った場所に、マンションは建っている。
マンションの前に走る、車一台半分の細い道路を歩き、商店街に入る。更に歩いて1分。小さな喫茶店が目に入ってくる。
何の躊躇も無くドアを開けると、来客ベルに反応した客と店員が一斉にこちらを向いた。客はすぐに視線を戻した。
「いらっしゃ───イマセ」
笑顔を振り撒きながらカウンターでコーヒーを沸かす彼女の頬が引きつった。
僕は特に反応も返さずに、今日の新聞を手に取りいつもの壁際の二人用の席に座った。
新聞を広げて数分、淹れたてのコーヒーが運ばれてきた。
「ゴユックリドウゾ」
片言で僕を対応する彼女を僕は一瞥した。そこにはあの元生徒会長の先輩がウェイトレスの格好で立っていた。
ウェイトレスといっても外着の格好にエプロンをつけ、長い髪を肩の上までアップした簡易的な格好だ。
先輩は一瞬ジト目で睨んだ後、背中を向けてカウンターに戻っていった。以前の対応が御気に召さなかったらしい。まあ当然だろう。
先輩はこの店のオーナーの娘だ。毎日朝と晩、昔からこの喫茶店を手伝っているらしい。
自称美味しいコーヒーと凝った手料理、そして看板娘が自慢のこの店は、学生にも会社員にもそこそこ人気がある。
入学時から通っていた僕はすっかり常連になっていて、来店から店を出るまでの行動がお互いに確立していた。
取り立てて絶大な人気があるわけでもない小さな喫茶店だが、僕はこの店が気に入っていた。
今時珍しいアットホームな雰囲気が、多くの常連客を生み出す原動力であり、僕もまたその魅力に取り付かれた常連なのだった。
テレビと新聞を交互に見ながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。
コーヒーを淹れるのだけは先輩の役目だ。マスターの腕と比べるのは失礼だが、それでも一般的な喫茶店やレストランよりもずっと美味しい。
ついでに言うと、先輩の料理の腕を語らせたら一時間は続かせる自信がある。内容を話すだけでも阿鼻叫喚の地獄絵図が出来上がるので口に出さないが。
「……………」
新聞越しに刺してくる視線が気になって、思わず新聞をたたんだ。対面にはウェイトレス姿の先輩がこちらを見ていた。
いや、見るという生易しい表現ではなく、もはや観察や視姦といったレベルでこちらを見つめていた。視線は僕の胸元あたり。
今は客足も少ないので、ウェイトレス兼コーヒー淹れの彼女もこのような真似が出来た。
「ね、君、そのカッコ、どうしたの?」
「客が来ましたよ」
「いらっしゃいませー!」
元気良く挨拶をし、席に案内してメニューを受けると、その客にコーヒーを淹れ、再び僕の向かい席に座った。
「どうして?」
「僕の勝手でしょう」
今の僕はいつもの学園指定の制服ではなく、街に出るような普段着でここに来ている。
普通なら適度にここで時間を潰し、店を出た後は直接学園に通っているのだが、今日は少し理由がある。
僕は新聞を広げなおすと、先輩は唸りながら仕事に戻っていった。
今日は時間がたっぷりあるので、必要最小限だった新聞を読む作業も、今日は隅から隅まで行うことが出来る。
じっくり読んでいき、とうとうテレビ欄まで読み尽くして顔を上げると、ぶすっとした顔の先輩が僕の視界に広がっていた。
シャンプーの香りが漂ってくるまでに接近している。普段見るより幾分か艶やかな印象を受け、不覚にも心音が加速したのを感じてしまった。
「それで、制服にも着替えず君は何のためにここに来たの?サンドイッチも頼みに来た訳じゃないでしょうし。
もしかしてさ、デートのお誘い……はいくらなんでもないか。堅物鉄面皮な君がそんな思い切った行動起こすはずないし。
じゃあ制服が汚れてダメになったとか。わたしの制服貸そうか?あ、でも今の君もう可愛くないからやっぱダメ、見たくない」
「先輩、当たりです」
先輩の目が汚いぼろ雑巾を見る目になった。
「……マジ?流石に冗談くらいわきまえて言ってるよね?」
「マジです。今から20分、駅で待ちますから、できるだけ早く来て下さい。では」
新聞を折りたたんで元の場所に戻す。すると先輩が血相を変えて肩を掴んだ。
「君が何を言っているのかゼンゼン分かんないんだけど。君がわたしの制服に着替えるのに、何で当の本人の君が出て行くのよ」
鳴僕は溜め息混じりに返してやった。
「先輩、寝ぼけないで下さい。先輩をデートに誘ったんですよ」
向かいに人が居ない事を確認すると、ドアを勢いよく開け外へ出た。
歩いてすぐに、後ろのドア越しから何かが暴れるような音が聞こえた。先輩が転倒した音だろう。
先輩の反応も当然だ。今日は平日、勿論授業もみっちり入っている。
真面目の模範たる僕が学校をサボってまでデートの誘いをするとは、先輩でなくとも誰が予想できようか。
それにしても、平日の朝に商店街を逆走するのはどうにも慣れない。
今着ているはずの制服を着た学生達が、真正面から僕の横を通り過ぎていく。
自分のやっている行為が許されるのかといえば当然NOだ。罪悪感と焦燥感でさらに息が詰まりそうになる。
今日は先輩の意思とは無関係に、学園の犬である僕が学園に逆らっているのだ、どれも初体験ばかりで緊張するのは昨日から予想していた。
歩きながら不安と戦っているうちに、いつの間にか駅前に着いていた。一番分かりやすいと思われる位置に陣取り、壁にもたれかかった。
あと10分。僕は昨日決めておいたコースを頭の中で反芻しながら目を閉じた。
先輩は約束の5分前にやってきた。無視して学校に行くか、遅れてくるものだとは予想したが、これは流石に予想外だった。
肩で息をした先輩はいつもより美しく感じた。化粧も厚すぎず薄すぎず、適度にこなしてある。
後頭部の上方で束ねられたポニーテールに、派手ではないが綺麗な髪留めでアクセントをつけていた。
服装は緑のスリップワンピースに白のボレロ、キャメルのブーツ。普段のイメージとのギャップが、先輩の魅力を惹きたたせた。
「いつもとはだいぶ違う格好ですね」
「あっ、あたりまえじゃん、でーとなんだからっ!」
いつも買い出しに付き合わされる時は、ジーンズにタートルネックのセーターという比較的ラフな格好が多かったが、
今回はどうにも気合が入っているようにしか見えない。デートと言っても、買い出しと大して変わらないだろうに。
……もしかして、というか、これしか考えられない。
「先輩、デート初めて?」
「誘われたのも生まれて初めてよ」
5分前の到着には驚いていたが、この事実には本気で面食らった。
過去に何人かの男と付き合っていたイメージがあったが、どうやら違ったようだ。人は見かけで判断してはいけないものだ。
かく言う僕も中学時代に2,3人ほど交際をしていた時期があった。友人にこの話をすると、全員目を丸くしていたものだ。
初めてのデートというのは緊張したものだ。とはいえ、常に相手にリードしてもらっていたので特に大きな失敗は無かったが。
もし僕が何もかも初めてだったら、先輩に付け入る隙を与えるような失敗をしでかすに違いない。直接ではないが、過去の経験に感謝しよう。
「いつもの買い出しと変わらないじゃないですか。よく僕を拉致して行くでしょう、どこが違うんですか」
「買い出しとデート、全然違うじゃない。君こそデートの響きの重さを知って使ってるんでしょうね」
「ええ、勿論。今日の僕は荷物を運ばなくていいことは確かです。そろそろ電車が来る時間ですね。金銭面は気にしないで下さい、全額負担します」
僕は先輩の手を取り、早足で歩き出した。そろそろ学園の生徒や教師たちの数も増える頃、急いで離れなければいろいろ面倒になる。
先輩の手はじんわりと汗をかいていた。いつも僕をあちこちに連れまわす先輩の手を、僕は小さく女の子らしい手だと感じた。
ホームへの階段を駆け上がり、自動改札を抜けた先には到着したばかりの電車と大量の学生と教師達がひしめき合っていた。
彼らが完全に降りるのを待ってから電車の中へ入る。主な乗客を失った電車の中は閑散としており、老夫婦や何人かの会社員が残っている程度だった。
近くの空いている席に座ると、並んで席に座った。同時に発車のベルが鳴り、ドアが閉まると、電車は滑るように動き出した。
朝の光が外から体を温め、低めの空調が中から体を冷やす。ちょうどいい車内の温度が眠気を呼ぶ。
先輩は無言だった。怒っている様子は無い。元々イベントの仕込みのために学校を休むことができるよな人だ、罪悪感はあまりないだろう。
僕から特に話すこともないし、話す必要もなかった。電車で話をすること自体、本来は好ましくないものだ。
目的地まで電車で25分。僕は車内での時間潰しの本を持ってこなかった事を後悔した。
仮にもデートなのだから自粛したのだが、不機嫌になろうが僕には関係ない。今回のデートでは先輩を連れ出せればよかった。
今回のデートは重要なのだ。違反を犯す価値は大きくはないが、少なくもないという程度だが、それでも重要だった。
暫く電車に揺られていると、不意に先輩は立ち上がり向かいの席に座り直した。僕の隣は御気に召さないようだ。
軽い溜め息をつくと、僕は後ろの窓に流れる景色を眺めた。向かいからの視線を受け流しつつ、そのまま目的地まで姿勢を崩すことはなかった。
最初の目的地で暫く時間を潰しているうちに、先輩も慣れてきたようだった。電車の中での時間が先輩の頭を冷やしてくれていたようだ。
最初は初々しい反応しかしなかったが、徐々にいつもの先輩に戻っていった。
肝心のトップバッターは犬ばかり集めた動物園。
「あはははは、こいつは可愛いね。やっぱり犬は小さい子が可愛いよ。猫には負けるけど。ほらほら、君も撫でなさいよ」
「勘弁して下さい……アレルギーなんですから」
「これで子猫だったら最高なんだけどなー。看板犬でも飼ってみようかな」
「そうしたら店変えますからね」
「えー。ケチだな君は。営業妨害で訴えるよ?」
「僕が100%勝訴できるのでどうぞご勝手に」
昼食。
「今思ったんだけどさ、デートに蕎麦っておかしくない?」
「選んだのは先輩でしょう。僕は気にしませんが」
「それもそうだね。一番高そうな店だから入ったんだけど、しょうがないか」
「は?」
「おまたせしました、春御膳『松』になります。こちらがざるそばになります」
「わたしが『松』です。彼がざるそば」
「……先輩の辞書に遠慮という文字はないのですか」
「んー?奢りでしょう?」
「……もういいです」
ゲームセンター。
「朝は無難に動物園だったのに、午後はゲームセンターですか」
「いいじゃない、行きたかったの。新台は空いてないから……あそうだ、アレ撮ろ、アレ!」
「プリクラ……ですか。女性同伴なら男性も入れるようですね。まあいいでしょう、付き合いますよ」
「あ、ここは衣装貸し出ししてるみたい」
「ええ、そうですね……って先輩、なんですかその怪しげな目は。何か企んで……なんで2着も、ちょっと、嘘でしょう!?」
「さーさー禁断の楽園へれっつらー。うふふふふ」
「店員さん助けて下さい!先輩、後生ですから、それだけは勘弁して下さい!誰か来て下さぁいっ!」
「最後はここです」
心を彫刻等で抉り取るような体験しかけたが、懇親の抵抗の末、人生転落の危機を回避することに成功した。
まだ自分でどこか行きたがる先輩を説得し、僕が最後に選んだのは、梅の花が咲き乱れる梅園だった。
僕が考えたデートプランは、動物園以降が先輩の気まぐれにより大幅に変更されたが、どうせなら先輩が楽しめればいいので、特に問題はないだろう。
「梅園?梅干でも買いに来たの?」
「先輩が欲しければどうぞ。僕が先輩を連れてきたのは別の目的ですから」
「はあ、そうなの」
曖昧に相槌を打つ先輩。僕は園内の案内図に指をさした。
「行きましょう。ここの甘味所です」
僕は先輩の手を取った。先輩も特に抵抗することなく、僕に手を引かれてついていった。
夕方は昼間の梅を見終えた客が帰り、夜のライトアップされた梅を見るために客が来る、ちょうど入れ替わりの時間帯だ。
つまり、一番混雑している時間帯なのである。手を繋いでいなかったら3回ははぐれていただろう。
途中本当にはぐれかけるなどのアクシデントがあったが、何とか辿り付く事が出来た。
「間にあいましたね」
「間にあった?」
「ええ。少し待っていて下さい」
店員に適当なメニューを頼むと、お互い話らしい話をしないまま座った。
3月に入ったとはいえ、外気はまだ冷たい。風が無いのが幸いだが、それでいても少し肌寒いと感じる。
ぼんやりと空と梅を眺めていると、不意に先輩の体が近づいてきた。先輩は僕よりも薄着なので、やはりこたえるのだろう。
突然、一瞬だけだが、抱き寄せたいという衝動に駆られたが、耐えた。ここでそんな恥ずかしい真似は出来ないと理性が警告していた。
それ以前に、この僕が、先輩に本気になるはずがない。寧ろ恋愛対象じゃないのだから、本気も何も無いのだ。
予想では、残り10分といったところか。僕は冷静を装いつつも、西の空を眺め続けた。
「綺麗ねー」
突然先輩の口から感嘆の溜め息が漏れた。それは西の空に広がる茜色の空を見たためだった。
確かに、青空から茜空へ変わる瞬間は筆舌に尽くしがたいほどの美しさがあった。
実際に確かめるのは初めてだったが、思った以上に感動は大きい。
天気予報と自分の目で見た空を元にこの瞬間を予測したのだが、上手くいってよかった。
まあ外したとしても問題は無いのだが、自分の知識にかけて当たって欲しかった。
この時間に夕焼けが起こっているという事は、今日の夜以降に雨が降るかもしれないという兆候だ。
僕がそう伝えると、先輩は知ってる、とだけ答えて、再び西の空を眺めた。
己を誇示するかのように咲く満開の梅の花。その背後に広がる広大な茜色の世界。今この瞬間が、最も美しい。
僕と先輩は日が沈みきるまで見ていたが、やがて夕焼けが終わると、事前に打ち合わせしたように、同時に席を立った。
「今日はどうでしたか」
「うん、よかった。楽しかったし……やっぱりよかった」
帰りは乗り継ぎのバスで帰っていたが、途中で僕が歩きたいと言ったので降りてもらった。
空は既に雲に覆われ、星の輝きも月の輝きも地上には届かない。僕と先輩が歩く道を照らしているのは街頭と住居の光だけだった。
デート自体は初めてではないが、企画したのは初めてだった。どうせなら満足しないより満足してもらったほうが嬉しい。
「明日からどんな顔して友達に会おうかな。なんか自慢したいようなしたくないような」
「僕は極秘にしてもらいたいですね。学校側の対応が面倒になりますから」
「じゃあ話そっかな。あと一週間で卒業なんだし、折角の記念にいいかもしれない」
「止めて下さい。七代まで祟りますよ」
「冗談よ。流石のわたしも恥ずかしいよ」
「普段はもっと恥ずかしい事件ばかり起こしてたのに、今更恥ずかしがることもないでしょう」
「あっちはあっち、こっちはこっち」
前を歩いていた先輩は、こちらに振り返って微笑んだ。
「今日こんな日に、一体全体、なんでデートしたの?」
「ただのお詫びですよ。自己満足ともいいますね。いえ、この際予防策とも言っておきましょうか」
「?」
「先輩は負けず嫌いで強情です。卒業式までに何かしら行動を起こすでしょう。
しかし学園では常に監視の目があります。先輩もストレスが溜まっているだろうと思い、
卒業式当日に暴走しないようここで発散してもらいたかったのです。平日を選んだのは休日よりも効果的だと思ったからです」
監視の目というのは書いて字のごとく、先輩が思い切った行動を起こさないか常に監視しているというものである。
直接本人を監視しては流石にまずいので、先輩の教室に面した廊下や校庭に授業の無い教師を置き、監視をしているのだ。
監視員も穏健派、つまり先輩の行動に憤りを感じていた職員ばかりで構成され、人権に落ち度は見当たらなかった。
「……………」
先輩は黙ってしまった。大方予想通りなので覚悟はしていた。
内心複雑なのだろう。先輩を思った部分もあるが、それ以上にこのデートは学園を意識していることに、先輩は気づいてしまった。
「あー、そうなんだ」
先輩は前に向きを戻すと、早足になった。僕も同じように歩くスピードを早くした。
「ごめん、先帰る。ついてこなくていいから」
僕を肩越しに一瞥して言い放ち、更に早足になった。もう振り返らないだろう。
僕はその場に立ち尽くし、先輩が視界から消えるまで動かなかった。そして完全に消えたのを確認した後、ゆっくりと歩き出す。
携帯を取り出して着信履歴を確認する。まだ着信もメールも着ていない。
イライラしながら携帯を開け閉めしていると、ようやく念願の通知が来た。慌ててメール画面を開き、中を確認する。差出人は後輩の生徒会役員。
『完璧です。後は実行あるのみ。』
短く溜め息を吐く。今日授業をサボってまで決行したデートは、この通知を経てようやく意味を成すのだ。
───やれやれ。人を騙すのは堪える。
適当に返信を打つと、携帯をポケットにしまい、今度は速度を戻して歩く早さを戻した。
結果は上々。だが心から満足してはいない。
最後に見た先輩の顔が頭からこびりついて離れない。初めてのデートに裏切られたのは大きなトラウマになるかもしれない。
悪い事をしたとは思っている。しかし、避けては通れなかった。今日学園内をうろつかれては困るからだ。
教師側の対応は他の役員や部活動の部長などに任せてあるし、学園長などの重鎮は学外での仕事が入っていた。
計画を実行するには、この日しか空いていなかったのだ。だから、仕方ない。
何度自分に言い聞かせても、後味の悪さは拭えなかった。
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〜当日〜
卒業生が列を成して入場してくる。中には既に涙ぐんでいる生徒も見受けられた。
僕は学園長の背後の席で立ち上がり、卒業生に向けて拍手を送っていた。
学園長の周囲という位置は、本来ならPTAの役員など、教育に携わる方々が座る席だ。しかし今回に限っては特別にこの席になった。
理由はただ一つ。学園長の真正面に座る先輩が全てを物語っていた。つまり、監視。
先輩は恨みがましくこちらを睨むと、前を向いて着席した。僕達も号令に合わせて席に座る。
「ではこれより、第38回卒業式を───」
今日は卒業式だった。先輩とのデート以降、騒ぎという騒ぎはまったく起こらず、ただただ時間だけが過ぎていった。
デートの日は風邪と偽って休んだので問題は無い。おかげで学園長のみならず教頭からも激励を受けた。
司会の男性が抑揚の無い声で式を進行していく。学園長が挨拶と話をし、他の役員達が似たような話を続けた。
続いて生徒代表の演説。これは生徒会長による僕の務めだ。その直後に卒業生代表の言葉。
そして卒業証書授与、校歌斉唱。ありきたりな卒業式。どこにでもある卒業式。学園長はこの普遍の卒業式を望んでいたのだった。
それは決して悪い事では無い。むしろ当たり前だ。先輩のように常に生徒の楽しみを追い求めるという行動は、異常なのだ。
「一同、ご起立願います」
司会の声で我に帰る。僕は皆に遅れないように立ち上がった。
確認のために周囲を見渡す。体育館の上のスポット係、よし。音響係照明係、よし。暗幕係、よし。
各役員のOKサインを確認し、安堵する。舞台開幕の準備は全て整った。後は運に身を任せるだけだ。僕は目を閉じた
「一同、礼ッ!」
頭を下げる。数秒間その姿勢を維持した後、顔を上げた。
「これにて第38回卒業式を終了します。卒業生以外の方はご着席願います」
学園長を始めとした教師陣、役員や保護者が席に着くが、僕の周囲だけ動きは無かった。
疑問に感じ焦った司会が同じ言葉を繰り返す。しかし僕は完全に無視した。
同時に全ての暗幕が下ろされていき、照明は非常灯を残し全て打ち切られた。
突然の暗闇にざわつく体育館。ここぞとばかりに目を開けた。これで多少は闇に慣れているはずだ
足元には蓄光テープが舞台に向けて伸びていた。僕はそれとポケットから取り出した小さなペンライトを頼りに早足で舞台に向かった。
「皆さん落ち着いてください。これは生徒会による演出です。皆さんに被害を与えるような行為は致しません。落ち着いてその場に着席してください」
迅速に音響係がアナウンスを出し、会場内の沈静化を図った。
在学生と卒業生は、先輩が起こす突発的な出来事に慣れていたので、全員すぐに着席した。
保護者も事前に確保しておいた係達により沈静化が図られていた。じきに落ち着くだろう。
混乱を横で見ながら、僕は司会者の脇をすり抜けて舞台へ上がった。舞台の真ん中に着くと同時に、音響室にペンライトを投げ入れた。
鋭い落下音が合図となり、音響係が照明係とスポット係に合図を出す。
舞台に光が満ち、2つのスポットライトが僕を焦がすように照らし出す。喧騒に包まれていた体育館が途端に静寂へと変わった。
人生史上、最高に緊張している。規則を大きく違反するという背徳感が、普段の演説よりもいっそうの緊張感を生み出していた。
学園長と先輩へ目を向けた。二人とも驚愕の顔を浮かべていた。内面、学園長は怒りの顔を、先輩は喜びの顔を浮かべているだろう。
これで推薦の話は無くなり、社会の道も険しくなるだろう。だが、ここまで来たからには後には引けない。
「皆様、ご着席願います。皆様の協力次第でこの演説は手短に終わるので、どうかご協力お願いします」
生徒は既に着席して僕の言葉を待っている。
保護者の方々も事情を理解したか分からないが席に腰を下ろしていく様子が遠目でも分かった。
教師陣はまだ困惑しているようだったが、周囲の生徒会役員の説得により、周囲に倣って座り始めた。
ただ学園長と教頭だけは立ったままだったが、僕は無視して演説を始めた。
「皆様のご好意に感謝致します。本日はお忙しい中、この酔狂にお付き合いさせて申し訳なく思っております。もうしばしの辛抱をお願い致します。
卒業生の皆様、卒業おめでとうございます。皆さんの明るい未来を祝福し、今一度賛辞を申し上げます。
今この行動を起こしているのは、卒業するにあたって、卒業生の皆さんは心からこの学園を卒業できないかと思案した結果なのです。
生徒会には生徒からの意見が通るように意見箱が設置してあります。そこには毎日のように意見書が投函されます。
特に僕を始めとする今期生徒会には多くの不満の声が上げられました。
前期生徒会が指揮したように、何かしらの行事を行って欲しいという要望は重ねに重なって返答を処理しきれなくなるほどでした。
なぜここまで現生徒会が叩かれるのか、それは前生徒会の行った行動が生徒達に愛されていたからなのです。
ですが僕達はその要望に答える事は出来ませんでした。皆からの要望が、この学園における教育方針から大きく逸脱していたためなのです」
ざわつき始める生徒一同。教師陣では当然だと頷く教師も見受けられた。
「『文を制する者地を制す』。
勉学が優秀ならば上流社会に立てるというこの理念を実現した我が学園は、生徒一同の知識を深めるには最高の場所でしょう。
徹底した学の探求、それを可能にする設備の数々。時間という時間を学問に割り当てる方針は、僕をこの学園に導くには十分すぎました。
しかしその方針を一から壊そうとした人物がいます。彼女は過去に強大な影響をこの学園に残しました。
学園の生徒の意見を取り入れ、様々な努力と工夫を凝らし、体育祭や文化祭など、多くの行事をこの学園に取り入れたのです。
これらの行動は生徒諸君には大きく支持をされました、しかし学園側からは常に反発を買っていました。
彼女は己の将来を賭けて、学園を改革しようとしていたのです。結果は、地元新聞も取り上げるほどの功績の数々を残しています」
周囲の声が徐々に小さくなっていく。何か喋っているようにも聞こえるが、まったく耳に入らない。
僕は一種のトランス状態に陥っていた。
「その彼女も、今日たった今、この学園を卒業しました。元の鞘に収まっていく学園を見て、彼女は遺憾に思ったでしょう。
そう、法規を、教育方針を壊したとしても、ただ元の形に修復されるだけなのですから。
このまま何事も無く時間を重ねれば、3年後にはこの学園は完全に元の校風に戻るでしょう。僕としては喜ばしい限りです。
先人が何年にも渡って築き上げてきた伝統を守る行為は、当然なのです。
ですが、人生を賭けてまで壊した彼女の行為はどうなるのでしょうか。彼女が過ごしてきた3年間が全て徒労に終わるのは目に見えています。
それではあまりにも報われない。彼女は彼女なりにこの学園を愛し、通学する生徒を愛し、教師すらも愛していたのですから。
そこで僕はこの結論に至りました。元には戻さず、この壊れたままの法規を、新しく作り変えこの学園の伝統にすればいい。
伝統には全て出立点が存在します。過去へ遡っていけば必ずや起源が、さらにその起源が見つかっていくでしょう。
伝統にゼロからの存在などありません。きっかけとなるイチが出現して発展し、今日に伝わっている事物が伝統なのです。
僕は生徒代表として宣言します。彼女を起源をした伝統は、たった今作られた!」
僕が叫んだ瞬間、生徒からのどよめきが大量の歓声に変わった。
僕を含めた生徒会が再び沈静化を図り、あらかた静まったところで話を続けた。
「ただ今より生徒会直営による送別会を開催します。各校門でパンフレットを配布しているので、それを参考にして下さい。
各行事は全て有志で行われております。参加は自由です。
卒業生が現生徒に残したいものがあれば伝えましょう、生徒諸君は最後に卒業生に伝えたい事柄があれば遠慮なく行動して下さい。
我々生徒会が全力を持ってサポートします。
ただし以下の盟約を守ってください。学園の備品や壁等に損害を与えないこと。
特別教室には許可無く入らないこと。担当する生徒は対応する特別教室の前に立っているので、彼らの許可が出れば開放致します。
残りは節度さえ守れば細かいことは言いません、学園を去るも学園に残るも全て皆の自由意志に任せます。
では卒業生及び保護者の皆様、在校生と代表の皆様は司会の指示に従って退場してください」
演説が終わった瞬間に、暗幕が開け放たれた。歓声と動揺によるざわめきの中、役員による指示で生徒は混乱無く退場していく。
緊張と興奮の連続で火照った体を引きずるように舞台を降りた。降りると同時に学園長は僕に詰め寄ってきた。
もはや菩薩のような笑顔は消え去り、般若面を被ったような恐ろしいまでの怒りに満ちた顔で僕に迫った。
「何を考えているんだね」
「今述べた通りです」
「彼女にそそのかされたのか」
「半分正解ですね。先輩は何もしていませんが、彼女の熱意にそそのかされました、とでも言えばいいでしょうか」
「君には大いに失望したよ!」
「僕は生徒会の生徒会長です。生徒の意思を反映し、助力したにすぎません」
「この学園で、人生を棒に振る気かね」
「まったくです。僕も馬鹿ですね。まだ先は長いというのに」
「なに?」
「失礼します。これから忙しいので、僕の処分はそちらに任せます」
学園長はなお喚きたてていたが、意識を別方向に移して彼からの言葉をシャットダウンした。
ポケットから携帯電話を取り出すと、司令塔であるコンピューター室に連絡を入れた。
───さあ、これからが大変だ。
庭園では低音響のドラムやベースとオーケストラが不思議なアンサンブルを奏でている。
体育館では現在演劇部が去年の文化祭の演劇を再演している最中だ。
グラウンドやテニスコート、プールでは在校生連合軍と卒業生との試合が行われていた。
ここからでは判別出来ないが、各教室でも何かしらのイベントが開催されているだろう。
「はあ、科学部が液体窒素をこぼした?大量に?被害は……無しですか、良かった。直ちに厳重注意と処罰を敢行してください」
緊急連絡に対応した僕は、校内で一番高い場所、すなわち屋上にいた。
コンピューター室で指令をしなければならないのだが、目の前の彼女が僕を解放してくれなかった。
「何か用ですか、先輩」
「……………」
先輩は手をもじもじさせて、そわそわと目を泳がせていた。
「とりあえず何か言っておきたくて、勢いに任せて僕を連れ出したはいいけど、実際何を言えばいいのか分からなくなったのでしょう?」
「うん、当たり」
行き当たりばったりの多い人だ。実際僕のサポートが無ければ失敗していた行事も多かっただろうに。
一度攻勢に出れば僕など歯牙にもかけないほどの強さだが、守勢に回るとまるで紙のように脆い。
「僕から言うべきことは特にありませんね。先ほどの演説で、今言うべき事は言い尽くしました。
どうせあと一年はお世話になるでしょうし、他の事を伝えるチャンスはまだ残っていますから。
先輩は今何か言っておきたいことがあるのですか?無ければ戻らせてもらいますが」
「待った待った、話す話す」
「ではどうぞ、話して下さい」
「君は、この学園を元に戻さなくていいの?」
「ええ。勉強だけなら授業と自宅学習、塾や予備校で十分です。ま、後者は行かないでしょうが」
「舞台で言った言葉は嘘じゃないよね?」
「カンペ無し、一字一句本音です。流石に原稿は存在しますが、暗記とアドリブで乗り切りました。先輩らしくない質問ばかりですね」
「だって、だってさ、あんなの言われたら、意識しないほうがおかしいじゃない」
先輩の声は叫びに近かった。僕は先ほど演説した自分の言葉を頭の中で反芻した。
……確かに先輩を重点に置いた言葉として取れる。後半は興奮していて何を考えていたかよく分からなくなっていた。
もしかして、あまり考えたくない結論だが、
僕は先輩に惚れている?
馬鹿な、それこそありえない。僕は自分の頭がおかしくて鼻先で笑ってしまった。
「わたしさ、ここの商店街の喫茶店に勤めてるじゃない。昔から学生の人たちが来てたんだけど、みんな疲れたような顔してるの。
きっと学校がつまらないからこんなに疲れるんだろうなーって勝手に思い込んで、だったら楽しくしようって思ってここに入学したの」
「藪から棒にどうしましたか?」
「わたしがここに来た理由。わたしはわたしの我侭で今までいろいろやってきた。その我侭に巻き込んじゃったから、悪い事したかな」
「はあ、それが何か」
「何かって、後悔していないの?無理してわたしの真似をしなくてもいいんだよ」
「……先輩、さっきから愚問ばかりです。ヘソでコールタールが沸きますね」
「?」
「確かに、先輩から多大な影響を受け心境が変化してしまったという事実は認めますが、そこに先輩が負い目を感じる必要はどこにあるのですか?
模倣したのは僕の意思です。先輩の意思を無駄にしないようにと勤めたのは、あくまで僕自身が決定しただけの話です」
僕が理解しましたか、と繋げると、先輩は小さく頷いた。
最初生徒会に入ったときは、将来への布石程度しか考えなかった男が、一体全体どこで狂ってしまったのだろうか。
結局、僕は先輩の無意識に踊らされていただけなのかもしれない。
先輩がいつの間にか抱いていたこの学園への愛情が、僕の思考を塗り替えたのだろうか。
……まったく、今日の思考ベ回路はねじれ曲がっているようだ。
視線を先輩に戻すと、自分の頭と僕の頭とを交互に手をかざした。どうやら身長を測っているらしい。
「君も大きくなったよね。昔はわたしよりちょっと低くて、可愛らしかったのに」
「何を今更。いつまでも流され体質では体と心が持たないので、特訓に特訓を重ねた結果です。必然ですよ」
「そうそう、今では考えられないくらい従順だった。今は思い切りすぎて生意気だけど」
「喧嘩売ってますか?」
「いやいや、最大限に褒めてるんだよ。うん、もう男の子じゃなくなったんだね。納得」
とてもじゃないが褒め言葉には聞こえない。
僕が反論する前に、先輩はとんでもない言葉を口に出した。
「よし、決めた。今からデートに行こう!」
「……は?」
一瞬頭が真っ白になった。もはや何を言おうとしたか忘れてしまった。
「いや、まだ運営しなくちゃ───」
「君はわたしの初デートを、この送別会のために台無しにしておいて、それは無いんじゃない?」
「デートに行くにしても他の日があるでしょ───」
「えぇい問答無用!来ないなら嫌でも連れまわす!来なさい!」
僕の手を取り走り出す先輩は、もういつもの先輩に戻っていた。
勢いでまかり通してしまう先輩に僕が太刀打ちできるはずも無く、勢いよく迫る階段を何とか下っていき、
校舎を抜けグラウンドを抜け、僕はあっという間に学園の外に放り出されてしまった。
やれやれ、僕はまだまだ流される人生を歩みそうだ。
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〜後日談〜
後日僕は大量の反省文と厳重注意で事なきを得た。他の役員も同様のようだった。
送別会中に、学園受験率や大学の合格率の推移のデータを渡した効果が出たようだ。
進学率は横ばいだったが、学園受験率は格段に上がっていたのだ。
この事実を知った学園長は、以後生徒会に対して傍観に徹することが多くなったという。
先輩はどこにも受験しないで実家である喫茶店を継ぐという話だったが、これは事前に先輩自身から聞いていた。
コーヒーしか取り得の無い先輩に、喫茶店の経営が出来るものか。
そうマスターと先輩に言ったが、料理と会計の出来るウェイターが一人いれば事足りるそうだ。
二人とも目が明らかに僕を指していた。勘弁してほしい。
最後に一つ。
僕と先輩はお互いに名前で呼ぶようになった。
まんざら苦痛に思っていない僕は、一体どうしたものだろうか。今日も頬が緩まない事を祈ろう。
やれやれ。