二月の終盤。まだ残る雪を眺めつつ、訪れ間近な春への期待に溢れる、そんな平日午後の喫茶店内。
買い物帰りの主婦と暇を持て余した大学生が数組いる程度の、そんな静かな店内に、あまりにも場違いな激しい打撃音が響く。
発生源は一組のカップルと見られる男女の席。彼らの名は相沢祐一と美坂香里。見ると女性の方がテーブルに両手を叩きつけて立ち上がっていた。
「詳細な事情を早急かつ簡潔に説明しなさい」
「と、とりあえず落ち着けって」
香里の静かだがとてつもない威圧感のある言葉に、祐一は酷く狼狽している。
誰が見ても痴話喧嘩であることは明らかで、何事かと思って彼らの様子を見ていた他の客は皆一様に興味をなくし、他所でやれ、という不満を内心に抱きながら視線を外した。
しかし、当事者がそんな他人の心情に気付くわけもなく、香里の尋問は続いていく。
「昨日の午後。バイトだと言ってあたしとの約束をキャンセルしたのはどこの誰?」
「……俺です、はい」
「じゃあ、その時間にあんたは何をしてたのかしら?」
「いや、だからバイト……」
「年下の女の子とデートするのがバイト?」
「うぐ……っ!」
「後ろ姿を見た限り、確かあれは天野さんだったと思うんだけど、どういうこと?」
「い、いや、これには山よりも高く海よりも深い訳が……」
「じゃあ早く説明しなさい。内容次第じゃ許してあげるわ」
「えーと……気分転換?」
再び店内に響く打撃音プラス破砕音。香里の右腕が霞んだかと思った瞬間、祐一は周りのテーブル席を吹き飛ばしながら吹き飛んでいた。
「一生やってなさい!」
自分の分のコーヒー代をしっかり残して店を後にする香里。そんな彼女の後姿を見ながら、最後の力を振り絞って祐一は呟いた。
「香里……お前なら世界も狙える……ぞ」
謝罪でも弁解でもなく、全くもって意味のない一言。そこで力尽きた祐一は、目覚めた後に店からの弁償を求める声に悩まされることとなる。
Anniversary
「馬鹿だな。それも極めつけの大馬鹿だ。一度死んで来い」
「黙れ触覚野郎。親友に向かって死んで来いとはどういう了見だコラ」
「馬鹿は死ななきゃ治らないってこった。あと、触覚言うな」
缶コーヒーを片手に、昨日の出来事についてそんな言い合いをしている祐一と触覚野郎……もとい、北川。
高校を卒業した二人は共にギリギリのラインで同じ大学に合格し、学科は違えど相変わらずの破天荒な学生生活を送りながら卒業学年となっていた。
当然、香里や名雪も同じ大学に通っている。美坂チームも未だ健在で、大学内でも講義時間以外は大抵四人でいることが多かったが、今日は珍しく男二人しかいなかった。
「ったく、それで今日美坂が俺を避けてたわけか。余程お前に会いたくないみたいだな」
「俺が北川の所に来るって予想してたわけか。さすが優等生」
「感心してる場合か? さっさとどうにかしないとオレが奪っちまうぞ」
「問題ない。その時はお前を殺してでも取り戻す」
「奪われること前提に話進めんなよ!? つか、少しは友情も大事にしろ!」
「愚問だな。俺の中で香里は全てにおいて優先される。諦めろ。」
冗談のようなやり取りながら、親友に対してそんなことをきっぱりと言い放つ傍ら、手に持った缶コーヒーに口をつける祐一。
そんな彼が、隣に座る親友の尽力で美坂香里に告白したのは高校の卒業式直後。しかも、その日は彼女の誕生日でもあった。
彼女の妹である美坂栞にとある出来事から関わることとなり、絶縁状態だった姉妹関係を修復させる為に奔走した祐一は、その過程で香里に強く惹かれるようになった。
その想いが実ったのか、美坂姉妹の関係は良好な物になり、更には余命幾ばくもないと言われていた栞の病を回復に向かわせるという奇跡まで呼び込んでしまった。
そういった出来事があり、香里の方も祐一に対して特別な感情を持つようになっていたのだが、お互い恋愛に関しては初心だったらしくこれと言った行動を起こさないまま時間が過ぎていった。
そんな彼等の微妙な関係に気付きながらも、あえて静観していた北川が耐え切れずに行動開始したのが卒業式を控えた高校三年の二月だった。
彼は卒業式が偶然にも香里の誕生日と重なっていることを利用し、クラスの仲間全員の協力の下、彼女と祐一が卒業式の後に二人きりになる状況を作り、見事二人を結びつけることに成功させた。
そのような経緯があるだけに、北川にとって今の二人の状況はあまり歓迎すべきものではなく、
「そこまで入れ込んでるなら誤解されるような行動は慎むこったな。次はその程度じゃ済まねぇぞ?」
湿布が貼ってある祐一の頬に視線を送りつつそう言った。
そんな親友の言葉に、彼は苦い表情を浮かべて残っていたコーヒーを一気に飲みほし、空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。
「ただあいつをびっくりさせたかっただけなんだが……流石に天野と一緒にいる所を見られてるとは思わなかった」
「美坂の講義スケジュールを把握した上での行動ってのは知ってるが、生憎その日は講師が急用で休みだったらしい」
北川からのその情報に祐一はがっくりと肩を落とした。
「マジか……道理であの時間に街にいるわけだ」
「タイミングが悪いと言うか何と言うか。打開策はあるのか?」
「そんなもんがすぐ思いつくほど俺は優秀じゃねぇ」
「同感」
そのあたりは付き合いが長い者同士理解できているらしく、二人とも無言のまま考え込む。
「……計画の前倒し」
「却下。この日じゃないと全てが無意味だ」
「事情の説明」
「それこそ論外だろ」
「オレに美坂を託す」
「……一度死ぬか?」
「なら他にどうするよ? 現状維持じゃ間違いなく修復不可能一直線だろうが」
「そんなことわかってるっての。でもこればかりは譲れん」
状況は決して楽観出来る物ではないが、祐一にも譲れない意地がある。何より、今回の彼の行動は全て一世一代の大イベントの為の下準備。それを成功させるにはどうしても香里に知られるわけにはいかなかった。
そして、事前に全てを聞いている北川もそのことは十分理解している。だからこそ、彼は自分のすべきことを実行することにした。
「やれやれ……結局俺の話術で誤魔化すしかない訳か」
「悪いな親友」
「美坂から嘘つき野郎となじられる光景が目に浮かぶぜ。今度飯奢りな」
「あいあいさー」
祐一の了解の意を示す言葉を聞くと、北川はすぐに立ち上がりその場を後にする。
一人残る形となった祐一はおもむろに上着のポケットから一枚の紙を取り出した。
そこに記されていたのは交友関係を最大限に利用して調べ上げた香里の講義予定だった。ちなみに、仮にも付き合っているはずの彼女の講義予定を、祐一本人は今回の件で調べるまで殆ど知らなかったのだ。そのことに気付いた当初は流石の祐一も後悔したということは言うまでもない。
そんな過去の苦い経験を糧に、彼は目指す目的の為に今日もまた行動を開始する。
「今日は……午後はALLか。今度は休むなよ講師共」
予定表を確認するついでに軽く怨念を今日の香里の講義を担当する講師陣に向けながら、彼は携帯を取り出し、同じ番号の並ぶ発信履歴で通話ボタンを押した。
*****
祐一と北川がそんな話をしていた頃、香里は名雪と大学の近くにある喫茶店にいた。
「祐一が二股……かぁ」
「全く、やってられないわよ」
二人の会話の内容は当然の如く祐一の一件である。だが、相対する二人の雰囲気は全く対称的なものだった。
未だに祐一への怒りが収まらない香里に対して、名雪の方は従兄妹の浮気疑惑を聞かされても動揺することなく落ち着いた様子で目の前に置かれた苺のショートケーキを口に運んでいる。
そんな親友の様子に、香里は呆れた様子で口を開いた。
「……相談した側としてはもう少し真剣になってもらいたいんだけど?」
「えー、私真剣だよー」
「口の周りにクリーム付けて言われても説得力が感じられないわ」
直後、慌てて口を拭く名雪の姿に思わず笑ってしまう香里。そして、彼女の親友はその変化を見逃さなかった。
「やっと笑った」
「……は?」
「香里、今朝からずっと目がこんなになってたんだよ」
そう言って名雪は両手を使って自分の目を吊り上げて見せた。その表情は彼女の雰囲気とあまりにもミスマッチすぎて、香里は耐え切れずに大笑いしてしまった。
普通そこまで笑われたら多少なりとも不快に感じてもおかしくないのだが、名雪はそれを気にも留めずに笑みすら浮かべていた。
「やっぱり香里は笑ってる方がいいと思うよ。祐一もきっとそう言うだろうし」
不意に件の人物の名が出されたが、名雪のおかげで先ほどまでのような怒りは既に薄れてしまっている。彼女は改めて目の前の少女の不思議な力に感心させられた。
「全く……名雪のおかげでさっきまでの自分が馬鹿みたいに思えるじゃないの」
「気持ちはわからなくもないけど。祐一のすることにいちいち怒ってたら体に毒だよ」
自分が慰められてるのか祐一をけなしてるだけのかいまいち理解しきれない香里だったが、そこは何も反論せずにただ苦笑するだけに留めた。
そんな彼女に、ふと名雪がいつもより幾分真面目な様子で問いかけた。
「……ねぇ、香里。香里は本当に祐一が浮気したと思ってる?」
唐突だが、的を得た質問。ちょっと抜けてるようで、時々鋭い所を見せる彼女のその問いかけは、まるで香里の心理を見透かした上でのものにも思える。
そして、その問いに回答者である香里は一瞬驚いたような表情を浮かべ、そんな自分に苦笑しながら口を開いた。
「冷静になって考えてみれば、答えはNOね。相沢君がそれほど器用だとも思えないし」
「そうだよ。祐一がそんなことできるほど器用だったら、今頃私が浮気相手になってるよ?」
「……その発言は現在の彼女として無視できないものがあるわね」
「振られた女のせめてもの抵抗だよ」
その言葉に、香里の表情がわずかだが強張った。
「……名雪」
「あ、真面目に考えたらダメだよ? 私の中ではもう終わったことなんだから」
「それは、そうだけど……」
「それに私、相手が香里だったから喜べたんだもん。だから、ね」
笑顔でそう言える名雪の強さは、きっと自分には真似できないだろうなと香里は思った。
そして、そんな親友に今彼女が出来ることはおそらく一つだけ。
「ふぅ……結局許してやるしかないわけね」
「大丈夫だよ。今回のことはきっと何か理由があると思うから」
「はいはい。今回は名雪に免じて大目に見といてやるわよ」
そう言った彼女に突然どこからか声がかけられた。
「そりゃありがたい。あいつも喜ぶだろうよ」
その声に二人が振り向くと、そこには高校時代から見慣れた姿があった。
「あら、北川君じゃない。偶然ね」
「おいおい、偶然はないだろ。一応こっちは美坂を探してたってのに」
「香里を探してたってことは、北川君も祐一問題で?」
「そうそう。と言っても、俺の仕事は水瀬に取られたみたいだけどな。おかげで楽できた。ありがとな」
北川は笑いながら名雪に感謝の意を示すと、香里の方に振り向き、
「まぁ、そういうわけだから心配するな。あいつは美坂を裏切ったりはしないよ」
「……お互い、いい友人を持ったのが幸運だったってことかしら?」
「あいつには俺、美坂には水瀬。持つべきものは友ってやつだな」
「お互い苦労するね、北川君」
「全くだ」
「……名雪、それどういう意味かしら?」
相変わらず賑やかな三人は、輪の中に一人欠けてることを寂しく思いつつそのまま講義開始まで騒いでいた。
*****
「……待ち合わせは一時間ほど前だったはずですが?」
「いや、その、えーっと……申し訳ありませんでした」
午後の日差しの中、待ち合わせ場所らしい公園内で少ないながらも存在する衆人観衆の視線を一身に浴びながら情けなくも土下座を敢行する祐一。
そんな彼を冷たい目で見下ろす……否、見下すのは彼の一年後輩である天野美汐その人だった。
「言っておきますが、私は相沢さんと違って至って真面目な学生のつもりですので、あまり時間の余裕はないんです。わかってますか?」
「そりゃもう十二分に理解してるつもりだぞ」
「では何故そんな私を一時間も待たせたのか、簡潔かつ納得できる答えを聞かせてほしいものですね」
「前の講義で最前列にも関わらず居眠りしてたら長時間に及ぶ説教を食らいまして、はい」
「……失礼します」
「ちょ、頼む天野、俺を見捨てないでくれ!」
年下の女性に縋り付く彼の姿に、周りの人々は皆一様に視線を逸らしていた。つまりそれだけ見苦しい光景だったということである。
当然縋り付かれている側の美汐も同じ思いだったらしく、
「生憎私は相沢さんに同情する気もなければ、美坂先輩を敵に回すつもりもありませんので」
情けとか容赦とかそういった感情を全て捨て去った口調で告げられるその言葉は、それを聞いた全ての人々が戦慄するほどの冷たさと鋭さを宿していた。
もはや彼女の説得は不可能にしか見えない現状。だがしかし、祐一はとっておきの切り札を持っていた。
「……高級玉露セット」
「……っ!」
「天野が以前欲しがっていたそれが、もしも……俺の手元にあるとしたら?」
「買収する気……ですか?」
「人聞きの悪い。取引をしようというのだよ
先ほどまでの卑屈さなどどこへやら、祐一はいつも以上の尊大さをかもしだして美汐と相対していた。もっとも、傍から見れば情けないことに変わりはないが。
「さぁ、どうする天野美汐? 君が怒りを収めれば、望む物が手に入るのだ。悪い話ではないと思うがね」
「……一つ、よろしいですか?」
「言ってみたまえ」
「私がその要求を断った場合、より大きな被害を被るのは果たしてどちらでしょうね」
しばらくの間を置いた後、再び祐一が土下座している姿が目撃されたのは言うまでもないことだった。
*****
「それで、話って何よ?」
「まぁ、その、なんだ、色々と言わなけりゃならんことがあるわけで」
香里が祐一と喧嘩別れしてから一週間が経過し、迎えたこの日の日付は『三月一日』。二人にとって最も重要な意味を持つ日である。
この日を迎えるまでの間、二人の接触は全くと言っていいほどなかった。
名雪と北川の説得により祐一への怒りを収めた彼女だったが、肝心の当人から謝罪どころか接触すらしてこない日々が続き、ようやく今日二人は顔を合わせることとなった。
流石にこれに関しては香里も納得がいかず、今も祐一に向けて刺々しい視線を向けているほどである。
そして、そんな状況を打ち破るかのように、彼が動いた。
「とりあえず……色々と悪かった」
謝罪と共に、頭を下げる祐一。そこにいつもの馬鹿ばかりやっている彼の姿はなく、素の相沢祐一その人が、本心から香里に対して謝罪の念を向けていた。
「……理由は聞かせてもらえるのかしら?」
当然、香里に彼を責めるつもりは微塵もない。事前の名雪や北川とのやり取りで祐一に悪意がなかったことは既に理解をしていたし、何より今の謝罪があった。あの謝罪の意味に気付かないほど、祐一と香里の付き合いは短くはない。
だが、やはりここに至った理由だけは知る権利が、彼女にはあった。それは当然のことで、祐一も素直に語り始めた。
「事の発端は俺が天野に頼み事をしたことなんだよ。俺一人でやれることならよかったんだが、生憎無理があってな。とりあえず、お前があの時考えてたような事は何一つなかったから安心してくれ」
「ああ……男女関係のこと? 冷静に考えれば、あたしに告白するだけでも苦労した貴方が浮気なんて出来るわけないわよね。あの時は我ながら冷静さが欠けてたと思うわ」
「……信用されてるのかされてないのか判断に苦しむ言葉だな」
「信用してるわよ? あたしだけじゃなくて名雪もね。『祐一がそこまで器用だったら、今頃私が浮気相手になってるよ』、だそうよ?」
「勘弁してくれ……」
本気で肩を落とす祐一の様子に、香里は思わず笑みをこぼした。
「わかってるわよ。第一そんなのあたしが許さないわ」
「言い切るのか」
「あたし、独占欲強い方なの」
「香里みたいな美人になら喜んで独占してもらいたいね。ただし……」
言葉を続けながら、祐一は懐からある物を取り出し、香里に差し出した。
「俺も独占欲は強いんだ。……香里限定、だがな」
「………………え?」
呆然とする彼女の視線の先には、恋愛ドラマのクライマックスなどでよく見かける小箱があった。
そして、その中央で――
「プロポーズするなら絶対この日に、って前々から決めてたんだ。……受け取ってもらえるか?」
アドバイザー天野美汐の協力の下に用意された指輪が、眩い光を放っていた。
「……わざわざ誕生日に告白した上にプロポーズまでするのね」
「こういう演出が大好きなんでね。いっそ結婚記念日も上乗せするか?」
「そうね……お願いしようかしら」
「……ってことは……?」
香里は返事の代わりに、祐一に向けて左手を差し出した。
「どうせなら、自分で受け取るよりも相沢君に付けてもらいたいんだけど」
「右じゃないのか?」
「あたしの中では答えは既に確定してるもの」
香里のその言葉に、祐一は今すぐこの場で叫びたい衝動を必死で抑えつつ、指輪と彼女の左手を取った
「……やっべ、手が震えて上手く付けてやれないかも」
「我慢しなさいよ。あたしだって泣きそうなのこらえてるんだから」
「そういわれてもな……嬉しさで震えが止まらないなんて人生初だぞ俺」
震える手を駆使し、やがて作業を終えた祐一は耐え切れずに、目の前の愛しい女性を強く抱きしめた。
そんな彼の行動に最初は酷く驚いた香里だったが、即座にその表情に笑みを、そして目に涙を浮かべて自分を抱く男を抱き返した。
「……大事にしてくれなかったら承知しないわよ?」
祐一はその言葉に何も言わず、ただ腕の力を強めることで応えた。
少し暖かく感じる初春の風が、二人を祝福するように舞っていた。