それは三月の終わりの頃だった。
あわよくば土筆も顔を出そうかと言うそんな時期であったが、今年は暖冬という予測に反して厳しい寒さだったためか、まだ冷えた地面に引き篭もっているそんな時期。
北国と言ってよい地方に位置するここでは、それが一際厳しい。
しかし、部に入っている人間、学生などはそんな事に関係なく、部を盛んにするため、日々、一般の高校よりも長い春休みを消費し、活動を行っている。
元気だねぇ、と校舎の中から聞こえてくる声に、そう年寄りめいた言葉で応える、たまたま通りがかった少年。名を相沢祐一という。高校二年生。
彼もその声の仲間となっていたとしても別におかしくなかったが、生憎、彼は帰宅部なのである。
相沢祐一という人間は、面倒くさがりという訳でもない。だが、転校してきたのは今年の一月。しかも高校二年生、というか四月にもなると三年生になる。
今更何らかの部に入り、その活動に勤しんでも、無意味なように感じている彼である。
そんな訳で、とりとめもなく、ただ運動不足にならないため、ぶらぶらと歩いていた。そんな時だった。
「相沢さん」
声をかけたのは、先に癖がある小豆色の髪の毛を持つ大人しそうな少女。彼女の服装は、それは制服なのかと疑うような、特徴的な真紅の珍しい制服を着ている。それは祐一の通う学校の制服だ。そして、その少女の名前も、祐一は知っている。
天野美汐。ある一件を通して知り合った少女だった。
初見の時は、何か、胡散臭そうな感じの言葉しか聞いた事がなかったし、同時に印象しかなかった。それゆえにどこか奇妙な少女としか映らなかったのはしょうがないだろう。
しかし、今ではその親交は深まり、彼女の為人も知れてきた。友人と言って別に差し支えはない。彼女はどう思っているかは知れないが。
「お、天野か。どうした」
「ちょっとお話があるのですが……、少しお時間をよろしいですか?」
「もう少し砕けた言い方しろよな。相変わらずオバ───」
「茶化さないで下さい。真面目な話なのです」
いつもの調子でからかおうとしたが、いつもの調子でない調子で、美汐は遮った。
祐一が神妙にしてから天野美汐が語ったには、最近妙な男に付回されているのだという。今の所、明確な害意は感じられないのだが、それでも不快感が取り払われる訳はない。
もちろん、彼女は地元の警察にこの事を相談した。何とかして周辺を巡回、パトロールしてもらえないだろうか、と。
だが警察は、もちろんパトロールというものをしている。しかし、彼女の要望でそれを変更するわけにも行かない。実害が無い以上、警察としても、そのような事で動くわけには行かないと。結局、せいぜいアドバイスをされるのが関の山だった。
「という訳で、困った事になっているのです」
「じゃあどうするんだ?」
「私が思うにその付回す男は、短絡的で直情径行なようで、ちょっと挑発でもしてやれば簡単に行動を起こしそうなので。この際、直接的な行動をさせようと思うのですよ」
「つまり……?」
そう言いつつも祐一は、美汐は何を言いに来たか、大体は予想できた。
「要するに、相沢さん。一日だけ、私の恋人になっていただけないでしょうか?」
四月の淑女
相沢祐一という人間の評価について、周囲の人間はさまざまな論法を用いて評するが、結局の所はある一点の方向へと集約されている。
悪い言い方をすれば、女たらし。良い言い方をすれば、博愛主義。とかく、彼は偏見的な思考や観念を持ち合わせていないため、少し浮いた人間でもすぐに仲良くなれる特性を持っている。悪い言い方をされるのは、たまたま女性の友人が多いためである。
とはいえ、彼も人間だ。
悪人や、自分が好意に思う人間を害する人間に対しても、その主義精神が適応される事はない。怒るし、不快を示す。
故に、三日ほど前、天野美汐の仮初の恋人、偽装デートに関しては即日に了解した。
というか「頼れるのは相沢さんしかいないのです」などと、沈んだ声で言われれば即座に了解するしかない。ここで断るという無慈悲な選択は、選択肢にすら浮かばない。
とは建前で言うものの、美汐は一般大衆を考えれば少し浮いた人間かもしれないが、美少女だ。そんな風に言われたら、男として満更でもない。
そして今日が約束の日。今年は、異常気象というべきか、四月になったというのに三月の砂時計を逆様にしたかのように、肌寒い。北国であるのならおさらだ。そのため、厚手のジャンパーをまだ手放せない祐一。
彼が指定した待ち合わせの場所は駅前の噴水のベンチ。この町に来て、凍死する思いをした、苦い思い出の場所。思えば、何で喫茶店なりどこかなりでやり過ごせなかったのだろう、と今更ながらに悔やまれる。
十分前に来た祐一、そして当の彼女は、五分前にその姿を見せた。何にしても、定刻以上に待たせない女というのは彼にとって快かった。時間厳守、化粧とか、着替えとか、そういのは言い訳でしかない、と彼は思う。
「特に部活動とか、寝坊とか、禁止っ!」
思わずそう叫んでしまうほど、彼は時間には厳しいのだ。というよりも厳しくなった。ならざるを得ないだろう、二時間も雪が降る中で待ち続ければ。
五分前に来るというそういう態度は好ましい。とはいえ、時間に遅れるとか、そういう事は彼女の性格から考えると考えられないのだが。
仮初ではあるが、本日のデート相手、天野美汐は物静かな少女である。だが……、
「祐一さーん」
普段から反して、手を振って楽しげな声をあげる彼女に祐一は言葉を失った。その胸に去来するのは、本当に美汐なのだろうか、ひょっとしてそれすら替え玉だろうか、そんな思いだ。
祐一をその視界に収めた彼女は、パタパタという音が付いてきそうな勢いで彼に走り寄る。
その姿は初々しく、街行く男達も視線を振り向け、生温かい、というか少し邪なそれを浮かべている。一方の女性はと言うと、彼女に微笑むか、白い視線を誰と知らぬ第三者の男に向けたり、隣の助平と化した彼氏の足を踏んだり、と忙しい。
白い息を少し切らしつつ、笑顔で正対する彼女。
「すみません、待たせましたか?」
「あ、いや……」
声も、容姿も、天野美汐で間違いない。祐一は認めても良い。しかし、それでも疑ってしまう。
白いYシャツの上から毛糸のベストは鮮やかな紅色。その上から羽織るのは焦げ茶系のダッフルコート。そしてスカートは、膝上より短い、ミニ寸前のチェック柄のスカート。ニーソックスとそのスカートの間の生肌が魅惑的だ。
そんな明るい声をする彼女は首を動かさず、目だけで左右を見渡し、気配をうかがうようにする。祐一も、それに倣い、美汐の死角となる背後を中心に見る。
「いますか?」
それはいつもどおりの美汐の声だった。
警戒を含んだそれ。決してこれがお遊びではなく、彼女にとって真剣なものという事を、祐一は改めて理解する。
「いや、今の所は」
「そうですか」
一つ縦に頷いた美汐はおもむろに祐一の腕を取って引っ張る。
「さぁ、行きましょう」
「ど、どこへ?」
「デートの遊ぶ以外の定番といえば、ショッピングでしょう、祐一さん」
普段のイメージとは全くかけ離れた彼女の積極さに祐一は戸惑う。
「いや、祐一さんて……」
「今の設定が恋人なのに、名前で呼び合わないというのはおかしいでしょう。祐一さんも、私の事は呼び捨てでお願いします」
「あ、あぁ、わかった、天野」
そう、祐一が口にした途端、美汐は拗ねたように瞼を半分下ろし、少し、口を尖らせる。
「美汐、です」
普段は見せない、というよりも見た事がないその反応は予想だにしないものだった。
そんな彼女の、普段からは考えも、想像もできない子供っぽい表情は、祐一を確実に動揺させる。
「いや、ちょっとそれは、恥ずかしいと言うか……、な?」
祐一の弁明など、美汐は聞く耳持たない。ただ、半眼のまま、不満そうに口をつぐんでいるのみだ。
そして……、祐一が白旗を掲げるには一分も要さなかった。
「み、みしお……」
「歯切れが悪いですね。もう一度、美汐」
「みしお」
「何ですか、そのとってつけたような言い草は。彼女らしく呼んでください。美汐」
「美汐」
「親しみが足りませんね。はい、み・し・お♪」
「み、みっ……、言えるか!」
ガァッと吼えた祐一は半ば睨みつけるような視線で美汐を見やるが、当の美汐は動じもしない。むしろ、
「いつものお返しです」
クスクスと優雅に笑う。
「さぁ、戯れはここまでにして、行きましょう」
ごく自然に近寄り、美汐はその細腕を祐一の腕に絡ませて身を寄せ、僅かに体重をかける。
彼女は決して重くない。むしろ、年頃からすれば軽い方だろう。なので、祐一がよろける事は万が一にもない。むしろ、よろけたのは精神面の方だ。
天野美汐という少女はそれほど、女性としてのスタイルは良くない。だが、女性特有の匂いや柔らかさは健在、というよりも、祐一が認識するそれよりも、その感度は非常によかった。
「ちょっ、美汐、そんなに引っ付くなって……、何だ、その目は」
見ると、美汐が信じ難いものを見ているような目で、祐一を見ている。そして、
「祐一さんって、ウブだったんですね」
「美汐が俺という人間をどう解釈していたか、よーくわかったよ」
恨めしい視線を向けてくる祐一に、美汐はただただ、不思議そうな表情をする。
「え、有名ですよ?」
女たらしとか、女たらしとか、女たらしとか、とたてつづけに漏らす美汐。
自分がどのように呼ばれているか、評価されているのか、あまり関心がない彼としてはどうでもよかったので、今まで知ろうともしなかった。だが、その美汐の言葉を聞く限り、そうでもはないという事が嫌でもわかる。
だがまぁ、そう言われるのも無理はないかも知れないと彼自身思う。
何しろ、友人と言える男女の量的比率として秤にかければ、即座に女性に傾くのが彼の人間関係。それも、美女、美少女ばかりだ。
同級生はもとより上級生、下級生。中には、見た目的に子供としか思えないような人間がいるが、それを言ったら目が怖い笑顔を向けられるので迂闊に口に出せない祐一。
別に狙った訳ではないのだが、そこはそれ、ギャルゲ主人公の悲しき宿命とか何とか。
一つ、深刻なため息をついて彼は拳を作って神妙に呟く。
「故郷に帰る」
「故郷も何も、祐一さんの生家はここよりかは都会でしょうに」
「うぐぅ」
美汐の的確なツッコミは健在だった。
デートそのものの行動プランは美汐が考えていたようで、行き先を土壇場で決めあぐねるという事はなかった。美汐に連れられ、祐一は電車に乗って隣町へ直行。
ただストーカーを見つけて犯罪的行動を誘発させるためとはいえ、ただそれだけのために時間を潰すのは馬鹿らしいというのがその理由だ。
そこで、美汐は前から欲しかったものや、必要なものを揃えようと、目的の物を売っているデパートまで祐一を連れて来たのだ。
それは良い、それは良いのだ。連れられる祐一としても大いに結構だった。
「なんでだよ」
しかし祐一はそう呟く。
というのも、連れて来られたのが、スポーツコーナー。の、水着売り場。しかも、女性専門コーナー。
男が肩身が狭くなる場所ランキングなどがあれば間違いなく殿堂入りする場所だった。
夏にはまだ程遠いので、客は少ない。が、女性店員の訝しむ視線、そして数少ない女性客が放つ好奇な視線が、祐一の神経を蝕んでいく。
「なぁ、美汐。俺、あっちのベンチで───」
「その間に襲われたらどうするのですか」
「大丈夫、だと思うんだけど、うん」
「守って、くださるのでしょう?」
「そりゃあ……」
ガシガシと頭をかきつつ、不利を感じた祐一は論点をずらす。
「そもそも、何で水着なんか。まだ必要ないだろ」
「実は、友人が温泉プールがあるスパに行かないかと言い出しまして。まだ決まってはないのですが、決まったら必要となるでしょう」
「スパか……。そんなのあったか?」
「こことは逆方向の町に出来たそうですよ」
「ふーん。……目当ては温泉か」
「えぇ、まぁ、それもありますね」
「本当に、オ───」
「では祐一さんは温泉は嫌いなのですか?」
「……うぐぅ」
反論できなかった。
温泉が嫌いという日本人は恐らく、居ても少ないだろう。老若男女関係なく、親しまれ、愛されているのだ。
しかしだ。いつもとは一味、二味も違う後輩に、祐一は違和感を感じざるを得ない。
これはちょっとも弄れないな───。
まるでガキ大将のような憂鬱の吐息を一つ。ふと何気なく視線を転じると、黒く、フード付きの長いコートを着た人物が視界の隅に入る。コート自体、別に不思議ではない。だが、そこに明らかな違和感がある。
何をするでもなく、静かに立っている。が、注意と神経は全てこちらに向いているのが、祐一には感じ取れる。
「うん?」
思わず出た猜疑の言葉に、美汐は視線を変えずにそのままの姿勢、仕草で、小さく問う。
「……見つけましたか?」
「あぁ、ちょっと怪しいやつが……」
「確かめようとすると逃げ出すかもしれません。このまま気付かないふりをしていきましょう。もし、本物なら、後々も見かけるでしょうから」
それもそうだ、と祐一は美汐の意見に賛同しつつ、違う事を美汐に訊ねる。
「で、決まったのか」
「いえ、まだです」
「水着なんてどれも一緒だと思うんだけどな。そこそこ似合ってればさ」
「私も、その意見に賛同したいところですが、一般的な女性からすればひんしゅくを買う言葉ですよ、祐一さん」
「あ、悪い」
「私に謝ってもらっても困ります。少なくとも、私は賛同しているのですから」
苦笑して美汐は、いくつかの水着を適当に手に取り、祐一の前に差し出してみせる。
「どれが良いと思いますか」
俺に訊くな、その言葉を大にして、祐一はどれだけ言いたかっただろうか。渋面を作る所からして、かなりのものに違いない。
しかし、彼は逃げなかった。そこで引いたら負け、そんなどうでも良い、意味不明の意地が彼の脳裏に走ったからだ。さすが、未来に後悔を量産する男である。
「いや、それよりも、これなんかどうだ」
そういって手に取るのは、紺色の水着。というかぶっちゃけるとスクール水着のサンプル。真中の汚れなき純白の名前欄が印象的だ。
しばし、無言で見つめる美汐。そしてそれを受け取り無言のままレジに向かい……、
「これをお願いします」
と、机に紺色のソレ、だけ、を置く美汐。
「あぁ、ちょっ、美汐、冗談だぞ!? マイケルなジョーダン!!」
何を言うんですか、と言って振り返った彼女の笑顔は、とてもいい笑顔だった。
「嘘は身体に毒ですよ。確かに、私は女性として魅力のない身体です。言うなれば幼女体系寸前です。似合わないとは言えなくもないでしょう。しかしそれが祐一さんにとって、最高の魅力なのでしょう? なら、あなたの彼女たる私がその要望に応えるのも、また義務であり、試練なのです」
「ちょ、まっ……」
「店員さん、彼のたってのお願いですので、遠慮なくピピッと。あぁ、蔑むような視線は止めてください。彼は、ちょっと特殊な嗜好の持ち主なのです。悪人ではないのですが、そのせいで少し孤立している可哀そうな人なんです」
「かしこまりました。こちら一点ですね」
「おいこら、勝手にサイドストーリーを作って広めるなっ。あぁ、キャッシャーのお姉さん! 傷ついた子犬を見るような目で俺を見ないでっ、電話で注文しないでえぇーっ!!」
さすが、後悔を量産する男である。
もちろん、スクール水着は却下された。
美汐としても、祐一のいつもの冗談を真っ向から潰す事だけでの言動。買う気は皆無である。無論、慌てて祐一が止めるのを想定したものであった。
しかし逆に祐一が止めもせず、嬉しそうな顔をしていたのなら彼女はきっと買っていた。しかしその場合は、祐一の評価を大きく、下げた事であろうが。
その後も、美汐の祐一に対する、意地悪は続いた。水着の次はストレートに下着売り場。
露骨に逃げようとする祐一をひっ捕まえ、腕を引っ張る振りをして関節を極めつつ、コーナー内に進入。
茹蛸の様に赤くなる彼氏の表情を微笑ましく見やりながら、美汐は意見を求める。
無論、祐一とて馬鹿ではない。さきほどの二の舞にはならんと「俺に聞くな」発言。そこで美汐の「彼氏の要望に応えるのが彼女の義務」という爆弾発言。
そもそも何で今、買う必要がという話になり、美汐はこう答えた。
「今持っているのは中学時代のものを使っているのですが、さすがにサイズが合わなくなってきたのです。そこで、新しいものをいくつか新調していこうかと」
それに対し、祐一はやられっ放しなのが癪に障っているのか、いつもなら軽く流す所だったが「そうなのか。あんまり良くわからないけどな」などと少々毒が入る。
美汐も美汐でそこは怒るとまでは行かないまでも、眉をひそめて気分を害す所だったが、そうではなかった。
「では、確かめてみますか?」
そう、祐一の手を取り、服の上からではあるが、胸の上に置く。
ふくよか、とは言い難いが、確かに女性らしい膨らみと柔らかさがある。
「確かに、少し小さいですけど、ちゃんと膨らんでいるでしょう? あと、こっちも」
酸欠の金魚のように、口を開閉させる祐一のもう片方の手を取り、腰回りをなでさせる。
尻も小ぶりではあるが膨らみがあり、弾力のあるもので、非常に感触が良い。それを実感する祐一は顔を更に赤らめさせる。
「ちゃんと、女になっているでしょう。どうですか、祐一さん」
美汐は妖艶にすら微笑み、祐一の身体に自らをさらに密着させる。
祐一が助けを求めるように見回すと、少ないが熱い視線を送ってきている。そうして彼は自分の置かれた状況に気付き、ようやく美汐の意を振り切った。
「悪かったっ、俺が悪かったから! もう勘弁してくれ!!」
「公開趣味だろうか?」という疑惑の無実を回りにも訴えるべく、やや大きな声で祐一はわめく。だが、それすら楽しむように、美汐は微笑して述べる。
「なぜ祐一さんが謝るのです? 私は、ちゃんと女性として成長し、今もなおその過程にあるという事を証明しただけですよ」
悪戯が込められた声音。
完全に弄ばれている、そう自覚しなければならない祐一は沈みながら、
「俺を苛めてそんなに楽しいか、美汐……」
「ええ、結構」
なんてヤツだ───。
そう言わんばかりに天を仰いで、大仰に嘆く祐一に美汐はクスクスと声にも出して笑う。
「今日はもうからかうのはやめよう」
そう決意した祐一であった……。
そのような経過を挿んで、必要なものを買い揃え、色々と見て回る最中、小腹が減ってきた事に気付いた両者は「昼はどうしよう」という事と相成った。
生憎と、祐一はこの辺りの地理や出店事情に疎いので、頼りにならない。そこで美汐の記憶を頼りに、彼女の友人の情報ではあるが、近くにある美味しい米料理専門店で取る事になった。
女性をエスコートするのがデートにおける一般的な男性の役割であるからにして、祐一もその一般的な考えに賛同する人間であるから少々心苦しい思いをする。
だが誘ったのは美汐であるし、事もそれなりに急だった。それにこの辺りの地理などは頭に入れていないので、方向音痴というスキルを持つ祐一としてはむしろ疫病神だ。
そう、自身を納得させる祐一。大体、気が付いたら袋小路にいました、なんて事になれば洒落にならない。
その店の外見はそう、特徴的なものはない所だった。それほど大きくもなく、コーヒーをメインとする喫茶店ほどのものだ。美味しい店、という事で祐一は人が満杯になっているのを懸念していたが、入ってみればそれほどではない。
学生でなければ今は平日なのだし、何より彼女の友人が言うには穴場らしいのだから当然といえば当然だった。
メニューとしても様々なものがあり、二人を驚かせるには十分だった。馴染みのカレーライス、オムライス、炒飯、リゾットからパエリヤといった洋風料理もあり、果てにはボリュームのある御茶漬けもある。中には何やら訳のわからない品書きもあり、興味をそそられた。
もちろんそれだけでなく、御飯に合う昔ながらのおかずもなかなか豊富で、興味が尽きない。和風が主だったものではあったのだが、それは仕方がない所だろう。
祐一だけでなく美汐としてもこれほどとは思わず、メニュー選びだけでもかなりの談笑を挿む事となり、入店から注文までの時間は十五分も要した。
祐一が頼んだのはお茶漬けで、美汐はリゾットである。聞いた事もないメニューにチャレンジしても良かったのだが、今は空腹であるし、美味しいものが欲しかった。また今度の機会に、という事にしたのだ。
食事中はさして会話はない。あったとしても「美味しいな」「そうですね」というやりとりだけ。
美汐は礼儀作法を重んじる人間であるからして、食事中に喋るという事はまずない。祐一もそういう所を理解していたし、何より無駄口を挿んでせっかくの料理、御茶漬けをふやけさせたくなかったのだ。
そういう経緯もあり、
「良い店だな」
「はい。また訪れたいものです」
そんな会話が為されたのも、食べ終わって落ち着き、食後の一杯の御茶を飲み始める時だった。
祐一が普段、食事を共にする人間は賑やかというか、騒々しいというか、そんな人間達とばかりだ。
こういう静かな食事も良いな───。
祐一は満更でもなく、というよりも新鮮に感じて、中々気分が良かった。
「あ、祐一さん」
「何だ?」
顔を上げたのも束の間、美汐の顔が迫り、口端に寄せられる。美汐の柔らかな髪が祐一の鼻にかかり、ほのかな優しい匂いが香る。
そして暖かい感触がし、生温かい、水分を含んだ何かが撫で、掠めた。
「御飯、ついてましたよ」
ペロリと出された鮮やかな紅色の舌には、白い米粒が乗っている。それを口中に収めた美汐は、ゆっくりと、勿体ぶるようにして租借し、飲み込む。
「美味しいです」
「な、な……っ」
美汐が自分に何をしたのか、理解できるが、言葉にならない。ただ、口を手で押さえ、不明瞭で意味のない言葉だけが口から漏れる。
そんな、見た事もない先輩のその反応に、後輩はただにこにこと笑みを浮かべるだけだ。その様だけを取ればまるで『女性経験のない男の子をからかう大人な女性』という構図そのものだった。
しかし、そんな構図を甘んじて受け入れる祐一ではない。
とりあえず手元のコップの、冷えた水を一杯。口に含んで飲み込む。そうしてからようやく落ち着く事ができた。そして一言。
「何のつもりだ、美汐」
「御飯粒を舐め取ったまでですが、何か?」
涼しい顔でさらりと、爆弾発言をする美汐。
「なぜ舐め取る!? 普通に言えば良いじゃん! もしくは摘み取るか!」
「祐一さんは少年少女向けな事がお好きだったんですか」
「うわ何ソレ、何かすげぇムカつく言い方なんですけど、美汐さん」
「いえ、祐一さんは予想以上にウブだったという事にちょっと驚いただけです」
「ほうほう、という事は美汐さんは経験豊富だという事ですか」
「まさか。ただ、知っているだけですよ。実践するのは、祐一さんが初めてです」
「さいですか……」
重ねて思う事だが、今日の後輩は何か違った。
反撃をしようと思う祐一だが、並大抵の事では受け流されてしまう。攻撃をすれば倍返しだ。
「何か、凄くドキドキしますね」
美汐はそう言い、祐一もその言葉通りのものだった。もっとも、彼女の滅多に見られない、女らしい笑顔にあてられてだが……。
その笑顔に当てられて何となく恥ずかしくなった祐一は顔を横に向ける。すると……、
「あいつ……」
また、先程のコートの男が目に入る。
「どうやら、決定的なようですね」
と、美汐も視界の端に入れながら祐一の呟きに応じる。
コンビニの前の電柱にもたれかかりながら、雑誌を読みながらパンをかじっている。一見何ともないように見えるが、祐一達に対する注意というものが、ガラスを通じて伝わってくるようだった。
「さすがに不愉快だな、どうする?」
「そうですね……。私も祐一さんと同じ意見ですし、考えも同じでしょう」
目を合わせた二人は軽く頷く。
「じゃあ……、行くか。場所は?」
「近くに出来かけの公園があったと思います。そこに行きましょう」
「了解」
そう、少し苛立たしげに、祐一は伝票を掴み、席を立った。
食後の運動は毒だと言う事で、店から出た二人はゆっくりと歩いて公園に向かう。走るのは不自然だったし、必要以上にストーカーの注意を喚起したくなかった。
祐一としては、出来るなら静かな所で、というよりも喧嘩沙汰になっても、多少は暴れられる所の方が良かったのだ。もちろん、警察を呼ぶとしたら固有名称のある所の方が手っ取り早いという事もあるが。
その公園は、美汐の言ったとおり、近い所にあった。店から出て、徒歩で三分ほどの距離である。
丁度、公園の入り口に入った所で、メロディが流れる。単調なその音調からして着信メロディのようだった。
祐一は、携帯電話など持っていない。とすれば、持っているのは美汐だ。
「どうした」
「いえ、メールが届いたようです」
ワインレッド色の携帯電話をポケットから取り出し、祐一に画面を隠すようにしながらそれに見入る。
「誰からだ?」
「真琴のようです。すみません、ちょっと返信して良いですか? すぐにすみますので」
真琴、フルネームは沢渡真琴。いや、現在は祐一がお世話になっている水瀬秋子の養子となった、沢渡改め水瀬真琴である。
あの一件以来、二人は友人として関係を築いていた。
真琴は直りつつあると言っても、まだ人見知りするきらいがある。美汐としても、社交的とは言い難い。そんな二人であるからして、その関係は祐一にとって歓迎すべきものであった。
「じゃあ、そこのベンチで待っててくれよ。俺、あそこの自販機で何かジュースでも買ってくるから」
ベンチに座り、内容を読んで返信を始める美汐を後ろ目に、祐一は少しは慣れた自動販売機へと歩く。
商品は別に、新商品といった珍しいものなどない。祐一はコーヒーが好みであったが、缶コーヒーはあまり好きでなかった。ブラック派な彼としては、缶コーヒーのブラックと言いながらも微妙な甘さがあるのが嫌いなのだ。
とりあえず、祐一はごく普通の炭酸飲料を購入。そして美汐には、おしるこを購入しようと、指を伸ばした所で中断。
今日までの彼女を考える限り、手痛い反撃が来るに違いない。
吐息を一つ。
どこか物足りない、もしくは満たされない感じで、彼はオレンジジュースを購入。
無慈悲な音を立てて落下してきたジュースを取る。そうして、戻ろうとした時だった。
「いやっ、離してください!」
コートのストーカーが美汐の腕を引っ張っている光景が目に入る。
祐一は、足音を立てずにしかし全力で、走りだし、距離をつめる。左後方に回り込み、持った炭酸飲料のスチール缶を投擲した。
放物線ではなく、真っ直ぐ走るそれはストーカーの後頭部に直撃……、はしなかった。祐一を捉えた美汐の視線で気付いたのだろうか、寸前で振り返ってしまい、身を捩って回避してしまう。
しかし、美汐はその隙に逃げ出す事ができた。
「祐一さん!」
走り寄ってくる美汐を引き寄せて背中で隠し、残ったオレンジジュースを片手に弄びつつ、祐一は怒りを露にする。
わかっていたとはいえ、このような事態に直面すれば、腹立たしい事は何も変わらない。
「全く、恋人同士の戯れ合いを邪魔しやがって。覚悟は出来ているんだろうな、変態野郎」
祐一の姿を確認したフードの男は、ポケットからナニカを取り出す。カチカチと掌で器用に弄ばれたソレは鈍く光る刃を現した。バタフライナイフだ。
これほどに直接的な行動は予想していなかったのか、美汐は息を呑む。
だが、祐一は冷静、というよりも予想通り過ぎる展開に笑みさえもらしていた。
「こういう事もあろうかってな、俺も用意してあるんだよ」
そして取り出したのは、指揮棒のようなもの。だが、少し太い。
祐一はそれを振り上げ、下ろす。カチリと金属的な音がし、その身長が伸びる。護身用の警棒だ。
「さぁ、来いよ、ストーカー野郎。相手してやるぜ」
「祐一さん……」
美汐が祐一を見上げている。その瞳の光は、少し不安で揺れていた。
「心配するな美汐。お前は、俺が守ってやる。できるなら、命はかけたくないから、そうならないように全力でな。だけどお前には指一本触れさせやしねーよ」
怒りか、それとも恐怖か。目の前のストーカーは震えている。
その様子に、祐一は嘲りと忌々しさを込めた視線を放ちつつ、宣戦布告を口にした。
「俺の女に手を出してタダですむと思うなよ。歯の数本は覚悟しやがれ。まぁ、俺だって無慈悲じゃない。後は拘留所で勘弁してやる」
「く……、く……」
男が声を漏らす。良く見ると肩も震えている。それは憤怒とか、祐一の言う恐怖でもない。そして……、
「あーはっはっはっは!」
唐突に爆笑し始めた。
「ふっ、ふふふふふふふ……」
呆気に取られる祐一の背後で、天野美汐も笑い始める。
何がどうなっているか、目を瞬きさせて呆然とする祐一を二人はさらに笑う。
「くくく、俺だよ、俺」
「き、北川?」
それは紛れも無く、祐一の数少ない男友達である北川潤だった。
だがそれだけでは終わらない。北川の傍にある茂みが動いて葉音を出し、ヒョコリと見慣れた顔が飛び出した。
「あははははははははー、引っかかったわねー、祐一ー!」
「真琴……?」
彼女の出現によって、ある一つの解答が頭に浮かぶのを自覚しつつ、祐一はそれでも一縷の希望のようなものらしきものに縋るようにして、苦笑する美汐へと向く。
「どういう事だ、美汐……」
「すみません、相沢さん」
美汐の謝罪の言葉そのものが、祐一の解答が正しい事を意味していた。
時は三月二七日。四月に入る前の事であった。
それは何時も通りの行動。近くにある保育園があたる道のり。それは、いつも学校の帰路に使用している道だった。
学校と家の地理関係を考えれば少々遠回りになるのだが、そこにはそれなりの理由があった。
別段、重大な意味という意味はなかったが、その保育園にバイトとして勤めつつ保母の資格を取ろうと奮闘している、友人たる水瀬真琴に会うために、その行動を取っていた。だが、彼女自身はその行動を取る事に何のためらいも、煩わしさもなく、仲の良い親友に会うような感覚を感じており、むしろ楽しみと言っても良い。
その親友のような感覚を持たせてくれる彼女が来るのはすぐわかる。彼女自身、美汐に会うのを楽しみにしており、急がなくても良いのに、走ってくるのだ。そのために、彼女が身に着ける鈴がチリンと涼やかに鳴り響き、その接近を知らせてくれる。
「あぅー、美汐ー、祐一がー!」
「またですか……」
真琴がイの一番に、会いに来た天野美汐へと泣きついて来るのも、もはや日常と言って良いほどのものだった。一週間に一度くらいという頻度を日常と言っていいものかどうかは人それぞれのものだろうが、少なくとも、美汐は日常という範疇に入れている。
「今度は何ですか」
「祐一が、祐一がぁ〜」
「相沢さんが?」
「真琴の漫画を……、表紙はそのままに中身を全部『魁!! ○塾』に入れ替えたのよぅ〜〜。ほとんど同じ巻で、しかもしかも全部中古みたいで、ソースを落とした跡があるし、何よりブック○フのロゴが付いた100円の値札が〜〜〜〜!」
「……あの人は馬鹿ですか」
嬉々として、古本屋で大量に同じ本を買い込み、その悪戯を仕込む先輩の姿が妙にリアルに思い浮かべられる美汐。
「美汐〜、祐一をギャフンと言わせてよぅ」
「私が、ですか? 別に私は相沢さんに恨みなど……」
言葉を切り、しばし記憶を捜索。
あった。ぶっちゃけ、もっそいあった。往々にして、彼女もその被害にあう事があるのだ。普段からはオバさんくさいなどと屈辱的な言葉を浴びせかけられ、付き合いの悪さを指摘されてそこから弄られる。
天野美汐とて、乙女である。そういう風に言われるのは酷く傷つくのである。
ふと、考える美汐。もうすぐ三月が終わる。人を持ち上げて騙すというにはおあつらえ向きな日がすぐ傍まで来ている……。
「わかりました。ですが、私のやり方でやらせてもらいますよ、真琴」
「うん! がんばって、美汐!」
「と、いう訳です」
自分の心情は伏せつつ、美汐は真琴の依頼によって動いた経緯を話す。
協力者としてなぜ北川潤が選ばれたかというと、同級生では何かと目立たない、いや特徴がない、むしろ大馬鹿というべきか。そのような人物ではあるが下級生においては、彼は有名である。後輩の面倒見は良い上に優しく、気さくで親しみやすい彼は後輩達から男女問わずに慕われているのだ。故に『年下キラー』という渾名が密かに出回っているのも不思議ではない。
その事を天野美汐は知っており、祐一の友人である事と、ノリやすい性格を考えて彼を選び、友人の伝で連絡をつけ、頼んだのである。実際、彼は「面白そうだ」とノリノリで引き受けてくれた。
「という事は……」
「あぁ、ヤラセだ。つまりは、ドッキリ」
横から割り込む形となった北川の弁を肯定しつつ、美汐は言葉を継ぐ。
「相沢さん、今日は、俗に言う何の日ですか?」
「エープリルフール……、って謀ったな、シャ○!」
「えぇ、謀りましたが」
それが何か、と涼しい顔でボケを流しつつ述べる彼女。
そして協力者は腹を押さえながら口を開く。
「くくく、相沢、かっこ良かったぞ。あまりにも様になりすぎてたから、笑っちゃったじゃねぇか」
「えぇ、そうですね。不覚にも胸が締め付けられる言葉でした」
「うるさい!」
二人のからかいの野次に、祐一は噛み付くようにそれを打ち切らせる。
だが、彼のその珍しい反応に、北川が茶化し始める。
「おー、おー、照れてやがるぜ、あの、相沢が」
「……おーけー、もうこの世に未練はないようだな。殺す、今殺す。そして鳴かすから鳴き叫べ、豚のようにな」
ギチリと歪んだ笑みを浮かべる祐一に、暗雲の様相を感じた北川はすぐに半身を翻す。
「おぉっと、そろそろ約束の時間だった。うんじゃな、相沢」
さすが逃走不敗、マスターエスケープとも呼ばれる北川潤。見事な逃げっぷりであった。逃げ足ならば、水瀬名雪を超えるとも言われる彼だ。祐一が追いつけるはずもない。
「くそ、あの奇怪アンテナめ、学校で会ったらボコっちゃる。覚えとけ」
赤っ恥をかいた祐一は悔し紛れに呟き、本気でそれを実行しようとしつつ、返り見ると、未だにケタケタと笑う、今回の原因がそこに転げていた。
いっぺん地獄を見ないと反省しそうにもないなこの狐っ子め───。
そう脳内に浮かべた祐一は、熱が引いていくのを自覚した。あぁ、今なら冷静かつ罪悪感残す事無く気持ち良く殺せる、そんな台詞は誰が最初に言った事か。
「真琴……」
「な、なによぅ……」
後ずさった瞬間、祐一は真琴の首に素早く腕を回してヘッドロックをかけ、力を入れて締め上げる。
「よくも、お前は〜〜〜!」
「あぅ、あぅーーーー!」
的確に気道を締め上げられた真琴は早くもタップをする。しかし祐一は緩める気配を見せない。
酸素供給を減少させられる彼女の顔色は徐々にかつ確実に悪くなっていく。
その様子に、美汐は調停の必要を感じ、祐一を宥め始める。
「まぁまぁ、相沢さん。ここはお互い様という事でしょう」
その言葉には、祐一も引かざるを得なかった。確かに今回は祐一が悪いのだ。
真琴の悪戯の報復という形が圧倒的に多いのだが、今回ばかりは、自分からの思い付きであった。
ともかくも祐一の拘束から逃げ出す真琴。しかし、懲りないのが真琴でもある。
「バーカ、祐一なんて美汐にのーさつされてしまえば良いのよぅ!」
舌を出して見せる真琴であるが、祐一が笑顔で一歩踏み出したとたん、戦術の極意を発動する。三十六計なんとか、というものだ。
「ったく、あいつは……」
一体どこで、あんな言葉を仕入れてくるのだろうか、とため息をつく祐一。別に構わないだのだが、使い所や意味が間違っている場合が圧倒的に多いのだから仕方が無い。
ともかく帰ったら、彼女が秘蔵する冷蔵肉まんに水で溶いた辛子、山葵はもとより口直しとしてイチゴジャムとかおれんぢの邪夢などを一個ずつランダムで注射器を用いて注入してやろうと、地味だが何気に酷く黒い事を決定する祐一。
かくして、少女の悲鳴と絶叫、断末魔が水瀬家から上がる事になり、一波乱起きるのだが、それはまた別の話。
黒い事を企画し、実行する事を決意した祐一はいくらか気分を晴らせ、今回の一件を企画実行した美汐へと向き直る。
「なぁ、天野」
「はい、何でしょうか」
いつもの表情。落ち着いた、冷静なものだ。あの時のような、美汐かどうか疑うような笑顔などではない、祐一の知る顔。だが、今となっては、これが本当に彼女の素なのかどうか、わからなくなってきてはいるが……。
それはともかくとりあえず捨て置き、今、浮かんでいる疑問を口にした。
「今回の事は、俺をはめるための嘘だというのはわかった。けど、どこからどこまでが嘘だったんだ?」
今回の行動そのものは嘘なのであろう。ストーカーとか、そういうのはヤラセだ。だが、彼女の気持ちは、どうだったのだろうか。
祐一はそこがわからない。
しかし、美汐はからかうような口調でこういうだけである。
「さぁ……、どこからどこまでなんでしょうね?」
口元に指を当て、クスクスと笑う美汐のその笑顔は、オバさんくさいというよりも、上品で落ち着いた、淑女の笑み。
もう何が何だか、祐一はただ、唸るしかない。
「さて、相沢さん」
「何だよ、天野」
「続き、しましょうか」
「あー、いや、もう良いんじゃないのか?」
「言ったはずですよ。今日一日、天野美汐はあなたの恋人だと」
約束は守る主義なので、と美汐はつつなぎつつ、
「それとも、相沢さん、私じゃ、迷惑でしょうか」
「別に、迷惑という訳じゃない。ただ、義務感とか、そういうものならやめとけ。本気になっちまうからさ」
おどけた表情で祐一は言う。
それを受けた美汐は、普段とはギャップのあり過ぎる、だが慣れたしなやかな動作で、妖艶な笑みを浮かべて祐一の身体を拘束する。そして、熱と甘さを含んだ声音で、彼に投げかけた。
「別に……、本気にしてくださって構いませんよ?」
「へ?」
美汐の細く、白い脚が伸び、細い腕が祐一の首に絡みつく。そうしてようやく、彼女の唇が祐一の唇の捕らえる事ができた。
優しく、ソフトな接触。だが、そこから先は大人の、濃密な交流だった。
呆然とした祐一の唇の隙を付いて、口内に侵入する彼女の艶やかな舌。恋人、異性を求めるように、彼のそれと戯れ合う。
音は出ない。彼女が唇と唇を密着させて崩さず、音が出るのを許さない。が、その分、両者の鼓膜に響く。
最後に水が擦れ合うような音と共に二つの唇、美汐の唇が離れた。
口内に染み出た唾液を飲む祐一。妙に甘く感じるのに戸惑いながら彼は呻いた。
「いきなり、ディープかよ……」
「いけませんでした?」
悪戯的なものではなく、小悪魔的にでもなく、ただ彼女は顔を緩めて上品に笑う。
しかし祐一は、そんないつもの彼女の笑顔に、安心感を抱きつつ戸惑うという、妙な心持にされる。
「いや、驚いただけ。まさか、天野が、な」
「それだけ、私の、祐一さんに対する想いが、熱く、深いという事です」
「……本気か?」
「だったら面白いと思いませんか?」
「あのなぁ……」
「先程も申し上げましたが、本気になっていただいても構いません。私は、歓迎しますから」
「……うぐぅ」
本日、何度目かになる、タイヤキ怪盗たる少女の呻きを、祐一はする。
「さぁ、続きをしましょう、祐一さん。今日一日は、付き合ってもらいますから」
強引に腕を組み、美汐は歩き出す。
今日は振り回されてばかりだなぁ、と祐一は思いつつもなされるがままに引っ張られる。しかし、彼は満更でもなかった。
四月の五日目。
それは、もうそろそろ新学期が始まるという事で、天野美汐はその準備に取り掛かろうと、財布をバッグの中に買い物に赴く途中の路地での出来事。
「美汐ー!」
前から元気に駆けてくるのは沢渡真琴だった。晴れやかな笑みをしている事から、祐一のお返しの洗礼はまだ受けていないようである。だが、近く、美汐に泣きつきに来るだろうが……。
ともかくも、美汐の前に立った彼女は笑顔で謝辞を口にした。
「えーぷりるふーるの時はありがとね、美汐」
「良いですよ。私も、中々楽しめましたから」
「でもね、祐一たら、昨日からウンウン言って、悩みっぱなしなのよぅ」
調子が狂っちゃうわよぅ、との言葉で真琴は締める。
「そうですか」
どうやら、先日の一件で悪戯好きな先輩は、自分に対して色々と考え込んでいるらしい。自分という女も、捨てたものではない。そう、満足する美汐である。
「ちょっと予想外だけど、さすが美汐。真琴と違って年季が違うわよぅ」
「真琴、ちょっと、それは失礼ですよ」
「あぅ?」
「上品な淑女と言って下さい」
そう、笑って、美汐は歩き出す。
真琴は首をかしげて戸惑いながらも、素直に頷いてトテトテとついてくる。それは美汐にとって微笑ましい反応だった。
「でもでも、美汐、どうやったらああいう風に上手く出来るの?」
「真琴、人を騙したりするのはいけない事ですよ」
「あぅ……、ごめんなさい」
「でもまぁ、相沢さんのような人を、からかう程度なら良いでしょう。一つ、コツがあります」
「教えて、教えて!」
腕を掴んでせがんで来る真琴に、美汐は足を止めてその顔を緩める。そして、真琴の結ばれた片方の尻尾を梳きつつ、諭す様に、口にした。
「嘘というのは、真実味を帯びさせ、また多少なりの真実を混ぜる事で思い込ませられる確率が高くなります。からかうのも、嘘と同様に……」
「同様に?」
「真実を……、つまりは自分の本当の気持ち、願いという欲求を混ぜる事ですよ。後は……、そのタイミングですね」
目を細めて、にこりとあくまで美汐は上品に笑った。
─── 了 ───