天候によって料理の味が変わるという説は正しいのかもしれない。
口の中に広がるスープの味は、昨日のものより数段美味しい。昨日のスープもスープで美味だったが、今日の出来には負ける。
じめじめとした湿気がスープの水分を増やして味を薄めたのか、それとも食物の成長を早めてしまったのか。
大海原のような空を背景に、アトゥは空っぽの皿を差し出した。
「今日はよく食べられるんですね。たくさん食べてくださるなら、作ったかいがありましたわ」
ソレアは燦然と輝く太陽にも負けない笑顔で皿にスープを注ぐ。湯気と共に食欲をそそる香りが漂ってきた。
旅を初めて一ヶ月。ティグレ達はイーストセブン大陸の最南端までたどり着いた。イーストセブン大陸は砂時計のような特殊な形をしており、北部と南部に別れている。特殊な地形がそうさせたのか、南部では雨が多く採れる農作物の種類が少ない。
そのため、南部は“料理人殺し”と呼ばれるほど食材の種類が少ないのだ。
アトゥも料理ができないというほどではないが、ソレアには負ける。こんな最南端に来ても美味しい料理が食べられるのは、ひとえにソレアがいてこそのことだった。
良家のお嬢様という肩書きから料理はさっぱりだと思っていたが、実際に彼女の料理を食べればそんな危惧は一瞬にして吹き飛んだ。彼女の料理は一流のコックも脱帽するほどの腕前だった。
二杯目のスープを含みながら、ティグレは彼女のありがたさをしみじみと痛感していた。
「さっ、ティグレ様もどうぞ遠慮なさらず。今日は昨日のよりも美味しくできたはずです」
皿を持ちながら、アトゥに接するときよりも少し上擦った声でソレアが話しかける。その相手は一人だけ離れたところに座り、作業的に携帯食料を囓っていた。
ティグレと呼ばれた彼はアトゥの親友でもあり、同時にソレアの思い人でもある。
ハイビスカスのように可憐なソレアに、狂剣と恐れられたティグレ。ともすれば、人質と誘拐犯ともとられかねない組み合わせだが、誘拐犯に恋心を抱く人質はいない。
「あっ、こんなに見つめていたら気になりますわよね。失礼しました、私は薪でも拾ってきますわ」
健気なことを言いながらソレアは腰を浮かせた。自分がとりに行くからとアトゥは言ったが、彼女は丁重にそれを断った。
そして、ソレアの姿が見えなくなったことを確認してから、ティグレは皿の中のスープを地面へ零した。仕方のないこととはいえ、あまり気分のいい行為ではない。
香りに誘われたのか、警戒心の薄い猫がスープを求めてやってきた。地面に吸い込まれようとしているスープをひと舐めする。途端、猫は手足を痙攣させひっくり返った。
「ふん、やはり今日も毒を仕込んでいたようだ。毎日ご苦労なことだよ。よほど俺を殺したいとみえる」
痙攣こそしているものの、猫はまだ生きていた。毒なら猫は死んでいるはずだ。
プロも裸足で逃げ出すほどの腕前を持つソレアだったが、どういうわけかティグレの為に料理を作ると途端に魔女の研究成果のような料理ができあがる。
アトゥは緊張しているから失敗するのだろうと思っているが、彼女のことを誤解しているティグレは別の原因を作り出していた。
自分の命は狙われているのだと、ティグレはそう思っている。
見ず知らずの人間を親の仇だと思うことと、見ず知らずの人間を命の恩人だと思うこと。そのどちらが幸せなのか。
アトゥにはわからないし、答える気もなかった。
誰が誰を殺/愛したのか?
旅のきっかけは一つの事件だった。
ファティナ群コソド自治区の西アレイナ通り。昼は喧噪とざわめきに満ちたこの通りも、二の刻を少し過ぎた真夜中になると途端に危険な場所となる。
二の刻が犯罪件数の最も多い時間帯であり、ティグレ達の誤解の原因となった事件もこの時間帯に発生した。
ティグレの父親が殺されたのだ。剣で胸を貫かれ、ティグレの父親は唾液と血液の海に横たわっていた。
ティグレは父に忘れ物を届けるために町中を走り回っていた。そして、ティグレが彼を発見したときには完全に息をひきとっていた。
そのとき、ティグレの父親の傍にいた人物こそがソレアである。血まみれの父親、立ち尽くす少女。ティグレの脳内でどういう過程が作り上げられたのか、説明するまでもない。
そして、ソレアはソレアで何故かティグレを命の恩人だとして慕っている。そのことに、彼女の周りの人間達はしきりに首を傾げていた。
アトゥは、ティグレの父親を殺した真犯人もソレアがティグレを慕う理由も知っていた。
アトゥは覚えている。ティグレの父親を貫いた剣の感触を。抱きかかえたソレアの感触を。
ティグレの父親は自治区の警備班に勤める真面目な男だった。だが、裏の顔は女性を専門としたシリアルキラー。ソレアを狙っていたのもそのためだった。
あまりに残虐な手段と正体不明という恐怖に怯えた自治区はそのシリアルキラーに多大な賞金をかけた。アトゥはその賞金が目当てだったのだ。
殺してから初めてティグレの父親だと知った。ソレアはその際に助けたのだが、何をどうしたのか彼女はティグレに命を助けられたのだと思っている。気絶していたので当然といえば当然なのだが。
そのことに関して、アトゥは二人に言うつもりはない。ティグレは未だに敬愛していた父の死を乗り越えきれていない。
いま、アトゥが真犯人だと言えば彼は混乱し、事実を受け入れないだろう。
ソレアを助けたのは俺だと言えば、まるで手柄を横取りしたいのだと勘違いされかねない。
現状維持が一番だ。アトゥはそう決めていた。
太陽が天頂から少し傾いた頃。アトゥ達はようやく大きな街へとたどり着いた。
観光客よりも商人の姿をよく目にするのは、この街にあるカルスタン商会の影響が大きい。加えて、この近辺にはこの街以上に大きな街はないことも起因しているのだろう。
かくいうアトゥ達も、カルスタン商会に用事があった。道中で行商人と取引した上質の絹を売りに来たのだ。
ソレアは明日の昼食の材料を買いに商店街へと繰り出していった。その瞳はリベンジに燃えていたが、おそらく明日の昼もティグレは彼女の料理を食べないだろう。
それでも自らの努力が徒労に終わると思わないのは、無垢ゆえか無知ゆえか。いずれにしてもアトゥに止める権利はない。
「おい、何をボーッとしている」
商会の前でそんなことを考えていたアトゥはティグレによって現実に引き戻された。それなりに治安の良い街とはいえ、気の抜けた顔をしていたら盗人に商品を狙われてしまう。
もっとも、それをティグレが許すとは思えない。上質の絹と命では、秤にかけるまでもない。
「売るなら早く売ってしまおう。俺も寄りたいところがあるからな」
ぶっきらぼうにティグレは言った。
あまり考えたくない事態ではあるが、商会によっては商品を信じられないような安値で買うところもある。大抵、そういったところは屈強な戦士共を雇っており、力で商談を納得させるのだ。
カルスタン商会ほどの大手がそんな荒っぽい真似をするとは思えないが、念には念をいれておきたい。
商人には、時に石橋を叩いて渡らないほどの慎重さが求められるのだ。吊り橋を渡るほどの度胸も必要な場合はあるのだが。
今までは護衛を雇う必要があったが、ここしばらくはティグレという頼もしい護衛がいるので人件費が浮いてアトゥとしては非常に助かっていた。
二人は大理石の入り口をくぐり、中へと入った。
王族が住んでいた別荘を改装して作られたというだけあって、商会とは思えぬほど無駄に豪華な造りとなっていた。
ただ、本来はシャンデリアが取り付けらていたであろう部分からは何も吊されておらず、どこか商魂たくましく思える。
「おぉ、アトゥじゃねぇか。久しぶりだな」
ともすれば山賊とも間違えかねない大男が、親しげにアトゥに話しかけてきた。
彼の名はクリス。どこがクリスなのか、名付けた親に尋ねたいくらい不釣り合いな外見をしていたが、赤子の時の顔など皆大差ない。
親も、将来は華麗な美男子になるよう彼にクリスと名付けたのかもしれない。その目論見には脆くも崩れ去ったわけだが。
「お久しぶりです、クリスさん。タルビン鉱石の情報はとても役に立ちましたよ」
「あぁ……そういやそういうことを言ったっけかな?」
クリスという男は重要な情報をどこからか仕入れてくる割には忘れっぽい。そのかわり、覚えている情報の精度は情報屋も舌をまくほどのものだ。
とりわけ口が上手いわけでもないし、物流を見極められるわけでもない。商人としては三流のクリスを見ると、アトゥはいつも情報屋に鞍替えしたらよいのにと思う。
とはいえ、彼も彼なりの事情があって商人になったのだ。アトゥが横から口出ししていいことではない。
「おっ、そっちの無愛想な兄ちゃんは今回の護衛か?」
無愛想と言われたせいか、ティグレの顔に変化が現れる。不機嫌な顔になってしまったティグレを気にしつつ、アトゥは彼は護衛でなく旅の仲間だと説明した。
クリスは手入れの行き届いていない無精髭をさすりながら、思い出したように言った。
「前から気になってたんだがよ、お前さんは賞金稼ぎの真似事だってやってたんだろ? なんで護衛を雇う必要があるんだ? 一人でも充分強いじゃないか」
ティグレの顔が不機嫌なものから驚愕へと変わる。
彼とは親しい付き合いをしていたが、アトゥがそれなりに強いということは全く知らない。だからこそ、こうして護衛の任を引き受けているのだ。
自分が強いことを知っていれば、ひょっとしたらティグレはあの事件の真相にたどり着くかも知れない。
可能性としてはソレアがティグレに美味しい料理を作られるぐらい低いものだったが、何度も言うように時には慎重な対応が求められるのが商人だ。
余計なことを言ってしまったクリスを憎みつつ、作り笑顔でアトゥは答えた。
「私程度の腕では商会に雇われるような屈強な方々に敵いませんよ。クリスさんは私を買いかぶりすぎです」
その程度の誤魔化しで、いともたやすくクリスは納得した。
もっとも、アトゥの本業は商売であり、剣の腕の方はティグレより遙かに劣り、この言葉も間違いというわけではないのだが。
「そういえば、お前さんには言ってなかったよな。俺に嫁さんができたこと」
「ええ、そんな話は全く聞いて……えぇっ!?」
出会った女性にはことごとく顔が怖いという理由で逃げられ、三十にして恋愛経験が皆無のクリスに、嫁?
最初は何かの冗談かと思ったアトゥだったが、彼の顔は嘘を言ってるようには見えない。
根が単純なだけに、クリスは嘘をつくとすぐバレるのだ。つまり、今回のこれは嘘ではないことになる。
「こっちに連れてきてるから、今度はあいつも紹介してやるよ。じゃあ、またな」
彼には不釣り合いな爽やかな笑顔で、クリスは商会から出て行った。
アトゥは情報の整理が思うようにいかず、軽い停止状態にあった。業を煮やしたティグレに額を叩かれるまで、アトゥはそのままだった。
商談前に世界が終わるような大きなショックを受けたが、ティグレに叩かれたおかげで目が覚め、何とか引きずらずに済んだ。
二人は商会を出て、いまは商店街をティグレを先頭にして歩いている。
護衛という任務以外にもめざましい活躍をしたティグレには、後で酒でも奢ってやらなければならない。アトゥは財布と相談しながら、そんなことを考えていた。
「よぉ、また会ったな」
人々の喧噪を遮るように、楽しげなクリスの声が聞こえてきた。
ティグレは気づかず前に行き、アトゥは思わず足を止め振り返った。
そこには相変わらずの山賊顔の大男と、ソレアほどではないにしても令嬢という言葉ぴったり似合いそうな大人しそうな女性が寄り添うに立っていた。
誰がどうみても、金に飢えた山賊が富豪の令嬢を誘拐したようにしか見えない。
ひょっとしたら彼女は脅されているのではないか。言うつもりはなかったが、アトゥはそんな推測をたてていた。
クリスほどでないが、アトゥも全くといっていいほど女性に縁がない。何が原因なのかはわからない。
とうとう現れた旅の仲間というポジションにいる女性も、好きな相手はアトゥではなくティグレときている。
何か呪いでもかけられているのかと、密かに祓い師のところに相談に行くほど、アトゥは恋愛という存在から遠かった。
それはクリスも同じだと思っていた。
「こいつが俺の嫁さんのエレナだ」
「クリスさん、ですよね。話はいつもこの人から聞いています」
立ちくらみがした。
どうしてクリスとこんないい女性が。
沸き上がる疑問を解消するために、あまり聞きたくない馴れ初めについて尋ねようとしたとき、蚊帳の外にいたティグレが不満そうな顔で戻ってきた。
「おい、何をしている」
ティグレが戻ってきたとたん、エレナの顔色がみるみるうちに変わっていった。
唇をわななかせ、目を恐怖に見開く。
その変化に、アトゥもティグレも、クリスでさえも何が起ったのかわからなかった。
ただ、エレナの言葉だけが彼女に起った変化の原因を示していたのだ。
「な、なんで生きてるんですか! 姉さんを殺したあなたが!」
叫ぶようなエレナの言葉に、アトゥはティグレを見る。彼は肩をすくめ、何のことだがわからんといった顔をしていた。
クリスはエレナを必死に宥めようとする。だが、彼女の興奮は治まることを知らず、ますますヒートアップしてきたようだ。
「忘れたなんて言わせません! 私から姉さんを奪ったあなたが、どうして生きてるんですか! あなたは死んだはずです、コソド自治区で!」
「なっ!?」
コソド自治区という言葉で、アトゥには彼女が取り乱す理由がわかった。
ティグレの父親が死んだ場所、それがコソド自治区。
そして、彼の父親は多くの女性をその手にかけていた。エレナの肉親がその中にいたとしても不思議ではない。
加えて、ティグレは父親とどことなく似た顔のつくりをしている。
ティグレの父親の顔は風聞誌という地元雑誌が取り上げた程度だが、顔写真はでかでかと載っていた。
その雑誌をエレナは見たのだろう。そして、できることなら殺してやりたいとさえ思ったかもしれない。
しかし、その憎しみは彼が既に死んでいることで身を潜めた。消えたわけではない。あくまで姿を隠していただけに過ぎない。
その憎しみが、いまこうして息子のティグレに向けられている。
「エレナ、しっかりしろ!」
クリスは妻をなだめるために、軽く彼女の頬を叩いた。
だが、そこは女性の扱いに慣れていないクリスのこと。あくまで男用の手加減のため、その威力は凄まじかった。
彼女は頬をはらせ、嗚咽の混じった声でクリスへの罵詈雑言を叫んで群衆の中へ消えていった。クリスは慌てて彼女を追いかけた。
おそらく、縁談の話はご破算になるだろう。実に喜ばしいことだったが、いまはそれどころではない。
エレナの迫力に興味をそそられた人が集まってしまったのだ。このままでは、いい見せ物になってしまう。
アトゥはティグレを引っ張り、人の目から逃れるように商店街を駆け抜けた。
ティグレは無表情だった。
どうして罵られたのか、わからないのだろう。
そのほうがよい。アトゥはそう思った。
待ち合わせ場所の噴水公園に行くと、茶色い紙袋を周りにはべらしたソレアが優雅なたたずまいでもって待っていた。
顔には疲労の色が濃く移っているが、おそらくあれは待たされたことに対する疲労ではなく、言い寄ってくる男を遠ざけるために費やした疲労なのだろう。
外見、内面ともに完璧に近いソレアは無論のこと男にモテる。ただ、本人がティグレ一筋なので断り続けているが、その気になれば王族の息子でも落とすことは容易いだろう。
そんなお嬢様がどうしてティグレに惚れたのか。その発端を思うとアトゥは胸が痛くなると同時に、やっぱりソレアに本当のことを言おうかなと迷ってしまう。
噴水の端に腰掛けていたソレアは、こちらの姿を見つけると花も羨むような笑顔で出迎えた。
「商談の方はどうでしたか?」
「随時問題なく終わりました。そちらの買い物も上々の出来だったように見えますけど?」
「はい。とてもいいペチェコックが手に入ったので、明日の食事は楽しみにしておいてくださいよ」
商人としての知識はあるほうだと思っているアトゥでさえ、時折ソレアの料理に関する知識には驚かされる。
一部地域で限定期間に採られる極商品であるペチェコックという存在を知っていることからも、ソレアの凄さが伺える。そして、そんな限定品を買ってしまえるソレアの財力にも。昔のアトゥなら驚いたことだろう。
「明日こそはティグレ様が美味しいと言ってくださるような料理を作りますから、期待して待っていてくださいね」
喜色満面のソレアに、ティグレが近づいた。
その表情にはいつものような警戒の色はなく、長年一緒にいるアトゥでさえも感情が読めない無表情を携えていた。
ティグレは徐に口を開く。
「俺の父親が人殺しだったから、殺したのか」
頭痛が走った。
ティグレは理解していたのだ。エレナの言葉の本当の意味を。
アトゥはソレアは見た。彼女は全く事情を知らない。
案の定、彼女は何を言っているのかわからないという顔をしていた。だが、すぐにハッと目を見開き、アトゥの想像を超えた言葉を紡ぎ出す。
「その通りです」
驚くアトゥを、ソレアは更に驚かせた。
「あなたの父親は女性専門の殺人鬼でした。だから、私はあなたの父親を殺しました」
淡々と告げられる真実を前にして、ティグレはいきなり剣を抜いた。そして、剣先がソレアの首に向けられる。
だが、彼女は動じることなく微笑を携えたままだった。
「一切の脚色もございません。全て真実、通り過ぎた過去のことです」
ティグレは柄をより一層力強く握りしめた。
ことここにいたって、ようやく周りも剣を物騒なことに使おうとしていることに気がついたらしい。
女性の悲鳴を皮切りに、辺りから人が離れていく。
「アトゥ、お前も知っていたのか?」
いきなり矛先が自分に向いた。
だが、その声色は問いつめるものではなく、ただ純粋に訊きたかっただけのように思えた。
アトゥは誤魔化すことなく、そうだと答えた。
ティグレは目蓋をおろした。
その奥にどんな感情が渦巻いているのか。うかがい知ることはできない。
やがて、ティグレは目を開けたかと思うと剣を収め、人混みの中へと走り出した。
アトゥはティグレを追いたかったが、その前に話しておきたい人がいた。
「ソレアさん、あなたティグレのことを知っていたんですか?」
「ええ、彼が私をどういう目で見ているかということも。彼の父親が行った凶行も、全て知っております」
「そのうえで、あなたはティグレを慕っていたというんですか!?」
彼女は儚い微笑のまま、そうですと、消え入りそうな声で呟いた。
「たとえそれが殺意であっても、あの人が私を見てくれているのならいいと思って黙っていました。ですが、ティグレ様は私を殺さなかった」
彼の消え去った方へ顔を向け、ソレアは言った。
「どうしてなのでしょうか、アトゥ様」
彼は父を敬愛していた。と同時に、義勇心の強い男でもあった。
だからこそ、父を殺した犯人をソレアだと思いながらも彼女を殺せないでいた。女性を殺すことなど、彼の生涯にはない選択肢だ。
ところが、彼の敬愛すべき父親は女性を殺す殺人鬼であり、彼にとって最も憎むべき存在になってしまった。
彼の中では、父親こそが殺すべき人間であり、ソレアの行ったことは正しい選択だと決定づけられたのだろう。
もっとも、普段のティグレならソレアのことを虚言だと思い、俺を油断させて騙す作戦に違いないと言ったはず。
そう、エレナの言葉さえなければ彼は信じなかっただろう。
あそこでティグレに彼女の言葉を耳に入れさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。
後悔の念を交えながら、アトゥはソレアに自分なりの推測を語った。
「そんな……」
口元を押さえ、ソレアは顔面を蒼白にしながらおののいた。
「もし本当にそうだとすれば、ティグレ様は二度と私達の前に現れないかもしれません。なんとか、このまま一緒にいられるようティグレ様を説得してくれませんか」
言われずとも、アトゥは最初からそのつもりだった。
ティグレにバレた発端はどうであれ、全ての原因を作ったのはアトゥ自身なのだ。
「俺が……全ての原因……」
確認するように、アトゥは呟く。
あの夜、ティグレに会ったときに全てを話せばよかったのだ。自分が父親を殺したと。
そうすれば、彼女とティグレはもっと別の最良の形で出会えたかもしれないし、ティグレもこんなに苦しむことはなかったかもしれない。
ティグレの気持ちの整理がついていないからと、彼に言わなかったことが災いしたのだ。
いや、その理由すらも本心からのものではない。
アトゥは怖かったのだ。ティグレから憎まれることが。
だから、適当な理由をつけて真実を彼から隠そうとした。
全ては自分のために。
自分の醜い感情のために。ティグレやソレアの人生を狂わせた。
「くそっ!」
後悔と苛立ちを言葉に乗せて吐き出す。
そして、アトゥは走り出した。ティグレの消え去った方へ。
町はずれの小高い丘で、アトゥはティグレを見つけた。
中心部の活気が嘘のように丘には人がおらず、静寂が辺りを支配していた。
アトゥが来たことをわかっているにも関わらず、ティグレは無言を貫き通す。父親のことを黙っていた親友を責めるでもなく、彼は無知な自分を責めているように思えた。
普段は自己中心的に見えるティグレだが、いざという時になると彼は自分より他人を優先する。
その判断は決して優れたものではないが、アトゥはそんな彼を尊敬していた。
彼の背中は黙して語らず、ただただ気高い。心臓の鼓動が早まる。
これからどうなるのか。商談とは全く違う緊張感に、アトゥは唾を飲み込んだ。
そして、ゆっくりと彼に近づく。その一歩一歩が死刑台に向かう死刑囚のような気分にさせる。
奇しくも十三歩目。二人の距離は適度に縮まった。
「悪いな、黙ってて」
「俺のことを思ってのことだろ。さっきのように、取り乱して剣を抜かないようにと」
彼の言葉が胸に突き刺さる。
そういうつもりで言ったのではないのだろうが、アトゥには彼の言葉が皮肉に聞こえてしょうがなかった。
何かが胸に押しかかっている。その重量を一刻も早く振り払いたくて、アトゥは前置きも無しに本題へと入った。
「お前の父親を殺したのはこの俺だ」
ティグレは反射神経を使ったかのように素早く振り返った。
驚愕に満ちていた顔は、やがて微笑へと変わる。
「彼女を庇っているのか?」
「違う。本当のことだ。あの夜、俺はお前の父親を殺した。賞金目当てでな」
命を落とす女性達を増やさないためであったり、彼の凶行が許せないという理由であれば、もしかしたらティグレに会った瞬間に全てを話していたかもしれない。
だが、アトゥがティグレの父親を殺した理由は金のためであった。相手がティグレの父親だと、殺してから気づいたのだ。
アトゥの真剣な形相に、ティグレもようやく信じはじめたのか眼は満月のように見開かれていた。
「お前の父親には莫大な賞金がかけれらていた。当時、俺はクリスからタルビン鉱石を王室が必要としているという情報を得ていた。だから、タルビン鉱石を買い取るために、それなりの資本が必要だったんだ」
アトゥの言葉に偽りはない。ティグレの父親が死んでから数日後、彼は王室に大量のタルビン鉱石を売りつけている。それも、買値の五倍の値段で。
本来であればアトゥは既に一生を遊んで暮らせるだけの金を持っている。だが、あまりに贅沢な暮らしをしていればティグレにばれてしまう。
だからこそ、こうして絹を売ったりして誤魔化しているのだ。
アトゥは気づいていなかった。その誤魔化す癖こそが、女性にもてない最大の理由だと。
「そうだったのか……」
アトゥから真実を知らされてなお、ティグレの顔に怒りは浮かばない。
父親の死から経った時間が彼の怒りを漂白したのか、はたまた父親の凶行がそれほどまでにティグレにとって許せぬものだったのか。
いずれにしても、ティグレにアトゥを責める気など毛頭もないように思えた。
だから、アトゥは次の言葉を口にする。
「まぁ、おかげで全てが上手くいったよ。お前の父親を殺人鬼に仕立て上げ、賞金をかけさせ、俺がその賞金を手にする。何もかもが完璧だった」
「なんだと?」
穏やかだったティグレの顔が、一瞬にして険しくなる。
「最初はこんな計画が上手くいくわけないと思ってたんだが、予想以上にお前の父親が馬鹿だったからな。少しばかり拍子抜けしたよ」
「貴様、それは本気で言ってるのか?」
冬の川よりも冷たく、薔薇より刺々しい視線がアトゥを襲う。
加えて、ティグレは腰に携えた鞘から剣を抜きはなった。噴水公園での再現のように、剣先が首筋に向けられる。
だが、相手はあの時とは違う。剣先は、本当の父の敵に向けられていた。
「本気に決まってるだろ。ああ、それにしても愉快だったよ。別の人間を仇と思うお前の姿も……」
ティグレの背後に、青く蠢く炎の幻視が見えた。
あと一言、それで全てが終わるだろう。
長きに渡った偽りの関係も、これで終焉。
これでいいのだ。アトゥは最後の言葉を口にした。
「そして、結果的に俺を庇うことになった、あの馬鹿な女の姿もな!」
「貴様ぁっ!!」
肩から腰にかけて、斜めの線が刻まれる。
線は熱を帯び、やがて罪にまみれた赤い血しぶきが丘を染め上げた。
若干のタイムラグを経て、アトゥは自分がティグレに斬られたのだと認識した。
そして、満ち足りた気分のまま意識を手放した。
復讐の成功を祝福しながら。
馬車の揺れで目を覚ました。
薄汚れた幌と、ソレアの顔が視界の全てだった。ソレアは濡れた布を持っており、誰かを看病しているのだなと思った。
ふと、ソレアが何かに気づいた顔をする。
「あっ、起きられたのですね」
その言葉が自分に向けられたものだと知覚したところで、アトゥは自分がまだ生きていることに驚愕した。
胸には痛む傷がある。夢でないことは、その痛みが証明していた。
「あの騒動で街には居づらくなって、急遽こうして移動することになったんです。あっ、クリスさんという方が今度一緒に徹夜で飲もうと泣きながらおっしゃっていましたよ」
濡れた布をしぼりながら、ソレアは笑顔でそう言った。
クリスがふられたことを祝うことなく、アトゥは起きあがろうとする。
「駄目ですよ、まだ起きられては。命に別状はないとはいえ、放っておいてよい傷ではないのですから」
肩を押さえられ、板張りの床に寝かされる。
抵抗するわけにもいかず、仕方なくアトゥは素直に横になった。かわりに、寝そべりながら質問することにした。
「ティグレはどこです?」
まず訊きたかったこと。あれからティグレがどうしたのか。
だが、ソレアは答えることなく、何故か再びアトゥの身体を起こした。そして胸の傷を具合を確かめ、
「これぐらいなら大丈夫ですよね」
思いきり頬を叩かれた。胸の傷の痛みよりも、頬の痛みよりも、ソレアに叩かれたという事実の方が痛かった。
きっと、彼女はティグレからアトゥの嘘を聞かされたのだ。だから、こうして殴られる。
アトゥはもう一発を予想し身を固くしたが、次に放たれたのは予想もしない言葉だった。
「そうして私の攻撃を甘んじて受けているのは、贖罪の為ですか?」
彼女は怒っていた。その瞳を炎にたぎらせ、真っ直ぐアトゥを睨みながら。
「あなたはティグレ様の父を手にかけた。そして、そのことをティグレ様に黙っていた。それは確かにあなたの罪でしょう」
だからこそ、罪を祓うためにアトゥはティグレに殺されようとした。彼に復讐を果たさせることで、全ての罪を帳消しにしようとしたのだ。
「あなたは間違っている。背負った罪を祓う方法などないのです。たとえティグレ様に殺されようと、あなたの罪は消えはしない」
叩かれた頬が熱を帯び始める。
「あなたはティグレ様に嫌われるのが嫌で、罪を祓うためにと誤魔化して、また逃げ出した!」
誤魔化して逃げた先で、自分は同じことをして逃げ出した。
返す言葉が見つからない。そのことが、アトゥ自身が彼女の言葉を正しいと思っている何よりの証拠だった。
「私は言いました。このまま一緒にいられるようティグレ様を説得してくれませんか。一緒にという言葉の中には、あなたも含まれているんですよ」
ソレアは優しく微笑み、おもむろに立ち上がった。
そして、馬車の先頭まで行き、幌の一部をまくしあげた。
馬の手綱をとり、気高い背中を持った、彼がいた。
「ティグレ!」
振り向くことなく、彼は言った。
「あんな満ち足りた顔で逝く悪党がいるものか。お前は誤魔化すことに長けているが詰めが甘い」
ぶっきらぼうな彼の声が嬉しかった。自分の嘘を見抜いてくれたことが嬉しかった。
「それと……」
なによりも、彼がそこにいてくれることが嬉しかった。
「すまなかったな。色々と」
もう、彼らの関係に殺意や誤魔化しは存在していない。
嘘という雨は、彼らの関係という地盤をより強固なものへと変えてしまったのだ。
また雨は降るかもしれない。
だが、たとえそれが豪雨だとしても、嵐だとしても、三人の関係が崩れることはないだろう。
三人が三人ともそう確信していたし、そう信じていた。
揺れる馬車の中。アトゥは笑い、ソレアは微笑み、ティグレはまぶたを閉じていた。
ソレアは事件とは関係なくティグレに恋をしていたし、
ティグレは相変わらずソレアの思いにこたえるつもりはない。
アトゥは、そんな二人を見ながら、今日も退屈そうに別のことを考えていた。
あのスープが飲みたいなな、と。