4月中旬。 天気,超晴れ。
相沢祐一は普段聞こえるはずの時間帯のチャイムで目を覚ました。
「…………んぁ?」
現在,祐一は高校を卒業して,それを機にアパートを借りて一人暮らしを送るようになっていた。
とは言っても週に何度かは水瀬家で名雪たちと食事を共にするし,土曜などはなんだかんだと理由をつけられて泊まったりすることもあるが。
ちなみに祐一の現在の住まいは築15年,二階建ての中々趣のある,別の言い方をすればボロい部屋である。
それでも秋子さんが紹介してくれただけあって,家賃はお手ごろだし,風呂トイレ有りの優良物件だったりする。
(誰だ? もしかして舞とか?)
以前,このアパートの住人に挨拶回りに言ったとき,とある一室で舞と佐祐理さんに遭遇するというありえないドッキリハプニングに逢った祐一である。
どうやら,彼女達も高校卒業を機に二人で折半して同棲生活を送っていたらしい。
その後もちょくちょくご飯を馳走になったり,生活に必要なものを買い揃えるのに協力してもらったりしている。
意気込んで一人暮らしを始めた祐一だが,家事スキルが殆ど無かったので彼女達の力添えが無ければ部屋の一角に無残な飢餓死体が転がってたかもしれない。
もしくは,部屋がゴミ屋敷になっていた可能性も無きしもあらずである。
そんな訳で世話になりっぱなしの祐一は二人には合鍵の隠し場所を教えたりしている。
だから,彼女達がやってくるのはそう不思議なことではないのだが,
(確か今日はサークルの合宿かなんかで出掛けてる筈じゃなかったっけ?)
そもそもあの二人ならチャイムなんて鳴らさずにそのまま入ってくる筈だ。
以前そのせいで着替え中の祐一と佐祐理さんがバッタリ遭遇して,途轍もなく恥ずかしい目にあったことがあるせいで,少なくともノックはするようになったが。
なので偶に本人が居ないのに帰ってみたら部屋の中で舞が寛いでいたりする光景に出くわすこともあったりする。
もはや祐一のプライベートはほとんどゼロと言ってよかった。
(……じゃあ誰だ?)
こんな朝方に来訪してきそうな知人を何人かピックアップしてみる。
まず,水瀬家の面々。
確かに彼女達も時々アパートに遊びに来たりはしているが,こんな朝っぱらにやって来たことは一度も無い。
真琴ならありえそうだが,彼女はチャイムも鳴らさずにそのまま鍵を開けて襲撃してくる問題児だ。
何度もその危険性を説いてきたのだが,残念ながら彼女が理解してくれる日はまだ遠そうだったりする。
あゆはこんな早朝に来るならば,予め連絡をちゃんと入れてくるはずだ。
そういうところは意外と礼儀正しいので,一番ハプニングに遭遇しない人物と言える。
秋子さんは,差し入れを持ってきてくれたりすることはあるが,この時間はまだ家事に追われているだろう。
月に二度程部屋の掃除を手伝いに来てくれることもあるので,彼女には感謝してもしきれないほどの恩がある。
ちなみに,名雪は論外。
あの眠り姫がこんな朝早くに起きている筈が無い。
他の面々に関してもほとんど似たような状況だ。
美坂姉妹はそもそもこの部屋にやって来たことが無いし,北川に至っては真琴と同じで何も言わずに襲来してくる。
最後の天野は,
(あれ? 天野?)
ふと,その単語がなにか頭に引っかかった気がする。
しかしそれも一瞬のこと。 すぐに眠気が襲ってきてその違和感は消え去ってしまう。
とりあえず,天野もナシだ。
確かに真琴に連れられて何度かこの部屋に来たことはあるが,律儀な彼女のことだから来るときは連絡の一つは寄越すだろう。
そう,祐一が忘れていなければ。
(……,なんか忘れてはいけないことを忘れているような気が……)
だが残念ながら今の祐一には,それが何なのか思い出す程意識が鮮明でもなかった。
なので祐一は再び惰眠を貪ろうと,布団を被りなおしてそのまままどろみに身を任せた。
その時,なんとなく鍵の開く音がして誰かがドアを開けたような気がしたが,睡魔に襲われている祐一は気がつかない。
「…相…ん……きて下さい。 ……こえて…るんです…?」
だから,こうやって近くで誰かの声がしても気がつかない。
ほとんど完全に眠りに落ちている祐一は,その人物が誰なのかも分からない。
しかし,その誰かがゆさゆさと祐一の体を揺すって起そうとするので,祐一は強引にまどろみから引き戻された。
「相沢さん,起きて下さい。 聞こえているんですか?」
「むにゃ……?」
ぼんやりと,その人物の輪郭が見えてくる。
まだ半分以上停止状態だった祐一の脳みそが一気に覚醒する。
そして外の情報が一気に鮮明に祐一の頭で処理されていく。
まず見えたのは祐一の体を揺さぶる腕。
そして豊かとはちょっといいづらい胸。
最後に呆れるようにこちらを見やる顔。
滅茶苦茶見覚えのある顔だった。
それが誰かと聞かれれば,天野美汐としか言いようの無い少女がそこにいた。
「…………えっと?」
「ようやく起きたのですか? まったく」
呆れるようにこちらを見やる少女は,珍しいことに私服に身を包んでいた。
淡い藍色のワイシャツに,足首まで届く長く,漆黒のスカート。
デザインは至ってシンプルだが,彼女の私服を見る機会がほとんど無かった祐一にとっては新鮮だった。
清潔感のある服装は,彼女の物静かな雰囲気と相成ってとても似合っていた。
「……天野,何ゆえこんな朝っぱら男の部屋に?」
「…それは本気で言っているのですか?」
今度こそ,確実に呆れを含ませた口調で,美汐は深い溜息をついた。
その様子を見ても,祐一は一体なんのことなのか分からない。
非難するようにこちらを見る美汐を見ると,非は祐一にあるらしいのだが,その原因が一体なんなのか思い出せない。
とりあえず,どういうことなのかちょっと考えてみる。
天野の言い方だと,どうやらこの状況の切欠は祐一にあるらしい。
それがなんなのか祐一には皆目検討が付かないのだが,思い出さないと天野の視線がちょっと痛かった。
(えっと,もしかして俺も気がつかないうちに早起きに目覚めて早寝早起が日課の天野にモーニングコールを頼んだとか?
いやありえねぇだろ,だってただのモーニングコールだったら別に電話でもオッケーだし。
そもそもそんな理由天野に言ったらまたおばさんくさいとか思われて射殺すような目で見られるだろ。
確かに天野だったらそれでも承諾してくれそうだけど,それだったら俺も覚えてるはず。
はっ,もしかして俺も気がつかないうちに天野の好感度がMAXで寝起きイベントが発生するようになったとか!?
いやいやいやそれこそありえねえだろ。 確かにそれは嬉しいけど今まで生きてきた中でそんなことあったことないし。
でも,そう,もしそうだったら……?)
……。
……おお。
「……相沢さん。 人と話しているときに自分の思考に没頭しないで下さい」
「ぬぁ!? 別に疚しいことは考えてはいないけれどそれでもやっぱりストロベリーな展開を期待したりしてみたけどなんかもうごめんって 先に謝ってみたりっ?」
「まったく意味不明です」
冷ややかな目で自分を見下ろす美汐の視線がとっても痛かった。
言外に『ああ、また何時もの癖ですか仕方ないですねこの人は』と言われているようでとても心苦しい。
とりあえずずっと見下ろされるわけにもいかないので、祐一は布団の中から起き上がる。
あー今日もいい天気だなーっと思いつつ背伸びをして、寝ている間に固まった関節をほぐしながら、ふと美汐のほうを振り返ると。
「……っ」
何故か美汐が真っ赤な顔をしてこちらから必死に目を逸らしていた。
さて、ここで現状確認。
今ここにいるのは祐一と美汐の二人っきり。
祐一は今まで眠っていたわけで、現在の服装は寝間着のみ。
ただし自らをずぼらと認める祐一の寝間着はTシャツとトランクスのみなわけで。
つまり今の祐一の格好はほとんど下着姿と言っても過言ではないわけで。
結論。
そんな祐一の格好を美汐はどう思うでしょうか?
「す、すまん天野。 すぐに着替えるからっ」
「だからといって唐突に着替えださないでくださいっ。 ああもうシャツを脱ぎだそうとして、そんなに私に裸を見せたいんですかあなたは っ!?」
二人とも程よく混乱しているらしく、わたわたと意味の無い言動を繰り返す。 他人が見たら滑稽この上なかった。
もしも,桜が咲くならば
とりあえず数分後に美汐よりも先に平常心を取り戻した祐一は、一旦美汐に外に出てもらい、手早く着替えることにした。
ついでに、手早く部屋の中を整理して見られたら危険なものを優先的に隠していく。
独身男性の一人暮らしの住まいは中々に地雷が多い。
そしてクローゼットの中から適当に服を見繕ってさっさと着替える。
「よし、もうオッケーだ。 入ってきていいぞ天野ー」
「あ、はい。 失礼します」
先ほどまで無断に失礼していた筈だが、それでも律儀に返事するのは非常に美汐らしかった。
美汐の顔はまだ余韻覚めやらぬのか、さっき程ではないが微妙に火照っていた。
そんな美汐の顔を見て、祐一も何故か気恥ずかしくなってきて、二人して相手の顔がちゃんと見れなかった。
「えーっと、それでだ。 天野はなんでここに?」
そんな気まずい雰囲気を打破しようと、別の話題を振る祐一。
その祐一の意図を察知して、美汐も慌てて話題に乗ろうとして、
「……先ほども問いましたが、相沢さんは本当に覚えてないのですか?」
質問を質問で返した。
「すまん、全然憶えてない。 もしかして俺って天野となんか約束でもしてたのか?」
「……3日前に交わした約束を忘れるとは、相沢さんの脳の構造を調べてみたいですね」
「何気に物騒なこと言われてるような気もするけど、なんかあったっけ? 3日前って」
とりあえず、3日前になにがあったか思い出してみる。
その日は特になにもなく、極々普通の大学生活を送っていたはずだ。
ただ,途中で偶然同じ大学に通っている北川に会い,ついでとばかりに二人で呑みに出掛けたのはいつもとちょっと違っていたが。
しかし北川と出掛けることは祐一にとってはほとんどういつものことといっていいので,あまり特別な出来事とは言いづらい。
そもそも,出会ったのは北川であり,美汐ではないのだからこの件はまったく関係ないことになる。
ますます分からなくなる祐一。
「……天野,ヒントぷりーづ」
「はぁ。 3日前,相沢さんのお宅に電話を掛けたことがある,とだけ言えば分かるでしょう?」
「…………?」
3日前。 天野からの電話。
このフレーズで再検索を掛けてみる。
ヒットしたのは一つの出来事。
北川との小さな呑み会のあと,酔っ払って帰ってきた時のことだ。
丁度部屋に戻って一息ついた時,部屋に置いてある電話が鳴った。
発信元は『天野美汐』。
その後十数分ほど話した筈だが,酔っていた為にその時の祐一の記憶は不明瞭で,どんな会話をしたのかは思い出せなかった。
「ぁー,悪い。 酔っててその時なに話してたか忘れたんだけど」
「…………そうですか」
すっ,と美汐の目が細くなる。
美汐の顔から,表情が消える。
ついでに言えば,部屋の温度が錯覚ではなく2,3度下がった。
簡単に言うと,天野美汐は滅茶苦茶怒っていた。
(やべぇ,もしかして地雷踏んだか俺!?)
祐一の背中から,嫌な汗がドバドバと流れ落ちる。
顔が笑うつもりもないのに,自然と引き攣って変な笑顔になっている。
あゆや真琴みたいに直情的に怒りを撒き散らかせてくれれば,勘弁だが少しは対応できる。
ストレートに向かってくる感情は確かに強烈だが,しかし直線だからこそ御しやすいし逸らしやすい。
しかし,静かな怒りというものは逆だ。
沸々と湧き上がる激情は触れれば破裂する爆弾故に触れづらく,溜まった感情は一気に爆発するからこそ恐ろしい。
率直に言えば,とても怖かった。
「……まったく,真剣に考えていた私が馬鹿みたいじゃないですか」
美汐はポツリと何事かを小さく呟くと何か諦めたように溜息をついた。
ちなみに,この部屋に入って計13回目の溜息である。
それと同時に,何故か美汐の怒りが収まり,ビクビクと相手の出方を窺っていた祐一は不審に思い,
「あん? 天野,なんか言った?」
「い,いえなにも言っていません。 それはともかくっ」
コホン,と咳払いすると今度はこちらを責めたてるような目で祐一を見る美汐。
もう怒っているわけではなさそうだが,不機嫌なのは確かなようだ。
そんな美汐の視線に思わず限界まで背筋を伸ばす祐一。
気分は先生に説教をされる子供だ。
「それでは,一緒に花見をするという約束も忘れてしまったのですか?」
「…………は?」
花見。
あの桜の下で華を愛でながら食事をつまむという名目のあの宴会のことである。
確かに今は桜が満開で,正に花見シーズンだ。
先週も知り合い総出でドンチャン騒ぎをしてきたばかりだったりする。
その花見が一体どうしたのか。
「ですから,花見です。 花見」
「……誰が?」
「私が」
「……誰と?」
「相沢さんと」
「……えっと,マジ?」
「…本当でなければ私はここに来ません」
3日前。 電話。 花見。
その単語が,祐一の頭の中で繰り返される。
そしてふと,不明瞭な記憶の一部が蘇る。
確かに自分は天野美汐と花見の話をした記憶があった。
それは3日前,祐一が北川と別れ自分の部屋に辿り着いた時だった。
足がふらつくほど酔っ払った祐一は,おぼつかない足取りで自宅に帰ってきた。
そして,その時を見計らったかのように家の電話が鳴り響く。
ディスプレイに表示された名前は天野美汐。
「……?」
確かに時々美汐から電話が掛かってくることはあった。
しかしこんな時間に電話してくることは非常に珍しかった。
祐一が時計を見てみると,既に時間は日付を越えようとしていた。
不思議に思いながらも,ずっと鳴り響かせているわけにもいかないので,受話器を取ると僅かな沈黙の後,
「はいはい,こちら相沢。 どうしたんだ天野?」
『あ,相沢さんですか? すみませんこんな時間帯に』
「いや,それはいいけど。 珍しいな,天野がこんな時間に電話してくるなんて」
『いえ。 何度か鳴らしていたのですが……。そうですか,先程まで出掛けていたのですか」
見てみると,留守電のボタンが点滅していた。
どうやら本当に何回か電話を掛けていたらしい。
「ごめんな。 さっきまで北川と呑んでたから」
『……未成年でしょう,などという注意はもう手遅れなのでしませんが。 飲み過ぎは体に毒ですよ』
「そういう天野もこの前は結構飲んでたけどな」
『あ,あれは飲んだのではなく飲まされたんです! しかも相沢さんにっ!」
思い出されるのは先週の日曜日。
桜が見頃だったので,知り合い皆で花見をしようという話になったのだ。
参加したのは水瀬家の面々に,美坂姉妹に舞と佐祐理のコンビ,そして美汐と北川の11人の大所帯。
場所取りの北川の尽力のおかげでいいポジションを確保し,秋子さんや佐祐理さんの料理に舌鼓を打ったひと時は最高だった。
が,途中から祐一と北川が持ち出した酒でそのひと時がガラリと崩れ落ちた。
その場に残ったのは酔っ払いの集団。
あのお堅いイメージのある香里ですら酒を片手に栞の良さを延々と語るシスコンに成り果て,最後まで抵抗していた美汐も祐一の手によって慣れない酒を飲まされるハメになった。
顔を真っ赤に染めて,お酌される度に『もういいですからっ』と遠慮する美汐の姿はとても可愛かった。
あと,完全に酔っ払うと説教癖が出る絡み酒だったとは思いもしなかった祐一である。
そのことを未だに根に持っているらしく,恨みがましく電話の向こうで小さく唸る美汐。
「ああいう時は飲まないほうが失礼ってもんだぞ,みっしー」
『かと言って無理やり飲ますのも酷ではないでしょうか。 あとみっしー言わないで下さい』
「まぁまぁ堅いことを言うな。 で,ホントに何の用事だ? ただ世間話がしたかったって訳でもないだろ?」
『ぁ……あの,それなのです,が』
「あン?」
急に歯切れが悪くなる美汐。
そんな美汐の様子を怪訝に思いながらも,電話では向こうの相手がどんな状態なのか分からない祐一は,
「どうしたんだ,天野? もしかして勉強を教えて欲しいとか?」
『相沢さんに教えてもらうくらいなら,美坂先輩に教えて頂いたほうが数倍もマシです』
「手厳しいな」
『事実ですから』
真実,学業のことならば香里のほうが数倍も優秀だ。
3年間学年主席を維持しつづけ,志望大学の入試も主席で突破した香里の学力は疑いようも無い。
しかも病気のせいで勉強が遅れていた栞の手助けもしていたようだし,多分教えることにも慣れているだろう。
比べて極平均の成績でしかない祐一はそういうことには向いていない。
雑学だけは無駄にあるのだが。
『私が言いたいのはそういうことではなくてですね。 あの,大変不躾なのですが……今週の日曜はお暇でしょうか?』
「日曜?」
『はい』
日曜日。
祐一は頭の中にあるスケジュールを思い浮かべる。
その日は特になにも無かったはずである。
大学はそもそも休みだし,誰かと出掛ける用事も,出掛ける為の理由も無い。
バイトもやってはいるが,未だに親からの支援に甘んじている祐一にとっては週3日程度で十分なので日曜はいつも空けている。
つまり,美汐の言うとおり完全無欠に暇だった。
「別に。 空いてるけど?」
『そう,ですか。 それでは,ですね。 物は相談なのですが……。 私の花見に付き合ってはもらえないでしょうか?』
「花見ぃ? 花見ならこの前やっただろ」
『確かに花見はしましたが。 厳密にはそういう花見ではなくてですね。 言葉の通り,花を見に行くんです』
「……つまり紅葉狩りみたいなモンか?」
『ええ。 似たようなものです』
なるほど,と祐一は頷いた。
そして悪くない,とも思った。
花より団子とはよく言ったものだが,従来の花見はあまり桜に重点を置いてはいない。
要は,騒げる理由があればいいのだ。
騒ぐだけならそこにあるのが桜じゃなくても松でも梅でも構わない。
無粋極まりないことだが,簡潔に言ってしまえば楽しめればいいのだ。
だが美汐が言っている花見は違う。
それは本当に桜を見るためのものなのだろう。
そういった風情を楽しむものは,そこに対象となるものがなければ出来はしない。
前述の花見が目的よりも手段を要とするならば,後述の花見は真実目的だけが重要なのである。
そして,祐一はそういった風情などといったものを好ましく思っていた。
「おっけ。 分かった,お供するぜ。 で,場所はどこなんだ? 流石に公園だとまだ騒がしいだろ?」
『そのことなら大丈夫です。 私の知っている穴場ですから,人が来ることは滅多にありません』
「へぇ,そんなトコがあるのか。 でもそんな場所よく知ってるな」
『……はい,私にとって,とても大切な場所ですから」
「?」
電話越しに,美汐がポツリとなにかを呟いたのは分かったがその内容までは分からなかった。
『……それでは,3日後の日曜日に。 待ち合わせはどうしますか?』
「あー,俺の家の前でいいだろ。 場所は知ってるよな?」
『はい。 以前真琴と一緒にお邪魔させて頂いた事があるので』
「そんじゃ決まりな。 楽しみに待ってるぜ」
『はい。 楽しみにしていてください』
そして祐一は受話器を置いた。
その後,祐一はそんなことなど酔った勢いでスッパリと忘れてベッドの中でグッスリと眠りについたのだった。
「……………………………………」
完全にこちら側に非があった。
思い出していくたびに,顔の色がどんどん悪化していく祐一だった。
「思い出しましたか?」
「…………おう」
気まずい。 物凄く気まずかった。
あの時の電話の最後で,美汐がとても嬉しそうにしていただけに非常に心苦しい。
今度は脂汗ではなく,冷や汗がダバダバ流れ出していた。
「……まぁ,結局は思い出してくれたようなので言及はしません」
「ソウデスカ」
それでも十分棘のある台詞ですよね,と思ったが心の中に留めて置く。
非の打ち所も無く祐一が悪いので下手なことは言えない。
気まずさが頂点に達した祐一は,とりあえず土下座することにした。
「あ,あれは近年稀に見るほどに酔っ払ってたからで!
普段はこういうことは絶対ありえないんだけど北川が飲め飲めって勧めるから断ることも出来ずにああ俺ってなんて押しに弱いんだろうなあとか考えたりもしたんだけど!
えーっと なんだ,その,とりあえずごめんなさいでしたーっ!」
「……謝罪なのか言い訳なのかどちらかにしてください。 それと,もういいですから。 過ぎたことですし」
「…………怒ってない?」
「怒ってません」
「ホントのホントに?」
「……相沢さんが再び私を怒らせたいなら話は別ですが」
いいえちっとも! と再び土下座モードに移行する祐一。
そんな祐一を半ば諦めた表情で見つめる美汐は,唐突に立ち上がる。
よく見ると,その脇には大きな風呂敷包みがあった。
どうやら花見の荷物らしい。
「それではさっさと準備してください。 私は外で待機していますから」
「別に俺はこのままでもいいけど?」
「…………往来でそんな悪趣味なTシャツを着て出掛けるつもりならば,私は相沢さんとの縁を切りますよ?」
「は?」
ふと,祐一は自分の着ているTシャツを見てみる。
時間が無かったのでクローゼットの中から適当に出してきたものなのでただ白地のものとしか分からなかったのだが。
その胸元には堂々と『大往生』の文字が毛筆で書かれていた。
祐一はこんなものを買ってきた覚えは無い。
だとすると,恐らく真琴あたりが嫌がらせのために買ってきてそのまま中に入れておいたのだろう。
「……」
悪質な上に,悪趣味この上なかった。
その時,ふと脳裏に『通天閣』と書かれたTシャツの上に白衣を羽織ったメスの似合う女性を思い浮かべたが,即座にその光景を打ち消した祐一であった。
人には時として気にしてはならないことがあるのだ。
※
美汐が言っていた穴場は,公園を大きく外れ,街の外れにあるものみの丘の奥にあった。
更に細かく言えば,以前祐一と真琴が来た草原よりも向こう,森の中にひっそりと数本の桜が咲いていた。
確かに,これほど奥だと来る人間はそうそういないし,街の方からでは他の木々に遮られてそこに桜があることすら分からないだろう。
「へぇ……これはすごいな」
目の前の光景に感嘆する祐一。
確かに,その光景は凄かった。
誰もいない静かな森の奥にひっそりと咲き誇る桜。
人の手が加えられていないからこそ,そこには生命の強さというものが輝いている。
そして逆にその生命が散っていくその矛盾が,どこか儚い雰囲気を漂わせている。
色鮮やかな桜吹雪が舞うその一帯は,明らかに他の木々の空間から隔絶され,その姿を映えさせていた。
桜の名所というのは他にも沢山あるが,こういった誰も知らない秘境のような場所にある桜はそれにも十分引けを取らない鮮やかさだ。
「ここにこんな場所があったなんて全然知らなかったぞ」
「確かに,普通の人はここまで奥まで入ることはありませんから。 少なくとも私が知っている方でここのことを知っている人はいません」
「本当に穴場なんだな……。 それに凄く綺麗だ」
「ええ。 もしこういった場所で騒ごうとする人がいたら無粋極まりないでしょうね」
そうだな,と同意する祐一。
儚い風景だからこそ,荒らすべきではなく,人の手を加えてしまっては自然とは言えなくなってしまうそれは,か弱くも力強い。
だからこういうものは見るだけで十分なのだ。
あとはついでに酒を摘んでゆっくりとこの風景を楽しめれば最高なのだが。
「花見酒,か……。 風情だなぁ」
「……一応言っておきますが。 お酒はありませんよ」
「分かってるよ。 言ってみただけだ」
ただ,今度ここに来ることがあれば日本酒の一本くらいは持参してこようと思った祐一である。
「それにしても見事な桜だなぁ……。 見ろよ,あの桜の色。 薄紅色がとっても映えててすげぇ立派だよな」
「そういえば桜の花びらの色は人の血を吸うと色鮮やかになると言いますね」
「『桜の木の下には屍体が埋まっている』,か。 確か綾辻行人だったっけ?」
「それは別のミステリー作家です。 それを言うなら梶井基次郎ですよ」
「……渋いな,天野」
「一般常識ですよ」
ここでそんな一般常識は存在しないと言う奴は場の空気が読めない馬鹿である。
いつもならその馬鹿の中に入る祐一だが,ここで無闇に突っ込みのも勿体無いと思ったのか桜を眺めたまま何も言わなかった。
そして何も言われなかった美汐もそのまま桜のほうを向いたまま黙っていた。
聞こえるのは風の音と,木々の葉っぱが揺れる音,そして桜が散っていく音。
二人は桜に見とれるように暫しの間沈黙を楽しんでいた。
「…………」
ふと,祐一は美汐の方を向いてみた。
桜も綺麗だが,そんな光景を美汐がどんな表情で見ているのか気になったのだ。
多分どこか淡々としたような顔で,それでも瞳はどこか感嘆とした輝きを浮かべていて,口元には小さな笑みを浮かべているんだろうなと
想像した。
そんな事を思い浮かべると,内心苦笑する。
今心の内を美汐に知られれば『なにを考えているんですか相沢さんは』と憮然とした表情で言われるんだろうなぁと思う。
でも,祐一は見た。
見て,しまった。
(…………何?)
美汐の瞳はどこか遠くを眺めているようで,桜を見ているわけでは無く。
その瞳は感嘆ではなく,哀しみを帯びているようで。
口元には笑みなど浮かべていなく,キュッとなにかを堪える様に引き結ばれていた。
決して涙が流れているわけでも,嗚咽を漏らしていたわけでもなかったが。
それでも祐一は,その時の美汐が泣いているように見えた。
「…………天野?」
だから,不味いと思ったが無意識の内に美汐に声を掛けていた。
乗せられた感情は心配。
そして,他人の感情に聡い美汐がそこに込められた感情を読めない筈がなく。
「……っ,どうしました?」
祐一の方に振り返った美汐の表情は既に先程の何処か哀しみを感じさせるものではなく,いつもの天野美汐の表情だった。
それでもその瞳だけは揺らいでいた。
それが先程まで美汐がなにかに哀しんでいたという証拠だった。
しかし,その瞳は哀しみと同時に,『聞かないで下さい』という懇願も込められていた。
「…いや,なんでもない」
なんでもないわけがない。
だが,今ここでそれを聞いてしまえば,決定的に大切な何かが壊れてしまうような気がして祐一は喉まで出掛かった問いを飲み込んだ。
そしてそんな苦々しい表情をした祐一から顔を逸らし,美汐はポツリと,
「……すみません。 後で,絶対お話しますから」
「…………そうか」
そう言われてしまっては何も言えない。
代わりに,祐一は目の前の光景を刻み込むことにした。
祐一と美汐の距離はたった30センチ。
なのに祐一は美汐が何処かもっと遠くにいるような錯覚を受けた。
手を伸ばせば,直ぐに触れられる筈なのに。
目前にはあんなにも素晴らしい光景が広がっているのに,祐一の心は曇ったままだった。
※
美汐が持ってきた荷物は弁当だったらしい。
すっかり先程の暗い雰囲気を無くした美汐が祐一に勧めたのは早めの昼食だった。
そんな美汐の変わり身の早さに驚きながらも,朝は慌しかったせいでパンも食べれなかった祐一が即座に同意したのはしょうがないことである。
これがダイエット中の女子学生などならば我慢できるだろうが,祐一はれっきとした男で,一応は育ち盛りなのだ。
しかもつい最近,高校を卒業するまで水瀬家で居候していた時はキチンと3食取っていたために,その生活習慣はそう簡単に変えられるものではない。
美汐には聞こえなかっただろうが,祐一のお腹は未だに己の空腹を祐一に訴え続けている。
つまり,祐一は今とてもお腹が空いていた。
「男女二人に重箱5段……。 これはちょっと作りすぎなんじゃないのか……?」
「わ,私も作っている最中にふとそのことに気がついたのですが,時既に遅くと言いますか……」
「気がついたらこんな量になっていた,と」
「……はい」
その量は確かに半端ではなかった。
祐一も最初に見たときはどこかの御節かなにかだと錯覚したほどだ。
明らかに2人前の量ではない。 4人居たとしても十分腹を満たせるサイズだった。
「ま,まぁ食べ切れなかったとしても夕食のおかずにしますから。 大丈夫です,多分」
「そ,そっか」
御節も一食分ではなく数日を掛けて食べるものだった筈。
だったら問題はないのかもしれない,と祐一は微妙にずれた感想を抱いた。
で,その重箱の中身はと言うと,決して豪勢という訳ではないが,男の一人暮らしでは滅多にお目にかかれない料理のオンパレードだった。
一段目は極普通の,それこそお弁当に詰められている玉子焼きやきんぴらの炒めもの等の惣菜類。
二段目は金目鯛の煮付けや,豚の角煮などと一緒にバランスを考えてかキャベツの千切りのサラダ。
三段目には,ニンジンや旬のタケノコ,ごぼう色とりどりの煮物が詰められている。
そして四段目には,食べやすさを考えてかご飯をお握りにして綺麗に並べられていた。
最後の五段目。
おかずから,主食までの重箱の順番を考えると,そこにあるのはデザートと考えてよさそうなのだが。
そんな祐一の予想を裏切って,最後の重箱の中身は。
何故かおでんだった。
「………何故におでん」
こんにゃく,大根,はんぺん,たまご,ちくわぶにゲソ,そして巾着。
どこからどうみてもおでんの種にしか見えない。
ダシがしっかり染み込んでいるらしく,大根なんかはとてもいい色合いになっていて食欲をそそる。
「あ…そのおでんは……」
「ん?」
「いえ,その,昨日の夕食の余りでして」
「なるほど」
若干美汐が言い淀んでいたが,確かに昨日の夕食の残りでは言い辛いだろう。
まぁ,どちらにせよ祐一にとっては美味しそうなので問題無しなのだが。
「ほんじゃ,頂きますか」
「そうですね。 はい,お箸です」
「む,サンキュー」
祐一は手渡された割り箸を受け取ると,パキンと綺麗に割って,次に広げられた重箱を見た。
さて,まずは何から手をつけるべきか。
(さて,ここはオードソックスにお握りから手をつけるべきか?
いやここで敢えて熟練の腕が必要な煮物の出来を調べて,天野の料理の腕前を測るべきか。
だがしかしメインである豚の角煮を最初にアクセントとして食べるのも悪くは無いよな。
もしくは意外性を狙っておでんからいってみるのも面白いかもしれない……。
うぅむ,どうしたものか)
箸をふらふらと漂わせながら,どれから食べるか迷う祐一。
そんな祐一の様子を見咎めるような視線で見つめる美汐は,
「相沢さん。 迷い箸はマナー違反ですよ?」
「わ,悪い。 ついどれから食べようか迷っちまってな。 いやぁ,全部美味しそうだからさ」
「なるほど。 そう,ですか。 なら……」
そう言って,美汐は自分の箸で重箱の中から人参の煮物を摘んで,
「はい,どうぞ」
祐一に差し出した。
「…え……っと? これってもしかしなくても」
「ええ,お口を開けてください」
間違いようもなく,これはあの有名な『あーん』だった。
男なら一度は憧れるその行為。
祐一も例外に漏れず,一度くらいはやってほしいなーという願望を抱いていた。
でも,これは予想外。
あの天野美汐が,いきなり,突拍子も無くそれをやってのけるというのは完全に不意打ちだった。
「ぅ…ぐ……」
この『あーん』という行為は,非常に度胸がいる。
周りに人がいないと分かっていても,差し出す相手がこちらを見つめているのだからとっても気恥ずかしいのだ。
自分で催促するのと,相手にされるのではわけが違う。
更に言えば,祐一はこういったカップルがやるよう行為は未体験。
(こ,こいつぁ祐一さんにとってかなりの難題ですけど!?)
うがぁ! と心の中で悶えまくる祐一。
かと言っていつまでも固まっているわけにもいかないのだ。
目の前には箸を差し出したまま祐一が口を開けるのを待っている美汐。
「あの,食べないんですか?」
小首を傾げて,ちょっと残念そうな顔をする美汐。
その仕草は,祐一に罪悪感を抱かせるには十分すぎる程の威力を持っていた。
目の前にある人参を凝視。
ゴクリ,と唾を飲み込んで,意を決しておずおずと口を開けていく。
「……あ,あー……」
「はい」
ひょいと口に入れられる煮物。
もぐもぐとほぼ反射的に咀嚼するが,あまりの緊張のあまり味が全然分からない。
今の状態ならあのオレンジ色のジャムでも平気で食べられそうだ。
「……どうですか?」
「お、美味しいぞ」
「そうですか。 それはよかったです」
どうやら結構気にしていたらしく、なんでもない風を装いながらも美汐は顔を綻ばせていた。
そんな表情を見て、うっと罪悪感が募る祐一。
料理の出来からして決してお世辞ではない筈だが、緊張のせいで味わう余裕が一切無い祐一は味に対する感想なんて言える筈もなく。
だけど『すまん、味が分からん』と言った日には、世界の終わりが来たみたいな顔をするのは想像するのに難くないから建前でも褒めるしかない。
そんなこんなで罪悪感が最高潮まで達した祐一の脳内では、自分を罵る罵倒百選が繰り広げられていた。
「では、今度はエビフライでも……」
「い、いやいい! 自分で食べられるから! だからそんな残念そうな顔をしないでくださいおねがいだからっ」
このまま食べさせられ続けたらそれこそ罪悪感に耐え切れなくて唐突に土下座してしまいそうなのだ。
といいつつも今現在も土下座寸前なのだが、本人にそれに気づく余裕が無かったりする。
「(な、なんだこの拷問は……。 俺を悶え殺すつもりか……!?)」
「??? 今、何か言いましたか?」
「ぜ、全然何も言ってませよ!? あー、この唐揚げ美味しいなー!」
「まだまだ沢山ありますから、どんどん食べてください」
比喩ではなくまだ全然残っている重箱の中身を引き攣った笑みで眺めた祐一は、覚悟を決めてなるべく美汐の顔を見ないように重箱の消化に取り掛かった。
機械的に租借した料理の味は、当然ながらよく分からなかった。
「……ギヴ」
「……私もです」
結局二人掛かりでお腹一杯になるまで食べてはみたものの、かなりの量が残ってしまった。
分量的には3分の1程。
美汐が思いのほか小食だったので,その消化量のほとんどが祐一が食べた分である。
「相沢さん,お茶です」
「……サンキュ」
美汐が魔法瓶に入れてきたのは非常にらしいというか,番茶だった。
少々時間が経ってしまったせいで少々温くなっていたが,それが逆に程よい温度で飲みやすかった。
淹れたてではないが,香りも良く,味わい深い味なので言いお茶っ葉を使っていることにはそういうことに疎い祐一にも理解できた。
「あー,食った食った」
「あの…別に無理してまで食べる必要は無かったんですよ? 残していただいても,夕食に使うから大丈夫なんですから」
「いや,こんな美味いモンを残すなんて失礼だろ。 ……と,言っても結局食べ切れなかったけどな」
実際美汐の料理はかなりの腕前だった。
最初のほうは緊張のせいでまったく味のことなど頭に入ってこなかった祐一だが,時間が経つにつれて味を楽しむ余裕も出てきた。
そして,あらかた料理を食べ尽くした祐一が抱いた感想が前の評価である。
じっくりと,具の隅々までダシが染み込んだ煮物や,食べる人のことを考えて食べやすいサイズに切られた具材。
栄養バランスも考えているらしく,肉や野菜の比率がバランスよく分けられていて胃がもたれるなどといった心配はなさそうである。
他の料理にしても祐一の及第点を遥かに超えて,秋子さんに匹敵するランクにまで到達しそうな勢いだ。
ちなみに,祐一の脳内料理ランキングは,
秋子>佐祐理=美汐>名雪>香里=栞>真琴=舞>あゆ
である。
あくまでも私見だが,秋子さんの料理で舌が肥えた祐一の評価はあながち間違っていないだろう。
上位の女性達は言わずもがな,他の少女達も弁当を持ってきたりでその腕前を確認済みだ。
ちなみに下位3人は,食べる専用,切るのみ一流,碁石クッキーという嬉しくない経歴を持つ猛者。
本来ならばあゆも他の二人と同列に置くべきだが,どうすれば普通の材料であんな代物が出来るのか,という畏怖を込めてあの位置に置かれている。
「お世辞でも褒めてもらえるのは嬉しいですね」
「いや,マジマジ,大マジだって。 これならどこにでも嫁にやって申し分ない」
「…相沢さんは私の父親かなにかですか」
憮然とした表情でコップに入ったお茶を啜る美汐。
持っているのはただの紙コップの筈なのに,美汐が持っていると普通の茶飲みに見えるから不思議だ。
流石はおばさん臭い,もとい物腰上品と呼ばれるだけはある,ということなのだろうか。
「……今,非常に失礼なことを考えませんでしたか?」
「いいや,ちっとも」
とりあえずばれると事なので嘘を貫き通しておく。
普段ならばこのネタで10分程は弄れる祐一だが,美汐は時々予想外の反撃を加えてくるので迂闊に手を出せない。
それは香里や佐祐理さんにも言えることだが,その大抵は即座に対応できるレベルなので特に問題は無い。
だが,時既に遅しというべきか,何かを思いついたらしくふいに彼女にしては珍しい意地の悪そうな笑みを浮かべると,
「そういえば,嫁に出しても申し分ないと言いましたが。 祐一さんは私を嫁には貰ってはくれないのですか?」
「ぶっ……!?」
しれっと,ずばっと,さり気なく問題発言を吐いた。
嫁。 美汐が。 誰の? 祐一の。 嫁に貰うということは夫婦の契りを交わすということで。
もっと簡単に言うと結婚するという意味で。
思わぬ反撃を食らった祐一は,口に入れていたお茶を盛大に噴出した。
「げほっ,がはっ,な,なにをいきなり言い出すんだ天野!?」
「いえ,祐一さんが嫁に出すのに十分に足る腕前と褒めていただきましたので。 それならば祐一さんの嫁としても及第点なのでしょうか,と」
まいった。
美汐からそんな台詞が出てくるとは予想だにしなかった祐一の負ったダメージは甚大である。
少なくとも,即座に再起動できないくらいには。
顔が赤面していくのが自分でも分かる。
動悸も全然収まらないし,気がつかない内に紙コップを握りしめていた。
頭が真っ白になって,自分が今どうしてるかも不鮮明だ。
だから,
「い,いや,天野が嫁になるっていうんなら俺には勿体無いほどだよ」
知らず知らずの内に変なことを口走っていた。
「え……?」
言った本人が驚いたのだから,言われた美汐も相当ビックリしただろう。
呆然とした顔で祐一のほうを見ていた。
それで我に返った祐一は,先程自分が言った台詞を思い出して,次に美汐のリアクションを見て。
今度こそ気恥ずかしさで死にそうになった。
「べ,別に深い意味はなんだぞ。 ただ単にそうだったら嬉しいなとか思っただけで……って俺何口走ってるんだっ!?」
「……とりあえず落ち着いてください。 はい,お茶」
「お,おう……」
ぐいっと一気にお茶を流し込んで,一度二度と深呼吸を繰り返す。
息を吐き出すたびに上がっていたテンションが下がっていき,顔の火照りも無くなっていく。
一方の美汐は押し黙ったままで,じっとこちらを見続けていた。
どことなく顔がほんのりと赤くなっているような気がしたが,そこまで気が回るほど落ち着きを取り戻していない祐一がそれに気がつくことは無かった。
「落ち着きました?」
「…ああ」
言いつつ,コップを差し出しておかわりを催促する。
美汐も無言で頷き,まだ少し湯気が上るお茶を注いで,自分の方にも補充した。
「びっくりしたぞ。 天野がそんなこと言ってくるなんて……」
「私も,いつまでもからかわれたままというのは不本意ですから」
「……むぅ」
そう言われてしまっては何も言い返せない。
唸る祐一を,美汐は心なしか嬉しそうに見る。
そして少しの逡巡の後,
「……からかいついでです。 すみませんが私に付き合ってもらえませんか?」
「……?」
その声が,先程と打って変わってどこか暗い雰囲気を纏ったものに聞こえたのは祐一の気のせいだろうか?
「ちょっと…相沢さんに案内したい場所があるんです」
そう言う美汐の目は,話し相手の祐一ではなく,何処か別の遠い場所を眺めているようだった。
祐一は,その視線に見覚えがあった。
あの時,この場所に着いた時に桜を見ながら覗いた美汐の横顔。
その表情も,今と同じものだったと,祐一は気付いた。
「さっき,言いましたよね。 後でお話します,と」
「……ああ」
「その理由を……これから行く場所で説明します」
※
美汐が祐一を連れて来たのは,先程の場所から更に奥にある開けた場所だった。
周りには鬱蒼と木々が生えているのに,その一帯だけは避けるようになにも無い。
唯一つ,そこにある桜を除けば。
「これは……」
先程の桜とは見比べられないものだった。
恐らく樹齢は百や二百をゆうに超えているだろうそれは,今まで見てきた桜の中でも飛び抜けて大きく,綺麗だった。
「文献によると,この桜はものみの丘の中でも一番古い樹,と呼ばれています」
「……だろうな」
周りの木々を見ても,ここまで育ったものは無かった。
恐らく今まで生えてきた大半は既に枯れ,折れてしまったのだろう。
「別名,物見桜。 ものみの丘にある桜,という意味なのでしょうが,とても安直ですね」
「……もう少し捻った名前は無かったのか,昔の人」
「その名前の通りこの桜は今までこの場所で丘の下に住む人々を見守り続けてきたそうです。 この桜の名前から,ものみの丘という名前がついたという説もあるくらい昔から」
「で,この桜と天野の話と一体どういう関係があるんだ?」
「気がつきませんか?」
ここに来るまでに時間が掛かったせいで,空はもう夕暮れ時だった。
その赤い日差しが,目の前の美汐とその後ろにある桜を紅く染めていた。
その日差しに照らされた美汐の顔は,無表情だった。
(この顔……見覚えがある)
それは,あの冬美汐と初めて出会った時の彼女の姿だった。
人との関わり合いを避け,別れという辛い出来事から逃避しようとしたあの時の天野美汐だった。
「ここには,人間以外にも生活をしている存在がいます」
「それって,もしかして……」
「はい。 ものみの狐…彼らはここで生まれ,死んでいく……。 そういう言い伝えが遥か昔より言い伝えられて来ました。 そして──」
一旦,言葉を区切り美汐は桜の方を振り向いた。
祐一からは後姿になってしまい,今美汐がどんな顔をしているのかは分からなかったが。
それでも,祐一は彼女が泣いていると思った。
「”あの子”が眠りについた場所です」
「……!」
”あの子”。
美汐が幼い頃に出会い,彼女の目の前で消えた狐。
そして,美汐に深い傷跡を残した存在。
「あの時も……こんな風に桜が咲き誇っていました。 もう立つ力も無くなってしまったあの子は,最後にここに連れて行ってと私に願いました」
「なんで,こんな所に?」
「あの子はここが好きでしたから……。 元気だった頃もよく私をここまで連れてきて,一緒に遊んだり日向ぼっこをしたり……ここは私とあの子の遊び場だったんです」
最後に,自分達が遊んでいた大切な場所に行きたかった。
その気持ちは,真琴と共にあの草原へ行った祐一にはよく分かった。
そして,その時の美汐の辛さも。
「私が背負わなければ移動することも出来ない体で,もうまともに目も開けられない状態だったのに,あの子はそれでもこの桜を目に焼き付けたかったのかもしれないですね」
美汐の肩が震えていた。
だけど,声だけは必死に嗚咽を隠そうとしているように。
「……あの時,あの子が言った言葉が,今も頭の中から離れません」
「なんて言ったんだ?」
「『また,来年もこの桜が見れるといいね』,と。 もう,自分が消えると分かっているのに。 それでもあの子は──」
それは,消えいく狐が願った,たった一つの儚い願い。
人の温もりを知ってしまった悲しい存在が欲しかった,高い場所にあった葡萄のような,手が届かないが故に切望した繋がり。
本当は得られる筈がなかったそれは,狐にとってそれほどに甘くて,美味しかった。
「笑顔で……。 笑って,と。 本当は自分が消えてしまうのに,最後まで私の心配ばかりして……っ」
多分,そこで耐え切れなかったのだろう。
桜から背を向けると,美汐はそのまま祐一の胸に飛び込んでいた。
祐一の服をギュッと掴んで,肩を震わせながら,
「笑え…るわけ,ない,じゃないですか……っ。 あの子は,私の大切な存在で,ずっと,ずっと一緒に居られると思っていたのにっ!」
「天野……」
「そんな…酷なことは,ないでしょう…? あの子が消えることになったのは私のせいなのに……。 恨まれたって仕方がないのに……」
ものみの狐は,人間になる代わりに少しずつ衰弱していく。
確かに原因は天野美汐に出会ってしまったからかもしれない。
「……そいつは,天野を恨んでなんかないぞ」
「そんなわけ…ないじゃないですか。 私のせいで,あの子は亡くなってなってしまったんですよ……?」
でも。
絶対にあの狐は美汐を恨んでなんていない,と祐一は思う。
たとえ,狐の命を奪ってしまったとしても。
「天野のおかげで,そいつの夢は叶ったんだぜ?」
人との繋がりを求めて人の姿になった狐は,天野美汐のお陰でその温もりを得ることが出来たのだから。
「きっと,絶対に恨んでなんかいない」
「あい……ざ…わ,さん?」
俯いていた顔を上げて,美汐は祐一を見た。
瞳には涙をいっぱい溜めて,顔は真っ赤で,まるで泣いている小さな子供のような顔で。
こんなにいい子を恨むことなんて,絶対出来ないだろう。
そんな彼女の顔を見て,祐一は小さく笑って,
「だから,さ。 天野は自分を責めなくてもいいんだ。 天野は,最後までそいつの夢を叶え続けていたんだから」
「ぅあ,あ…あぁ──」
ぽん,と祐一が美汐の頭を撫でた時,まるで堰を切ったように美汐は泣き出した。
わんわんと。 今まで流せなかった涙の分を取り戻すように。
祐一の服を力一杯握り締めて,決して離さないようにして。
子供のように泣き続ける美汐の頭を,祐一はずっと撫で続けていた。
「……お,お恥ずかしい姿をお見せしました」
結局,美汐が泣き止む頃には日は完全に沈み,辺りは真っ暗になっていた。
祐一に泣き顔を見せたのがそんなに恥ずかしかったのだろう。
顔はさっき以上に赤面していて,決して表情を悟られないように俯いていた。
そんな美汐の様子に,祐一は苦笑するしかない。
「ま,天野の貴重な泣き顔が見れたから嬉しかった,かな?」
「あ,相沢さん!」
慌てて顔を上げた美汐は,頬が紅潮して,さっきまで泣いていたせいで目が真っ赤かで,普段とは全然違う表情だったけれども,とても可愛かった。
美汐のそんな顔が見れただけでも,服を濡らされた甲斐があったというものだ。
「…あの,相沢さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
いきなり美汐は頭を下げた。
突然そんなことをされても何のことだか分からない祐一は戸惑うしかない。
「い,いきなりなんだ?」
「……私は今までここに近づこうとはしませんでした。 ここは,私の罪の証でしたから」
「天野……まだそんなこと言ってるのか?」
違います,と美汐は首を振ると,
「今は,違います。 でも,前まではここは私にとっては過去の象徴だったんです」
「……」
祐一も,あゆのことがあるから分かった。
祐一にも,あのモミの木の場所は美汐と同じ過去の象徴だったから。
「だからこそ,何時かは乗り越えないといけないとは思っていました。 ですが,私は臆病で,傷つきたくなくて,ずっと避け続けてしました」
7年前,祐一が記憶を失うことで傷を隠したように,美汐もここを避け続けることで過去から逃げ続けていたのだろうか。
「でも,相沢さんと出会ったことで私も勇気を出そうと思いました」
「俺と?」
「はい。 相沢さんと真琴の姿を見て,私はここに来ようと思えたんです」
それは,どんな思いだったのだろうか。
自分の過去を繰り返すような二人を見つけて。
己の罪状を突きつけられるような光景に,それでも自分と同じ思いはさせたくないと思って。
でも結末は自分とは違う,ハッピーエンドを見せ付けられて。
「私は,祐一さんみたいに強くはあれませんでしたから。 きっと,その報いだったんでしょうね……」
「……そんなことない。 俺はただ運が良かっただけだ」
「それでも,ですよ。 それで私は気がつかされたんです。 私は,過去から背を向けたせいで,あの子自身にも背を向けていたんだ,と」
だから,一言謝りたかった。
それが例え自己満足だったとしても,そうせざるを得なかった自分の愚かさを恨んでも。
罪悪感に耐え切れなかったから。
「でも,やっぱり私一人ではここに来ることは出来ませんでした。 それで──」
「俺と一緒に来ようと思った,ってか?」
「はい」
この人と一緒ならば越えられると思ったから。
勇気を与えてくれたこの人とならきっと。
「……あの子の好物はおでんでした」
「なるほど…それで」
「はい。 来るときは絶対持ってこようと思っていました。 前までは,見るのも苦手だったのに」
きっと,それはあの子のことを思い出してしまうからだったんだろう。
「それも,祐一さん達のお陰ですよ」
だから,ありがとうだと美汐は言った。
「そっか」
多分,美汐がこのことで泣くことはないだろう。
今の彼女は,真正面から過去に向き合って,あの子のことを見つめられる筈だから。
別に,辛いことばかりじゃなかったから。
楽しい思い出も沢山貰ったのだから。
だから,天野美汐は笑っていられるだろう。
それが人に憧れた一匹の狐が最後に望んだ願いなのだから。
「……また,一緒に来てくれますか?」
「ああ。 こんな綺麗な桜が見られるなら何度でも。 今度はさ,真琴も連れて来ようぜ」
「そうですね。 真琴もきっと喜びます」
ちょっと騒がしいかもしれないけれど,その光景はきっととても楽しいに違いない。
「じゃあ,帰りましょうか。 もう日も暮れてしまいましたし」
「そうだな……。 んじゃ,行くか」
おでんの入った重箱を桜の根の下に置いて,祐一と美汐は桜の木に背を向けた。
「さて,これからどうするかな……。 家に帰って食事の準備するのも面倒だしなぁ」
「あ,なら私の家に来ますか? 今は両親もいないので一人分作るのも勿体無いですし。 お弁当の残りもまだ全然ありますし」
「……天野,今自分が何言ってるか気がついてないのか?」
「?」
二人の足取りは軽く。
顔には笑みを浮かべて。
「……いや,なんでもない。 じゃあ,遠慮させてもらってもいいかな」
「はい,腕によりを掛けて作らさせてもらいます」
いつものように,だけどちょっとだけ違う雰囲気で。
二人の距離も昨日に比べて少しだけ近くて。
「リクエストとかあります?」
「あー…そうだなぁ。 今はなんとなく鍋とか食べてみたい気分だ」
「鍋,ですか。 それじゃあ帰りにお買い物にも行かないといけないですね。 相沢さん,荷物持ちはお願いしますよ?」
「ご馳走されるんだから,それぐらいはお安い御用だ」
美汐は今自分が抱いているこの気持ちがなんなのかは分からなかったが,それはとても心地が良いものだと思った。
この心地よさがずっと続けばいいと願った。
だから,
「……あの,相沢さん」
「ん?」
「また来年,あの桜を見にいきましょうね?」
天野美汐は,少しだけあの子の気持ちが分かったような気がした。