階段を登る。

 地上は遠く、ソラは近い。

 夢の具現。

 誰かの願い。

 求めながら与えられなかった全てが、一歩ごとに遠のいていく。

 それは――もう関わりのない、遠い彼岸の物語のようだ。

 一瞬ごとに過ぎ去ったコトが頭を過ぎり。

 さらに一瞬ごとに心で過ぎ去ったモノを想う。

 それら全てを抱え、歩き、でも挫けそうになり。

 その度に否定される。

 本当に張り合いのある相棒だと、口元を歪めながら。

 さらに一歩を進む。

 手を伸ばせば、もうすぐあの虚無に手が届く。

 繋いだ指は、その頃には独りになる。

 地上は雲に隠れ、星を寄る辺に歩いていく。

 ふと理由を問われ、しかしそれはすでに思い出せず。

 でも、一番やりたいことだけは覚えている。

 だから、それだけで十分。

 それでも。

 今更なのに聞くことがあるのか。

 今更だからこそ聞くことが出来たのか。

 声は続く。

 答える言葉は、自分の想い。

 誰にも話した事のなかったそれに、一体何を想ったのか。

 何故安堵などを感じたのか。

 分からぬまま、でも帰ってきた星という言葉は悪くないと思った。

 確かにあるが、決して手の届かないものであり。

 それはオレに見ることの出来た、数少ない輝きだから。

 近付く終焉。

 人間の世界は終わり、ここから先へはオレしか踏み込めない。

 終わりを告げるように見えなくなる身体。

 最後に何か言うことは無いかと考え、結局出て来たのはどうでもいいことだった。

 それは確かに言い忘れたことではあったが、それはそいつにとってどうでもいいことだったみたいだから。

 会話は止まり、でも歩みは止まらずに。

 すでに重ねた指の感触は、半分以上無い。

 幻であることは承知のはずだったのに、込み上げる想いは何に対してのものか。

 多分それは消えてしまう、何の意味もない思い出のためと、そう思い。

 結局感じた未練の理由は話すことなく。

 ――俺たちは永遠に別れた。



















 虚ろなる日々のその後に



















 ――そんな夢を見た。

 目を開ければ視界に入るのはいつもの光景。

 自分の部屋の天井。

 先ほど見たモノを思い返しながら、ゆっくりと身体を起こしていく。

 月より垂れる、蜘蛛の糸のように脆く、細く、でも確かな道。

 目的地へと向かう唯一の、赤い回廊。

 それを登って行く誰かと、付き添うようにして歩く――知っているが、知らない少女。

 向かう最果ては、あの黒い月。

 天の逆月。

 そこで起こること、その顛末を……多分俺は知っている。

 でもあくまで知っているのであって、分かっているわけではない。

 分かるのはおそらく、まだ少し後。

 それは何処か、以前経験したことに似ていた。

 半年以上前、あの聖杯戦争と呼ばれたもので見たモノに。


「……サーヴァントの生前の記憶、か」


 すでに起こした上半身を左手で支え、右手を目の前に掲げる。

 何となく眺めたそこに、当然ながら令呪の光は灯っていない。

 でも思考は何処か、その先に。

 想うのは果たして――。


「っと、こうしてる場合じゃなかった。そろそろ行かないと、また桜に朝食の準備を取られかねない」


 立ち上がり、着替えを始め。

 そうしながら、ふと自分で呟いた事の意味を確認するようにして思った。

 本当に桜は変わったな、と。

 初めて会った時などとは比べ物にならないほど、そして半年以上前のあの頃から考えても。

 明るくもなったが、それ以上に強くなった。

 聖杯戦争が終わって間も無くはそうでもなかったけど……あれは一月と少し前のことだ。

 ある日いつものように家に来た桜は、でもいつもとは少し様子が違っていた。

 会うなり突然頭を下げ、


「今までありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いしますね」


 そう言って晴れ晴れとした笑顔を浮かべた桜を、今でもよく覚えている。

 そしてこっそり隠れてその様子を眺めていた、遠坂の姿を。

 満足そうに、嬉しそうな笑顔を浮かべていた姿を。

 あの頃は、ああ、何か心配事でも解決したのかな、程度にしか考えてなかったけど、最近ようやく何が起こったのか分かったような気がする。

 相変わらず二人は教えてくれないし、二人の仲も何処か……そう、まるでわざと他人を装っているような感じにぎこちない。

 ……まあ、それは分からなくも無いけど。


「遠坂も桜も、水臭いよなぁ」


 例えそれが、自分たちの家のことは自分たちでケリを付ける、ってことなんだとしても。

 ……もしかしたら俺に余計な心配をかけないようにって意味も、と思うのは、自惚れかな?

 まあでも、それはともかくとして。


「強くなるのはいいけど、そのお手本が遠坂ってのは勘弁だよなぁ……」


 強くなる方向が明らかに間違っている。

 姉妹ということもあり元から素質はあったのかもしれないけど、このままでは俺の気の休まる場所がなくなってしまう。

 しかも最近では――。


「……はぁ。まあ、とにかく行くか」


 考えたところでどうにかなることでもないし、何よりこのままでは本当に今日も台所を奪われてしまいかねない。

 だから俺は頭を振ると今までの思考を掻き消し、居間へと向かうべく歩き出した。



















 朝日に照らされ、気持ちのいい空気が流れている縁側。

 居間へと向かう途中で通ったそこで、ふと足を止める。

 漂ってくる朝餉の香り。

 規則正しく聞こえて来る包丁の音。

 それらにもう手遅れだったこと悟り、溜息を吐く。

 まあでも、まだ手伝えることぐらいは残ってるだろう。

 そう思い足を動かしたところで、照り返しの光に目を細め。

 ――ふと、懐かしい誰かの笑顔を見た気がした。

 黄金色に輝くそれは。

 しかし瞬きをした瞬間には消えていた。

 まな板を叩く音に我に返り、また足が止まっていたことに気付く。

 頭を振り足を再び進め。

 それでも消えることは無い笑顔に。

 ぼやけた視界を目でこすり、俺は居間へと向かった。



















「いただきまーす!」


 それぞれ微妙に異なった合唱が五つ、いつものように衛宮邸の居間に響き渡る。

 俺はまずはざっと食卓を見渡し、とりあえず焼き魚から食べることにした。

 身を解し、口に運び、


「……む。また腕を上げたな、桜」


 さらに磨きをかけている桜の腕に唸り声を上げた。

 焼き具合、塩加減などがさらに絶妙になってきている。

 照れているのか微かに頬を染めている桜を眺めながらそう思うと同時、そろそろ本気で追い抜かれそうだ、とも思う。


「ぬ……ということは、もしかして今日の当番も桜ちゃん?」

「ん? ああ、そうだよ。今日も桜が早起きて作ってくれたんだ。だから」

「ぬあー! 今日こそ士郎が作ると思ったのにー!」


 感謝して食べるように、という言葉は、虎の叫び声に掻き消された。


「だから言ったでしょ、タイガ。絶対今日もサクラが作る、って。というわけで、タマゴ焼きは貰うわよ」

「ああっ! 全部なんて酷い!」

「負けた方は勝った方に一品差し出す。それはタイガも承諾したことでしょ?」

「むむむ……せ、せめてタマゴ焼きと納豆に!」

「駄目よ。だって私納豆が嫌いだもの。見苦しいわね。敗者は大人しく勝者に従いなさい」

「うー……この鬼! 悪魔!」

「……ったく、またどっちが朝飯作るのかで賭けてたのかよ……」


 二人の遣り取りに、つい溜息を漏らす。

 人を勝手に賭けの対象にするなという想いと、イリヤと同レベルどころか劣ってすらいるんじゃないだろうかという、藤ねぇの精神年齢の低さに対する情けなさの二つが混ざり合い。

 それにしても、と未だ続いている虎の抗議の声は華麗に無視して、イリヤが俺に問いかけてくる。


「自分でサクラが作るほうに賭け続けてる私が言うのもなんだけど、最近本当にシロウ朝ご飯作らなくなったわね」

「……そういえばそうね。その代わり夜は大抵士郎が作るから気にもしてなかったけど……どうかしたの?」

「いや、別に俺はどうもしてないぞ? 最近は桜が来るのが早いだけだ」

「いえ、私そんなに早く来てませんけど?」

「え、そうか? それにしちゃあ、ここ最近は毎回俺が行く頃にはすでに準備が八割方完成してるじゃないか」

「……確かに前より少し早く来てはいますけど、そのぐらいなら先輩は大抵いつも起きてましたよ?」

「……そうだったか?」

「はい」

「むぅ……」


 桜がそう言うのならばそうなのだろう。

 確かに遠坂からの悪影響を受けているとはいえ、こんな嘘を吐くはずがないし、何より意味が無い。

 ということは俺が起きるのが遅くなったということだが……。


「……前と同じ時間に起きてたつもりなんだけどなぁ……」

「まあ、遅いとはいえ十分二十分程度ですし」

「士郎は相変わらず遅くまで土蔵に籠もってるみたいだしねー。その疲れが出始めてるんじゃない?」

「疲れ、ねぇ……」

「シロウはそこまで歳取ってもいないと思うけどね……誰かさんと違って」

「む、イリヤちゃん。その誰かってのは誰のことかな?」

「誰もタイガとは一言も言って無いわよ?」

「むむぅ……」

「……まあ、藤村先生が歳取ってるかどうかはどうでもいいとして」

「遠坂さん、酷い!」

「士郎が疲れを溜めてるってのは、あるかもしれないわね。ストレスとかって意味も込めて」


 藤ねぇの抗議をこちらもやはり華麗に無視する遠坂。

 そしてそれに対してもやっぱり誰も何も言わない辺りみんな慣れてきたと思う。

 まあ、それはともかくとして、ストレスか……。


「俺としては溜めてないつもりなんだけどなぁ……」

「そりゃ士郎だからね。溜まってても気付かないでしょうよ。人の気持ちにも鈍感だけど、自分のことに関してはそれ以上に鈍いんだから」

「前者は関係ない気がするんだが。……まあ、どっちにしろ否定できないけどさ」

「ま、士郎だからねー」

「先輩ですからね」

「シロウだしね」


 四者四様に頷く様に、さすがに少しむっとする。

 何さ、そこまで言うこと無いじゃないか。


「っと、藤村先生、そろそろ時間拙いんじゃないですか?」

「あ、本当だ。仕方ない、今日はお茶を飲むのは諦めるしかないわねー」

「あ、桜ももう行っていいぞ? この時間じゃギリギリだろ? 片付けはやっとくからさ」

「すいません、それじゃあお願いしてもいいですか? 夕食の時は私がやりますので」

「気にしなくていいって」


 もう一度すみません、と頭を下げると、桜はタイガー号のヘルメットを片手にさっさと行ってしまった藤ねぇの後を追うようにして居間を出て行った。

 相変わらずの礼儀正しさに、藤ねぇも少しは見習って欲しいものだと思う。

 まあ、無理だろうけど。

 そんなことを思いながら立ち上がる。


「さて、それじゃあとっとと片付けるか」

「あ、私も手伝うわよ?」

「私も手伝うわ」

「そうか? じゃあ俺が持ちきれなかった分を頼む。俺はその間に洗っちゃうから」


 食器を出来るだけ持ち台所へ。

 一先ず流しに置き、さっと水洗いする。

 そうしているうちにイリヤと遠坂が残りを持ってきてくれたので、それも水洗い。

 それが終わると本格的に洗い始め、それも五分もしないうちに終わった。

 戻るついでにお茶を淹れ、二人にも配る。

 そうして俺たちは、登校時間が迫るまでのんびりとしていたのだった。



















 遠坂と一緒に登校したところを一成に見られてしまい色々言われたり。

 昨日は果たして何を見たのか、後藤君の喋る言葉の語尾がケロになっていたり。

 相変わらず藤ねぇはチャイムが鳴ってから急いで教室に来たり。

 さらに転んで教卓に頭をぶつけたり。

 そんなことがありながら、でもいつもと変わらない朝の光景。

 みんなの笑い声が響く中、何となく教室を見回しているとふと視界の端に一つの机が映った。

 そこは今誰も座っておらず……そしてここ半年以上空白の席。

 ――間桐慎二の席だ。

 慎二が行方不明として扱われて半年以上が経つが、未だその席は存在していた。

 学年が変わり、教室が変わっても慎二の席は必ず何処かにあった。

 噂では藤ねぇがそうしておくように学校側に掛け合ったっとか言われているが、真相は分からない。

 まあ、藤ねぇならやりそうではあるけど。

 何故その席に目が止まったのか。

 それは、自分でもよく分からなかった。

 いつもどこかで気にしていたことは確かだけど、今日は何故かそれが強いように思える。

 何故かと少し考え、でも瞬間頭に浮かんだ慎二の顔に納得がいった。

 それは、聖杯戦争やその頃に見た顔ではなく、魔術というものを知る前の慎二の顔で。

 ついでにそれは、今朝見た夢の一つに出て来た慎二の顔で。

 多分俺は。

 あの頃の慎二に戻れ、あの頃のように慎二と接することが出来るようになる。

 そんな未来もあったかもしれないと。

 そんな可能性があったかもしれないということを知り――。

 ガラガラッ、と扉が開いた音で我に返った。

 しまった、そういえばHRの途中だった。

 まあ藤ねぇだからいつも通りだとは思うけど……。

 と、そこまで考えたところで、


「どうも、ただいまご紹介に上がりましたカレン・オルテンシアです」


 あまりにも予想外の事態に思考がフリーズした。

 ……え〜と、もしかしてまだ夢の中なのか?

 ふと思い頬を軽く抓ってみる。

 痛い。

 どうやら夢ではないようだ。

 なら何でここにカレンが?

 頭に浮かんだ疑問は口には出ず、だから勿論誰もその疑問に答えられるわけもなく……いや、カレンの場合は敢えて無視しそうだけど、それは置いといて。

 しかしクラスのみんなは誰一人として疑問の声一つ上げず、カレンの自己紹介を聞いていた。

 ――何でさ。


「新都にある教会に住んでいますので会った事がある人もいるかとは思いますが……大抵の人は初めてだと思いますので、初めましてと言っておきます」

「……ふむ。教会の人と聞いてどんな人が来るのかと思っていたが……存外若いのだな。教会を一任されるほどだからそれなりに位の高い人と考えていたのだが……いや、人を勝手に外見で判断するとは俺もまだまだ未熟ということか。精進せねば、喝」


 何とか思考もまともに働き出したところに聞こえてきた一成の呟き。

 おそらく独り言のつもりだったろうそれは、でも隣の席の俺には普通に聞こえてきた。

 この前の席替えで隣同士になった一成へと視線を向ける。

 と、視線が合った。


「……む、どうした、衛宮?」

「いや、どうってことじゃないんだが……」

「何だ、歯切れが悪いな。何か言いにくい事でも……ああ、もしかして、今の呟きが聞こえてしまったか?」

「……ああ、まあな」

「そうか……すまんな。独り言のつもりだったのだが……やはり精進が足りんな」

「いや、それは別に構わないんだけど……それより、一成驚いて無いな」

「む? 何故俺が驚かねばならんのだ?」

「いや、だって教卓に」

「……もしかして、教会の人だからか? 衛宮、ならばそれは誤解だ。確かに俺は仏門に下ってはいるが、基督教などを否定しているわけではないぞ?」

「いや、だからそういうことじゃなくて……俺は、何で突然カレンが教卓のところに居るのに驚かないのかってことを聞きたいんだが」

「当然とは……なるほど。つまり、衛宮は先ほどの藤村教諭の言葉を聞いていなかったのだな?」

「藤ねぇの言葉?」


 むぅ……、と思い出してみると、確かに微かに教会やら何やらの言葉が聞こえていたような気がしなくも無い。

 自分の思考に没頭してたし、何より藤ねぇのことだからいつも通りだと思ってたのが今回は裏目に出たってことか。

 ……自業自得、だな。

 そういえば、さっきカレンも紹介されたとか言ってたな。


「なるほど。とりあえずカレンがここに居るのが突然じゃないってことは分かった。じゃあ、何でカレンはここに来てるんだ?」

「ふむ……今日の一限が何の授業か覚えているか?」

「ああ……英語だろ?」


 つまりは、藤ねぇの授業。

 でもそれと、教会に住んでるカレンが学園に来ることと何の関係が?


「まあ、先ほどの藤村教諭の言葉を要約するとこうだな。今朝学園に向かっていたら、その途中で偶然あのカレンさんという女性と出会った。そこでふと思ったのだそうだ。彼女に色々と話してもらえば、それはもしかしたら普段学園では習えないようなことを知ることが出来るのではないか、とな」

「……む、藤ねぇにしちゃ珍しく正論ではあるな。英語まったく関係ないけど」

「ついでに今日の授業の準備まったくしてなかったから、とも言っていたがな」

「……やっぱ藤ねぇは藤ねぇだったか」


 というか、明らかにそっちが本音じゃないか。

 本当によく教師をクビにならないもんだ。


「それではこれから話をしようと思いますが……そうですね」


 っと、どうやら自己紹介のようなものは終わったようだ。

 今度は逆に一成が俺に対して何か聞きたそうだったが、ちゃんと話を聞いて無いのがばれたら後で何を言われるか分からない。

 俺は謝罪と礼を込めて小さく片手を挙げると、視線を一成からカレンへと戻す。

 さすがに一成もこれ以上はマズイと思ったのか、それ以上声を掛けてはこなかった。

 しかし肝心のカレンはというと、どうやら何を話すか迷ってるらしく、俯き考えていた。

 だが物怖じしている様子はまったく無い。

 四十人近い人から一斉に見られているというのに欠片も緊張していないのは、まあカレンらしくと言うか何と言うか。

 もっとも、そもそも人の前に立つということに慣れているだけかもしれないが。

 そのまま一分ぐらいが過ぎ、ふと何かを思いついたのかカレンは小さく頷いた。

 そして。

 ――え?

 一瞬だけ俺に視線を向けた。

 それは本当に一瞬だけで、すぐ教室を見回すように視線を戻したが。

 ――なんだ、今のは?

 考えてみるも、その意味など分かるわけも無い。

 先ほどの自己紹介の時のような視線ではない。

 だけどそこに、何かしらの含みがあったように思え、


「これから話す事は、おそらく意味などありません。ただ、藤村先生から何を言っても構わないと言われたので、私は今何となく話したいと思ったことを話そうと思います」


 でもその思考は結局、カレンの声に掻き消されるようにして消えてしまった。

 ……まあ、話を聞けば分かるかもしれないし。

 そう思い、俺はカレンの話へと耳を傾けることにした。


「これは私が体験したことではなく……とはいえ人から聞いたということでもありませんが……まあ、それはどうでもいいことですね。とにかく、とある場所に一人の少女が居ました」


 カレンの、銀色の澄んだ声は、教室によく響く。

 教室の誰もが、藤ねぇですら一言も発さず、ただカレンの語りに耳を傾けていた。

 それは、一人の少女の物語だった。

 少女はある時ある町へと赴き、そこで一人の少年に出会う。

 何処にでも有るような、有り触れた内容の物語。

 でもそれに、俺は目を見開いて驚いた。

 それは、俺もよく知っているものだったから

 そして、俺以外誰も知ることはないだろうと思っていたものだったから。

 それは、何処にでも有るようで、何処にも無く。

 有り触れているようで、有り得ない。

 でもおそらく、何時か、何処かで、有り得たかもしれない、物語。

 幸せな時が溢れ、優しい奇跡に包まれた、四日間の物語。

 カレンはそれを、淡々と話していた。

 ……いや、おそらく本人はそのつもりだったのだろう。

 そして他のみんなもそう思ったはずだ。

 でも俺は、それは何故か……何処か懐かしんでるように、見えた。

 少女と少年の物語は非日常から始まり、時に日常が混じりながら、でもやはり非日常に塗れていた。

 始まった物語は、必ず終末を迎える。

 それは当たり前のことで、そしてその物語もやはり例外ではない。

 やがて、物語は佳境へと向かう。

 彼と彼女は、二人きりで歩く。

 向かう先は一つで、でもそこへと辿り着けるのは彼一人。

 それは別れ。

 彼女はそれを理解しながら、しかし敢えてそこへと導く。

 赤い回廊を彼だけと。

 周囲を死で囲まれながら、尚且つシアワセに包まれ。

 終結へと向けて歩いていく。

 そしてやがて、彼と彼女は別れ。


「……彼女は、あのことについて後悔はしていなかった。そうでよかったと、納得している。でも、一つだけ。そう、たった一つだけ気に掛かることがあるとすれば……彼があの時漏らすようにして呟いた一言。ただ、それを確認できなかったことだけが――」


 と、そこでこほん、とわざとらしく咳を一つ。

 どうやらそこまで話すつもりは無かったらしく、カレンの表情に後悔の色が浮かぶ。

 しかしそれは一瞬で消え去り、すぐに元の表情に戻ると。


「とまあ、これでこの話はお終いです。初めに言ったように、この話に意味などありません。少なくとも私は何か意味を以て話したわけではありません。ですがこの話を聞いて何かを想ったのならば、私はそれを否定する気もありません。それはおそらく、あなたにとっては真実なのでしょうから」


 そして最後にペコリと一礼し、


「それでは、ご清聴ありがとうございました」


 みんなを見回しながら言われたそれが自分に向けて言われたように感じたのは、果たして。

 カレンの頬が少し赤く染まっていたように見えたのは、教室中から響いた拍手や歓声によるものなのか。

 そんなことを思い、考えながら。

 その時間は過ぎていった。

 ちなみに、その拍手に何事かと様子を見に来た他の先生に藤ねぇが怒られていたことも、ここに追記しておく。

 どうやら学園側に無断で実行したらしい。

 まあ、やっぱり藤ねぇは藤ねぇということか。



















「え? カレンが?」


 昼休み。

 何となく屋上で遠坂と桜と昼食を取っている途中で俺が切り出した話に、遠坂は驚いた声を上げた。

 まあ、当然だろうけど。

 内容は、カレンの名前が出たことから分かる通り朝のことだ。


「……でも、何でカレンさんが?」

「まあ、当然出る疑問だよな。何でも、藤ねぇが学園に向かう途中に見つけたから連れて来たんだってさ。カレンの話すことは、学園じゃ教えないようなことだろうから、って」

「……む。確かにそれは一理あるわね」

「……正論、ですね」

「まあ、実際のところは藤ねぇが今日の授業何するか決めてなかったかららしいんだが」

「……まあ、何と言うか」

「やっぱり、藤村先生は藤村先生ってことですね」


 二人の考えたこともやはり俺と同じようで、俺たちは互いに頷き合い、ふと視線が合うと声を上げて笑ったのだった。


「……それにしても、あのカレンが何喋ったのか気になるわね」


 一頻り笑いあった後、遠坂が一言目に放った言葉はそれだった。

 桜も頷き。


「確かに、興味ありますね」


 二人の視線が俺に向く。

 俺は一瞬どうするか迷い、


「……いや、普通の話だったぞ?」


 曖昧に誤魔化すことにした。

 何となく、あれは人に話していい事じゃないと思ったから。

 いや、あの時点で結構な人に聞かれてるんだけど、少なくともあれ以上の人の耳に入るのをカレンは望んでいないだろうと。

 特に根拠も無く、そう思った。


「ふ〜ん……本当に? 毒舌とかなく?」

「ああ、まったく無かった」

「……まあ、カレンさんも教会の人って紹介されたんですし、誰にも彼にも毒舌ってわけでも……少なくともああいう場では言わないんじゃないですか?」

「……まあ、確かにそう言われればそうかもしれないわね……」


 二人ともよく考えるととても失礼なことを言っているのだが、俺は敢えて何も言わなかった。

 だって、本当のことだし。

 と、ふと気付けば会話は途切れ、何故か遠坂は何処か遠い目をしていた。


「……遠坂、どうかしたのか?」

「え?」

「いや……何か、今遠坂遠い目をしてたからさ」

「ああ、うん……何ていうかね、そういえばまだ二ヶ月も経ってないんだなぁ、と思ってね」

「二ヶ月?」

「カレンと知り合ってからよ」

「ああ……そういえば、そうだな」

「なのに、私はもっと前からカレンを知ってるような、そんな気がしてるのよね。それがどうにも不思議だなぁ、って」

「あ、遠坂先輩もですか?」

「桜も?」

「はい。何故か二ヶ月程度じゃなくて……それこそ一年ぐらい経っているような気がするんですよね」

「そう……」

「ん〜……まあ、あれじゃないか? ほら、カレンってあんな感じだしさ。知り合った期間は短いけど、その内容が濃かったから長いように思う、とかさ」

「……まあ、確かに濃かったけど」

「そう言われればそんな気もしますけど……」

「……でも、確かにそうかもしれないわね。最近まではバゼットも居たわけだし、事実あれから二ヶ月程度しか経ってなかったんだ、と思うもの」

「……あの頃は今以上にどたばたしてましたからね。確かに、そうなのかもしれませんね」


 そう言った二人の言葉は、でもどこか無理に俺たちを納得させようとする響きがあったように聞こえた。

 ……まるで、俺の言ったことのように。

 そう、俺だって本当はそんな風に思っているわけではなく、それっぽい意見を言っただけに過ぎなかった。

 確かに俺もカレンとはずっと前から知り合っているように思っているけど……それは多分、あの夢が原因で。

 でも何故かそれを言うのは憚られて。

 だから――。

 何となく会話が途切れ、一瞬妙な空気が流れかける。

 が、すぐに桜が機転を利かせ、明るい話題へと変更してくれた。

 俺たちもそれに乗り、すぐにまた屋上では笑い声が響き始める。

 結局そのまま昼休みは過ぎ、それ以降その話題が会話に上る事は無かった。



















 この時期の夜は早い。

 気を抜くとあっという間に夜の帳が降りる空は、すでに橙へと変化していた。

 今日は週番で少しやることがあったから残っていたのだけど、それだけでこれだ。

 さっさと帰って晩飯の準備をしないと。

 そう思い校門のところへ向かった俺は、そこで意外な――いや、別に珍しくも無いんだけど、でも正直意外だった――姿を発見した。

 校門に寄り掛かり、空を眺めているその少女は。


「桜、どうしたんだこんなところで?」

「あ、先輩。今お帰りですか?」


 声を掛けた桜はこちらに笑顔で振り向くと、そう言ってきた。

 俺は訝しげに首を傾げるが、とりあえずそれに返す。


「いや、確かに今帰りだけど……」

「そうですか、よかった。これなら何とか暗くなる前には帰れそうですね」

「……もしかして、待っててくれたのか?」

「はい」


 何処か照れたような笑みを浮かべる桜。

 その頬が少し赤いように見えたのは――。


「……何で待ってたんだ?」

「何でって、だって今日は買い物をする日じゃないですか。もう家に食料ありませんよ?それとも、私一人で数日分の食料を運べって言うんですか?」

「いや、そうじゃなくてだな……桜、今度からは、ちゃんと言ってくれ。そうすれば、もっと早く来れるから」

「ん〜……いえ、遠慮しときます」

「いや、遠慮って」

「だって、それじゃあ先輩の迷惑になっちゃうじゃないですか」

「迷惑だなんて、そんなこと」

「それに。それに、私待ってるのって結構好きなんです。だから、平気です」


 そう言って笑顔を浮かべる桜の表情は、決して無理をしたら遠慮をしてるわけじゃなく。

 勿論それも多少はあるんだろうけど、それよりも自分の意思なんだということが分かり、


「……分かった」


 俺は頷くことしか出来なかった。


「でも、本当に大丈夫か? 最近は寒くなってきたし……幾ら学園とはいえ、女の子一人じゃ」

「一人じゃないわよ」

「え?」


 突然聞こえてきた声に、そちらへ視線を向ける。

 と、そこには。


「と、遠坂!?」

「……何よ、私が居ちゃ悪いの? お邪魔だったら帰ろうかしら?」

「い、いや、そういう意味じゃなくてだな……」


 遠坂は、まるで隠れるようにして校門の死角に寄りかかっていた。


「……なんだよ、声掛けてくれりゃよかったのに」

「二人があんまりにもいい雰囲気だったから声掛けづらかったのよ。それよりも、やっぱりこっそり帰った方が良かったかしら?」

「ねっ……遠坂先輩!」

「あはは、冗談よ、桜」


 顔を真っ赤にして遠坂に食って掛かる桜と、笑いながらそれをいなす遠坂。

 ……なるほど、遠坂も一緒だったってことか。

 それなら、確かに安心だな。

 例え何かがあったとしても、遠坂なら何とかしてくれるだろうし。

 それにしても。


「……遠坂が一緒だったんなら、俺を待ってる必要なかったんじゃないか?」

「え?」

「だって、二人なら何とか持てるだろ? いやまあ、さすがに女の子二人に重労働させるのは忍びないけど、何なら俺が明日また行ってもいいわけだし」

「……え〜と、それは……」


 何か言い辛い理由でもあるのか、歯切れの悪い桜。

 ……はて、何か俺に頼み事でもあるんだろうか?


「……相変わらず鈍感ね」

「ん? 何か言ったか、遠坂?」

「独り言よ、気にしないで。それより、何となく今日一気に買っちゃいたいと思ったんだから別に構わないでしょ? それとも、今日は何か用事でもあったの?」

「いや、別に用事はないが……」

「なら早く行きましょ。早くしないと暗くなっちゃうわよ?」

「ん〜……まあ、それでもそうだな。それじゃ、行くか」


 二人が頷くのを確認してから俺は歩き出した。

 右側に遠坂、左側に桜。

 三人並んで歩くこの光景も、最近では珍しいことではない。

 もっともいつもは、歩いている途中で桜や遠坂に会うんだけど。

 他愛の無い雑談に花を咲かせ、三人で楽しく歩く。

 その途中。

 坂の真ん中辺りで、ふと街に視線を向けて。

 夕陽に照らされた光景に、有り得ない姿を見たような気がして。


「……? 士郎、どうかした?」

「……先輩?」

「……いや、何でもないよ。ただ、一瞬この光景に見とれちゃってさ」

「ああ……まあ、確かにいい景色よね」

「そうですね……」


 いつの間にか足を止めていた俺に習うように二人も足を止め、三人してその光景をしばし眺める。

 二人には気付かれないように、そっと目を袖で拭い。

 やがて俺たちは歩みを再開した。



















「……あれ?」


 ふと気が付けば、視界が暗い。

 微かに頭が朦朧とし、自分が何故こんなことになっているのかが理解できない。


「……ああ、そっか。疲れて寝ちゃったんだったか」


 しかし数瞬後には思い出し、ゆっくりと身体を起こす。

 外へと視界を巡らし、暗いのも当然だと納得する。

 そこは闇に覆われており、どうやらまだ夜のようだ。

 まあ寝るの早かったしそれも当然かと思い時計を見、


「……へ?」


 つい間抜けな声が漏れた。

 そこに示されている時間があまりにも予想外だったから。

 下手をすれば夜中と呼ばれる時間でもおかしくないとは思っていたが。


「……まさかまだ日付も変って無いとはなぁ」


 時計は、まだ日付が変わるのに二時間以上が必要だと告げていた。

 止まっているわけではないということはすぐに分かったし、外が暗いため午前ということも無い。

 というかそれならさすがに桜が起こしてくれるはずだし、俺もそこまで寝坊するとは思えない。

 次の日ということは論外で、やはり俺は二・三時間程度しか寝ていないらしい。

 遠坂と桜と買い物を終え家に帰ってきた俺は夕食の準備をし、終わった頃に藤ねぇとイリヤが来た。

 そのまま俺たちは夕食を食べ始め、食べ終わった頃、何故か俺は強烈な眠気に襲われていた。

 どうにも耐えられそうも無かったのでみんなにその旨を伝え、悪いとは思ったが自室へと引っ込んだ。

 みんなもすぐ帰ると言っていたので、おそらく今この屋敷には俺一人だろう。

 ……それにしても、と少し不思議に思う。

 突然あれほどの眠気に襲われたこともそうだが、それがこの程度の時間で回復したのも不思議だ。

 そう、今の俺は、あの時の眠気が嘘のように消失していた。

 頭は澄み渡り、何故だろうと考え、でも一瞬頭を掠めた光景に何となく分かったような気がした。

 なら――。


「……多分、今夜は月が綺麗だろうなぁ」


 ふと、そんなことを思った。

 根拠もなく思ったそれを、でも理由が無かったわけではなく。


「どうせ寝れそうも無いし、見に行こうかな」


 俺は何かに誘われるようにして、月見へと出かけた。



















 さっきもやはり夢を見た。

 でもいつものように複数の夢を見るのではなく、ただ一つの夢を。

 それは終わりの……そして多分始まりの夢。

 何が終わり、何が始まったのか。

 それを深く考えることはせず、ただ漠然とそうなんだと思い、ただそれだけが分かってればいいんだと思っていた。

 だから。


「……うん、やっぱり今夜の月は綺麗だ」


 何故俺がここに居るのかも、よく分かってはいなかった。

 やはり漠然とした想いを、胸に抱えているだけで。

 でもだからなのかは分からないけれど、何となく今の状況は理解できているんじゃないかと思う。


「……そうですね」


 何時から居たのか、何故居るのか。

 分からないけれど、カレンが隣に居るということも。

 風が強く、冷たい。

 本当、段々と寒くなって来てるよなぁ、と思い身体を震わせ、ふと隣を見てみる。

 カレンはただ悠然と、月を見上げている。

 寒がっている様子は見えず、仮に聞いたとしてもその通りに答えるだろう。

 一瞬迷ったが、結局俺は何もせず、何も言うことなく、再び月を仰ぐために視線を戻した。

 ここはセンタービル、その最上。

 冬木にある建物の中で最も高く、だからこそ最も月に近く。

 そして、あの時の決戦の舞台の一つ。

 俺とカレンは、まるであの時のように月を見上げ。


「……結局、カレの未練とは一体何だったんでしょうか」


 多分それは独り言だったんだろう。

 カレンの中ですでに結論の出ているそれは、問い掛けではなく、ただの確認。

 でも確かめることが出来なかったために、微かに未練が感じられ。

 だからか――。

 ふと、今朝方見た夢を思い出す。

 その時俺はあいつで、だからあいつが何を考えていたのかはよく分かり。

 勿論何に未練を感じていたのか。

 ということを知っている。

 そして。

 最後の最後。

 光へと届く、その直前に。

 あいつはやぱりたった一つだけ気懸かりだったことがあって。


「……多分、あいつは満足してたさ」


 でも結局俺の口から出たのは、そんな言葉だった。

 それはカレンの呟きに対する答えじゃなかったけど。

 ……そう、あいつは何も残さないようにしてたから。

 いつか振り返った時、振り返ってしまった時、そこに悔いが残らないようにしてたから。

 だから、俺の口からそれを直接言うわけにはいかない。

 例え――。


「……そうですか」


 そう言ったカレンは、俺の視界の端で微笑を浮かべていた。

 満足そうに。

 微かに、頬を赤らめて。

 ……そう、例えそれが――。

 ――果たしてこれは、恩返しになるのか、それとも恩を仇で返したことになるのか。

 どっちになるのかなぁ、などと考えながら、視線は月に注ぎ。

 黄金色に輝く月からは、そこへと続く回廊が降りてくることはなく。

 勿論月が黒く染まることも無く。

 街が死で埋め尽くされるなんてこともなく。

 俺は、そこに少しだけ彼女の面影を見ながら。

 黙ってカレンと二人。

 ただ、月を眺め続けていたのだった。