学校帰り。その人はそこにいた。


 堤防の上で、絵を描いていた。


 海の絵を描いてると思った。


 描いてるのは、サラリーマン風のおじさんだった。


 その日は、雲が少しあったが晴れていた。


 私がその人の絵を見ようとすると、スケッチブックを閉じた。


 それからおじさんは、振り向いて私に言った。


「絵を、見たいかい?」






    スケッチブック






 スケッチブックを持ったおじさんは、私に向かってそう言った。私は美術学校帰り道、いつもの帰路に着こうとしていたときに、犬が歩いていたのを思い出した。それで帰り道を変更して、海岸線に出て歩いたとき、おじさんを見かけた。私の知らないおじさんだった。


「……みせてくれるんですか?」
「恥ずかしげながらも、別に見せてかまわないと思ったのさ。私の絵は、下手だからな」


 おじさんは照れくさそうに笑っていた。どこにでもいるおじさんだった。少し絵を描くのが趣味、そんな感じのおじさん。


「でも、私の絵…というより、スケッチブックの中身を見せるには、少しだけ条件があるんだ」
「…条件、ですか?」


 おじさんの言葉に、私は首をかしげた。スケッチブックを見せるための条件なんて、想像がつかなかった。私の言葉と首をかしげた様子を見たのか、おじさんは笑っている。


「このスケッチブックは、知らない人から譲り受けたものなんだ。だから、知らない人の絵もたくさんある。子供の絵もあるしね。ただ、スケッチブックに書いてあった一文、『絵は渡した人にしか見せないこと』と書いてあった。私はそれを守ってみたいと思う」
「はい」


 相槌を打ちながらも、私は考えていた。スケッチブック。おじさんが持ってるスケッチブックは、おじさんのものじゃない。今はおじさんのものだろうけど、前はおじさんのものじゃなかった。じゃあ、一番最初は誰が持っていたんだろうね。


「だから、私は君が続きを描いてくれると言ってくれたらみせてあげることにするよ。でも…」
「でも?」
「もう少し、待ってくれるかな。私が描いている絵は、まだ完成していないんだ」
「そのくらいなら…何分ぐらいかかりますか?」
「……三分、ぐらいかな。それほど時間をかけるつもりはないよ」


 三分、ぐらい。口の中で反芻させる。三分でどんなものがかけるかといわれたとき、私は……何が描けるだろうか。時計。ティッシュ。ハンカチ。一円玉。どれをとっても三分で描ける自信はなかった。

 じゃあ、おじさんはいったい何を描こうとしているんだろう。描いている途中の何かを描こうとしているのだろうか。それなら私は納得いく。納得いくけれど…想像はできない。私が描いたものではなく、おじさんが描いたものだから。

 短く長い三分は、私にとっても変わる。おなかがすいたときのカップラーメンを待つ時間は長いし、絵を描いているときの時間は短い。そう、私は感じているから。


「…うん。もういいよ。じゃあ、続きをお願いするよ」
「はい……」


 私はスケッチブックを受け取る。閉じたスケッチブック。けれど、私はそれを開く前におじさんを見た。おじさんは立ち上がると、かばんを持った。


「おじさん」
「なんだい?」
「おじさんも、こういう風に知らない人にもらったの?」
「ああ、そうだね。私もこんな風にもらった。相手はやっぱり名乗ってくれなかったよ。少し格好良く思えたほどにね。だから私も真似して、名前は言わないことにするよ」


 おじさんは私の問いにも丁寧に答えてくれた。真似してと言ったときのおじさんは、やっぱり少し照れてる様子だった。だから私も、笑ってみた。おじさんも笑ってたから。


「じゃあ、私は家に帰るとするよ。妻がうるさいからね、最近帰りが遅いから浮気してるんじゃないかって言われ始めたから」
「…おじさんは私の絵を見ていかないの?」


 おじさんの言葉を少しばかり無視するみたいに私は問いかけていた。その言葉を聞いておじさんは、穏やかな笑顔を私に見せていた。


「私の前の人も私の絵は見ていかなかった…それじゃ駄目かい?」


 おじさんが少しだけかっこよかった。似合っていたから。


「それじゃ、君もがんばって。私の役目は終わったから」


 おじさんが手を振ってるのを見ると、私も手を振っていた。おじさんはそのまま、私のほうを見ずに前を向くと、帰っていく。私はそれを見送っていた。

 おじさんが見えなくなってから、私は海のほうを向いてスケッチブックを開いた。一番最初…それも、厚紙の裏に文字が書いてあった。


『描く人以外が見てしまったのならばこれ以上は見ないでください。
 描く人が見たのならば一枚だけ描いて次の人へまわしてください。
 次が最後のページであったときはスケッチブックを渡してほしいといった人に渡してください』


 とても丁寧でしっかりとした文字だった。綺麗な文字で、女の人が書いた文字に見える。けれど、それは。どんな人が書いたものかなんて断定できない。

 私は視線を落とした。その絵は、雪の絵だった。綺麗な雪原と雪が積もった木。お世辞にも上手とはいえないけれど、それでもこの情景が好きだったから書いたと、そんな風な絵だった。今見るには季節外れだけど…それでも綺麗な絵だった。

 私はその絵の次を見ようとして……絵に、文字が書いてあるのに気づいた。


『わたしはこのスケッチブックを男性からもらった。
 一番好きな雪の絵を描かせていただいた。
 次はいったい誰に渡そうか。』


 …描いたのはどんな人なのだろうか。雪の絵を描いたからには、それだけ遠い人なのだろうか。描いた人にあげたのはどんな人なのだろうか。男性……つまり成人男性。それであるのは、確かだと思う。

 次のページを開いた。絵の裏には何も描かれていない。次のページに描かれていたのは…家だった。綺麗な形の和風の家で、デッサンもしっかり整っている。これを描いた人は、絵がとても上手のようだ。バランスも完璧で、風景画としても最高だろうか。

 この絵にも、文字が書いてあった。


『登山家にもらいました。なかなかがっちりとしておりました。
 私は遠くに行くことはできないので、身近な家を描かせていただきました。
 私の次は誰が書いてくれるでしょうか、楽しみで仕方がないです。』


 前描いた人は登山家の人らしい。がっちりしてるからたぶん男の人。登山家の人で雪の絵ということは、山の絵なのだろうか。けれど、この絵を描いた人は……どんな人だろう。病人? 老人? 怪我人? わからないなぁ…

 次の絵を開く。いかにも子供っぽい落書きみたいな絵だった。大きく人が描かれていて、みんな笑っている。手を広げて、子供っぽく。けれどそれが逆に温かみを帯びている。太陽も笑っているから、本当に子供のようだ。

 この絵にも、文字が書いてあった。


『このすけっちぶっくはおじいちゃんにもらいました
 なんでもかいていいっていってくれたからぼくわみんなのえをかきました
 だいすきなせんせいにわたしてあげよかなっておもいました』


 前の人は老人らしい。というよりお爺さんらしい。足関連の不自由なのだろうか。まだ生きているんだろうなって思って。子供の絵は、どうやら男の子が描いたようだった。幼稚園…ぐらいかな、きっと。

 次の絵を開く。外国の絵だった。外国の家が立ち並ぶメインストリート。やはり絵は上手くないが、それでも基本に忠実に描いてある。町を歩く人、街灯、そして家。思い出を描いた絵なのだろうか。私は外国に行ったことがないのでよくわからないけど。

 この絵にも、文字が書いてあった。


『私が担任していた幼稚園で園児にもらったスケッチブックです。
 外国旅行の際に、私はこの絵を描きました。どこかはすぐに調べられると思います。
 約束どおりに、誰かに渡します。』


 やっぱり幼稚園の園児だった。少しだけ笑みがこぼれた。今その園児はどんなことをしているんだろうか。スケッチブックのこと、覚えてくれてたらいいね。その先生は、男か女かはよくわからない。若い人のような感じがする。

 次の絵を開く。広大な草原だった。少し前に知識で見たことがある、遊牧民族がいそうな草原だった。広大な、ただ広大な草原に木が一本だけ。何もないけれど、何でもある。やっぱりこういう場所を見たことはないけれど、この人も上手だ。

 この絵にも、文字が書いてあった。


『It take me for a woman, I got a sketchbook.
 I think I sketch a foreign country`s a grassy plain.
 Next, I take sketchbook for other... Who sketching it?』


 英語ですらすらと綺麗な文字。これを書いた人は…いったい何を思っていたのだろうか。日本人からもらったスケッチブック。外国人でも、それは描いた。言葉の壁を、国の壁を越えて。この人は、描いていた。

 次の絵も。その次も。そのまた次も。たくさんの絵で埋まっていた。英語。英語。英語。日本語。日本語。漢字。漢字。イタリア語。たくさん、たくさんの国々を経由して。そして、最後の絵。あの、おじさんの絵。

 おじさんは、海を書いていた。自然な、海の絵。色は極端に少ないのに、それでも海らしさを残している。それだけじゃない。色を使わずとも色がわかる。そんな不思議な絵だった。


『これは、私の同僚の友達が私に渡してくれたです。
 何を書こうか迷った後、結局毎日見ているものを選ばせていただきました。
 最後の一ページは、年頃の女の子に任せておきたいと思います。』


 年頃の女の子って、私のことなんだろうなぁ。そう思った。次のページには何も描かれていない。本当に最後の一ページ。ここまで続いたたくさんの絵。何を描けばいいのだろう。何を描けば他の人に恥じないしっかりとした絵をかけるのだろうか。絵はかぶらないほうがいいのだろうか。スケッチブックを持ったまま、悩む。

 なぜか知らないけど、ぎゅっとスケッチブックを抱いた。少しだけ力が入って、スケッチブックが曲がる。

 何でだろう。すごい…落ち着くから。

 顔を上げて、帰路に着く。この絵は、誰にも見せられない。学校に持っていって、誰かに見られる可能性があるけれど。家においていったら、お母さんに見られてしまう。持っていくしかない。スケッチブックをかばんの中にしまった。






 家に帰ってから、机に向かった。宿題と、これからの授業の予習をするために。私の勉強机には本も置いてあるけど。そんな中でも、開かれた教科書と書き込み途中のノート、そしてスケッチブック。それがおいてある。

 宿題はやらなきゃ。予習もしなきゃ。何描こうかも決めなきゃ。やることが、たくさんあるなぁ。

 今スケッチブックは閉じたまま。誰かが入ってきても…見られないように。何を描けばいいのかもわからないうちは開けてもしょうがないし。だから私は、宿題をそのままはじめた。集中は、多分できない。それでも、描ける分は描こうと思った。

 もちろん、宿題も書く。予習も書く。そして、絵も描くから。






 学校でも、いつもどおりの日常が待っていた。というよりも、当たり前だった。


「加奈ー、宿題見せてーっ」
「はいはい、いつもどおりだね」


 私はいつもいつも、誰かに宿題見せてる気がするけど。でも、それでもいいと思った。それが普通のことなんじゃないかって、そう思ってるし。だから、それでいいとも思った。うーん、支離滅裂。

 とにかく、私は朝はいろんな話をする。ただ、かばんにはスケッチブックが入っている。そっちには、注意は向けているつもりで。なんでか、そっちを注意したくなるから。

 そういえば、今日は空が曇り空だ。雨が降るかもしれない。傘、持ってこなかったからどうしようかな。他のみんなに入れてもらおうか。うん。それもいい。

 時は過ぎていく。話をしながら、宿題を写しつつ。それぞれのことをしながら。そんな私は、今は話をしながらもかばんに集中している。スケッチブックに、何を描こう。そんなことを、考えながら。






 授業に、手がつかない。かろうじて黒板にかかれたことを書いているだけ。後はずっと、外を眺めていた。外は、もうすぐ雨だけど。ボーっと、してた。

 だから。授業なんて聞いてない。

 ……本当は聞かなきゃいけないんだけど、やっぱり聞いてないから…聞く気が、出ない。考え事していると、他のやることに手がつかないのは本当みたい。

 だから、外を見ていた。

 弁解をするのならば、「授業が集中できないのは、それよりも優先することがあるからです」…うん、絶対に怒られる。たぶん反省文込み。

 それでも私は、集中せずに聞きながら外を見ていた。ときどき、黒板を見て書き足されていたことをノートに書き加えながら。

 何を…描こうかな。

 できるだけ、他の人とかぶらないものがいいな。となると、海はだめ。この辺だと、他に描くものはあまりないかな。木を描こうにもやっぱり描かれてるし……うーん。

 ――気がつけば、ノートの端っこには海と木という文字が。しかも、なぜかバツマークがついている。私はそれを少しだけ眺めてから、消しゴムで消した。思った以上に薄く書いていたので、きれいに消すことができた。

 それから、もう一度黒板を見て。写す。もうすぐ。もうすぐ、授業が終わるなと。そんなこと、思った。





 結局。今日の授業のほとんどは、手がつかなかった。ほとんどというより…全部かもしれない。ただ、自分のためにほとんど、と。ただの自己弁護にしか過ぎないけど。それでも、いいやって。

 日本史の教科書を広げた。たまたま開いた場所は、近松門左衛門の歌舞伎の世界のことが書かれていた。その隣には、狂言や能のことが書いてあった。昔の人は、こうやって形にしていた…ようだ。つまり……そういう形にできる、そんな感じ。

 ……真似、できないなぁ。ちょうどそう思ったそのとき。


「カーナ、帰らないのー?」
「…あ、うん。今帰る」


 日本史の教科書を閉じて、机の中に。それから、私は筆箱を手に取った。それから、筆箱を入れようとした。

 ――私は固まった。友達が。スケッチブックを手に取っていた。


「ダメっ!」


 多分、叫んでた。とにかく大声で言いながら、私は奪うようにスケッチブックをひったくる。


「っ!? えっ、あっごめんっ」
「……ごめん。これ、誰にも見せたくないの」


 筆箱をかばんにしまって、持ち上げる。私はスケッチブックを、左手で抱きかかえていた。言ってから、すごい気まずい雰囲気が教室を支配してた。私は言い出すタイミングがわからなかった。言い出せなかった。何も言えなかった。外の雨の音が、とても大きく聞こえた。なんだか、泣きたくなってきた。でも、自分が悪いと思ってるから。泣けない。


「…先、帰るね……」
「あっ、加奈!?」


 私は走った。耐えられなかったから。本当は、仲直りしたかったけど。理由を話しておけばよかったのに。体は言うことを聞いてくれなかった。走った。

 気がつけば下駄箱にいた。私は靴を履いて、一歩外に出た。このまま出たら、スケッチブックがぬれてしまう。けど、このままいたら…来るから。かばんにスケッチブックをしまってから。

 私は外を走った。

 ――私の心に、嘘をつきながら。小さな、でも大きな。嘘を。


「雨なんて……嫌いだっ!」


 走る。走る。


「雨が降るから、冷たくて痛いからっ!」

「すごく、悲しくなるからっ!」

「心も沈むからっ!」

「学校も、勝手に見る友人も、嫌いだっ!」

「家にも帰りたくないっ!」

「もう、誰もみたく――」


  バッシャァァァ!


 私は何も見えてなかった。だから、転んだ。痛い。痛い。すりむいたし、血が出たし。でも。痛いのは。


「……」


 そこに座り込んで。私は空を見上げた。ぬれても、ぬれても。何も、感じなかった。痛いのは。体なんかじゃなくて。

 ――真っ黒な心の痛みなんじゃ、ないかって。

 ――嘘を重ねた、自分なんじゃないかって。

 ――でも。嘘じゃない。


「…本当に嫌いなのは……こんな風になる、自分…なんだろうなぁ」


 立ち上がる。目をこすって。正面を見て。私は心に決める。明日は。まず、謝ろうって。それから、全部考えよう。それから、私は振り向いた。

 一つの公園があった。すごい、些細な。公園。ごく普通の公園。

 私はかばんを持つと、吸い込まれるように歩みを向けた。





 雨をしのげる場所があった。そこは、ベンチがあった。だから、とりあえず座った。雨はまだ、やみそうにない。やみそうにないけど。しばらくは、降ってていいって思った。けれど、すりむいた足は痛みを訴えていた。訴えていたけど、無視した。

 自分の心を欺いて生きることが、こんなにつらいなんて。思わなかった。だから。とはいっても、今はどうしようもない。帰ったら、怒られるんだろうなぁ。制服だって、すごく汚れたし。怪我もしたし。ただ、詳しいことは親には言わないでおこうっと。

 私は目を閉じた。雨の音。葉の音。聞こえる。私の呼吸や、心臓の音も。たくさんの音がする。たくさん、まるで自然のオーケストラ。

 なんだか、痛みをあまり感じなくなってきた。なんだか、少しだけ楽しく思えてきた。私が描きたく思った風景を目の前にして、絵を描いてるみたいに。なんだか、楽しく。楽しく、思えて。


「どんなときも、どんなときも、僕は僕らしくあるために」


 なぜか、歌っていた。目を閉じて。目を閉じたまま。歌いたかったから。


「好きなものは好きと、言えるきもち抱きしめてたい」


 音楽の授業でやった、とても些細な歌だけど。


「どんなときも、どんなときも、迷い探し続ける日々が」


 私は好きだから。嘘じゃなくて、好きだから。


「答えになること僕は知ってるから」


 歌が、絵にできればいいのにな。そうすれば、私は困ることもなかったのかもしれないな。私は目を開けた。

 ――私の目の前に、人がいた。


「……あの」
「こんにちは。どうも」


 男の人だった。大人の人。私より十ぐらいは年上だと思った。けど、重要なのはそこじゃない。


「……あの、聞いてました?」
「そうだね。懐かしい曲だったから、つい」


 恥ずかしかった。とにかく、恥ずかしかった。顔が熱くなった気がした。


「その…」
「なかなか上手だったよ。どうやら、あまり聞かれたくなかった……みたいだね。こっそり聞いてて、ごめんね。僕は悪気があったわけじゃないから」
「いっ、いえっ、そのっ」


 大慌てだった。とにかく大慌てで。というか、ちゃんとしゃべれてなかった。


「どうして、ここに? 雨宿り?」
「ひゃいっ」
「……どうしてそんなに緊張してるかわからないね…恥ずかしかった?」
「…とても」
「それは困った……けど、仕方ないか」


 男の人は、少しだけ困ったそぶりを見せていた。とにかく、私は会話だけでもちゃんとしようとして。


「あのっ、どうしてここに」
「……?」


 なんだか、当たり前のことを聞いてしまった。でも。


「んー…スケッチブック、探しに」
「え?」
「五年前のなくしものなんだ。多分、誰かに渡したと思うんだけどね。四年待っても見つからなくてさ。それで、探し始めたんだ。やっぱり、日本国内にあるとは思ってたから、まずはこの近くって」


 私は大事な欠片を思い出した。かばんを開いた。スケッチブックが、教科書に挟まれていた。教科書は少しぬれていたけれど、スケッチブックは奇跡的にぬれてなかった。私はそれを取り出す。


「…あの」
「……あら。そんなとこなんだ」


 すごいびっくりしてた。けど。


「……スケッチブック、中は見たの?」
「はい」
「じゃあ…描いた?」
「…まだです」
「そっか……その。なんだ。一つ、お願いいいかな」


 私はそのお願いがなんなのかがわかった。言われなくても、わかった。


「お願い、まだ聞けないです。まだ、描いてないんですから。描いたら…じゃ、ダメですか?」
「それはいいんだけど…あんまり急がないしね。じゃあ、僕は帰るよ」


 筆箱を手に取った。


「代わりに、私のお願い聞いてください」
「……? 僕ができることなら」


 かばんを、膝の上に乗せた。私は大きく息を吸い込んで、息を吐いて。もう一度息を吸い込んで。


「最後の絵。描きたいものが決まりました。名前も知らないですけど、あなたを描かせてください」

「……僕でいいのなら」


 スケッチブックを開く。それは、最後のページ。これが、スケッチブックの最後の絵。これから私が描く、最後の絵。ううん。スケッチブックは……まだ、終わらないかもしれないけど。それでもいい。きっと、持ち主が大事にしてくれるのなら。それでいいって。





「でも、どうしてスケッチブックを?」


 私は描きながら、ゆっくりと描きながら男の人に問いかけた。


「…僕には、姉さんがいる。少し前……というか、結構前から入院生活を続けてる。んで、姉さんが外の風景を見たいって言ったからさ。カメラじゃあれだし、何より遠出もできない。だから、スケッチブックに代わりに遠出してもらったわけだ」
「……そうなんですか」
「ただ、僕はそのスケッチブックの中身を見ようとは思ってないし…姉さんに渡してから、姉さんが見せてくれたら見ようかなと思ってるけど」
「でも、どうして他の人には見せないようにって書いたんですか?」
「それは、単純。同じ絵とか同じ場所の絵で固まっちゃうかもしれないから。知り合いに見せたら、どうしても同じような絵になってしまう。だったら、接点は少ないほうがいいかなってね。……変かな」
「わかんないですけど…その、悪くはないと思います」


 話している。知らない人と。でも、それでもいいと思った。


「…そういえば。こっちも一つ質問いいかな」
「はい」
「見たところ学校の制服みたいだけど、どうしてそんなに汚れてるのかな? それに、足も怪我してるし」
「……その…転びました」
「……ということは、相当あせってたのかな?」
「…友達と喧嘩したんです……自分が悪いのに」
「じゃあ、仲直りは…できるね」
「そう、ですね……向こうが仲直りしたがってたら、できると思います。明日、会ったら謝ろうと思ってます」
「なら、いいね」


 たわいもない話。そんな話をしながら、私は絵を描いていく。少しずつ、描きあげていく。


「同じ絵を描こうとは思わないんですけど…もし、私が同じ絵を描いてたらどうしますか?」
「…それは、まぁいいんじゃないかな。僕はわからないけど、描いた人が違うのなら微妙に絵が違うとは思うし。ただ、それが三つも四つも連なるのはよくないんじゃないかな」
「そう、ですか…カメラだと、同じ風景にしか見えませんからね」
「そういうことだね」


 だから。今は、それに集中していたい。集中するというよりも……私ができることを、できる分だけしてみたいから。





「……ふぅ。少し、時間かかりました」
「それぐらいは覚悟してたよ」


 男の人は、私の声とともに立ち上がる。私は最後の言葉を付け加えることにして。もう一度、鉛筆を握り締めた。


『サラリーマンのおじさんが、笑いながら渡してくれました
 このスケッチブックの最後の受け取り主である、この人を描かせてもらいました
 私たちの思いを、この人に託してみます』


 スケッチブックを閉じた。それから、それを差し出した。少しだけ、名残惜しいけど。でも、これが一番いいだろうなって思って。私はそれを渡す。

 受け取ってもらえたそのときに。私はもう一度、大きく息を吸い込んだ。


「ありがとうございました」
「どういたしまして」


 それから、立ち上がる。かばんを抱いて。不思議と、雨はやんでいた。

 向こう、はるか向こうの空に見える虹。雨上がりに、綺麗にうつっていた。私は一つ伸びをしてから、一歩踏み出した。


「そういえば、お願い…言ってなかったね」


 私は足を止めた。それから、振り向いた。


「……お願い。言わなくたってわかりますから。スケッチブックに絵を描き終わったら、くれないか…じゃないでしょうか?」
「まぁ、そうなんだけど…」
「それに、私は…できることはしましたから」
「……僕の姉さんのこと、聞かないんだね」

「――だって、何も聞かないで次の人に渡す。そっちのほうが、かっこいいじゃないですか」


 私は、精一杯笑顔を浮かべた。


「それじゃ。私は、帰ります」
「……ありがとう」


 改めて歩き出した。青い青い、綺麗な空を上に。雨上がりの地面を下に。私の家を前に。公園を後ろに。最後に振り向きたかったけど、振り向かないまま。振り向いたら、かっこ悪いかなって思うから。そんな、そんなつまらない理由でも。私は、振り向かないで歩いていけるから。

 スケッチブックは、私の手を離れた。





 私はいつもよりも早く学校に来た。昨日決めたことをいち早く実行するために。

 その相手は、思ったよりも早く来た。私と目が合った瞬間に、私は頭を下げた。


  ごんっ!


 机に頭をぶつけた。痛かった。つい頭を抑えてしゃがみこむ。


「ちょっ、加奈!? 頭大丈夫!? すごい音したよっ!」
「うっ…少し痛いじゃなくて、かなり痛いかも……」


 机を見た。ぶつけた場所は多分、角。じゃないとこんなに痛くない…と思う。


「……えと、昨日はごめんね。なんというか、あれ、大事なものだったから」
「え? あ、その件はこっちもごめん。今度からそれっぽいのは了解とるよ」
「とはいっても、もうそうそうないと思うけど…あのスケッチブック、なくしちゃったから」
「えー」
「なにそれ」


 笑いながら、私たちは話す。


「とにかく、昨日のはこれで終わりっ」
「じゃ早速、宿題写させてっ」
「…わかったよもう」


 笑った。笑って。いつもの、いつもの日々になった。微妙なすれ違いはなんとか、解消した。

 外を二人で見た。綺麗な、綺麗な虹がそこにはあった。だから。


「……あ、宿題忘れた」
「マジですか」


 もっと、たくさん絵を描こう。もっと上手になろう。それから、私は。たくさんの思い出を描こう。

 今はまだ、スタート地点なのかも知れないから。私は。

 自分に嘘をつかないような生き方をしようって。

 もう一度、歩き出そうと思う。

 だから。私は、大きく手を振り上げた。


  がんっ!


「――いたーっ!?」
「またかよっ!」