彼女はごく普通に勉強が出来て、ごく普通にスポーツも出来て、ごく普通に容姿が良く、ごく普通に祖父が学園の理事長というだけのごく普通の女の子だったのです。

 しかし、ただ一つだけ違っていた事、それは……。





「彼女は、幼馴染だったのです!」





「……何馬鹿な事を言ってるんだキミは」
















COOL FOOL















 日本のとある県にある二条学園。その放送室の一角。

 真壁直は、後ろから響く冷たい声に弁解しようと振り返った。


「ほら、何か新しい事とかしたいと思ってさ」


 あっはっはと笑って誤魔化そうとしている直。

 そこに居た少女――二条律は、軽く溜息をこぼす。


「……はぁ。付き合いは短くない事だし、キミの奇行にも多少は慣れたが……全く」


 律はくるりと踵を返すと、傍にあった椅子に座る。


「新年度早々、仕事を増やす真似はよしてくれよ副会長。ただでさえ、今の時期はこれから一年の事で忙しいんだ」

「分かってるよ二条。これでも色々考えてるんだから」


 ふふんと得意気に一言。


「ある程度落ち着いてから騒ぐ事にするって」

「本っ当にキミは馬鹿だな」










 そんな風に二人がじゃれていると、放送室の入り口の方からクスクスという忍び笑いと、あっはっはと思い切り笑っている二つの声が聞こえてきた。


「三年生になっても、りっちゃんも直さんも相変わらずですね」

「進歩が無いって言う方が正しいんじゃないか。主に直が」

「良ー、今日はエイプリルフールじゃないぞー」

「嘘じゃねぇよ」

「どちらかと言えば直さんがフールと言いますか」

「ふむ。言いえて妙というものだな、晴」

「姐さんひどっ」


 クスクスと笑っていた、晴と呼ばれた女の子は樋上晴という。律と同じ生徒会役員で、は小学校高学年からの付き合いになる。いつも笑顔を絶やさないが、反面、怒る時はかなり激しく、のんびりした声が一転、かなりドスの効いた声になる。しかし、怒っている時も笑顔のままなので、怒られている方はそのギャップで余計に怖くなるらしい。

 世話焼きな性格と頼りにされている事から『何ていうか……姐さんって感じだよな』とは直の談。しかしその発言の直後に晴の声色が変わり、笑顔のまま名前を呼ばれた直はダッシュで逃げた。しかし、姐さんという呼び名はそのまま定着してしまった。直の中では、だが。

 そして、直に相槌を打った男は相楽良。同じく生徒会役員。髪は長く茶髪で、見た目は遊んでいる感じを受けるが、実際は子供の頃の初恋の相手を未だに追い求めているという、根は一途な男。直とは所謂悪友という存在だ。










 さて、生徒会役員である彼らが何故放送室に居るのか。それは四月という今の時期に理由が存在する。

 三年生である彼らが選出されたのは前年度であり、今年の二・三年生はともかく、一年生は当然彼らの顔を知らない。入学式の時に少し見た程度であろう。

 早目に顔を見せておくに越した事は無いという事になったのだが、普通に全校集会で顔見せをしようという律に対して、それだけの為に全校集会はどうかと直が反対意見を出した。


「自分が下で聞く立場だった時、真面目に聞いてた例が無かったからな……」


 実際、そういった挨拶をどれくらいの人がきちんと聞いてくれているのか分かったものじゃない。直は経験からそう感じている為、聞いてもらえる方法を考えた方が良いと言ったのだ。

 他の生徒会役員も直の言葉に頷き、律自身もそれなりに思っていた事ではある。ならば他の方法を考えよう、という事になった。

 さて、どんな代替案があるだろうか……と相談していたところ、晴から意見が出た。


「お昼の放送を使うというのはどうでしょう?」

「放送、か……確かにいつもと違う事をやってると、何となく聞いちまうな。まあ、俺は聞かせる方だけどさ」


 放送部部長でもある良が相槌を打つ。


「それじゃ、昼の放送を使うって事でいいか、二条?」

「そうだな……良いと思う。他に全校に確実に伝わる方法は無いだろう」

「よし。それじゃ良、いつものアレの枠を少し貸してもらう事になるから話通しておいてくれ」

「ん、オッケー」


 いつものアレとは、昼の休み時間に、各教室にあるテレビから放送部が流す番組の事である。

 音楽を流したり、学園内の有名な人をゲストとして招いて話をしたり、優秀な成績を収めた部活を紹介したりと、内容は多岐に渡っている。この番組から学園内で一躍時の人となった人物もおり、生徒からの反応は概ね良好だ。

 ただ一つ、理事長の付けた名前以外は。

「NIJO☆FMか……。しっかし何度聞いても頭が痛くなるネーミングだぜ。今でこそもう慣れたが、始めは恥ずかしくて仕方なかったからな、あれ。何とかならないもんか」

「理事長が名付け親だからしょうがないさ。しかしまあ、相変わらずファンキーなじーさんだ」


 そもそも何でテレビなのにラジオっぽい名前なんだと愚痴をこぼす良。

 あのじーさんの行動は読めねぇよ……傍から見てる分には面白いで済むんだけどな、と直も苦笑する。

 直がそうこぼす事には理由がある。

 直は、ある用事によって理事長室に入った事がある。そこには歴代の理事長の写真が飾ってあった。それ自体は別に珍しい物ではないのだが、一番新しい写真――今の理事長の写真は、何故か理事長がボクシンググローブを嵌めてファイトポーズをとっているものだった。しかも、写真にはマジックで書かれたらしい吹き出しがあり、中に『OK牧場』と書いてあった。

 また、別の用事で入った時には、吹き出しの中が『ちょっちゅねー』となっていた。理事長の何かを期待するような目に、意地でも反応してやるものか、と直は思った。


 次行った時は、あそこに余所見をしている写真が入ってるんじゃないか。もしかしたらプロレスかもしれない。『元気ですかー!』とか書いてあったら今度こそ耐えられないぞ。っていうか何で俺はこんな事を真剣に考えているんだ。

 その日の直は、そんな事を悩みながら帰ったのだった。


 それ以外にも、学校祭や体育祭等のイベントがある毎に理事長は何かやらかして行く。ちなみに今年の入学式では、理事長挨拶の時に『ワシが二条学園理事長二条豪である!』と大声で一言だけ言って台上から去った。

 理事長が去った後の、新入生の唖然とした顔が直には印象的だった。ああ、俺らも二年前もああだったんだな……と。そして多分理事長は昨日あの漫画を読んだんだろうな、と……。
 
 
 
 
 










「まあ、ネーミングの件は会長に任せるとして」

「何故私が」

「ぶっつけ本番って訳にも行かないだろ。明日にでも、リハらしきものをした方が良いんじゃないかって思うんだけどな」


 不満そうな顔をする生徒会長を軽くスルーし、話を進める副会長。


「うん、それは確かにそうだ。全校集会等で生徒の前で喋る事とはまた違うだろうしな。しかし、何故私が放送部の番組の事を任されなきゃいけないんだ、副会長?」

「理事長、二条には甘いから。それはもう干し柿の如く」

「確かに理事長はりっちゃんには甘いですわね。その比喩はどうかと思いますが」

「俺や直と話す時とは明らかに態度違ったからな。ちなみに俺は干し柿好きだぞ」

「干し柿はともかく、否定は出来ないな。厚意は有難いと思う。しかし私も過保護だとは思っているんだ」


 律の顔が曇ってしまう。

 直は感じた。ああ、これ以上この話を続けない方がいいな、と。律と付き合いの長い晴も同様の事を感じたようだ。良に話を振った。


「しかし良さん、番組名は変えてはいけないものなのですか?」

「そうしたいところだけど、それがそういう訳にも行かねぇんだ。あの番組の放送を許可する条件が『番組名は理事長が決める』だったからさ。その返事が来た時は楽な条件で良いと思ってたんたけど……なぁ。あの名前が理事長から発表された時の部長の顔が今でも忘れられん。ああ、今は俺が部長だから前部長だな」

「ふむ……まあ、相楽君の言う事も最もだとは思うし、副会長が言う様に私が話を通しておいても構わない……しかし」


 律は何かを思い出す様に、目を閉じ、ため息を吐くと、良に言った。


「私の経験とお爺様の普段の言動を考えると、今より凄い名前になる可能性もあると思うが」

「……嫌な未来予想図だ」


 眉間に皺が寄り、在り得る……と呟く良。


「しかも実現する可能性が高い辺りが救い様の無いところだな、良」

「どうする、相楽君?」


 あのじーさんの事だから、どこかから訴えられかねない名前を付けそうだ。じーさんの名前は豪だから……『GO!SHOW!HAH!』とか。今ですら恥しいのに、これ以上の名前は洒落にならん。むしろ洒落で名前を付けられかねないし……あーもー!

 たっぷり一秒間葛藤し、項垂れる。


「……NIJO☆FMのままでいいよ」


 無言のまま、良の肩を叩き慰める直。結局その日の会議は、良が失意に沈んだまま終わった。





























 次の日、放送室のリハ兼大騒ぎの後、四人は会議もそこそこに街へ繰り出した。

 評判の喫茶店がある、という情報をもたらした晴を先頭に進む。


「しかし暑いな……」

「そうですね……電車にすれば良かったでしょうか」


 律が空を見上げれば、そこには燦々と輝く太陽。段々と人が多くなってきた周囲を見ればほとんどが半袖だ。暦は五月だが、今日に限ればもう夏と言ってもおかしくは思わないだろう。その中を、彼女達はもう三十分近く歩いている。

 一駅ですから、近いと思ったんですが。

 申し訳無さそうな晴を見て、気にする事は無い、と慰める律。

 はい。と笑顔になる晴。

 そして、今の話題が聞こえていたらしき直が後ろから爆弾を落とした。



 良いダイエットになるじゃないか姐さん、と。



 面白い事言いますねぇと、笑いながら直の頚動脈を締めにかかる晴。

 本当にキミは馬鹿だなと嘆く律。

 こいつの頭のどこを叩けば良くなるだろうと真剣に悩む良。

 二の腕が揺れるぞ姐さん、と、酸欠状態の青白い顔で置いた爆弾に火を点ける直。


 渇いた笑い、そして『姐さんギブ、ギブだってそれ以上はヤバいからマジで!』という声が響く街中で、何時の間にか、感じていた暑さも忘れて騒ぎながら目的地に向かう四人だった。










 騒ぎから十分も経った頃だろうか、再び暇を持て余したらしい直が、妙な口調で晴に話し始めた。


「それで姐さん、随分遠くまで来やしたが、その喫茶店とやらはどこにあるんで?」

「もう直ぐですよ。それと、いきなり妙な喋り方しないで下さい。周りの人に妙な目で見られるじゃないですか」

「俺より強い人に付いて行くと決めたんですぜ姐さん。それと首を締める女性も大層妙なモノだと思いますが」

「……あ、見えてきましたよ」

「スルーしないでくだせぇ」

「これは……ショッピングモールみたいなものかな、晴ちゃん」

「ええ、そうですよ。ブリックモールと言います。半年ほど前に出来たのですが、機会が無くて来れなかったんですよ」


 電車に乗らないと来れない場所ですしね、と言いながら、直に対しては完全スルー体勢の晴。律を連れて先に行ってしまった。

 一方直は諦めてはいない様子で、二人の後を付いて行く。

 良は思った。


 多分晴ちゃんが根負けするんだろうなぁ。血の雨が降らなきゃいいけど。
















 晴と律はてこてこと歩きながら雑談し、直は徹底的にスルーされ、良は遠巻きにそれを見つめながら、食べ物関係の店が並ぶフードコートへ向かう。話題が途切れる頃、先導していた晴が立ち止まった。


「着きましたよ」

「ここが目的地ですかい。しかし姐さん、目の前に喫茶店が二つありやすが、どっちに行きゃ良いんで?」

「…………」

「どうかしやしたか?」

「直さん……」

「ようやく反応してくれやしたか。何ぞ御用ですか姐さん」

「……いい加減にしないと怒りますわよコラ」

「うおっ」

「おお、本気モード。そろそろ本当に止めとけよ、直」

「真壁君、ガタガタ震えてないで謝っておきなさい。君が悪い」


 そう思うなら律ちゃんも止めればいいのに、と内心思いながらおくびにも出さず、遠く離れて被害を受けないように逃げる良。

 直は、奴は後で蹴飛ばすと思いながら律の言葉に頷くと、晴の前へ行き、どこから出したのか、定規を左手の小指に当てながら言った。


「……あっしの指で詫びとさせてくだ」


どすっ。


「うわ痛そう。大丈夫かあいつ……あーあー床を転げまわってら……」

「肝臓に一撃か……晴は手加減というものを知らないからな」

「直は馬鹿さ加減を知るべきだな」

「ぬおおおおお」

「つまらぬものを殴ってしまいましたわ……」


 左手を見て何かを呟く少女と、何故か定規で床を叩きながら悶絶している少年。騒がしいフードコートの中でも、彼らは目立っていた。















 先ほどまで騒がしかったフードコートは、今は落ち着きを取り戻し、この場所に勤めている人ならいつも通りと言うであろう騒がしさに戻っていた。


「で、どっちに行くんだ?」


 良が尋ねる。ちなみに、直はトイレに行っていて、ここには居ない。


「迷いますね……両方とも評判は良い店ですし。どちらを選んでも、もう片方が気になってしまいそう」

「二手に分かれるのはどうだ?」


 それぞれがテイクアウトすれば、行かなかった方の味も楽しめるし、と良が言う。

 片方だけという考え方は彼らには無い。今度何時来れるのか、分からないからだ。雰囲気は元より、味も評判の店。出来る事なら両方味わいたいと思うのが人情と言うものであろう。

 しかし律は不思議に思っていた。言いたい事は分かる。自分も甘い物は人並みに好きであるし、納得出来る話だ。しかし。


「相楽君、それは別に二手に分かれる理由が無いのではないか? テイクアウトだけ、という事も出来るみたいだが」

「うっ」

 そう。二手に分かれる理由が無いのだ。確かに二軒続けて行くのは辛いし、向かいの店のケーキを持ってもう片方の店に行ける程に、彼らの神経が図太い訳ではない。しかし、わざわざ二手に分かれてまで、今日両方に行く理由があるのだろうか、と思ったのだ。

 その事を律が尋ねると、


「そこはほら……ちょっと男同士の内緒話がしたくて」


 良が目線を逸らしながら答えた。すると、その答えが何かのスイッチを入れたのか、晴の目が光った。


「……もしかしてボーイズラヴというものですか!? きゃー、初めて見ましたわ!」

「そ、そうなのか!? 正直衆道には賛成しかねるのだが……その……どちらが攻めだ?」

「や……ま…………ちょ」


 大声でとんでもない事を言い出す二人に良は固まってしまい声が出せない良。

 そんな良を尻目に、女性陣は更にヒートアップ。晴は目を爛々と輝かせ騒ぎ、律は顔を背けながら横目でチラチラと良を窺う。晴が律に耳打ちすると、律は顔を赤くさせ、良と直が去っていった方を見比べる。


 声を掛けられずに立ち尽くす良。


 一体、彼女達の中で、俺達はどうなっているんだろう。さっきから聞こえてくる言葉が、『あそこ』だの『あれ』だの『入れる』だの、とても不穏な単語が多く、怖くて仕方が無い。


 一分ほど経っただろうか、どうやら話が一段落したらしく、二人は良に近付き、晴はその手を掴み、律は見上げながら言った。


「世間の風に負けないで下さいね」

「人を好きという事は悪い事じゃないぞ、うん」

「…………」


 良は心の底から叫んだ。


「俺はノーマルだー!」

















 一方、途中で帰って来ていた直は、晴と律から事情を聞き一言。


「良くん……直、初めてだから優しくしてね……」

「やかましい!」




















 結局二手に分かれる事にした四人。直と良の男コンビは、四人が居た場所から向かって左手にある喫茶店に入る事にした。

 その店は、驚異的な安さと、その安さからは考えられない美味しさのケーキが評判の店だ。混む時間帯には、座る場所を探すのにも苦労するらしい。

 しかし今の時間は比較的空いていたらしく、直と良は直ぐに席に着く事が出来た。窓際の席で、向かいの店も見渡せる。

 向かいの店に入る律と晴を見ながら、直と良は席に着いた。その際、後ろの席からヒソヒソと声が聞こえた事は気にしない。


「良くん、何頼みますか……?」

「やめろっつーの、全く」

「ちぇ」

「お前は悪ノリし過ぎだ。それはともかく、何を頼むかな。ここのオムライスも評判らしいんだけど、今食べると夕飯食えなくなるから、まあ普通のショートケーキで良いか」

「それじゃ、俺も同じでいいや」


 飲み物は紅茶でいいよな。そう言いながら、直は髪をリボンで結んだツインテールのウェイトレスを呼んだ。

 そしてショートケーキと紅茶を二つ注文する。ウェイトレスが下がった後、良の後ろの席から『お揃いよお揃い』と聞こえて来た事は気にしない。


「気にしないんだってば」

「ん? 何か言ったか?」

「いや、何でも」

「そっか」


 暫くの無言の後、直は水を飲み、口を湿らせると、話を切り出した。良の表情に何かを見たのだろう。その顔に、先ほどまでのおちゃらけた顔は無い。


「で、何で二手に分かれたんだ?」

「お前にだけ話したいというよりは、女の子達に……というか、律ちゃんに聞かせたくない話というか」


 無言で話を促す直。良は言い辛そうにするが、少し考えた後口を開いた。


「なぁ……律ちゃんは諦めた方が良いんじゃないか?」

「……やっぱりバレバレ?」

「気付いてないのは本人くらいだろ。お前の気持ちも、自分が相当分かりやすいんだって事も」


 直の表情を窺う良。直は心の中で、それが本題か……変わらない表情のまま視線を返す。


「……ある状況の時、いつもは表情があまり変わらないあの顔に、あからさまな表情を見る事が出来る」


 気付いていた。傷付いていた。


「――それも、良い表情じゃないって事を言いたいんだろ」




















 それは昨日の会議が終わる頃の事。



「とりあえず」


 律が手をパンパンと叩き三人の注目を集める。


「それじゃ明日の……そうだな、放課後に放送室で軽いリハーサルという事にしよう」

「ん」


 直は即答。しかし良が手を挙げる。

「あ、俺少し遅れる。放送部で、次の企画の打ち合わせがあるから」

「私も遅れます。少し相談事を頼まれていまして」

「それじゃ、俺と二条は先に行っていればいいな」


 少し、間が空く。


「……ああ、分かった」

「…………」


 律が見せた、微かな憂いの表情と少しだけ固い声に、直が気付かない訳は無かった。何故なら、その言動は律が困った時に見せるものであり、律と直が二人だけになってしまう時に、律がその顔と声に良く表れるものであったからだ。
 
 何故律の顔が曇るのか? それは直には分からない。律が見せる表情は嫌そうな顔ではなく、辛そうな顔だったように見えていた。だから、嫌われている訳ではないはずだ。少なくとも直はそう信じたかった。自分が抱いている思いの為にも。

 ならばどうして……と、今まで思った事が無かった訳ではない。しかし、直にはその事を問いただす勇気がどうしても出なかった。

 状況を考えれば、彼女の負の感情が生まれる理由に、自分が関わっている事は間違い無い。そう考えると、自分が問う事は、律を苦しめる事になるのではないか。そんな事はしたくない。しかし、このままでは前に進む事も出来ない。昨年度、前生徒会からの引継ぎをしている時から、直はずっと悩んでいた。

 それは、今も続いている悩みだ。




















 良は、はぁ、と溜息。


「何でそれを分かってて、それでも……なんだ?」

「好きになっちまったから、だよ」




















 しかし、そんな風に闇の中で思考が空回りしている時でも、光は射してくれる。それは普段通りの、けれど少しだけ気遣うような声。


「どうした、真壁君。どこか具合でも悪いのか? もう会議も終わるし、保健室に行った方が良いんじゃないか?」


 見上げると、普段はほとんど表情が出ない顔に、かすかに浮かぶ心配という感情。


律は感情が表にあまり出ない分、出た表情は心情と直結している。だから、さっき辛そうな顔をしたのは、間違いなく彼女の感情に従って出たもの。その原因を生み出しているであろう自分に対して、彼女は本当に心配しているという事が、直には良く分かっている。


こういう人だから、諦められないんだよな……。


「ん、大丈夫大丈夫。この後何しようか考えてただけだよ。みんなでどっか行こうかな、とかね」


とりあえず、今この人の為に出来る事を。俺に出来る……いつも通りで居る事。いつか踏み込まなきゃいけないけど。


「そうか……ならいい」


今はまだ、この淡い笑顔を見ていたいと、直は思った。




















 律の態度で悩んで、律の態度に喜んで。

 まるでアメとムチみたいだな。そんな事を考えつつ。


「小さな理由はいくつだって思いつくけど、これってのは無ぇな。変か?」

「いや、至極真っ当だと思うけどよ。うーん……そもそも何で律ちゃんなのかが分からないんだよな。良いコだってのは俺も分かってるけど」


 良とて、人を好きになる事に特別な理由は要らないという事を感じている。自分も、幼い頃の想いをずっと胸に抱き続けているのだ。しかし、自分を嫌っているかもしれない人に対して、想いを保ち続ける事は凄くエネルギーが要る事だと良は思っている。

 不思議なのだ。直のその想いの源泉は一体どこから来ているのか。幼馴染らしいという事は聞いたが、その事に何か関係あるのかだろうか?

 良の話を一通り聞いた直は、はははと笑う。


「特にドラマチックな事はねえさ。幼馴染ったって、家は近所だったけどほとんど交流は無かったし。まあ、それで幼馴染って言うのかは分からんけど。そんな状態ではあったが、クラス数が少なかったせいか、良く同じクラスになったから名前は知ってた」


 直は目を閉じると、語りだした。










 二条の事は、高校に入るまでは本当に名前を知ってる程度だったんだよ。

 一年で同じクラスになった時、『ああ、こいつも同じ高校だったんだ』って。その程度の認識でしかなかった。今と同じで、あまり表情なくてさ。

 姐さんが良く笑ってたから、余計に無表情に見えたんだろうな。多分これまでと同じ、これからも同じような存在だろうってぼんやりと思ってた。

 気になるきっかけは本当に小さな事だったんだよ。

 ある時……二年前の梅雨の頃、しとしとと雨が降っていた日だったかな?

 俺と二条は家が近いから、時々見かけるんだけど、その日、道端に仔猫が捨てられていたんだ。みぃみぃ鳴いててな。俺の家族は全員動物好きで、捨て猫や捨て犬を見ると放って置けなくなるタチらしくて、そういう風に連れてきた動物がたくさん居た。

 勿論全部飼える訳じゃないから、飼い主を探すまでの間だけだけど。

 っと、話が逸れたな。そんな家族だし、俺も似た様な事やってたから、一旦家に帰って荷物を置いてから来ようと思ってたんだよ。それで、急いで家に帰って荷物置いて、傘とタオル持って戻ったんだ。そしたら、仔猫の前に女の子が座ってた。









「それが……」

「ああ、二条だった。本当に驚いたよ、あの時は……こう言っちゃ何だが、二条って女の子と目の前に居た女の子が結びつかなかった」


 ホント失礼な話だよな、と直が苦笑する。










 俺は、二条がそういう事するなんて思ってもいなかったんだ。けど、流石に顔を間違える程目は悪くないからな。

 それはともかく、二条は傘を仔猫の方に傾けながら、そうだな……十分くらいは座ってたと思う。その間、二条は凄く悩んでた。傍目に見ても分かるくらいにな。

 考え込んで、仔猫が鳴く度にハッとして仔猫を撫でながらまた考え込んで。結局飼わない事にしたのか、何かを振り払う様に立ち去った。いや、立ち去ろうとしたんだ。

 そしたら、仔猫がまたみぃって鳴いたんだよ。そのまま行けばいいものを、つい二条は振り返ってしまった。

 もう後はどうしようもない。仔猫の濡れた体を抱き、言ったんだ。『おまえは私なんかが飼い主で良いの?』って。仔猫が答える様にみぃって鳴くと、二条は『そう』って言いながら笑って、本当にかすかに笑って、仔猫を連れて行ったんだ。

 それから、気が付いたら二条の事を目で追ってた。仔猫を連れて行く時の笑顔がずっと頭に残ってた。仔猫に問いかけた時の、自嘲の様な声が気になってた。今まで見えてなかった二条の感情が見えるようになってきた。気が付くと、いつも二条の事を考えてた。

 いつの間にか、好きになっていた。


「これがきっかけ。ドラマチックって訳でもない。特別な理由がある訳でも無い。ありふれててつまらない、でも俺だけの特別なモノだから。そう簡単に諦められる物じゃねーよ」


 今になって恥ずかしくなってきたのか、直は横を向いて少し早口でまくし立てる。

 赤くなっている顔に、少しばかりの微笑ましさを感じながら、良は直の話を自分の中で消化する。


「言いたい事は分かったし、お前の気持ちの強さも分かった。余計なお世話だったな。しかしまあ……」

「何だ?」

「……いや、何でも無い」


 と言いつつ、良は心の中で呟く。

 こいつは、頑張らなくてもいいのに頑張る馬鹿だからな……頑張れなくなった時には背中蹴り飛ばしてやるよ。










 三十分程経った頃、話が良の初恋話に差し掛かった時、良がふと零した。


「そういえば、お前と律ちゃんの出会いってどういうのだったんだ?」


 ちょっと変っていうか不思議に思う事があってな。と続ける良。


「絶対そうとは言わないけど、大体家が近いと良く遊んだりするよな。けど、お前と律ちゃんは会話もほとんどしなかったんだろ? 子供の頃にありがちな、女子と一緒になんか遊べないとかそういうやつか?」


 年頃の男の子というものの多くは、妙なプライドを持っているせいか、後から考えれば不思議なくらいに、女の子と遊ぶ事を嫌う。律と直の子供の頃を想像し、少し笑ってしまう良。

 しかし、良の顔とは対照的に、難しい顔をしている良。


「どした?」

「覚えてねーんだ。まあ別に隠す事でも無いし、良にだから言うけど、俺、小学校低学年辺りの記憶がねーのよ。何か事故に遭ったらしくてな」


 沈黙。ややあって、良が口を重そうに開く。


「……そんな重要そうな事さらっと言うなよ。リアクションに困るだろ」


 困り顔で、居心地が悪そうに体を揺らす。そんな良を見て、直は慌てたように。


「ホント別に大した事じゃないんだ。いや、勿論その時は大変だったけど、今は別に……。気にはなるけどさ」


 時々、見覚えの無い情景がフラッシュバックするんだけど、その場面が何か分からないから、こう……喉まで出掛かってるって感じがして気持ち悪いというか何というかー!

 喉を掻き毟るアクションでおどける直に、良は本当に気にしてないと感じ、破顔する。

 同じ様に笑顔になる直。しかし、それは一瞬で、直ぐにその顔が引き締まる。


「でも、本当にその時は……特に学校が辛かった。何せ、見る人のほとんどがはじめましてだし、勉強も二年分遅れてるんだぞ? 勉強に関しては少しずつ思い出して来て、直ぐに追いつけはしたけどよ。唯一の救いは、事故が春休み中だったって事か。そういう意味では、学年始めっていうのは、はじめましての人が多かったから良かったと思う。学年途中だったら俺一人知らない人の真ん中で、凄く居た堪れなかったと思うぞ」


 当時を回想する直。その時、ふと頭の中に映像が去来する。




 白い天井、白い壁、白いカーテン、白いシーツ、真っ白な部屋と、頭の中が真っ白なボク。そして――。





「直?」


 我に返る。頭を振って映像を追い出し、何でもないと手を振り、話の続きを口にした。


「まあでも、先生は当然知ってるし、腫れ物扱いではあったな。新しいクラスだっていっても、前の年同じクラスだった奴も居る訳だから、そいつもどう関われば良いか分からなかったみたいだし。そんな妙な雰囲気が伝播したのか、孤立気味でな……」


 そこで話を止め、思い出したように。


「ああ、出会いの話だけど、その年二条とも同じクラスだったから、俺の覚えてる出会いはその時。勿論会話なんてほとんど出来なかったけどな。ちなみに前の年も同じクラスだったらしいから、本当の出会いってのは、一年生か二年生の時だと思う。その時から会話してなかったのかは分からんけど」


 と言っておいてから、話を戻した。


「その頃からだな、無理に馬鹿やるようになったのは。記憶が無い事なんて気にしてない、俺は普通だっていう様にな。まあ、今では地になっちまったけど」


 良は驚いた顔をする。


「馬鹿やってるって自覚あったんだ……」

「ひでぇなお前」


 ジト目で睨む直。


「まあそれは置いといて」


 物を動かすジェスチャーをして、続ける。


「直にも人知れない苦労があったとはな……。そういえば、事故の原因って何だったんだ?」


 直は首を横に振る。


「分からん。親に聞いたけど、事故としか教えてもらえなかった。何か隠してるのはバレバレだったけどな。まあ、記憶が無くなって情緒不安定な子供に教える事は無いって考えたのかもしれないけど。実際、聞いて何が出来るって訳でもなかったし。ただ」

「ただ?」

「後で立ち聞きしたんだけど、誰かが引き起こした事だ、って言ってた。だから……俺としては、俺が何かをやって、それでショックを受けるといけないから、内緒にしたのかもしれないとか考えてた訳だけど」


 うーん、ありうる話だな、と唸る良。証拠は無いが、筋は通っている、気がする。でも。


「まあ、過去の事を気にしても仕方ないしな」

「そういう事。これからを生きていかなきゃな」














 直と良が向かいの店に入るのを見送った律と晴は、同じ様に窓際の席に座った。注文をして、いつもと変わらず、最近見たテレビや本、聴いた音楽の話などをする。

 いつもと変わらない話をしながら、晴は考えていた。

 自惚れでも何でも無く、律の親などを除けば、自分が一番律の事を知っていると思っている。だからこそ分かる事があって、今言わなきゃいけない事がある。

 自分にとって、良が提案した二手に分かれるというのは、結構都合が良かった事だ。何となく、改めて言うには気が重い事柄でもある。良には良なりの思惑があったのだろうが。もしかしたら同じ様な事を言っているのかもしれない。


 向かいの店の、急に真面目になった直と良の顔を――特に直の顔を見ながら、律に話を切り出す。


「……ね、りっちゃん」

「?」

「気付いてます? りっちゃん、時々辛そうな顔してますよね?」

「……む」

「それも最近……多分私達が信任された頃から、良く見るようになってきました」







 何故当選ではなく信任なのか。それは、二条学園は生徒会役員を特殊な方法を選んでいるからである。

 生徒会の役員の数は一般の学校と違い、会長・副会長・書記・会計の四人だけと少ないが、生徒会の下には文化部統括委員会、運動部統括委員会、風紀委員会、学生生活委員会の四つの委員会があり、生徒会長は学生生活委員会担当、副会長は風紀委員会担当というように、それぞれの管理を生徒会役員が担当している。

 学生生活を円滑に進めていけるように、それぞれの委員会が学校内の仕事を分担して行っており、何か意見があればそれを認可し学園に伝えるのが生徒会である。

 生徒会はいわば繋ぎの様な存在であるが、勿論ただ繋ぎの為だけに存在している訳ではなく、逆に生徒会の方から各委員会へ意見を打診したり、提案された意見に不満点があれば却下する事も出来る。

 基本的に学園は生徒に干渉せず、大部分が生徒の自主性に任される為、学生生活に関わる各委員会や、それ以上に学園に意見を直接伝える事になる生徒会には、自然と大きな権力が生ずる事になる。故に能力や経験が必要とされた。何も分かっていない人間を、学園の重要な地位に就ける訳にはいかないからだ。

 その為に採られた特殊な方法が、各委員会から一名ずつ選出し、全校生徒に信任を問うという方法だった。

 選挙管理委員会が教師から編成され、選挙管理委員は仕事を見て相応しいと思われる人物を推薦し、本人に立候補の意思の有無を確認する。そして立候補の意思があった場合、めでたく役員候補、という事になる。







「もっと詳しく言えば、生徒会役員の立候補者が発表された頃から、でしょうか」

「…………」

「最初は、良くんの方だと思ってたんです。りっちゃん、いい加減な人は嫌いですよね? 公私混同する人とか。良くんは見た目が何ていうか……軽いですし、そういうイメージ持ってたのかなぁ、とか」


 晴は、何かを思い出すように一呼吸置く。


「けど、違いました。りっちゃんがそんな顔するのは、もう一人の男の子と居る時の方が多かった」

「…………」


 律は思う。

 多分今、私は苦虫を噛み潰した様、と表現される顔をしているんだろう。知り合った小学生の頃から、この友人には隠し事が出来た例が無い。何を考えているのか分からないと言われた事はあっても、分かりやすいと言われた事は無いのだが。

 晴に、私の心の中にあるものを言いたいとは思わない。しかし、親友に嘘は吐きたくない。私は、嘘が嫌いだ。そして何より……嘘を吐く自分が嫌いだ。


「ね、りっちゃん。何か、あったんですよね? 多分……私と知り合う前に」

「……何故?」

「んー、内緒にしておきます」


 実はただの消去法なんですけどね。などと考えつつも、表情には出さない晴。

『辛そうな表情』を晴が見るのは、初めてではなかった。今思えば、同じ様な表情を、晴は見ていた事がある。

 それは、晴と律が出会った頃。その頃から、律と晴はずっと一緒だった。その晴が知らないのだから、晴と出会う前の事だと結論が出るのは、至極当然の事ではあった。


「私は……」


 何かを言おうとする律を手で押しとどめる晴。


 そんな長い付き合いである晴にも言えなかった事を、今急に告白してもらえるとは、晴も思っていない。もし告白してもらえるとしても、それは律が酷い痛みを伴うものになるだろう。そんな事は望まない。ただ……。


「嫌な事をすぐ溜め込んでしまうりっちゃんに、悩みがある事には気付いているから、話したくなったら、いつでも相談してくださいね」


 と言いたかっただけなのだ。


 晴は思う。

 多分今、りっちゃんは『何で分かるんだろう?』って考えてるんでしょうね。本人は気付いてないけど、りっちゃんは顔に出やすいですから。そんな素直なりっちゃんだから、助けたくなるりっちゃんだから、好きなんです。多分それは彼も同じでしょう。

 それと。

 本当に素直だから……辛そうな顔もするけど、それ以上に楽しそうに、嬉しそうに、私に見せた事が無い顔を彼と居る時に見せるのも、きっと嘘じゃないんでしょう、りっちゃん。






























 喫茶店での会話から数ヶ月。真壁直は焦っていた。

 変わらない律の態度、一向に進歩の兆しが見えない関係。周りから……晴や良から見てみれば、律が歩み寄ろうとしている部分は見えていたのだが、不器用な性格のせいなのか、その成果はなかなか見えなかった。少なくとも、直の目に映る範囲では。

 それでも仕事等で一緒になる事は多いのだし、焦りはあってもそれほど不満は無かった。そういえば最近、律への思いを教えた良はともかく、晴の方でも直と律を二人にしようとする動きを、直は感じた。


……姐さんが俺の為に? んな訳ねーよなぁ。


 晴が律の表情に気付いていない訳はない。どういう意味だろうと、疑問符が浮かぶ直。しかし、その疑問は抜きにしても、やはり二人きりというのは嬉しい物ではあり。出来る限り辛い顔をさせないように、そして信頼を少しでも得ようと努力してきたつもりだった。未だ改善の兆しは見えないが。

 しかし、勿論マイナス面もある訳で。

 二人で居る機会が多くなれば、それが目に付くようになれば自然に浮かんでくる噂ではあった。

 曰く『二人は付き合っているんですか』

 律は取っ付き辛いと思われている為に、その質問は主に直がされる事になる。

 直は、笑顔で『そんな事は無いよ』と言いながらも、否定する事に辛さを感じていた。自分が好きな人と付き合っている、という噂を否定しなければならないその虚しさに、このままで良いのかという焦りが生まれる。





 そんなある日の、放課後の生徒会会議が終わった後の事。


「明日の昼の放送に出演?」

「おう。生徒会や生徒会役員に質問する企画。ほら、俺らって性質上、何やってるかが一般生徒から分かり辛いだろ。少しでも親しみ易いようにーってな。質問内容は事前にアンケート取ってあるし」


 内容のチェックはこっちできちんとするぞ。俺はノータッチだけど、と良が言う。

 良としてはチェックしたかったのだが、担当者に『それはフェアじゃないから駄目!』と言われたのではどうしようもない。少し心配ではあるものの、任せる事にしたのだ。

 頼れる後輩が出来て頼もしい限り、とは思うものの、内心複雑な良。

 しかしまあ、その後輩の為に出来る事をしてあげますか、と、直と律を説得にかかる。


「もし出てくれるなら、持ち込み企画一回権を進呈しますぜダンナ」

「ふむ……持ち込み企画はともかく、真壁君はどう思う?」

「俺は別に良いと思うぞ。アンケートまで取ってるのに参加しないんじゃな」


 ちなみに、俺は持ち込み企画に興味あるぞ、と言いながら同意する直。にへにへと笑いながら何かを考えている。

 有名バンド呼ぶとか、芸人呼ぶとかいいなー。夢が広がるなー。アイドルとかもいいなー。

 にへらにへら。


 不気味に笑う直に、顔を引きつらせながら良が口を開く。


「直……分かってると思うが、限度を考えろよ限度を。頼むから変な前例作ってくれるなよ?」

「変な前例……生徒会役員R・Sがカミングアウト! 実は同性愛者! とか?」

「そこから離れろ! 実現可能な事だけにしとけって事だ。妙なのじゃなければ通すからよ」


 分かってる、冗談だって、と笑いながら答える直。で、と前置きすると、律に向き直った。


「どうする、二条?」


 律は暫く思案した後、一つ頷くと言った。


「生徒会の事を理解してもらうのは良い事だ。私も参加しよう。番組に出る事はまだ二回目だし、フォローは頼むぞ、相楽君」

「確かに承りました、と」


 まあ、俺の予想じゃ質問は律ちゃんと直に集中するだろうから俺は暇だろうしな、と一人ごちる良。


「そういえば、晴には伝えなくていいのか?」


 律が、今ここに居ない晴の事に対して言及する。晴は、今日はどうしても外せない家の用事があるという事で休みだった。


「ああ、それなら問題無い。そもそも、これは晴ちゃんの発案だから」


 良の答えに、感嘆の声を漏らす律。


「ほぅ……晴も生徒会の事を考えてくれているのだな」


 うんうんと頷きながら感心する律を横目に、良は考えこんでいた。

 しかし……何か企んでたみたいだしな……大丈夫かね、ホント。まあ、律ちゃんが居るんだし、悪い事はしないと思うけど。


「うーむ……」

「良?」

「ん? ああ、それじゃ担当に伝えて来るわ」


 今の時間ならまだ居るはずだしな。と、部屋を後にし、内心の不安を抑えつつ放送部室へ急ぐ良。


 しかし、良の不安は当たってしまう。晴や良が想像もしていなかった方向へと。






























 そして次の日。


「『生徒会の仕事ってどういう物なんですか?』との事ですが。基本的な質問ですねぇ。一年生の質問らしい、フレッシュな感じが見受けられます」

「うん、今日の趣旨通りのありがたい質問だな。端的に言うならば――」


 MC役の生徒が質問を読み上げ、主に答えるのは生徒会長である律。各々の仕事の領域の質問を除けば、一番答えられるのが律であろうという判断からであった。

 その律の隣に直は座っている。


 律の声を聞きながら、直は気が付けば律の事を考えていた。

 せめて何か突破点があれば……今までと同じやり方してたら、空回りし続けるだけだ。自分は何かやり方を間違えているんじゃないか。そんな気分にさせられてしまう。

 何かを変えなきゃ……。


「次は……二年生、とある部の部長から、生徒会長への質問ですね。『今年の生徒会は曲者揃いの様ですが……』に、睨まないで下さい相楽部長。私はただ読んでるだけなんですってば。コホン。えー、気を取り直して。『曲者揃いの様ですが、そういう人たちを上手く統率するコツなどあったら教えて下さい。』との事です」

「曲者か……言い得て妙というやつだな」


 苦笑しつつも否定はしない律。咳払いをして一拍置き、口を開いた。


「参考になるか分からないが、そうだな……心掛けている事柄ならある」

「それは一体? 私も次期部長として気になりますね」


 いつ次期部長になったんだオイ、とツッコむ良。華麗にスルーを決め込み、是非コツを! と律に迫る自称次期部長。


「まあ、これは色々な事に共通する物だが、『間』というものだ」

「『間』ですか?」

「ああ、タイミングと言い換えてもいいな。スポーツ然り、人間関係然り。間を制す者は人を制する事が出来る。一昔前の歌にもあっただろう。どれだけ喜ばしい事でも、間が悪ければマイナスになりうる。それに、間という物の怖さを知っておけば、相手の間の悪さによって受けるマイナスを減らす事も出来るだろう」

「なるほど……質問者の方、参考になったでしょうか? では次の質問です」


 そう、タイミング。タイミングを間違えると悪化するかもしれない。だから動けない……というのはただの言い訳か。近付けはしないが遠くは無い、今の関係を壊したくないだけなのか。

 ずぶずぶと思考の海に沈んで行く直。


「えーと、これは副会長の真壁さんと書記の樋上さんへの質問ですね」


 という声に現実に戻される。


「へ? 俺と姐さんへの質問?」

「はい。というよりメインがお二人で、生徒会への質問という感じですが。『良くお二人が漫才をしているところを見かけますが、毎日あんな感じなんですか? 楽しそうで羨ましいです』との事ですが」


 その問いに、直は嬉しそうに、晴は嫌そうに答えた。


「毎日そんな感じだな。姐さんはリアクションが良いから最高」

「私は巻き込まれてるだけです」


 よよよ、と泣き崩れる真似をする晴。


「直さん、もう少し落ち着く気はありませんか?」


 上目遣いで尋ねる晴。直は、普通の男子ならぐらっと来るその表情に怯む事無く大上段から言い放った。


「だが断る! この真壁直の最も好きな事の一つは、最近お腹まわりが気になり始めた人にNOと言ってやる事だ!」


 ぷちん。


 この時、この放送を見ていた者は確かに聞いた。堪忍袋の緒が切れる瞬間の音を。


 晴は音も無く立ち上がり。寄って。頭を掴んで。振り回す。


「NOOOO!!」

「あーら本当にNOって言う事が好きみたいですわね! もっと言わせてさしあげましょうか!?」

「ゴメン姐さん言い過ぎた! NOっていうか脳! 脳が揺れる!」


 どこで聞いたんですかー! と、直の頭をぐわんぐわん振り回しながら叫ぶ晴。一人離れて見ていた良はカメラに向けて、質問をした人に向けてであろう、言った。


「まあ、大体いつもこんな感じ。羨ましいと思うなら変わってみるかい?」


 良の耳にどこからか、遠慮しておきます……という声が聞こえた気がした。















 その後もMC役の生徒の質問に律と、時々直が答える中、自分に対しての質問が一段落したと見た良が立ち上がり、同じく一段落したらしい晴のところへ、すすっと近寄った。

 間近に来た良に気付き、振り返り、見上げる晴。小声で良に『どうしました?』と問いかける。


「なあ、晴ちゃん、何事も無く終わりそうだけど……何か考えてたんじゃないのかい?」

「あら、分かってしまいましたか? ある質問だけ弾かないで欲しいって頼んだだけですよ。効果は……まあ、少しでも変わるかなぁって程度だと思いますけど……そろそろでしょうかね」


 晴の視線が質問を読み上げている生徒へ向けられ、つられて良の視線も同じ方向へ向く。


「それでは、最後の質問になります」










「それでは、最後の質問になります」


 ようやく頭のふらつきが取れたと同時に、直の耳にその声が届いた。


「これが一番多かった質問ですね。『生徒会長の二条さんと副会長の真壁さんが良く一緒に居るのを見ますが、お二人は付き合っているんですか?』……との事ですが」


 時が凍り――少なくとも直はそう感じた――動き出した時には、直の頭は別の意味で頭がふらつきそうになった。

 ちょっと待て! そういう質問は弾いたんじゃなかったのか!?

 そうは思うものの、良く考えたら、ただ他のそういう質問が無かっただけなのかもしれない。直は悩んだ。テレビに映っているのでなければ、頭を抱えていただろう。


 実際は数秒だろうが、直にとっては永遠とも思える沈黙が流れ、ようやく口を開こうとした瞬間。


「……そんな事実は無い。私と真壁君は友人だ」


 そう、律が答えた。いつもと同じ無表情で、いつもより平坦な声で。

 直がもう少し冷静で居られたなら、感情を押し殺した声だと分かっただろうが、今の直がそれに気付くという事は、無理な事だった。


 纏まらない頭のまま、顔はいつもの様に笑顔で、同じ事を口にしようとした瞬間、直の胸が痛んだ。

 馬鹿正直に答えるのか? 俺が、この気持ちを笑って誤魔化して、また毎日を過ごすのか?

 焦りの気持ちが、一瞬周りを見えなくしたのか。瞬間、口から、自然と、言葉が出ていた。





「俺は、そんな事無いと思いたいんですけどね……」





 と、言って、気が付いた。


「ま……かべ……くん?」


 自分は今、何と口にした?

 状況を弁えず、場所を考えずに、自分の為に、言った。

 そして。

 俺は、今、自分の好きな人に。


「私は…………」


 涙を流させてしまった。










「済まない……」


バンっ!


 直に謝りながら席を立ち、激しい音でドアを開け、駆けて行ってしまった律。


「くっ!」


 何やってんだ俺は! 机をバンと叩き、唇を噛み締める直。破けよとばかりに手を握り締め、無力感を味わっていると、放送室に大きな声が響いた。


「直!」

「……良?」

「お前が要るのは俺たちじゃねぇだろ」


 そうだ。とりあえず、追わなきゃ。何を言えばいいのか分からないけど、もし傷付けたのなら、謝らなきゃ。


 一瞬の逡巡の後、出て行った律の後を追う直。


 残ったのは静寂と、呆然としている自称次期部長と、生徒会役員が二人。










 上手く蹴飛ばせたかな、とドアを見て後、振り返り周りを見る。近くにあったのは、先ほどの直と同じ様な姿をした同僚の姿。


「……なあ、晴ちゃん」


 真剣な顔で首を横に振る晴。良が言いたい事は分かっているのだろう。


「予定外……としか言い様が無いです。私はただ、りっちゃんにそういう目で見られているという事を意識して欲しかっただけ。意識すれば、今の状況が少しでも変わるかと思って……。二人とも、ずっと辛そうでしたから」


 色々な事を読み違えていた。しかし、何を言っても今は言い訳に過ぎない。晴は、悔やんでいた。何よりも、親友を傷付けてしまった事を。

 二人とも好きだった。だからこそ、二人が辛そうにしているのを見てるのが辛かった。何か出来る事が無いかと考えて起こした事だった。律は鈍いから、分かりやすく言葉にしなきゃ気付いてくれない。そう思って今回の事を画策した。直の言葉も、そういう意味では間違っていない。けれども、よりによって。


「このタイミングで……」


 直を責める事は出来ない。全てを引き起こしたのは自分だから。本当なら今すぐにでも謝りに行きたいけれど。


「この場を収めませんとね……。良さん、巻き込んでおいて図々しいですが、手伝いをお願い出来ますか?」


 良は思う。正直、色々聞きたい事はあるし、少し許せない事もある。けれど、友達を思う心から来たのだろうし、何より。


「このままじゃ、我が親友があまり良い立場にならなさそうだからな……。手伝うさ」


 晴は頭を深々と下げ、ありがとうございます、と言うと、カメラの前に歩いて行く。


「それでは、始めましょうか、良さん」















「二条!」


 律から遅れて部屋を出た直。遅れたのは一瞬だが、その間に律の姿は見えなくなっていた。しかし、放送室は普通教室棟から少し離れている為、足音は良く響く。響く足音から直は方向を推測し、走り出す。

 
 廊下を疾走する直。

 言ってしまった事が言ってしまった事だ。恐らく、そう時間が経たない内に人が集まってくるだろう。それまでに見つけなければ。自分がやってしまった事で、律が好奇の目で見られる事など、直には耐えられない。

 そこまで考えて、走るスピードが遅くなっている事に気が付いた。

 これではいけないと、思考をカットして、走る事だけに全力を傾ける。


 廊下を走り、曲がり、階段を上がる。律も直が追って来ている事は当然気付いているだろう。後姿は見る事が出来るが、見えたと思ったら直ぐ曲がってしまう。

 それでも、直と律の差は少しずつ縮まっていた。

 そして、何度かの曲がり角を過ぎ、階段の途中で、小さく柔らかい、しかし色々な物を引っ張っている手を掴んだ。


「やっと……捕まえた……」

「……手を放してくれ、真壁君」


 無言で首を横に振る直。


「何故……キミは、そこまでするんだ。私に、そんな価値なんて無いのに」


 悲しみを湛えた目。何かを悔いる、罪人の目。しかし、直はその眼差しを真正面から受け止める。


「……はぁ、っはぁ……。価値……はぁ……なんて知らねぇよ……あったとしても、俺にとっての二条の価値は、俺が決める事だ……。俺は、二条を、泣かせてしまった。それは、一番やっちゃいけない事で、悪い事をしたら謝るのは、一番やらなきゃいけない事だ」


 強い意志を湛えた目。悔いても進む、決意の目。その眼差しから、目を逸らす律。


「二条、お前何でここまでする……って言ったよな。今度ははっきり言ってやる」


 大きく息を吸い込み、叫ぶ。


「お前の事が好きだからだよ! けど! ……好きだって事を理由にすれば、何でも許される訳じゃない」


 全力疾走を続けた上に叫んだせいか、ふらつく直。手すりを掴んで体勢を立て直し、再び口を開く。


「二条は何かに苦しんでた。俺はそれを分かってて、その事に俺が関わっているであろう事も知ってて、でも何も出来なくて、今日の事態を引き起こした。周りを見る事が出来なくて、放送室に残ってる二人にも迷惑をかけた。何より、二条に辛い思いをさせた」


 だから。


「ごめん、本当に」

 
 直は頭を下げた。下げ続けた。自分の馬鹿さ加減に腹が立って、泣きそうな顔を見せたくはなかった。

 そのまま、十秒も経った頃だろうか、律が、ふと、ポツリと漏らした。


「違う……違うんだ……辛い訳じゃなかった。嬉しかった……そして、キミに酷い事をしたのに、キミの気持ちを嬉しいと思う自分を許せなくて……ただ、どうすれば良いのか分からなかったんだ……」

「え?」


 それは、どういう? と直が頭を上げた瞬間、直の世界が暗闇に包まれた。

 それは急激に頭を上げた事による目眩。それは、一瞬の……良くある目眩のはずだった。二人が話している場所が、階段でさえなければ。


 視界の暗転の後、軽い浮遊感。


「真壁君!?」


 後頭部を襲う衝撃とその声を最後に、直は意識を失った。


























「りっちゃん……授業が始まってしまいましたよ」

「分かっている……だが、これは私のせいだから……自己満足に過ぎないだろうが、せめて目が覚める時までは居させて欲しい」


 晴が授業の事を知らせる。

 律は未だかつて、病欠等、致し方ない理由以外で授業を休んだ事は無い。それは生来の生真面目の性格故なのだが。

 彼女達が今居る場所……保健室に直が居る理由を、晴は律から聞いた。勿論主観がかなり入ってはいるのだろうが、大体の状況は把握したはずである。

 その事を言っている間、律はずっと自分のせいだと言い続けていた。

 既に、晴は今回の番組の事が自分の企みだとは言ってある。だから、責任は自分にある。晴はそう伝えた。

 しかし律は、違う、と首を振った。

 全ては、自分の弱さが招いたのだと。

 信じる事が出来なかった。彼も、自分も。向き合う事が怖くて、だけど離れる事も怖くて。ずっと長い間、誤魔化し続けていた。

 それが全ての元にあるのだと、律は言った。


 ずっと直の顔を見つめ続ける律。梃子でも動かないと感じた晴は溜息を吐くと、仕方ないという声で言った。


「それでは、ここはお任せします。授業やその他の事、色々根回ししてきますので、直さんが目を覚められたら教えてください」


 そしてもう一度直の顔を見て『本当に、ごめんなさい』と呟くと、晴は保健室を後にした。















 夢を、見た。

 子供の頃の夢。誰かと遊んでいる、子供の頃の自分の夢。公園で、道路で、学校で、遊園地で。次々とシーンが変わる。けれど、いつも一緒に、ある女の子が居た。

 そしてまたシーンは変わる。

 白い天井、白い壁、白いカーテン、白いシーツ、真っ白な部屋と、頭の中が真っ白なボク。そして――。















 そこで、直は目が覚めた。

 自分が寝ている場所がベッドだろうという事は想像が付くが、視界がぼやけて前が見えない。

 ガンガンと痛む頭で少しだけ周りを見回す。見えた世界は夢の最後と酷似していて、夢の情景がフラッシュバックを起こす。

 白い天井、白い壁、白いカーテン、白いシーツ、真っ白な部屋と、頭の中が真っ白なボクと、そして。


「大丈夫か、真壁君?」


 そう、彼女が居た。


 直は痛みが治まらない頭で考える。


 でも、彼女って誰だ……?


 直の視界は相変わらずで、目の前に居る人が誰なのか、まだ視認出来なかった。混濁した意識の中では、声から人を思い出す事も出来なかった。

 故に、直は言った。


「君は……誰?」


 そして、再び襲ってきた激しい頭痛と共に、直は再び意識を手放した。
















「りっちゃーん、直さんの様子はど……あれ、居ない……」

「どうした晴ちゃん」

「りっちゃんが居ないんですよ……直さんの目が覚めるまで居るって言ってたのに」


 直はまだベッドの中に居た。しかし、直の傍から動こうともしなかった律が居ない。もしかしたらお手洗いに立っただけかと晴は少し待ってはみたが、律は一向に現れなかった。

 晴が知る限り、この様な状況でいきなり消えてしまう程、律という女の子は無責任ではない。

 だが、思いつめていた律を思い出すと、晴の心は不安で一杯になってしまう。

 良は、そんな晴の気持ちを察したのか、見兼ねたのか。晴の背中を押し保健室の外に追いやった。


「良さん?」

「寝ぼすけの監視なんて一人で充分。晴ちゃんはやらなきゃいけない事があるんだろ?」

「……優しいですね」

「おうよ。女に優しく、男に厳しくってのが親父の口癖でね」

「素敵なお父様。今度一度お会いしてみたいです」

「やめとけやめとけ。調子に乗る。ついでに家の中で内戦が起こる」


 何度か内戦の経験があるのか、渋い顔で答える良。その軽口に少しだけ心が軽くなった晴は『ありがとう』と言うと、廊下を駆けて行った。















「お前の親父さんの場合、自分に甘く、ってのも入るんじゃないか?」


 部屋に戻った良を迎えたのは、そんな聞きなれた声だった。


「……目ぇ覚めたか。まあ、そう言ってやるなよ。同感だけど」


 良はベッド近くの椅子に腰を掛ける。


「授業、大遅刻だぞ。それと」


 怪我に障らない様に、拳を頭にこつんと乗せる。


「お前が無事で良かった」


 笑顔で、心から安堵したという風に、長く息を吐く良。

 その笑顔を見て、直はポツリと漏らす。


「……なぁ、良」

「どうした?」

「……お前に惚れて良いか?」

「やめんか!」










 そんないつも通りのドタバタがあった後、戻ってきた養護教諭から『打った場所が場所だから、学校は早退して病院で検査を受けなさい』と言われ、保健室を後にした直と良。


「病院……か……ん?」


 窓から遠い空を見つめ、昔の事を思い出す直。ふと、気が付いた様に良に向き直る。


「なあ良。お前、ずっと保健室に居たか?」

「あ? 何で?」

「いやな、さっき起きる前に、一回目が覚めた様な気がするんだ。頭がぼんやりして、世界がグルグル回ってて、誰か分からなかったんだけど、誰か居た気がしたんだ。誰なのか分からなくて、『誰?』って聞いたはずなんだけど、返事聞いた覚えが無くてなぁ」


 夢だったんだろうか、と呟く直。

 しかし良には心当たりがあった。


「あー……律ちゃんかもしれないな、それは。お前の怪我は自分のせいだって言って、授業に行こうともしなかったらしい。さっき来た時は何故か居なかったけどな」

「そんな事無いのに。元はといえば、場所を考えない事を言った俺が悪いんだし、階段の上なんてとこで話さなければ、ただの目眩で済んだんだし」


 けど、と直が言う。


「保健室に居たのが二条なら……。うん、何となく分かった気がする。いや、事情は全く分からないけど……やっぱり俺は二条と会ってたんだ、昔……記憶が無くなる前に」


 いきなり話が飛んだ事で混乱する良。


「いきなり言われても分からねぇって。きちんと順序立てて説明してくれ」

「んー、あー」


 頭の中を整理する直。どこから話したものか……と黙考し、折り合いがついたのか、その口を開いた。


「時々、見覚えの無い情景がフラッシュバックする事があるって言った事あったよな? さっき起きた時、いつもと同じ病室の風景……多分事故の後、初めて目覚めた時だと思うんだけど、その時の光景がフラッシュバックした。けど、いつもと違った事が一つあったんだ。その病室には、女の子が一人居た。今考えると、そのフラッシュバックした風景と俺が起きた時の風景が似てるんだ。だから、どっちかと言うと既視感ってやつかもしれないんだけど」


 何より、その女の子には面影があったんだ、あいつの。

 そう直が言う。しかし、良としては、いきなりそう言われても半信半疑にならざるをえない訳で。


「だから、お前がさっき起きた時に居たのが律ちゃんなら、その時居たのも律ちゃんだと。けど」


 水を差すようで悪いけど、と言いながら、良は続ける。


「そう思い込みたいだけかもしれないんじゃないか? 人間、記憶を無意識に改竄してる事だってあるんだ」


 勿論それも考えた、と直。


「なら、確かめれば良いだろ。知ってそうな人が一人居るからな」


 知ってそうな人、知ってそうな人……。

 頭の中で知人の検索をする良。

 知ってる可能性があるとすれば、その頃からの知り合い、もしくは親戚……ああ、なるほど。


「理事長か」










 昇降口に向かっていた足を、くるりと戻して、今来た道を戻ろうとする直。

 良は、その行動を見て悟る。


「今から行く気か、もしかして」

「当たり前だろ」


 他にあるのか、といった態度の直。


「病院はどうすんだよ」

「フケる……ってのは冗談で、終わったら行くさ」


 フケると言った瞬間、良の顔が怖くなったので慌てて言い直した直。元々直も、病院に行かないという気は無い。この少々お節介な友人は、多分病院まで付いてくると言うだろうから。


「……引く気は無さそうだな。全く……長生き出来ねぇぞ」

「覚悟はしてるさ」


 笑顔で答える直に、はぁ、と溜息を吐く良。


「それじゃ、理事長室まで送って行ってやる。途中で倒れられでもしたら困るからな。終わったらメールしろよ」


 やっぱり、と心の中で思いながら、ああ、と直は笑顔で頷いた。





 その道中、ふと思い出した様に直が呟いた。


「そういえば」

「ん?」


 晴に、直の事をメールしていた良が顔を上げた。律は携帯を持っていないが、晴が律を探しに行ったので、そちらから情報は届くだろう。


「やっぱり騒ぎになってるか? NIJO☆FMの事」


 全校に流れる放送で、とんでもない事を言ってしまったのだから、明日から騒がれる覚悟はしている。しかし、それに好きな人を巻き込んでしまった……その事だけが気掛かりだった。


「あー、あれな。何とかなった」

「……は? どうやったんだ」

「俺と晴ちゃんでちょっとドロドロした寸劇やって、昼ドラコントだって言ったら結構な人がそういう物だと認識したらしい」


 良の答えに、開いた口が塞がらない直。


「……んなアホな」

「お前の発案だって言ったら、ほとんどの人が納得してくれた」

「…………俺って一体何だと思われてるんだ」


 そりゃお前。


「おばかだと思われてるんじゃない?」


 普段の行動を、もう少し考えようかなと思い始めた直だった。















「それじゃ、さっきも言ったけど」

「分かってるっての」


 理事長室、と書かれたプレートの前に立っている直と良。

 ここに来るまでに、何度もメールしろと念を押された直。自分はそんなに信用が無いんだろうかと凹みかけたものの、よく考えたらこの友人は、出会った頃からこんな風だった。


「それじゃ、俺はゴタゴタしてて出来なかった機材のチェックしてくるから、何かあったら放送室に来い。っていうか呼べ」

「だから分かってるっちゅーに。お前はどこの過保護な母親だ」


 自分のそんな言葉も照れ隠しだと自分で分かってる訳で、何より得がたい友人だと分かっているから。


「ありがとう、我が親友よ」

「当たり前の事だ、愛すべき馬鹿よ」

「てめぇ……」

「冗談冗談。……まあ頑張れ」

「ああ」


 心は決まった。少しでも前に進む為に、ドアを叩く。

 入りなさいという声が響く。ドアを開け中に入ると、がっしりとした体格の柔和な老人が、立派な机の向こうに居た。

 二条学園理事長、二条豪。生徒会長である二条律の祖父であり、ただ一人の肉親。

 ちなみに今日の写真は普通だった。どうやら写真ネタは飽きたようだ。

 豪は、口を開いた。


「おや、真壁君……だったな。体の調子は大丈夫なのかね?」

「はい、頭が少し痛む程度です」

「それは良かった。して、何の用かね? 君は早退して病院に行くはずだったと思うのだが」

「……お聞きしたい事があります」


 ここが本題だと、豪に鋭い眼差しを送る直。豪の顔が厳しい物に変わる。


「子供の頃の二条さん……二条律と、俺との関係について。もしかしたら、俺の消えた記憶についても」

「……他ならぬ君からの頼みならば否とは言うまいよ」


 豪は、初めから聞かれたら答える気だったかのように、すんなりと直に教えてくれた。

 最初の言葉はこうだった。

「ワシは……本当に君に感謝しているんだ」




















「晴か……良くここが分かったな」

「りっちゃんは、一人になりたい時、良くここに来ますから……鍵も持っていますしね」


 生徒会室。律が選び、晴が律を見つけた場所がここだった。


「直さんは意識を取り戻したらしいですよ。いつもと変わらない直さんだったと」

「そうか……良かった。本当に良かった」


 沈黙。少しだけ静かな時間が過ぎた後、晴が口を開いた。


「……何を、考えていたんですか?」

「そうだな……私は本当に弱いという事だろうか。容易く揺れる、あの頃から変わる事の出来ていない心」


 律は窓の外に顔を向ける。流れる雲を見ながら、ぽつりと呟く。


「私は、ずっと止まったままだ。今日ほど強くありたいと思った事は無い」


 そして、背を向けたままだった晴に振り返り、躊躇う様に二、三度口を開く。そして、深呼吸の後、晴に言った。


「いつか晴は言ってくれた。話したくなったら話してくれと。晴……私の弱さを聞いて欲しい」















 私は、ずっと独りだった。祖父が事業に成功し、家にお金だけはあったせいか、集まってくる人間は、自然とそういうものを目的とする人種だけだった。

 両親が早くに死去し、祖父も忙しく、周りが居た大人がそんな大人ばかりだったせいか、私は小学校に入った時には既に、人と壁を作るようになっていた。

 毎日がつまらない、モノクロの毎日。そんなある日、家の前で門を見上げている男の子と出会った。

 その子に初めて出会った時の印象は、正直に言って『変なコ』だった。同い年の友人から普通の扱いをされなかった自分にも、何一つ変わる事無く、他の友人と同じ様に接してくれたからだ。それは、自分の中の小さな世界には無い物だった。

 灰色だった日々が色付き始めた。彼の『遊ぼう!』という声を、毎日待っていた。


 つまらなかった学校も、彼が居るというだけで楽しかった。彼の友人とも友達になる事が出来て、楽しい毎日が過ごせるのだと思っていた。

 けれどある日、私に疑惑の種が生まれてしまった。その理由は友達になった――否、友達になれたと思っていた彼の友人達の会話。


「なあなあ、あの子ん家って金持ちだよな。新しいゲームとかあるのかな?」

「きっとあるって。あの子と友達になれて良かったぜ。紹介してくれたあいつのおかげだよな」


 彼らは軽い気持ちだったのかもしれない。多分彼らの中では普通の会話だったんだろう。悪意も無かったのだろう。けれど、小さな頃の経験のせいで敏感になっていた私は思ってしまった。

 また、私は見てもらえていなかったのだ、と。

 そして、弱い私は、彼すらも信じられなくなってしまった。


 彼だけは違うと、そう思っていた。思ってはいたけれど、湧き上がる疑念は、その時の自分にはもう、抑える事など出来なかった。

 ある日の事、私は彼に聞いた。何で自分と仲良くしてくれるのか、と。

 彼は答えた。


「やー、お前の家のケーキ美味しいからな」


 後から考えれば、タイミングが悪かったとしか言い様が無いだろう。

 彼が私の家のお手伝いさんが作ってくれるケーキを、ことのほか気に入って居て、いつも冗談交じりに『このケーキが食べられるだけでもお前と友達になった甲斐があった』と言っていたからだ。

 この時も、何て事は無い、いつもと同じ事を言っただけだったのだと思う。けれど、受け取る私には、疑念で一杯だった私は、いつもの様に、笑う事が出来なかった。いつもの言葉は、本心だったんじゃないかと。


――この人も同じだったのか、と。


 笑おうとした。笑えなかった。引き攣る頬に、涙が伝っていったのが分かった。

 彼の前に居る事が辛くて、逃げ出した。彼はいきなり涙を流し、逃げた私を追ってきた。

 当然だろう。いつもと同じ冗談を言っただけなのに、泣き出されてしまったのだから。

 けれど、そんな事を考える余裕が無い私は、闇雲に走り回った。

 しかし、家に引きこもりがちだった私と、外で遊んでいた彼とでは勝負にならない。いつの間にか知っている公園まで来ており、相当追い詰められていたのだろう、ジャングルジムの上で、抵抗にもならない抵抗をしていた。

 彼は、とりあえず私を捕まえるのが先だと思ったのか、ジャングルジムに登ってきた。私はパニックになり、手足を振り回して近付かせまいとした。それが、私のミスだった。

 私はバランスを崩し、ジムの外に放り出された。そんな私を救ってくれたのも彼だった。頂上付近まで来ていた彼は、我が身を省みずに手を伸ばし、そのまま自分を下敷きに落下したのだ。

 私を掴んだ場所が悪かったのか、彼は頭から落ちてしまった。彼は、ピクリとも動かなかった。子供ながらに事の重大さが分かった私は、家に急いで帰り、ジャングルジムから落ちた事、頭を打って彼が動かない事を話した。お手伝いさんは、直ぐに救急車を呼び、彼が乗っていった事を確認した後、私は祖父に事の顛末を話した。




















 写真を見ながら、訥々と語る豪。


「それが……救急車に乗っていった君を見送った後、律が泣きながら語ってくれた事だ。律だけが悪かった訳ではない」


 その写真には、若年の夫婦らしく男女と、小さな女の子。


 ワシは律に、独りにさせていて済まないと謝った。律がそんな想いをするような幼少を過ごさせたのは、忙しいという事を理由に構ってやれなかった私にも責任がある。息子夫婦が死んでしまった悲しみを忘れるように仕事をして、もっと悲しんでいるであろう孫の事を忘れてしまっていた。

 律は、何故私が謝るのか分かっていないようだったが、それは独りで居る事を当たり前にしてしまった私がそもそもの問題だ。

 そして、君には幾ら感謝しても足りる事はないと。君が手術の間、律は君の事をずっと話していてくれた。笑顔で話す律を見て、ああ、私がこの笑顔を見るのは何年ぶりの事なのだろうと思った。

 しかし、その律の笑顔も直ぐに曇ってしまう。律はただひたすらに想っていた、ごめんなさいと。願っていた、また遊んでくれるだろうかと。そして私も願った。やっと戻ったこの子の笑顔を、この子を笑顔にしてくれた君を奪わないでくれ、と。

 手術室のランプが消えても、しばらくは面会謝絶だったよ。三日くらい経って、ようやく面会謝絶のプレートが取られ、真っ白な病室に、彼は白い顔で横たわっていた。

 律は、出来る限りの時間、毎日君の許に居たらしい。そして二日が経った頃、君が目を覚ました。




















「私は神に感謝した。彼の主治医は、このまま意識が戻らない事もあると言っていたからな」


 嬉しくて、嬉し涙が出る程に安堵して、申し訳無くて、悔し涙が出る程に情けなくて。

 でもあの時出来なかった笑顔で、挨拶しようとして。


「君は……誰?」


 何も、言葉に出来なかった。










「彼は、私と出会う少し前……小学校に入ってからのほとんどの記憶を失っていた。そして……私は逃げた。彼の、他人を見る様な視線に、私は耐えられなかった」


 彼が退院して、学校に来るようになってからも、私は避け続けていた。

 彼が苦しんでいるのに、ただ、見ているだけだった。彼が腫れ物扱いされていたのは分かっていたのに、味方になる事が出来なかった。

 もし仲良くなったとしても、何かのきっかけで記憶が戻った時に、彼に責められ、嫌われるんじゃないかと恐れていた。彼の傍に居る資格が無いと自分に言い訳して、それでも彼と離れるなんて事を考えたくは無くて。


「話しかけられると嬉しくて、でも辛くて。ずっと近付けなくて、遠ざかれなくて、あれからずっと、ずっと立ち止まっていた。時には自分を誤魔化して、時にはただ逃げ出して。言わなきゃいけない事も言えずに」


 もう戻らない、過ぎた時を惜しむ様に。窓の外を、遠くの空を、更に向こうにある何かを見つめる律。


「それでも、りっちゃんは……前に進む事を決めたんですね」


 ずっと黙って話を聞いていた晴が、そう呟いた。


 律はそうだ、と一言。


「……やはり晴にはお見通しだな。私は近付いて行けなかった。だけど、彼が近付いてきてくれた。けど、このまま彼が傍に来てくれるのを待つだけでは、私は今までと変わらない。そして、退いて悔やむくらいなら、前に進んで悔やみたいんだ」


 言葉が途切れる。晴はおずおずと声をかけた。


「……終わりですか?」

「ああ、これが言いたかった事の全てだ。ありがとう、晴。聞いてくれて」

「はい、お安い御用です。親友の悩みなんですから、三時間だって四時間だって聞きますよ」


 得意気に胸を張りながらドンと叩く晴。しかし、ふといつもの顔に戻る。


「でもりっちゃん、具体的にどうするんですか?」

「――会いに行く。そして、全てを話す。後の事は……あまり考えていない」

「それは……いい加減な事が嫌いなりっちゃんらしくないですね。でも、そんなりっちゃんも悪くないです」


 元気になった、今までに見た事が無いくらい明るい律を見ているのが嬉しくて仕方ないかのように、満面の笑顔の晴。つられるように律も笑顔になる。


「行こう、晴。そして見てて欲しい、私が退いてしまわないように」










「……と、意気込んで来たはいいものの」

「居ない……どこへ行ったんだ、真壁君は」


 晴と律は、保健室に来ていた。しかし、保健室は既にもぬけの空。お茶を取りに行っていたらしい養護教諭に聞いてみると、少し前に屋を出て行ってしまったらしい。恐らく、病院に向かったのではないかという事だ。


「どうしましょう、りっちゃん」

「決まってるだろう?」


 私も病院に向かう、と律は言う。


「今日のりっちゃんは、素敵にアクティブですね」

「……そうでもない。今も怖くて仕方ないんだ」


 でも、進むと決めたから。その場に腰を下ろしたくないから。


「……先生から病院の名前と場所は聞きました。行きましょう」

「ああ」










 無言のまま廊下を歩き、昇降口へ。律がそのまま学校を出ようとした時、晴があっと声を上げた。


「どうした、晴?」

「何となく気になって、下駄箱を見てみたんです。ほらこれ……」


 そこにあるのは、直愛用のスニーカー。


「……靴がある。という事はまだ中に居るという事か?」

「そういう事になりますね。ここに張っていればいつかは通り過ぎるでしょうから、待ってましょうか」


 そうだな……と答えつつ、律は考えていた。こういう時、彼ならどうするのだろう。一分一秒でも早く会いたいと思っている時、彼なら……。

 脳裏に浮かぶのは彼の顔。にへらにへらと笑う彼の……。


「う……」

「どうしました?」

「な、何でもない……」


 もっとカッコイイ顔を思い浮かべられないのだろうかと、自分で自分に呆れてしまう律。

 しかし、あの締まりの無い顔はどこで見たのだろうか……。


「……そうか!」

「こ、今度は何ですか!?」

「晴、放送室へ行くぞ」










 律と晴は小走りに、昼休みを過ごしていた放送室へと向かう。


「り、りっちゃん、放送室で何をするんですか?」


 息を切らしながら律に尋ねる晴。


「そうだな……しいて言うなら、馬鹿な事、だな」

「?」


 頭に三つくらいハテナマークをつけている晴。

 やがて、前方に放送室が見えてきた。










バンッ!

「うお! 何だ何だ!」


 電子機器等を見ていた少年が振り返る。


「おや、相良君」

「何をしてらっしゃるんですか、良さん?」


 そこに居たのは、放送部部長であり、生徒会役員である相楽良だった。


「何で二人がここに?」

「……良く考えたら好都合だな」

「はへ?」

「あの〜…りっちゃん、そろそろ何するか教えてくれませんか?」

「ああ」


 律は人差し指をぴんっと立て。


「持ち込み企画だ。無理でも通して貰うぞ、放送部部長、相楽良君」


 今までと違う律の顔に、何かを感じ取ったのか、ニヤリと笑う良。


「聞きましょう、生徒会長殿」










「……なるほどねぇ」

「りっちゃん、本当に変わったね……」

「可能か? 相良君」


 少し考え、周りを見渡す良。


「七分」

「五分で頼む」

「OKボス」


 晴ちゃんも手伝ってな、と展開に付いていけない晴を連れ、機材のセッティングを始める良。それはまるで昼間の番組の時のように。




















 その頃、理事長室では、話を終えた直が、歓待を受けていた。


「ほら、この店の煎餅がまた良くお茶に合うんだ」

「……はあ、どうも」

「何なら甘い物もあるぞ? ここの饅頭は絶品でなあ」

「あの……俺、病院行かないと」

「構わん、後でワシが送って行ってやる。それよりも、もっと律の話をしてくれんか」

「…………」


 誰か、助けてくれ。

 と、彼が心の中で願った時だった。

 それは天の助けか、悪魔の囁きか。

 理事長室にも設置してあったテレビが、じじっと音を立てた。その音に気付き、テレビに目を向ける直。




















「……いいのかなぁ、本当に」

「いいのいいの、楽しそうだし。学生時代は馬鹿やらなきゃ」


 にひひと笑いながら良は、機材の電源を付け、カメラの前に移動する。


「アーアー、アローアロー、聞こえますかー? ただいまから、NIJO☆FM特別版をお送りいたしまーす」










『アーアー、アローアロー、聞こえますかー? ただいまから、NIJO☆FM特別版をお送りいたしまーす』


「……良!?」


 テレビに映った顔と聞こえてきた声は、間違いなく親友である良だった。テレビに映る良は、当然こちらの驚きなど気にもせずに話を続けて行く。


『この企画は、ある一人の女の子の希望から始められました。そして、その女の子が望む事も、たった一人に自分の言葉を伝える事』


 今、ちらっと後ろに見えた姿。あれは……。


「なあ直君、今後ろに律が居なかったかね?」


 それよりも先に、授業中に放送が流れるという事を注意して欲しいものなのだが、この人は良くも悪くも大らかなので無理だろうか。

 昼間の怪我とは別に湧き上がる頭痛を抑えながら、直は答える。


「居ましたね……」


 とりあえず、今はこうしてる場合じゃないと立ち上がる直。


「お茶とお菓子、ありがとうございました……」


 疲れた顔で頭を下げ部屋を出る直の背中に、豪は呵呵と笑いながら。


「まあ、頑張りたまえ。未来の息子よ」





















 奔る、脇目も振らずにただ一心に。その間も、廊下から、近くの教室から、良の声が響いてくる。


『校内に居る事は分かっているけれど、どこに居るか分からない彼の為に、彼女が考えた方法とは、大胆にも全校に声を流してしまう事』


 角を曲がる。


『彼女には、ずっと言えなかった言葉があった』


 再び奔る。


『胸の奥にずっと仕舞ったまま、弱い自分のせいで取り出す事すら出来なかった』


 階段を上がる。


『けれど、そんな弱い自分を好きだと言ってくれる人が居た』


 更に奔る。


『前に進む事を教えてくれた人が居た』


 前に見えた目的の場所へ、一目散に。




















「ほら、律ちゃん」

「ああ、ありがとう、相良君」



 今でも、自分がこんな大胆な事をしているのが信じられない。

 今までは、ずっと避けていた。彼と仲良くなりたいと思う気持ちを抑えたくて、抑えたくなくて、立ち止まったまま目を背けていた。

 彼が、自分を好きだと言ってくれた事は、凄く嬉しかった。けれど、そこで弱虫の自分がまた出てきた。嬉しくなってはいけない、そんな資格は自分に無い。あの時苦しい思いをした理由が自分だと知ったら? 助けてもくれなかったと思われたら?

 好きだと言ってくれた彼の気持ちを信じないのかと、もう一人の自分が言う。けど、信じていても怖いものは怖い。いや、信じているからこそ、より怖くなる。


 だけど。

 カメラの前に出る律。一つ深呼吸をする。そして、カメラの向こうに居るかもしれない誰かを見据え、口を開いた。


「真壁君、キミに伝えたい事があります」















 理事長室で。

『真壁君、キミに伝えたい事があります』


「ほう……良い顔をしておるのう。これは、孫の顔を見られるのもそう遠くないかもしれぬな」















 二年生のとあるクラスで。

『真壁君、キミに伝えたい事があります』


「これは……んー……やっぱり会長さんと副会長さんはコントじゃなかったのかなぁ……。次期放送部長としては、演技も覚えておいた方がいいのかもしれないね」















 そして放送室前の廊下では。


『真壁君、キミに伝えたい事があります』


ちょうど放送室をあけようとしていた直はその声に一瞬ビクッと体を震わせ、一瞬迷った後、ドアを開けた。















 ガチャという音を後ろに聞く。


 この放送を聞いたら、彼は来るだろうと思っていたから、驚く事でも無い。

 振り返る事もなく律は言葉を続けた。


「ずっと伝えたかった、三つの言葉」


記憶の闇の中へ消えてしまった言葉。














「あの時はごめんなさい」


 逃げて、迷って、貴方を傷付けて。


「本当にありがとう」


 私を助けてくれて。私を好きと言ってくれて。


「そして」


 昔から、ずっと昔から――


「キミの事が、大好きです」






























 各教室は大騒ぎになっているだろうが、防音処理されている放送室には騒ぎの音が聞こえる事は無い。

 そんな静寂の中、突然の告白に立ち尽くしていた直を後ろから蹴り飛ばした者が居た。


「いってぇ! 何すんだ良!」

「何か言う事があるだろうがこのバカ! とっとと言って来い!」

「う、あ、そう、だな」


 昼に同じ様な事やったくせに何動揺してんだ……と呆れる良。

 けれど、律の元へ向かう直を見て、直の居場所を隠していた事に気付かれずに、内心少しホッとしていたり。


 近くて遠い、律の元への距離。その途中、カメラの後ろに晴の姿があった。

 声に出さずに『おめでとう』と言う晴に笑顔を返し、直は律の元へと向かう。










 緊張の為に同じ手足を出しながらも、少しずつ近付いて行く二人の距離。そして、手が触れられる距離になった時、不意に律が口を開いた。


「私は、キミに酷い事をした、酷い事をしていた」

「あ……もしかして小学校の頃の事か?」


と直が言うと、律の顔が驚きに変わる。


「……何故それを?」

「さっきまで、理事長に聞きに行ってたんだよ。良も知ってるはずだけど」

「……初耳なんだが」


 直と律が良を睨む。やべ、と机の下に隠れる良。

 奴は後で潰すと心の中で誓いながら、辛そうな顔をする律に、直は話しかける。


「俺は、今の俺が好きだからさ。悪い事ばかりじゃなかったからさ、二条が気にする事無いよ」


 へらへらと笑う直。そんないつも通りの直に少し安堵しつつも、律は反論する。


「そういう問題じゃないだろう。今のキミは、キミが努力した結果だ。でも、その努力をしなければならなくなったのは私のせいだ」


 真剣に怒る律に、直は顔を引き締める。


「まあ、実を言うとまだ、釈然としないものは残ってる。記憶が無い不安感は、本当に辛いものだったから」

「……私に、何か出来る事は無いだろうか」


 律は必死に訴えかける。


「何でも良い。償いをしたいんだ。今まで何も出来なかった十数年分を直ぐ返せるとは思わない。思わないけど、少しずつでも、キミの為に何か出来る事は無いだろうか」


 詰め寄る律。考えている間にも、息のかかる距離まで律が近寄っている。


「あー……だったらさ、何にかえても欲しい物があるから、それかな」

「何だ! 何としても手に入れてみせよう!」

「そりゃ無理だな。もう手に入ってるだろうから」

「どういう……事だ?」


 そりゃ分からないよなぁと苦笑しつつ、間近に居た律の肩を抱く。


「きゃっ」

「お、可愛い悲鳴」

「な、何をするんだ……」

「んー、だから何にかえても欲しいもの」

「…………?」


 ここまで来ても分かっていないらしい律を、少し可愛いと思いながら、恥ずかしさを堪え、ストレートに言葉に出す。


「……俺に、二条と共に進む一生を下さい」

「……え?」

「二条も大分俺の馬鹿が移って来たか? 俺らまだ、付き合ってくださいって言ってないんだぞ?」

「あ…………」

「まあ、そういう事で」


 頭一つ分小さい律の背に合わせる様に背をかがめ。頭一つ分大きい直の背に合わせる様に背伸びをし、近付く二人の影。


「全く、俺らは……」

「……本当に」

『――馬鹿だな』






























「で、ずっとお前らのキスシーンも撮影してた訳だが」

「明日から学校の有名人の仲間入りですね」

「てめぇらぁぁぁぁ!」

「諦めよう、真壁君……」






























 彼女はごく普通に勉強が出来て、ごく普通にスポーツも出来て、ごく普通に容姿が良く、ごく普通に祖父が母校の理事長というだけのごく普通の女の子だったのです。

 しかし、ただ一つだけ違っていた事、それは……。





「彼女は、俺の奥さんになるのです!」





「……バージンロードでしかも小声で何馬鹿な事を言ってるんだキミは」










 学校での事件があってから、数年が過ぎ、幾度となく喧嘩し、幾度となく仲直りをしながら、直と律は、今日この日を迎えた。

 周りには、豪や晴、良など、高校を卒業して別の道へ進んだ仲間も駆けつけてきてくれた。

 幸せな、本当に幸せな日。けれど、直には一つだけ気掛かりな事があった。

 それは。


「俺って、尻に敷かれてるよなぁ……」


 付き合い始めてから気付いた事だが、律は本当に何でも出来た。家事に仕事、親戚の子供ですら律にしか懐かない。最初は勝つ事が出来ていた夜の営みですら、最近では文字通り尻に敷かれている事が多い。

 このままじゃ、親父の広い背中というものを、いつか出来る子供に見せられねぇ!

 とは思うものの……。





「はぁ……」

「どうした? こんな場所で溜息をついて」

「いや、お前に出来ない事って無いのかなって」


 そんな事があれば、俺に勝つ事も出来るんじゃないか。

 別に一つ勝てたところで大して変わらないだろうけど、それでもかすかな希望を胸に抱いて生きて行きたい。

 そう思い、直が聞くと意外にも律はあるぞ、と答えた。


「え、何?」

 律は『言葉にすると簡単で、とても難しい事だ』と言い、直に耳打ちした。










 パイプオルガンの音と共に奏でられる讃美歌。しかし、教会に響く歌声よりも、愛しい人の一言が、直には何よりも尊く聞こえた。

























『私に出来ない事はな――キミを嫌いになる事だ』