フローリア学園には教師ごとに与えられている数多く個室が存在する。
特に使い道は強制されておらずその使い道は様々だ。
ある者は授業の準備をするための作業部屋に、またある者は単なる荷物置き場に、中にはその部屋に寝泊りする猛者も存在するぐらいである。
そして、救世主クラス担当教師であるダウニー・リード、彼もまたこの数ある部屋の中の一室を利用する教師の一人であった。
彼は大量の資料や書籍を几帳面に詰め込んだ本棚に囲まれ、これまた几帳面に整理された机に向かい何か作業を続けている。
どうやらスラスラとペンをはしらせている音が聞こえることから、書類のようなものを作り上げているらしい。
作業を進める中一切止まらないその手つきが彼がいかに手馴れているかを物語っていた。
「……おや?」
突然、今まで流暢に動いていた彼の手がピタリと止まる。
そしてまるで何かを見つめるように、ある方角に視線を向けた。
「どうやら遊戯の時間が始まったみたいですね」
どこか楽しげな表情が彼の顔に浮かぶ。
彼の向いた視線の方向――それはちょうど闘技場が存在する方向であった。
――――――――――――――<Duel
Savior
黒の書 第20話>――――――――――――――――――
「うぐっ!?」
そんなうめき声と共に大河は地面に倒れこんだ。
そしてそれとほぼ同時にわき腹から襲ってきた痛みに一瞬顔が歪む。
傷口を見てみるとかなり出血しており、流れ出した血が着ている服を赤黒く染めていた。
(けど……ギリギリセーフだったみたいだな)
だが、そんな傷を負いながらも大河は笑顔が浮かんでいた。
そう、腕の中にいる傷一つ負っていない一人の少女――クレアの姿を見て。
それが、ギリギリのところで自分が身を挺した結果であった。
「た、大河……?」
飛び散った血で少し顔を汚したクレアが混乱した様子で自分の名を呼ぶのが聞こえる。
だが、そんなあたふたした表情も、彼の傷口が視界に入った瞬間一気に青ざめる。
恐らくこれほどの血を見たのは初めてだったのだろう。
聡明な彼女の頭脳もフリーズしてしまったらしく、状況に思考が追いついていないようであった。
「大河!!」
「大河くん!!」
「お兄ちゃん!!」
後ろから声が聞こえる。
振り返ると、慌てて駆け寄ってくるリリィ達の姿が視界に入った。
それを見て、傷口の痛みを堪えながらクレアを抱え立ち上がる。
「クレア、このままリリィ達と合流するからちゃんとつかまってろよ!」
「え――!?」
そしてそう言い聞かせると同時にクレアを抱えたままリリィ達の居る方に向けて走り出そうとして――。
「な、なんだ!?」
――突如、現れたスライムの軍勢に道を阻まれる事となった。
行き成り立ち塞がったスライムの軍勢に驚く大河。
だが現れたスライムはそんな驚く大河達に襲い掛かろうともせず、何を思ったのかスクラムするかのように重なりだした。
見る間に積み重なっていくスライム達。
そして数秒後――そこにはまるでレンガのように重なったスライムの城壁がリリィ達と大河達の間に出来上がっていた。
------------------
「あの娘ったら……悪戯にもほどがあるってのよ!!」
大河達のもとに走りながら愚痴を漏らすリリィ。
何しろまさかこのような事態になるなどまったく予想していなかったのだ。
幸いにも檻を開放したクレア自身は大河が間一髪のところで助けたため無傷だったが、一歩間違えれば大惨事であった。
「ベリオさん、早く!」
「ちょ、ちょっと未亜さん!?」
リリィの後ろでは、一番足の遅いベリオが未亜に手を引張られ足を縺れさせそうにしながら走っている姿が見える。
クレアを庇った結果、大河が傷を負ったのを目撃した未亜がこの3人の中で唯一治癒魔法を覚えているベリオを急かしているのだ。
「アイツもこっちに気づいたみたいね」
大河達との間が後数十メートルの距離までという所で、立ち上がった大河がこちらに向かおうとしている姿をリリィが捉える。
両者の距離たった数十メートル、共に近寄ればほんの数秒で合流できるだろう。
だが――。
「ちょ、ちょっと何なのよこいつら!?」
突然、リリィが走っていた足を止める。
目の前に行き成り巨大な壁――そう、まるでレンガのように重なったスライムの壁が立ち塞がったのである。
「リリィさんどいて! ジャスティ!」
だがリリィの後ろから走ってきていた未亜は止まらなかった。
目の前で立ち止まったリリィを邪魔だと言わんばかりに叫ぶと、そのままジャスティを構え――矢を放つ。
爆発力を秘めた数本の矢が大気を裂きながら突き進み、壁のように並んだスライムに直撃し、爆発した。
未亜は巻き起こる煙の向こうに、崩壊したスライムの壁を予想する。
「え、そ、そんな……」
――が、そんな期待も一瞬で崩れ去る。
何故なら煙が晴れたそこには、多少傷を負っているものの大半が無傷なスライムの壁が鎮座していたのである。
「なら、これでどう!」
一瞬呆けていたリリィだが、未亜の攻撃だけでは突破出来なかったを見るとすぐさま追撃を放つ。
「フレイズノン!!」
魔力が高まり、言葉と同時にリリィの手から解き放たれる凝縮された炎の塊。
そして放たれた火球はそのまま未亜が放った矢が着弾した部分へと直撃し、スライムの壁の一角を消し飛ばした。
「よし!」
自分の魔法でスライムの城壁の一角が崩れるを確認してガッツポーズを取るリリィ。
そしてその崩れた場所を駆け抜けようとして――。
「え、う、嘘……」
――目の前で瞬く間に別のスライムによって修復されていく壁を見て唖然とすることとなった。
「だめです……倒しても直ぐに元通りになってしまいます……」
リリィと同じく、別の場所を破壊しようとしていたベリオも落胆の声をだす。
たった数十メートル。
ほんの数秒で駆け抜けることができるはずの距離。
だが……今の彼女達にとって、それはあまりに遠い数十メートルだった。
---------------------------------
リリィ達がスライムの城壁に苦戦している一方、大河達もまた目の前の敵に苦戦していた。
「GUGAAAAAA!!」
引き裂くような唸り声上げながら大河に襲い掛かる一匹の白い獣、ワーウルフ。
先ほど大河のわき腹を切り裂い鋭い爪を振り上げながら絶え間無く攻撃を繰り返していた。
「た、大河!?」
「――っ!」
攻撃を弾くたびに衝撃が走り、塞がりきっていない大河の傷口から鮮血があふれ出す。
流れ出た血が闘技場の大地を濡らし、その度に大河の体力は消耗していった。
「くそっ!」
しかし、反撃を繰り出そうにも敵はそれを許してはくれない。
何しろ敵は――目の前のワーウルフだけではないのである。
「――っ!?」
突如、側面から襲ってきたスライムをトレイターで弾き飛ばす。
そう、大河の周りを囲うかのように展開しているスライムもまた、ワーウルフと共に攻撃を繰り出してきているのである。
「――くっ!」
だが、大河はそんな危険な状況の中戦っているにも関わらず攻撃を捌き続けていた。
傷を負い、クレアを抱えているため片手が塞がっているというそんな不利な状態にも関わらず……だ。
それは、ひとえに大河の技量よるものだけではない。
嘗て今以上に絶望的な状況下で戦い続けてきた時に得た経験、そしてその時に養われた状況把握能力と直感もまたそれに一役かっていたのである。
(くっ! やっぱり何かこいつ等おかしいぞ!?)
そんな状況下で攻撃を捌きながら、大河はある違和感に気づく。
自分が今戦っているモンスター、それは元々訓練用に用意されていたはずのものである。
だが、先ほどからの攻撃から感じられる敵のスピードとパワーは明らかに異常だったのだ。
(しかも、連携までとってやがる……)
そして、それを極めつけはこの統制された動きであった。
大した知能を持たないはずのモンスターが、怪我をした大河達とそれを助けに来たリリィ達を完全に分断するかく乱組、怪我をした大河を休ませないようにするために次々と波状を攻撃を加える攻撃組、そしてそれを補助する支援組といった具合に完全なまでに組分けされて行動しているのである。
(このままじゃまじでやばいぞ……)
いくら大河が状況把握能力に優れているといっても、もちろん限界はある。
何しろ唯でさえ傷を負っている上に、クレアを抱えたままでは片手しか使うことができないのである。
それに、モンスター達は先ほどからの止まることなく攻撃ニしているにもかかわらず、大振りの強打をあまりしてきていない。
まるで大河の消耗を狙うかのように持久戦に持ち込んできているのである。
(くそ、絶対ダウニーの野郎が何かしやがったな……)
この異常な状態の原因の最有力候補である人物の顔が脳裏に浮かぶ。
恐らく自分達がここに来る事をどこかで耳にして何か細工をしたのだろう。
相変らず嫌味な事をしてくれる奴である。
「GUBOOOOO!!」
「後ろだ、大河!?」
「――ちぃっ!!」
クレアの叫びと大河の舌打ちが重なる。
ほんの数瞬、思考の海に沈んでいた間にいつの間にか後ろに回りこんでいたスライムが体当たりを仕掛けてきたのだ。
どうにかすんでの所で回避をしたが、急激な動きをしたため傷口から更に血が流れ出てしまった。
(向こうは――まだかかりそうだな)
攻撃を捌きながら、一瞬だけ視線をリリィ達の方に向ける。
どうやら倒しても倒しても修復するスライムの壁に手を焼いているらしく、まだまだ時間がかかりそうだった。
(くっ、仕方ねぇ……)
最後の手段を使うことを決める。
(起きろ、アビス!)
力を封印している間、用事が済むまで眠っていると言っていたアビスをたたき起こす。
自分ひとりなら最後まで自分の力のみで乗り越えようとしたのだろうが、今回はクレアの安全が最優先なのだ。
(ふわ〜、主よ、もう終わったのか……?)
どうやら寝ぼけているらしく、もそりと懐の本が動いたと思うと間の抜けた声が脳裏の響いた。
(――って、一体その傷はどうしのだ!? は、早く治療を!?)
(そんな事してる暇はねぇっ! とりあえず今からいう事を良く聞いてくれ!)
大河の状態を確認して、眠気も吹っ飛んだのか急に慌てた様子で声を上げるアビス。
だが、大河はそんなアビスが落ち着くのを待っている時間もおしいといわんばかりに即座に命令を下す。
(たぶんダウニーの野郎が目の前のモンスターを強化させる何かをこの闘技場のどこかに仕掛けたはずだ。そいつを探してくれ!)
(わ、わかった)
焦る大河の声に、余り余裕が無いことを悟ったのか急いで周囲を探知し始めるアビス。
そして数瞬の探索のあと、闘技場のある一点に異常な魔力の流れが形成されていることに気づいた。
どうやら、そこがこの訓練用モンスターに異常な力を与えている原因らしい。
(わかったぞ、主!)
アビスがそう叫ぶと同時に情報が直接大河の頭に伝わってくる。
そのアビスが調べた場所に場所に視線を移す大河。
すると、そこには何かを守るようにその場所を取り囲む数匹のスライムの姿が見えた。
「あそこか!!」
「た、大河、ど、どうしたのだ!?」
「クレア! とりあえず今からちょっと激しい動きすっから舌を噛まない様に注意しろよ!」
「な、何をする気――っ!?」
突然の大河の行動に問いただそうとした瞬間、行き成り走り出した大河の動きに思わず舌を噛んでしまうクレア。
だが、今の大河はそんな涙目になっているクレアを労わっている余裕はない。
高めた力を一気に解き放ち敵の攻撃を掻い潜ると、ワーウルフの横をすり抜けるようにアビスが示した場所へと一直線に駆け出していった。
「――――っ」
急な加速に筋肉が軋み、傷口からどっと血が溢れ出る。
だが、それでも大河は唇をかみ締めるとさらに体を加速させていく。
スライム達もそんな大河を迎撃しようと、体をうねらせるが――。
「どけぇぇぇぇ!!!!」
――怒声と共に、その姿を剣からを斧へと変えたトレイターによって、その場所を守っていた数匹のスライムは一気に弾き飛ばされてしまった。
「あれか!」
守っていたスライムを弾き飛ばした奥の壁に、ラインを赤く輝かせた魔方陣が見える。
そして大河は間髪いれず、その魔方陣が描かれている壁に向かってトレイターで振り下ろした!
「――――」
破砕音と共に、砕け散る魔方陣。
そして、ソレと同時に今までそこに渦巻いていた魔力の本流が一瞬にして霧散した。
「GUBOOOOOO!!」
その直後、後を追いかけてきたワーウルフが大河に突進してくる。
だが、その動きはさきほどのそれよりも明らかに遅くなっていた。
「もう、おめぇなんて怖くないんだよ!!」
振り向き様に、トレイターを一閃する。
「GUGYAAAAA!?!?」
大気を引き裂く音が響き、次の瞬間には先ほどまでアレほど手こずっていたワーウルフが断末魔を残して真っ二つに引き裂かれていた。
「さて……おまえら、覚悟しろよ!」
ワーウルフを倒した後、大河は先ほどまで自分を甚振っていたスライム達睨みつけ、そのまま駆け出していく。
そして、散々やられたいた借りを返すかのように次々と残りのスライム達を屠っていった。
「これで……最後だ!」
最後の一匹をトレイターで切り裂かれる。
切り裂かれたスライムはそのまま溶けるように大地に消えていった。
「ふう……」
溜息と同時に今まで忘れていた傷の痛みと疲労が一気に全身を襲ってくる。
念のためもう一度周囲を見回して安全を確認すると、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように体から力が抜け、その場にどっと座り込んでしまった。
「た、大河……き、傷は大丈夫なのか!?」
「ん……ああ、心配しなくてもこれぐらいの傷なら大丈夫だって」
「だ、だが……こんなにも血が……」
単に緊張感が途切れて力が抜けただけなのだが、それをクレアが別の意味で勘違いしたのかしきりに傷の心配をしてくる。
大河自身としては別にコレぐらいなら本当に大した事がないと思っているためどうでもよかったのだが、クレアがあまりに心配するためこっそりアビスに治療を頼むことにした。
(わりぃ、アビス頼むわ)
(格好つけよって)
大河の頼みにそう文句を言いながらも治療を始めるアビス。
傷口を淡い光が包み、見る間に傷を癒していった。
(終わったぞ、主よ)
(ん、もう終わったのか?)
(ああ、流石に完全に癒しては怪しまれると思ったのでな、出血だけ止めておいたぞ)
(なるほど、確かに完全に治しちまったら怪しいもんな)
確かにあれだけの血を流しながら、実は傷一つついてませんでした等と言っては怪しいにも程がある。
アビスの心遣いに感謝する大河であった。
「ほら、良く見てみろよ。ほんとに大した事ないだろ」
大河はアビスの治療が終わったのを聞いた後、その治療済みの傷を心配するクレアに見せる。
そうして捲られた服の隙間から見えるわき腹には、数本の赤い筋が走っていた。
だがアビスの言う通り傷口事態は真っ赤だが、出血自体は完全に止まっていた。
「ふむ……確かに、大丈夫そうだな」
傷の度合いを確認したクレアがあからさまにほっとした表情を見せる。
普通この程度の傷口からではありえない出血だったのだが、よほど気が動転していたのかそれに気づいた様子はなかった。
「だろ? だからそんなに泣きそうな顔すんなって」
「――べ、別に泣きそうな顔などしておらんぞ!」
「そうか?」
「そうだ!」
先ほどまで涙目だった事を指摘すると、顔を真っ赤にして反論してくるクレア。
どうやら、やっと本来の彼女の調子を取り戻してきたらしい。
まあ、あのようなオロオロとした様子の彼女の姿など、前の世界では見たことがなかったため、ある意味新鮮だったといえば新鮮だったのだが……。
(けどまあ……これで大体分かったかな)
真っ赤になったクレアの顔を楽しみつつ、大河は先ほどのからある結果を得ていた。
それはあのような状況でも、下級とはいえ魔力によって強化された破滅の軍勢並の強さを持ったモンスター相手に、多少アビスの助力があったとはいえあそこまで戦えたという事実だった。
そしてそれはすなわち自身の実力が以前よりも上がっている証拠ではないかと感じたからである。
「どうしたのだ、大河? やはり傷が痛むのか?」
「ん、いや、クレアが無事でよかったと思ってただけだぞ」
いつの間にか黙り込んでいた自分を不審に思ったのかクレアが声をかけてくる。
どうやら思いのほか深く考え込んでしまっていたらしい、誤魔化すようにそう言いながら彼女の頭に手をのせる。
まあ、彼女が無事で本当によかったと思っていたのも事実なのだから嘘は言っていない。
乗せた手で軽く彼女の髪を撫でてやると、柔らかな髪質が手に伝わりそれが妙に心地よかった。
「すまぬな、大河……まさか私のせいでこんなことになるとは……この借りは必ず返すからな」
頭を撫でられながら、しおらしい態度でクレアが謝罪の言葉を大河に向ける。
「別に借りを作ろうなんて思って助けたわけじゃねぇぞ」
「そんな分かっておる。だが……」
「?」
「このまま借りたままというの私の主義に合わぬのでな」
そう言って顔を上げると、今度こそ彼女はいつもの笑顔で大河にそう宣言した。
「まあ期待しないでまってるぜ……っと、どうやらあっちも終わったみたいだな」
ふと、闘技場から騒がしさが消えたことに気づく。
クレアの頭から手を離し、そのまま立ち上がるとリリィ達が戦っていたはずの場所を見る。
すると、ちょうど最後のスライムが未亜のジャスティによって貫かれたところだった。
「お兄ちゃあぁぁぁん!!」
最後の一匹を倒した瞬間、こちらに向かって駆けだしてくる未亜の姿が見える。
よほど心配だったのだろう、そのまま飛びつくように自分に向かって抱きついてきた。
「ちょ、未亜、待てっ――うぎゃあああぁぁぁぁっ!?」
だが、怪我をしている大河にとってはそんな未亜の行為はたまったものではない。
未亜の抱きつかれた瞬間の衝撃と、腹の傷を締め付けるように巻きついてきた腕に、思わず大河はその場で悶絶した。
「お、お兄ちゃん!?」
まるで、カニのように泡を吹く大河。
先ほどまで重症の傷すらものともしていなかった人物とは到底思えないほど無様な醜態である。
「まったく……何やってんのよ」
「未亜さん、傷口を治療しますから少し離れててくださいね」
そんな無様な大河を見て呆れた声をだすリリィ。
ベリオも苦笑しつつ、悶絶する大河の上着の裾を捲り上げ、ユーフォニアを傷口に翳し治療を施していた。
「はい、これで大丈夫ですよ」
暫くしてベリオの治療が終わった。
既にアビスによってほとんど治療が完了していたのだが、その僅かに残っていた傷も完全に塞がっていた。
「そういえば大河」
「ん、何だ?」
「アンタ、ワーウルフ如きにあんなに苦戦するなんて情けないわね」
如何にも疲れたと言わんばかりにその場に座り込んでいる大河を見て、リリィが少し勝ち誇った表情をしながらそう言ってきた。
確かにリリィの言う通り、普通ワーウルフといえば多少訓練を積んだ者にとってはそれほど脅威ではないモンスターなのである。
「む、仕方ないだろ。何たってクレアを抱えながら戦ってたんだからな」
「ふーん……でも私ならそんな無様に傷を負ったりはしないわ」
「そんなこと言って……お前だってスライム相手に苦戦してたじゃねぇか」
「う……あ、あれは……ちょっと油断してたのよ!」
痛いところを突かれたのか少し声が詰まるリリィ。
もちろん大河も『普通』のワーウルフが相手ならばリリィの言われずとも、それこそ最後の一撃のように一太刀で終わらることが出来たのだが……。
「……まあ、今はそんな事はどうでもいいわ」
「ん、もういいのか?」
更に反撃が繰り出してくると思ったがあっさりと引き下がるリリィに大河は少し訝しげな表情を浮べる。
「ええ、それより大河!」
「な、何だ?」
「あの娘はどこ!」
「へ?」
「だ〜か〜ら〜、あのクレアっていう娘はどこって言ってるのよ!!」
そう言って肩を掴みながら鬼気迫る表情で怒鳴りつけてくるリリィ。
「ク、クレアならそこに……」
そう言って先ほどまでクレアが立っていたはずの場所を指す。
「どこよ……」
「あれ。確かについさっきまでそこに……」
「居ないじゃない!!」
「そういえば先ほどから姿が見えませんね」
ベリオも辺りを見回しながらそう呟く。
「どうやら……逃げられちゃったみたいですね」
「ぬわぁーーーんですって!? せっかくたっぷりとおしおきしてやろうと思ったのに!!」
「リリィさん……何だかキャラが変わってないですか……」
その場に地団太を踏むリリィを実ながら少し引き気味の未亜とベリオ
どうやら、クレアに口で負けたのがよほど悔しかったらしく、その仕返しをし損なったのが非常に残念だったようだ。
「それなら……さっさと後片付けをするわよ! でないともしもこんな事、お義母さまに知られでもしたら……」
「知られでもしたら……どうなるのですか?」
「――え?」
唐突に背後から声が聞こえてきた。
「お、お義母さま……!?」
「が、学園長!?」
行き成り現れたミュリエルを見て顔を真っ青にするリリィと驚きの声を上げるベリオ。
「リリィ……これは一体どういう事なのですか?」
「は、はい……実は学園を見学に来た子供が勝ってにモンスターの檻を開けてしまいまして……」
「それで、その子供とやらはどこにいるのですか?」
「それは……その、いつの間にかどこかに行ってしまったんです……」
しどろもどろになりながらミュリエルの問いに答えようとするリリィ。
しかし、残念ながらその証人となるべきクレアの姿はどこにもいないのであった。
「……もういいです。そのような言い訳は聞きたくありません」
「お、お義母さま……」
「とりあえずこの件の詳しい事は後で聞きます。 それよりももうすぐ召喚の儀式ですので早く準備をしなさい」
「は、はい……」
その後リリィは言葉を続かせようとするが、にべも無くミュリエルはその言葉を切り捨ててミュリエルは去っていった。
「お義母さまに叱られた……」
「リリィさん、学園長だってちゃんと理由を話せば……」
「お義母さまに叱られた……」
「リリィさん……」
「と、兎に角急いで準備をしましょう!」
「お、おう」
そい言って3人は落ち込むリリィを無理矢理引きずりながら走りだした。
「……やっと行きましたね」
4人が駆け出して言った後、二人の人物が物陰から姿を現した。
一人は先ほどリリィ達が探していた当人であるクレア。
「それにしてもよかったのですか、女王様?」
「ふむ、確かに大河達には悪いことしたと思っておる。それよりもダリア、お主の目から見てどうであった、あの四人は?」
そしてもう一人はこの学園の美人教師、同時に女王直属の密偵という裏の顔を持つダリアであった。
「そうですね、やはり攻撃魔法の扱いに関してはリリィ・シアフィールドが一歩抜きん出ているようです」
「ほう、私からは見えなかったが……やはりあのミュリエルの娘というだけのことはあるか」
「はい……あとはベリオ・トロープはほぼ資料どおり、支援魔法に長けているようでした」
「……そうか。それで肝心の残り二人はどうだったのだ?」
「はい、当真未亜の方ですが召喚器の形状通り後方支援型のようです。まだまだ荒削りな部分がありますが今後成長する可能性を秘めているようです」
「ふむ、それで大河の方はどうであった?」
「それが……その当真大河なのですが」
と、そこで少し言いよどむダリア。
クレアも珍しく眉を潜めるダリアの表情に少し訝しげな表情をする。
「む、大河の方がどうかしたのか?」
「技術自体は恐らく独学なのでしょうが、彼の動きが……その本人が言っていたようについこの間まで平和な異世界にいたとは思えないのです」
「ケンカでもして慣れていたのではないのか?」
食堂から闘技場に来る途中、未亜が兄がよく喧嘩っ早くて怪我ばかりして大変だと言っていたことを思い出す。
「いえ……それならば余計におかしいです」
「何がだ?」
「彼らの世界でいう喧嘩というのは恐らく命のやり取りをするようなものではなかったはずです。それにも関わらず当真大河は明らかに命のやり取りに慣れている、そんなイメージを受けました」
「それは……本当か?」
「はい……それどころかもしかしたら人を殺したこともあるのかもしれません」
「……」
その言葉を聞いて黙り込むクレア。
あの大河が命のやり取りに慣れている――例え接した時間が短かったとはいえ、彼がそんな人物だとは到底クレアには思えなかった。
食堂で交わしたあの会話や、普段のあの雰囲気が到底演技だとは思いないのだ。
「ですが……」
「どうしたのだ?」
「実は……こう言っている私も信じられないんです」
そう、そしてダリア自身もまた自分の言っている言葉が信じられなかった。
何しろダリアはクレアなどよりもずっと長い期間、大河達救世主クラスと接してきたのである。
もしも、大河が自分のいうように修羅場を何度も潜ってきたような人間ならばとっくに気づいていてもおかしくないのである。
それに、なにより妹の証言があった。
何しろ向こうの世界では一緒に暮らしていた二人なのである。
妹まで嘘をついているのならわからないが、それでもそんな嘘を付く理由が思い当たらないのだ。
「ともかく、今後も報告をよろしく頼む」
「わかりました」
「それに、救世主クラスだけでなくミュリエルの動向にも注意しろ」
「はい、それは常々注意しております」
「よし、ならば私もそろそろそのミュリエルのところに向かうとするぞ。流石にこれ以上何かしては怪しまれるからな」
「わかりました」
そう言ってダリアは学園長室を目指して歩いていくクレアを見送った。
(まあ、女王様にはああ言っちゃったけど……本当はそれだけじゃないのよねぇ)
だが、クレアが去っていくのを見ながらダリアは別の思考を巡らせていた。
クレアにはああ言ったものの、実はダリアが感じ取ったのはそれだけではなかったのだ。
(あのこったら……どこか危うい気がしたのよね)
そう、ダリアが感じ取ったもう一つの印象。
それは戦いの最中、ほんの一瞬だけだがまるで彼が今にも壊れてしまいそうに見えてしまったのである。
(…………)
ダリアがそんな思考に耽っていたちょうど同じ頃、アビスもまた一人思考の海に浸っていた。
『……心配しなくてもこれぐらいの傷なら大丈夫だって』
この言葉がアビスの頭の中で何度も反芻される。
(――これいぐらいの傷なら大丈夫、だと?)
あの時、大河が大した事が無いといった傷、それは本来医者等に見せれば即座に手術室に直行と言われるようなレベルの傷であったのだ。
後、ほんの数センチ深く抉られていれば内臓ごと抉り取られていたであろうほどの深い傷。
常人ならば、その場で悶え苦しんでしまうほどの痛みを発するはずの傷である。
だが、それを大河自身は本当に大した事がないと思ってしまっていたのだ。
(大河……やはりお主は……)
本の姿をした自分の表面に僅かに付着した大河の血。
時間が経ち、その色をすっかり赤から黒へと変貌させていた。
(やはり私は……どこまでいっても『黒』の書というわけか……)
この日、黒き書がまたその黒さをより色濃くした。
あとがき
今回は比較的早く執筆が進みました。
とりあえず次がカエデ召喚編ですね。そろそろアビスを登場させる機会が増えてきそうです。
しかし真面目な時のダリア先生の口調ってこんなものでいいのでしょうか……と思いながら書き綴った文章でした。
まあ、なにはともあれ、次回21話でまた会いましょう。