僕は、いつまで僕でいられるのだろう。
 いつも見る夢。
 僕のかけらが、手のひらからこぼれ落ちていく悪夢。
 僕が僕でいられる時間の砂粒が。
 だんだんと僕の手からすり抜けていって。
 最後の一粒になったとき。
 いつも聞こえる声。

「ひゃっほーぃ! 国崎さいこぅ〜!」

 …誰の言葉とも分からないそれを。
 それだけを、僕は大切に心の中に抱いて。
 その言葉だけを支えにして。
 そうすれば、僕は、絶望に満ちた時間を、もう少し生きていける。
 僕はいつまで感じていられるだろう…。
 いつか……その言葉さえ失ったら。
 それでも僕は生きているといえるのだろうか?







秋桜の町で  〜黒色の往人〜(前編)           By 嶺次









「だぁぁぁっ!?」

 がばっと体を起こす。

 …そして世界が回る。

 ズゴッ!

「いってぇぇぇぇぇっ!!」

 頭からフローリングの床に落下し、仰向けに倒れた。
 いきなり、何がおきたんだろう?
 このままでは読者様どころか、作者も展開についていけない。
 見上げた視線の先では、俺が愛用しているハンモックがゆらゆらと揺れている。
 まだ意識の覚醒が済んでいないが、状況の分析を行おう。
 床で寝そべる俺と、真上で揺れるハンモック。
 この状況で考えられることは、…3つ。

  @誤ってハンモックから転落した。
  Aお姉ちゃんと女体祭りの末、ハンモックから転落した。
  B実はこれは夢であり、現実の自分はまだ寝ている。

 最有力なのは、やはり@だろうか?
 いや、ここはひっかけがあるのかもしれない。
 むしろ、三択ということに疑問を持つべきだ。

「十人十色、答えは星の数だけあるのになぜ3つに絞らなければならない」

 いかん、眠気漂う俺はなんというか哲学者だ。
 古代ギリシャで暇人どもと人間の真理について話せる気分だぞ。

「オミくん、おっはよ〜!」

 ガチャっとドアが開いて、ロングヘアの少女が現れた。
 彼女は桜橋涼香といい、この新沢靖臣の幼馴染だ。
 となりに住んでいる一歳年上のお姉ちゃんでもある。
 いつも身の回りの世話を焼いてくれ、俺を甘やかしてくれる。
 そんなお姉ちゃんを、俺はすずねぇと呼んでいる。

「どうでもいいが、ドアの開く音が『ギィ…』とかだと、どこかの洋館みたいだな」
「…オミくん、なに朝からわけの分からないこといってるの?」
「洋館と言えば、もちろんメイドだな」
「まだ寝ぼけてるのね…ほら、オミくんおきて」
「主人を起こすときは、すずねぇの女体祭りだな」
「朝から何言ってるのオミくんっっっっっっっっっ!!!」

 すずねぇが俺の目蓋を引っ張る。
 両手で両方の目蓋を限界まで伸ばす。

「いっ、いててててててっ!」
「オミくん、目が覚めた?」

 ぱっと目蓋から手を離し、俺の顔を覗き込む。

「お、おう、おはようすずねぇ」
「はい、おはようオミくん」

 何事もなかったかのように挨拶をする姉。
 気のせいか、目蓋がとても痛い。

「すずねぇ、さっきのはいささか過激だとおもうのだが」
「だって、オミくんちっっっっっっっっっっっとも起きてくれないんだもん」

 相変わらず言葉に溜めの多い人だ。
 肺活量が常人の3倍はあるのだろう。

「オミくんが起きてくれないから、もう急がないと遅刻の時間だぞっ」
「えっ?」

 時間を見れば、確かにいつも家を出る時間の5分前だ。

「うをっ! もうこんな時間なのか!?」

 俺は慌てて寝巻きを脱ぎ…脱ぎかけて止まった。

「…すずねぇ、なぜ見ているんだ?」
「なに、お姉ちゃんが見てちゃ駄目なの?」
「いや、駄目というか…」
「あ、そうか、脱がして欲しいのね? はい、バンザーイして♪」
「バンザーイ♪ って違うわっ! アホかっっ!!」
「恥ずかしがらなくていいのよ? 一緒にお風呂に入った仲じゃない♪」
「何年前だ! さっさと出ていけ!!」

 すずねぇを追い出し、マッハで着替える。
 …今日から俺は音速の貴公子、『マッハ新沢』だな。



「お待たせすずねぇっ!」
「オミくん急いで!」

 外に出ると、すずねぇが俺の愛車『オミクロン号』を用意していた。
 うむ、まさに阿吽の呼吸とはこのことだろう。

「音速の貴公子、マッハ新沢! いざ参る!」
「…オミくん、ちょっっっと格好悪いネーミングね」

 すずねぇの切なげな台詞を聞き流し、オミクロン号のペダルに足をかける。
 毎日俺は、すずねぇを荷台に乗せて自転車をこいで行く。
 ここ、七坂の地は緩やかな上り坂が多く、登るのも一苦労だ。

「そういえばさ、あさ不思議な夢をみたんだ」

 自転車をこぎながらすずねぇに話しかける。

「え、どんな夢?」
「いや、なんか断片的なんだけどさぁ…」

 夢の内容を思い出す。
 思い出そうとすれば、もやがかかったように遠ざかる記憶。
 賑やかな人々の喧騒、それを見つめる俺。
 そして出てくる人名。

「ん〜、国崎がどうたらこうたらって」
「国崎さんてどなたなの?」
「知らん」

 辛うじて思い出せても、こんなもの。
 だが、不思議と変な夢だったということを覚えている。

「まぁ、覚えてないってことはどうでもいいんだろ」

 結論付けて学校への道のりを急ぐ。
 …そして、見てしまった。
 道端で人形を大事そうに抱えている黒服の男を…。

「すずねぇ、今日もいい天気だなぁ…」
「ええそうねオミくん、ピクニックとか楽しそうな陽気ね」

 すい〜と黒服の要注意人物の前を通り抜ける。

「まて、頼むから不自然な会話をしながら目をそらさないでくれ」

 黒い人が、自転車の後ろにしがみ付きながら話しかけてくる。
 地面に足を着き、自転車に引かれる様はまるでウォータースキーだ。

「お、おい! なんでしがみ付く!?」
「ちょっと話を聞いてくれないか!?」

 銀色の前髪で隠れて片目が見えないが、覗くもう片方の目は恐ろしく鋭かった。

「ば、これから俺たちは学校だ!」
「す、少しでいいからっ! ちょっとアドバイスを…ぐはっ!」

 後ろからくぐもった声が聞こえて振り向くと、怪人黒服男は仰向けに倒れていた。

「オミくんっっっ! 急がないと遅刻するぞっっっっっっ!」

 …お姉さま、一体何をなさったのですか?
 聞くのが怖かったので俺は学校に全力疾走した。