「三流桃園」

 騒音も無く、友もいず、女も存在せず、水前寺は相変わらず、昌穂も醒め、いつの間にか冬が来ていた。
 浅羽は十五歳、三年になっていた。去年の夏、十四の頃か。その時しか、浅羽に激動の時は訪れず
 何も起きなくて当たり前の中学校生活を本能のまま過ごしていた。行かなくてはいけないという
 義務感から学校に行くだけでは、何も起きなくて当たり前なのかもしれない。それに
 気付きながらも、浅羽は半ば勉学を納める為に園原中学に向かうだけである。
 自分は、何をしているのか。こう考えていると、自分は人生について悩んでいるしっかりした中学生
 という錯覚に陥ることが出来る。行動で示さなければ何も意味も持たないが、それは去年の夏で、全て
 使い切ってしまった。今思えば、十四の夏は、現実世界が次々と変わっていき、自分がついていけなくなる
 ぐらいの時間の激流に、体が流されていっていた。間違いなく、浅羽直之という普通の中学生に
 新しいもの、本来なら経験の出来ないこと、現実の世界の本当の姿を真正面から見せてくれた。
ただ、浅羽は肝心なことを忘れていた。何度死んでも経験できなさそうなその世界の中で、成長を掴み取る
 ことが出来なかった。伊里野が空に飛んでいった時、浅羽は今更のように、何であの時に、と後悔していた。
 なぜ、伊里野を止められなかったのか、何故、伊里野を罵倒してしまったのか。どうして、伊里野にもっと
積極的に口だけでなく、行動で理解不能の心をぶつけてやれなかったのか。後悔すると、毎回根元にまで
 遡っていく。
 これが人生なのかもしれない。浅羽が思っていた以上に、現実世界は当たり前のものと思っていたものを
駆除していき、新しいものだと思えばそれが当たり前のものになっていき、それもまた破壊されてまたもや
 斬新なものが生まれ出てはそれも習慣になり消えていく。世界の本当の姿を、今更知った。今となっては
伊里野がいない世界が当たり前のものとなっている。しかし、浅羽はそれを受け入れることが出来ないまま
 現実世界を過ごしている。いい加減に、腹を決めろ。時々、そんなことを思ったが、伊里野のいない現実世界を
受け入れられない浅羽は、当たり前のものを次々と失っていった。


「僕、新聞部、やめます」

「何故かね?」

 新聞部、正式名称は園原電波新聞部の部長、水前寺邦博は眼鏡のずれを直し、椅子に座ったまま浅羽の目を
 じっと見つめている。普段は興味の示さないこと以外は目にもかけない男だが、浅羽のこの言葉は余りにも
突然過ぎて日本が宇宙戦争に巻き込まれるよりも予想外のことだったが為に、顔は冷静でも内心は
 ありとあらゆるものが静かに錯乱しているのだろう。断定出来た。

「新聞部にいる意味が、無くなった気がするからです」

「そうか」

止めることなく、水前寺は椅子をくるりと回し、机に置いてある何かの書類に目を通し、

「俺は無理にとは言わない、浅羽特派員の意思を尊重しよう。気が向いた時に、また入部なりしてくれ」

「はい」

 新聞部から、浅羽直之は消えることとなった。UFOが題材で無くなった今、ここにいる意味が無いからだ。
去年のあの題材が無ければ、浅羽が退廃的になることもやらなければいけないことも、知ることは無かっただろう。
 夢は、終わったのだ。自分は、その夢の中ですら、何かを成し遂げられることが出来なかったのだ。


 友人であった花村、西久保は、何かを掴み取ったのだろう。浅羽とほとんど話しもせず、掴み取ったそれに走ることに
 没頭している。元々、浅羽よりは積極的だった男達だ。移り変わりの激しい世界を受け入れ、二人は
生きていることを無意識のうちに実感しながら、寒い冬の中を歩んでいるのか。
 自分は、伊里野がいるしか生きているとは思えない、過去に縛られた男なのか。伊里野がいなくては駄目だという
 考えは、激動するこの世界の中では、全く持って愚かな考えだということは自覚している。
 自覚しているからこそ、失わなくてもいいものまで、消えていった。消えたのではなく、手放していったのだ。
吹っ切れては、伊里野のことを忘れたのと同じだからなのか、あるいは伊里野のいない世界など認めたくない
 という下らない意地のせいか。どちらも意味は同じであり、浅羽はただ現実を怠慢な気持ちで泳いでいるだけに過ぎない。


 須藤昌穂もだった。いつかその時が来たら、伊里野のことを話す、と浅場は言った。
その時とは一体いつだっただろうか。別に、稲妻が鳴り響く大雨の時でもなければ浅場や昌穂が泣き叫んでいる時でも
 何でもない、当たり前の日常の何処かで話していたような気がする。
ただ一言、伊里野加奈は大事な用があって、園原中学から消えた。多分、二度と会うことは無い。そう言った。
 昌穂は号泣することも驚くことも無く、呆れたように、「はぁ、そうですか」とだけ言った。予測出来ていたのか
伊里野らしい消え方だ、とでも思ったのか。
 部活から去っていった後は、昌穂との接触も自然と消えていき、花村と西久保同様、浅羽にとっては
いて当たり前のような、会話に飢えた時に有効な女性、という考えに変わっていた。
 時々、机に座ったまま浅羽に目を合わせる事はあったが、それもなくなってしまった。
昌穂がそういうことをした時、浅羽は何故か、心が硬くなっていた。昌穂が、浅羽に伊里野のことを
 吹っ切らせる何かを与えてくれる、とでも心の底では思っていたせいかもしれない。
怠慢気味に、そういう期待を抱いたまま、昌穂は浅羽の目を見つめることはもうしなくなった。原因は自分にも
 あるのだろう。目を合わせた時に、声なりをかけてやらなければ、待ち受けている昌穂もやがては興ざめする。
こういうところがあるから、何も掴み取ることなく、時を過ごしていくのだろう。そうしているうちに受験、来年は高校入学。
 浅羽が何もしなくても、田舎町であるはずの園原市もまた、いて当たり前だった航空機が空から消えていった。
本来の姿の園原市に戻るのではなく、新しい姿にへと移っていく。それでも町は、それを拒むことなく
 時代の流れを認めながら、今日も園原市の形を維持していく。そして浅羽は前にも後ろにも進まず道を歩んでいくのだ。
前の自分を未練も無く置き去りにして、新しい自分に移り変わっていく水前寺が浅羽を見たら何と表現するのか。
 「おっくれてるー!」とでも言うのか。それとも「それもいいだろう」と評価するのか。

 恐らく後者だ。現実逃避をしてしまっている人間を、真っ当な評価を下すのは時間の問題だ。
 それに、水前寺とは半ば、縁を切ってしまっている。無関係な人間を評価どころか、批評することなど
時間の無駄でもあるし、そんなことなど、頼んでも興味も抱かないだろう。自分はそんな男になってしまった。
 クリスマスになろうと、現実世界は浅羽が止めたままで、自宅である床屋は、外の騒音を遮断してしまっている。
なぜだかこの時、家族がいないこの家が、より一層と自分の家だと思った。外は相変わらず
 クリスマスソングや、男女の笑い声が鳴り響いているが、それが逆に静寂さを漂わせる要素となっている。
 悪意も善意も音も無いここが、何故だか居心地がいいと浅羽は思った。むしろ一体化していた。
浅羽は目を閉じる。音も怒りも笑いも出さない自分だからこそ、ここが本来いるべき場所なのではないのかと
 何もかも失った気がする浅羽には、何も失うことが無いここが相応しいのではないのかと。外の音が消えた時こそ
浅羽は何も無い世界に消えうせて、得るから失う現実世界を跳躍して遮断された、今の家という世界を
 一生彷徨う時なのだろうかと。
馬鹿馬鹿しい。
 そんな思考はすぐに消えた。今の浅羽に相応しかった、のではなく否定できなかったせいかもしれない。
突如として、電話が鳴り響く。他人からの介入に繋がるそれは、浅羽を現実世界に連れ戻してしまった。
 一体、何なのか。家族は今、いないのだ。苛立ちながら、浅羽は電話を取る。

「はい」

「榎本ですが、浅羽君いますか?」

 聞き慣れていたようでいつの間にか何年かぶりに会った親友のような、懐かしくも体が熱くなっていくそれが
受話器から聞こえてくる。ただの声は、浅羽にとって、余りにも突然すぎる稲妻として耳に届いていく。

「ぼ、僕ですけど」

「おお、おお、久々。覚えてるよな? 俺のこと」

 忘れはしまい。無我夢中とはいえど、中学ニ年が銃を持ち、人に向かって連射した相手だ。
 伊里野の人生を一番理不尽と思っていて、自分とは違っていそうで根本的には同じであって、自分に
生きていることを実感させてくれた男なのだ。声を聞けば、最初に思い出すのは血を噴出す榎本の姿であるが。

「はい、覚えてます、けど」

「よしOK黙って聞け。ある時間に六番山に行け、いいな。そこにクリスマスプレゼントが戦闘配置されている。かーっ、陳腐な
物言いをミリタリー風に言ってみたがパッとしねぇな」

 榎本が何かぼやいていたようだが、最初の部分しか、浅羽の耳には届いていなかった。
真っ先に、受話器を耳から離しながら、壁に飾られていた時計を見る。十八時一分。

「いやぁもうすげぇのなんの。宇宙人どもの圧倒的な数を前にして、伊里野の奴、それらをバカスカ落としていくの。
こういうのを一騎当千っつーの? 本来なら限界とされた損傷をものともせず、あっという間に殲滅さ。後は逃走した
数が少なくなった得体の知れない奴らをけちょんけちょんにするだけで、おい、聞いてんの?」

 浅羽は笑った。榎本が「どうしたんだ」と叫んでいるようだが、浅羽はそれでも笑い続けた。
 成長したのではなく、他人に生きる希望を持たせていたのだ。去年の夏は、生きがいも無く、ただ命令に
従うだけが許された人生の女に、女自身の生きる希望を掴み取らせる為の長い時だったのだ。
 それを知った途端。外の騒音が家の一部になった。クリスマスソングは浅羽に対しての
祝福の歌に、男女の笑い声は浅羽への歓声に。錯覚ではなく、現実のものだと浅羽は断定した。
 榎本は「大丈夫か?」と言っているが、大丈夫ではない。体の中が炎に焼かれている。
 心臓は火に炙られ、錯乱するかのように激動してしまっているし、体は宿主の感情を読み取ることが出来ずに
好き勝手に興奮し、肌を熱くしてしまっている。

「あ、あぁ、すみません。えっと、ある時間に六番山ですね?」

「そうだ。勿論監視はつくだろうが、決して前には出さねぇ。何せクリスマスだからな、うん」

「そうですか、分かりました」

「んじゃ、ある時間でまた会おう。俺じゃないけどな」

 相手が切る前に、浅羽は間髪入れずに受話器を置く。すぐさまジャンパーに着替え家の鍵を閉めて
走ることなく誰も近寄るはずの無い六番山にへと歩んでいく。
 夜をどう過ごすか楽しげに話す男女。
 サンタは本当にいるんだよ、と語る母親。
 プレゼント購入の催促をする店員。
 いかがわしい店への入店を薦めるサンタ。
 新しい道を歩むために進んでいく浅羽。
 何もかもが、クリスマスにとっては必要なものだらけだ。勿論、自分もこの時に必要とされている。
浅羽がいなくては、六番山に配置されたクリスマスプレゼントの意味が無くなってしまう。
 歩んでいる最中に、時間内に来なかった場合のクリスマスプレゼントの反応を考えていることもあった。
 何故だか、決まって、クリスマスプレゼントは困った顔をしながら、泣き出しそうな顔をしながらその場に座り込んでいる。
それだけだった。妄想は、都合よく解釈するためにある、人間だけが備え持つ機能だ。だから自分に対して
 不都合な結果など無いのだが、現実でも何故だかそうなる気がする。明日になれば
白衣を着た年上の女性が家に怒鳴り込んでくるに違いない。


 前とは違って、時間に余裕を持ちながら六番山に足を踏み入れた。ただの山が雪に埋もれてしまえば
あっという間に幻想的な光景、というものに早変わりである。雪に埋もれ、今もなお、冬の到来を
 人間に実感させるために降り続ける雪が、曲がりくねった舗装路を白の海に変えていく。
山頂は一体、どんな光景になっているのか。単調で何も無いところだから、余計に想像できない。
 矛盾だったが、それがいいと浅羽は思った。山頂に行けば、光景に目を奪われる暇も無く、クリスマスプレゼントに
心までもが独占されてしまうだろうから。
 八回目のゲートを潜り、幸せを邪魔する悪魔の手先、木製のバーを面倒くさそうに押し上げ、最後の試練である
はずの二メートル近いフェンスを軽くよじ登り、心臓破りの坂をものともせずに歩んでいく。
 ここに来て何故だか、一週間かけて説明しても言い切れない、去年の夏のことが、唐突に頭の中に流れ出す。
前は、自転車通学で鍛えた足でこの坂を登った。今となっては、過去を背負いながらも、今を強く生きる決意を
 持たせる時間を与えるために、坂は長くなっているような気がする。坂すら、自分を前に歩ませることを
推奨してしまっているのか。余りにも都合が良すぎて、クリスマスに知り合いからプレゼント差し上げ宣言。
 全く持って展開が三流だったが、行く先は浅羽が望んだ桃園であることには変わり無い。
体は火照ってしまっている。プレゼントを貰うことが嬉しくてたまらないのか、先に進んでいく自分に惚れてしまったのか
 都合が良すぎて、世界に対して喜びと、矛盾した恐怖を抱いてしまっているせいなのか。
全てが正解なのか、当たりなど無いのか、何もかも外れているのか、ただただ熱かった。

 そして、いつの間にか山頂へ。昔から、そして去年からここは変わっていない。伊里野と出合った光景のまま、ここは
何時までも草原のまま。雪のせいで大半の草は見えなくなってしまっている。それでも、季節が変われば
 戦闘機が上空で踊っていた草原に元通りになる。六番山の草原だけが、新しくも古くもならない、時間が
止まった場所にさえ思えてくる。
 現在は、十八時四十分。新しく買い換えたばかりの腕時計が伝えているのだ、間違いない。
念のためもう一度確認する。十八時四十一分になっていたが、早く来たことには変わりは無い。
 音も無く降り注いでいた雪が、何も語らず降らなくなった。誰の手も借りずに、雰囲気というものに
手伝ってもらわずに、自分の手で何とかしろいうのか。浅羽の体に、力が入っていくのが分かる。
 ここで何も出来なかったら、後は無いだろう。それだけは、確信出来る。二度目は無いのだ。伊里野は
逃げられない人生を歩んできた、自分はずっと、自由があるのに自由を拒んだ。縛られることを選んだ。
 男として、情け無い生き方はもうたくさんだ。自分に渇をいれていくと、ますます不安が立ち上る。それでも
 体は熱くなっていく。伊里野に何か言え、と何者とも知れぬ何者かが叫んでいる。
やってやる。全てを言い尽くしてやる。煮えきらぬ結果なぞいらない。

 そして、クリスマスプレゼントは浅羽の真正面から、堂々と、それでいて不安そうに、ゆっくりと近づいてきた。
遠くでも、見間違えるはずが無かった。
 伊里野加奈。浅羽直之の未練であり、全てであり、自分を縛ることとなった、根源。
 だが、伊里野は何もしていない。全ては、自分の弱さが招いた結果でしかない。
 伊里野にあたった瞬間、それは前の繰り返し以外に他ならない。伊里野は浅羽に責められるよりも
 辛く、縛られ、ましてや命の危険性がある人生を選ばされたのだ。
そんな伊里野に責めるとはどういうことだ、浅羽直之。男として、恥を知れ。

「浅羽」

 無感情で、それでいて何かを求めている声調。見間違えも聞き間違えもしない。目の前で突っ立っているのは
伊里野加奈だ。
 格好は、サンタクロースの衣装。ただし下半身はサンタミニスカート。間違いなく、椎名真由美の入れ知恵だ。
 全てを語り、謝罪をし、認めたくなかった罪を認めた手紙を送ったことがあったが、根元は
相変わらず変わってはいないらしい。

「浅羽、その、あの」

「伊里野」

 受けることはもうやめだ。伊里野に告白はした。だが、あれでは不安だ。あの時は中学生の模範を超えた
 緊急事態であったために、誠意が伝わっていないような気がする。あの時は、雰囲気に流されるがままに
告白をした。安っぽい決意だったと、浅羽は心の底でずっと思っていた。

「伊里野は頑張った、凄く頑張った。おじさんから全て聞いたよ、伊里野は悪い宇宙人を一人で片っ端から
破壊し続けたって」

 伊里野の顔が真っ赤になる。顔が元々白っぽいせいか、露骨に恥じらいが伝わってくる。
浅羽は嬉しくなり、

「で、損傷が限界超えても、何故か動けて宇宙人を破壊できたってわけだ。うん、理由は分かるよ」

  伊里野は、浅羽の目をずっと見つめたままだ。うつむくことはもうしない。うつむいたら、お互いが消えてしまう。
 逃げたらそこで終わりなのだ。全てを受け入れ、現実世界を歩むために全てを吐き出す。
伊里野というクリスマスプレゼントをきっかけに、世界を受け入れていく。もう、迷いはなかった。

「伊里野は自分だけの生きる希望を掴んだから、戦闘機に力が影響したんだ、きっと。凄い臭いけど、現実で
臭い展開っていうのは、全然悪くないと思う。というかいいと思う。流されていく人生のままだったら
伊里野はきっと、負けていたと思う」

嫌な顔一つも出さない。肯定しているのだろう。

「伊里野、もう一度言う。僕は君のことが好きだ。君が半ば行方不明になっちゃった時から、僕は
何もかも駄目になっちゃってて。それほどまでに伊里野加奈のことが好きになっちゃったんだと思う。
あと、それと、去年は色々と不甲斐ないことをしてしまって、本当にごめん!」

 物凄い勢いで、頭を下げた。脳が一瞬だけ動転し、理性が一時だけ止まった。
結果的に目をそらすことになってしまったが、窮屈さから伊里野を拒絶してしまったこと。これがあったから
 浅羽は止まることとなってしまった。
ふと、思った。謝ったのはこれで二度目だ。伊里野が行方不明になる直前に、浅羽は全ての気持ちを吐き出したのだ。
 頭を下げた瞬間、人生を大きく揺さぶったそれを忘れてしまうとは、決意をしたとは裏腹に、かなりの動揺を
隠せないでいるらしい。

「浅羽」

「う、ん?」

 一度見失った伊里野が、果たしてそこにいるのか。伊里野だからこそ、声だけ聞こえて姿は見えない、という
 こともあるような気がする。本当に好きな人というのは、決まってすれ違ってしまうものだ。本当に好きだから
 真正面から突っ込もうとして、微妙に路線が違っていたりしても気付かず、突っ込んでしまう。
実に滑稽だった。だが、それが現実なのだ。ここで頭を下げたままでは、世界を冒涜している以外何者でもない。
 だから、浅羽はゆっくりと頭を持ち上げていき、

「こっちもごめん。その、ずっと、浅羽の前から消えて」

 正常位に戻る。強張っていた顔をゆっくりと落ち着かせ、緩みきっていた決意を再び拘束する。
 伊里野も、浅羽から目をそらさない。人見知りの激しかった伊里野が、他人の目をずっと見つめる時なぞ
命令された時以外、ほとんど無かっただろう。
 自分は今、伊里野に期待されているのだ。ここで伊里野を喜ばさなければ、自分は草原の中心で分子分解され
 消えゆくしかない。ここで未練を残したまま終わらせてしまえば、自分という存在は次元から否定され
 自分を否定する。
浅羽直之は必要だった男。それを証明しなければ、自分を好きにならなければ、前に進むことは出来ない。

「伊里野」

強く言おう。浅羽はそう思った。

「生きて帰ってきて。再び会える時は、すぐにでもなくてもいい、笑える女の子になって欲しい。
僕は伊里野加奈のことが好きだ。浅羽の為に死ぬ、なんてこと考えたら、僕は伊里野のことを嫌う。
自己犠牲なんてのは架空世界で十分だから」

 間をおく。伊里野に理解させる時間を持たせるためだ。
見えはしない。ただ、確かに伊里野は震えている。

「生きて帰ってくることが、僕の願いなんだ。死んでもかまわない、なんてことは絶対考えないように。
そんな考えじゃ生きられる戦いも生きられない。敵を必ず倒して日常を取り戻すために、僕の為に帰ってくる。
それが僕の願いであって、伊里野にとっても必要なことだと思う」

震えが止まる。相変わらず無表情だったが、目は光を持っていた。

「伊里野は地球を救う正義の戦士であって、大偉業を成し遂げた後は校長に餌やりながら床屋さんをやる
普通の女の子になるんだから。というか僕と一緒に人生を歩もう」

 最後の言葉が果たして伊里野に理解できているかどうか。とにかく、言いたいことは言った。
 必ず生きて帰ってくること、二度目の謝罪、二度目の告白。何もかも二度目だった。だが、魂が
砕けそうだった。血が、体の中で熱くたぎっている。目からは、涙が流れ落ちようとしている。

「浅羽」

 伊里野は、無表情のままだ。さすがに、不安がつのってきた。何かが足りなかったというのか。
伊里野を笑わせることは、出来ないまま終わってしまうのか。

「わたし、もう、いかなきゃいけない」

「そう、か」

 言い足りなかったのではなく、言いすぎたのかもしれない。余りにも与えられた過激な情報量に伊里野の
 理性がついていけず、浅羽はわけの分からないことを言う男、と思われたのかもしれない。
確かに、全てを伝えた。伊里野の向こう側は、黄色い点が目立つ町が映し出されている。
 あれらは、クリスマスを優雅に過ごす男、女、子供の印に見える。自分は、光の無い六番山山頂中心で
雪の一部と成り果てるのか。

「だから、その、目をつぶって」

「う、うん」

 自分が消えていくさまは、もう見られたくないということなのか。目を閉じたら、二度と
 会えないということは分かりきっているのに、伊里野を笑わせることが出来なかったせいもあってか、雰囲気に
流されるがままに伊里野の存在を消した。
 前と同じ繰り返しだ。誰に言われなくとも、そう思ってはいた。だが、過激なことを言い過ぎた。
 伝えたいことを伝えればいいというものを、考慮していなかった。こういう肝心な時に失敗するから
浅羽は幸せになれないのだ。自分の本当の欠点とは、こういうところなのかもしれない。
 自虐と自嘲の感情が、腹の底から芽生えてくる。間髪いれずに口元に柔らかい感触。
暖かかった。黒い炎はあっという間に消えうせ、水になっていく血が、激流し、熱くなっていく。
 ほんの一瞬だった。それだからこそ中学三年十二月二十五日は忘れえぬ日となり、浅羽は
明日になろうが、明後日になろうが、目を閉じながら伝わった暖かみを忘れることは無い。

「椎名が、浅羽のことを好きになれたら、こうしろって、言われたから」

目を閉じながら笑った。伊里野がいつでも、生き残る為の、倒すための戦いに出かけられるようにするためだ。

「浅羽。絶対に、戻ってくる。校長に餌やりながら、床屋さん、する。あと、よかったシール、見た」

 最後の言葉は、濁ったような声になっていた、ような気がした。どんな顔をしていたのか、そんなものは
世界の常識を知るよりも、簡単過ぎた。
 数分か数秒か。時間の経過すら分からぬまま、浅羽は目を開けた。
伊里野はいない。だが、伊里野のいた証は、雪が証明している。
 浅羽は黙って伊里野のいた場所に移動し、空を見上げ、わけも分からず叫んだ。
 新学期になったら入部届けを出して、昌穂と取材に行き、花村に技をかけられ、西久保をからかって
 必ず戻ってくる校長を待ち、来年の夏に戻ってくる伊里野を勢い良く出迎えてやる。世界が何もかも
進み出す。当たり前であった浅羽の怠慢は消え、新しいものである、元の日常がやってくる。

そして、浅羽はこう思った、


世界人類が平和でありますように