「・・・これで、今学期の授業はすべて終わりだな。
 だが、いくら休みだからってハメを外しすぎるんじゃないぞ。
 来年最初の授業で簡単なテストをやるからな。
 しっかり勉強しておくように」
『ええ〜!?』


 平日の午後の昼下がり。
 授業終了を告げるチャイムにより今年最後の授業が終わった。
 休みの始まりに浮かれる生徒たちを教師がテストの告知により戒める。
 一斉に不満の声を上げる生徒たち。
 しかし、そのどちらの声も少女の耳には届かない。


「ふぅ・・・」


 少女はまるで自分だけが世界から取り残されているかのような表情で軽くため息をつく。
 彼女の目は窓の外に広がる少し曇りがちな空へと向けられている。
 だが、彼女の意識はその空へ向けられてはいない。
 何かを求めているような、しかし何もかもを拒絶するかのような虚ろな瞳で空を見上げる。
 教師の声も、生徒たちの声も、まるで彼女とは別の世界で交わされている会話であるかのように彼女に届くことはない。


「名雪。ねぇ、名雪ってば」


 彼女の後ろの席の少女が、彼女・・・名雪という少女に声を掛ける。


「うん? どうしたの? 香里」


 名雪は、彼女・・・香里の声だけは特別であるかのように彼女の声に反応する。
 名雪が香里に振り向いたときには、その瞳には先程までの虚ろな感じは微塵も感じさせないいつもの名雪に戻っていた。


「名雪、さっきの話、ちゃんと聞いてたの?」
「え? 何のこと?」
「名雪、あなたまた寝てたんじゃないの?
 休み明けの最初の授業にテストをするって話よ」
「え? そうなの? ・・・そういえばいつのまにか授業終わってるね」
「いつのまにか授業終わってるね、じゃないでしょ。
 ・・・まあいいわ。名雪は今日も部活でしょう?」
「うん。香里は?」
「私も部活。お互い頑張りましょう」
「うん、じゃ、またね、香里」
「そうね、また今度電話するわ。それじゃ」


 香里はふわりとスカートをなびかせ、他の生徒たちと挨拶を交わしながら教室を出てゆく。
 あとに残された名雪のもとに、ふわりとフローラルの香りが漂い、鼻をくすぐる。
 ふと窓の外を見上げれば、先程と同じ曇り空。
 それはまるで、名雪の心を映し出したような・・・。
 そんな、混沌とした、灰色の空が広がっている。
 名雪は鞄に教科書とノートを詰め込み、部活へ向かう。
 名雪のいない教室の窓の外で、ひとかけらの小さな白い結晶がちらちらと舞い、風に溶けていった。


 水瀬名雪、16歳。
 彼女の心から大切ななにかが零れ落ちてから、7年という月日が流れようとしている。
 彼女の時間は、そのときから止まったまま動かない。
 彼女の冬は、終わらない。
 零れ落ちた何かを見つけるまでは・・・。











It's most of nice Christmas present.
〜水瀬名雪のクリスマス〜











「それでは、おつかれさまでした〜」
『お疲れ様でした』


 名雪の号令で部員たちが一斉に終了の挨拶をする。
 名雪が陸上部の部長となってから、もう何度も行ってきた儀式。
 挨拶が終わると、他の部員たちは皆部室へと向かう。
 だが、名雪だけはその場を動こうとはしなかった。


「あれ? 部長、帰らないんですか?」


 ひとりだけ帰ろうとはしない名雪に、部員のひとりが声をかけてくる。


「・・・うん。なんだか走り足りない気分なんだ」
「そうなんですか。ところで部長、やっぱりクリスマス会には来てもらえないんですか?」
「クリスマス会・・・」


 陸上部では、毎年部員たちとその他の希望者が集まってクリスマス会を開いていた。
 だが、名雪は去年そのパーティーに出席しなかった。
 そして、やはり今年も・・・。


「ごめんね、付き合い悪くて」
「いえ、まあ・・・少し残念ですけど、仕方ないですよ。
 やっぱりクリスマスには好きな人と過ごすのが一番ですから」
「え・・・?」


 彼女は少し羨ましそうな笑顔で答える。
 どうやら彼女は名雪がクリスマスを恋人と過ごすのだと勘違いしているようだ。


(確かにお母さんのことは好きだけど、そういうのとは違うんだけどな・・・)


 名雪は毎年、母の秋子とふたりきりのクリスマスを過ごす。
 名雪がクリスマス会に行ってしまえば、せっかくのクリスマスに母をひとりきりにしてしまう。
 だが、それだけなら会場を自分の家にしてしまえばいい。
 母は賑やかなのが好きなので、決して迷惑にはならないはずだ。
 しかし名雪は、何故かクリスマスに友達を呼ぼうという気にはならなかった。


「それでは私はもう帰りますね。お疲れ様でした」
「あ、うん。おつかれ〜」


 彼女は名雪を残して部室へと向かう。
 後に残されたのは名雪ひとりだけ。
 名雪はふと空を見上げ、ぽつりとつぶやく。


「雪・・・降ってきちゃった・・・」


 灰色の空から、白い結晶が舞い降りる。
 名雪は雪に包まれながら、少しだけ躊躇した後、再び走り始めた。


 走ることに疑問を感じるようになったのはいつからだろう。
 名雪が陸上部に入部したのは、何故だか分からないけど、自分がずっと走り続けていなければならないような気がしたから。
 7年前からずっと感じている喪失感は、走っている間だけは名雪を解放してくれる。
 最初は、自分が走ることが好きだからなんだと思っていた。
 でも、そうじゃなかった。
 自分が走ることが好きだということは間違いない。
 だけど、好きだから走り続けているわけじゃないということに気付いてしまった。


(でも、それならどうしてわたしは走ってるんだろう。
 わたしは何かを追いかけているのか、それとも何かから逃げようとしているのか・・・わからない)


 走っていないときに感じる喪失感。
 走っているときに感じる焦燥感。
 名雪はそのどちらにも耐えがたい苦痛を感じてしまう。


 誰もいないグラウンドで、名雪はただひたすらに走り続ける。
 名雪の目から一滴、光るものが零れ落ちて雪に溶けていった・・・。





「ただいま、お母さん」
「お帰りなさい、名雪。今日は遅かったのね」
「うん、部活が長引いちゃって」
「そう。これからお買い物に行ってくるけど、お夕飯は何がいいかしら?」
「あ、わたしも行くよ。着替えてくるからちょっと待ってて」
「ええ、分かったわ」


 名雪は急いで階段を駆け上がり、普段着に着替えて母とともに商店街へと向かう。
 商店街では、そこら中がクリスマスムードでいっぱいだった。


「もうすぐクリスマスだね、お母さん」
「そうね。・・・あら、名雪ほら、あそこ。もうクリスマスツリーが飾ってあるわよ」
「あ、ほんとだ〜。綺麗だね〜」
「ええ、そうね」


 一足早く飾られたクリスマスツリーの電光がキラキラと光り輝く。
 沈みかけた夕日が、ツリーの天辺に飾られた金箔の星を照らし、オレンジ色に染める。


「きっと、暗くなったらもっと綺麗なんだろうね」
「そうね。きっと綺麗でしょうね」


 名雪と秋子は、しばらく立ち止まってツリーを眺める。
 しばらくツリーを眺めた後、名雪がゆっくりと口を開いた。


「ねえ、お母さん。わたしたちもそろそろツリーを飾ろうよ」
「そうね。それじゃあ、お夕飯の後で一緒に飾りましょうか」
「うん」
「それじゃ、お買い物を済ませてしまいましょうか」
「うん、そうだね、お母さん」


 二人はもう一度だけツリーを眺めてから、クリスマスツリーを後にする。
 名雪にとって、いつものように母とむかえるふたりきりのクリスマス。
 今年のクリスマスはどんな料理を作ろうかとか、プレゼントは何が欲しいかとか。
 そんなたわいのない会話を繰り返しながら、母とともに商店街を歩く。
 だけど、何かが足りない。
 何が足りないのか。何を望んでいるのか。
 それすらも、名雪には分からない。
 ただ、何かが足りないという思いだけが名雪を攻め立てる。
 名雪の心を、傷付けてゆく。
 名雪は母との会話に、笑顔で答え・・・。
 ・・・そして笑顔のままで、涙を流さず泣いていた。
 その理由すらも、分からないままで・・・。





 そして、クリスマスイブの夜。
 名雪は母と二人で、ささやかなクリスマスパーティーを開いていた。
 まるで高級料理店のフルコースのような料理がテーブルいっぱいに広げられていて、その中央には手作りのケーキが置かれている。
 そのケーキには名雪の大好きなイチゴがふんだんに使われており、焼きたての甘い香りが漂ってくる。
 名雪はケーキに刺してあるろうそくに火をつけて明かりを消す。
 すると暗闇の中にろうそくの明かりとクリスマスツリーの電光だけがほのかに光り輝く。


「やっぱり、こうするとクリスマスって感じがするよね」
「そうね。でも、そろそろろうそくの火を消して、明かりを付けましょう」
「そうだね」


 名雪はそっとろうそくの火を吹き消し、明かりを付けた。


「それじゃ、お母さん。御飯を食べる前に、はい、これ」
「あら? なにかしら」


 名雪は紙袋に入った何かを母に渡す。


「名雪サンタさんからのクリスマスプレゼントだよ。開けてみて、お母さん」


 秋子はそっと紙袋の中の物を取り出す。
 紙袋に入っていたのは、青い生地にワンポイントの刺繍のされたエプロンだった。


「あら、可愛いエプロンね」
「でしょう? お母さんにきっと似合うと思うんだ」
「ありがとう、名雪。とっても嬉しいわ。それから、これは私からのプレゼントよ。
 一日遅れだけど、お誕生日おめでとう」
「ありがとうお母さん。開けてもいい?」
「ええ、どうぞ」


 名雪はがさがさと包み紙を破らないように開き、箱を取り出す。
 ふたを開けると、中には赤い手袋が入っていた。


「わっ・・・手袋だ〜♪ お母さんありがと〜♪」
「それからね、名雪。これをクリスマスプレゼントというのはおかしいのかもしれないけど・・・」
「なに? お母さん」
「あのね、名雪。祐一さんのこと、覚えてる?」
「・・・え?」


 祐一。
 相沢祐一。
 7年前に別れたきりでずっと会うことのなかった人の名前。
 もう会えないと思っていた、初恋の人の名前だ。


「祐一さんのお父さんが今度海外へ転勤になったのだけど、祐一さんだけは日本に残ることになったの。
 それで、祐一さんが学校を卒業するまでの間、うちで祐一さんを預かることになったのよ」
「・・・ほんと? お母さん」
「ええ、本当よ。学校が始まるころに合わせて、こちらに引っ越してくることになったわ」
「いつ・・・来るの?」
「すぐにというわけじゃないの。お引越しの準備とかもあるから、祐一さんが来るのは正月を過ぎてからになるかしらね」
「・・・なんだか、随分と届くのが遅いクリスマスプレゼントだね」
「そうね。せめて正月までにこちらにこられればよかったのだけど・・・」
「だけど・・・でも、嬉しいよ、とっても。最高のクリスマスプレゼントだよ」
「そうね。よかったわね、名雪」
「うん♪ あ、でも・・・それならお部屋のお掃除とかしないといけないね」
「ええ、そうね」


 祐一の来訪の知らせを聞いて、名雪はかつてないほどの笑顔を浮かべた。
 それにつられて、秋子にも自然と笑顔が浮かぶ。


(そっか・・・祐一にまた会えるんだ・・・)


 7年間ずっと消えることのなかった喪失感が、急速に薄らいでゆく。
 零れ落ちた何かを、再び取り戻したような・・・そんな暖かさが胸の奥に感じられる。
 名雪の止まってしまった時間はまだ動き出してはいない。
 だけど、この暖かさをずっと感じていられるなら、いつかきっと動き出す。
 そんな予感を、名雪は感じていた・・・。





 1月6日の水曜日。
 祐一が水瀬家にやってくる日の朝。
 いつものように大量の目覚し時計が鳴り響き、ご近所中に轟音を伝える。
 だが、その轟音の真っ只中にありながらも名雪が目を覚ますことはない。
 遅刻寸前に母に起こされ、のそのそと支度をしてたっぷりとイチゴジャムを塗りたくったトーストをかじる。
 時間がないと言いながら、のんびりとした動作で靴を履きながら名雪は母に話し掛ける。


「ねえ、お母さん。祐一のお迎えは、わたしが行ってもいいかな?
 部活の帰りにそのまま迎えに行くから」
「ええ。祐一さんのことお願いね、名雪。
 あ、でも・・・」
「でも・・・なに?」
「祐一さんの顔、覚えてる?」
「あたりまえだよ〜」
「そうよね。・・・ところで名雪、時間は大丈夫なの?」
「え・・・っと、ち、遅刻だよ〜」
「あらあら、いってらっしゃい、名雪。気を付けてね」
「うん。それでは、行ってきま〜す」


 通い慣れた道を、全力で駆け抜ける。
 見慣れたはずの景色が、まるで生まれ変わったように輝いて見える。


(待っててね、祐一。部活が終わったら、すぐに迎えに行くからね)


 灰色の空から、白い結晶が舞い降りる。
 名雪は舞い降りてくる雪に包まれながら、胸の奥に湧き上がる暖かさに心を躍らせていた…。





「どうしよう、完全に遅刻だよ・・・祐一怒ってるかなぁ・・・」


 部活に遅刻した挙句、祐一が帰ってくることのあまりの嬉しさに笑みが込み上げてきて、
 走っている最中にくすくすと笑ってしまったところを顧問に怒られてしまい、居残り練習をさせられてしまった。


(何もこんな日に居残りなんてさせなくてもいいのに・・・祐一に嫌われたら先生の所為だよ)


 名雪は自分が遅刻したことや注意力が散漫だったことは棚に上げて理不尽な言い訳をする。
 時刻は既に一時半を過ぎている。
 待ち合わせの時間は一時。完全に遅刻だ。
 名雪は祐一の待つ駅前へと懸命に走る。
 だが、その途中で何かを蹴飛ばしてしまったような気がして立ち止まる。
 振り返ってみると、そこには崩れかけたゆきうさぎが転がっていた。
 それを見た名雪は、7年前に祐一に拒絶されたことを思い出してしまう。


(・・・祐一・・・・・・)


 名雪は崩れかけたゆきうさぎを直し、元通りにしてから慎重にコンクリートブロックの塀の上に移す。
 そして再び走り出そうとするが、その足は途中で止まってしまう。


(祐一・・・わたしのこと覚えてるかな・・・)


 一度悩みだすと止まらない。不安ばかりが膨れ上がり、押し潰されそうになる。
 名雪は重い足取りで、のろのろと歩き出す。


(祐一・・・変わってたりしないよね。祐一は祐一だよね)


 自分はあのころからあまり変わってはいないと思う。
 7年前のあの日から、ずっと時間が止まったままだから。
 だけど、祐一はどうだろう。
 あのころのままの祐一でいてくれているのか、それとも・・・。
 考えれば考えるほど、名雪の足取りは重くなっていった・・・。





 駅前が見えてくる。
 たぶん、駅前のベンチに座って名雪のことを待っているだろう。
 なんて声を掛けよう。
 久しぶりだね。
 元気だった?
 遅くなってごめんね。
 ・・・なんだか、再開の言葉としてはどれもしっくりこない。
 名雪はどきどきで破裂しそうな胸を抑え、傍にあった自販機でジュースを一本だけ買う。
 がたんと音がして転がり出てきたジュースを取り出し、ゆっくりと駅前のベンチに向かって歩き出した。





 さくさくと、わたしの足音が鳴り響く。
 本当はきっとこの喧騒に消されて鳴り響いてなんかいないだろうけど、わたしにはとても大きな音に聞こえてくる。
 わたしはゆっくりとベンチに近づいてゆく。
 ベンチには、うつむいて少し震えている男の人がひとりだけ。
 その男の人の頭には、うっすらと雪が積もっている。
 その人を見たとき、わたしは体中に電気が走ったような錯覚を覚えた。
 この人が祐一だ。間違いない。
 理由もなく『祐一はあのころと何も変わっていない』という確信が沸き起こり、あんなに感じていた不安が一瞬にして消し飛んでしまった。
 再開の言葉も、この瞬間に決まった。
 あのころのわたしなら、あのころの祐一なら、きっとこの台詞が一番あっていると思う。
 そして祐一は、誰の所為だとわたしを責めるんだ。
 しょうがないなという感じで、優しい苦笑いをしながら。
 そしてその仕返しに、ちょっとした意地悪をされて。
 そしたらわたしは少しだけ拗ねて。
 でも、祐一はきっと最後には優しくしてくれるんだよね。





 7年前からずっと止まっていたわたしの時間。
 きっと、今、ここで再び動き出す。
 13日遅れの、ジングルベルの音とともに・・・。















































「雪、積もってるよ」
















































 今、止まっていたわたしの時間が音を立てて動き出したような気がした・・・。
















 結局クリスマスSSが間に合わなくて名雪誕生日SSをクリスマスSSにしてしまいました。
 というわけで、この場を借りて名雪に一言。


 お誕生日おめでとう!!