人を待っていた。
 吹きすさぶ寒風に身を晒しながら。人を待っていた。
 寒い、と感じた。いつもは格好をつけて外しているコートの前ボタン。今日は久しぶりに役目を与えられた。
 周りを見ると、和気藹々とした二人組みがよく見られた。
 目の前、右、左、後ろ。どこを見てもそんな人たちで一杯だ。
 赤くてとがった帽子を被った人が、看板を手に持って大声で何かを叫んでいる。『ケーキ安い!』という看板だった。
 ふと、前を見ると、人の集団が通り過ぎて行った。
 綺麗に包装された箱を持って小さな子どもが笑っている。その母親なのだろう、中年の女性がにこにこと笑顔を浮かべていた。
 きっと、あれにはケーキが入っているんだな。僕はひとり、首を縦に振った。
 今日はクリスマスだった。クリスマスケーキと女性は二十五を過ぎたらうんたら、そういう標語が生まれるクリスマス。
 恋人同士にはちょっと特別な日。そして、僕には――あんまり特別じゃない日。
 なんたって、僕には彼女なんていない。寂しい寂しいクリスマスなのだ。
 それにしても僕は苛立っていた。
 理由は簡単だった。まず、最初にとても寒かったこと。テレビのアナウンサーが今年最低気温を更新しましたとか嬉しそうにいったことを覚えている。
 そして、次にどうしてここにいるのかということ。いや、話は簡単なのだけど、どうにも納得いかなかった。
 僕は人を待っている。
 寒空の中、人を待っている。
 端から見るとちょっと暗そうな雰囲気を持つ、だけど、付き合ってみれば底抜けに明るい同じ高校に行っている親友だ。
 色んな事に詳しくて、色んな事に疎いというちょっと変な男。
 きっと感性が普通の人間とちょっとずれているのだと思う。そうじゃなければ、こんな場所で僕を待たせたりはしないはずだ。しかも、約束の時間からすでに三十分が経過してる。きっと、遅れてきたときに『ごめん、昼寝してたら起きられなかった』と言うに違いない。
 ふぅ、と大きな大きな溜め息。実は、周りのカップルに水を差してやろうとしてやったことなのだが、空気の如く無視されてしまった。
 ちっ、と舌打ち。左手につけている腕時計を一瞥した。十八時前十五分。訂正。約束の時間からすでに四十五分経っていた。
 いっぺん電話すればいいのかもしれないが、生憎と携帯電話は持っていない。クラスメートには、『そんなものいらねえだろう』と虚勢を張っている。もちろん本当は欲しいのだけど、大学生の兄がいる家庭環境では贅沢なんて言ってられなかった。僕は見栄っ張りなのだ。
 同時に親友の寝起きの悪さも知っていた。殴っても蹴っても起きないし、電話のコール音など気にもしない。つまり、携帯電話を持っていようが無駄だということだ。
 びゅっ、と風が空気を切った。
 親友の遅刻を予想していなかった僕は薄着だ。がたがた、と体が震えるのを感じた。
 来たら死刑確定。もしくは、学食で九日間飯を奢らせる。そう決めて、少しでも暖かい場所へ足を進めた。あまりにも寒い。
 しばらく歩くと、石畳に置かれたベンチを見つけた。元から知っていたから、見つけたという表現はおかしいかもしれないけど。
 それは寒色系の色で、視覚的に寒さを誘ってくれたが、ベンチの前にある電気店から暖房の余波が流れ出していた。なんの躊躇いもなく座る。尻がひんやりとした。
 はぁ、ともう一度大きな溜め息。ふと、待ち合わせ場所がわからなくなるという考えが頭によぎったが、それは黙殺した。遅れてきたあっちのほうが悪いんだ。せいぜい頑張って探してもらうべきだ。
 街頭に置かれているテレビをぼーっと見つめる。日本の外交問題が報道されていた。そして、クリスマス特価のノボリ。
 そういえば、小さいテレビが欲しかった。目を凝らして値段を見て、伏せた。手が出ない値段だ。
 やれやれとポケットに手を突っ込む。と、その時、視界を何かがよぎった。
 寒さにやられた顔を上げて、それの後を追う。

「雪、か……」

 白い息とともに、その言葉が僕の口から出ていた。
 灰色の空から白い塊がポツリ、ポツリと舞っていた。
 ホワイトクリスマス。
 自然とその言葉が僕の頭に浮かんだ。
 滅多に雪が降らないこの街では、ホワイトクリスマスは数年に一度しか見られないものだ。いや、もしかしたら数年に一度でも多すぎるかもしれない。
 急に、じわり、と目が滲んだのを感じた。慌てた。街中で涙を流すなんて、どうかしている。
 涙を通行人に見られないように、空を見上げた。すると、灰色の空が一杯に広がった。あの時と同じ、変わりない鈍色の空が。





 僕の記憶の奥底に眠っているひとつの物語。それが否応なく思い出された。















鈍色の空
















――1 僕と性悪女と


 身長全国平均より少し上。体重標準的ではなくやや重い。力こぶがはっきりと浮かぶくらい筋肉がついている。
 そんな僕の外見からは判断しづらいと思うが、僕は非常に体が弱かった。
 どれくらい弱いかというと、一年に何回も入院するほど。それぐらい体が弱い。
 もっとも、それは数年前までの話で、今は幾分か快方に向かっている。ただ、それでも激しい運動はできないし、ちょっとしたことで体を壊してしまうけど。
 もう小学生の親しかった友達の顔すら思い出せないのに、その時の記憶だけは鮮明に残っている。
 六年前。僕が入院した時の記憶を。
 あの日。僕はいつも通り同じ国立病院に行って、同じ医師に診察を受け、そして、入院を命じられた。小学生の最後。六年生のころだ。
 その時、入院に反対したことを覚えている。何故なら、それはクリスマスの前二週間の話だったからだ。
 どうにも長期休暇の度に体を壊す癖がついているのか、夏休みと冬休みに入院をするのが毎年の決まりだった。
 家族の皆とバカ騒ぎできるクリスマスを過ごせないのがとっても嫌だった。
 結局入院はさせられてしまったけど。
 入院した初日。僕はいつもの通り過ごした。
 毎回決まっているように、母親から漫画と参考書を持ってきてもらい、それで時間を潰す。
 時間を潰すことは慣れたことだった。だから、二十四時間はすぐに過ぎた。
 二日目。二人入りの個室だった部屋が急に慌しくなった。
 どうやら他に誰かが入院することになったようだった。
 毎朝の検温に来た看護婦さんに、僕はこう訊いた。

「俺の隣に誰か入るんですか?」

「うん、入るわよ。仲良くしてね」

「ふーん」

 その時点で、すでに興味は失っていた。
 僕は元々社交的じゃなかったし、入院する期間は所詮長くても二週間ほどだ。だから、誰かと仲良くなろうとも思わなかったし、誰からも声をかけられた事はなかった。
 その日の午後。慌しくなるのがわかった。
 入院経験が豊富なせいか、僕は直感的に相方がきたのだなと推測した。誰にも言われることなく、サッ、とカーテンをひいた。
 隣に来るのが、もし女の子の場合だったら、こうしてやるのが礼儀というものだったから。
 得てして、病院のカーテンとは何かを遮るためにあるんだな、と思っていた。
 カーテンがある限り、僕から他の人は見えないし、他の人から僕は見えない。
 つまり、カーテンをひくことでそこは確立された世界になるのだ。
 ガラッ、っと引き戸のドアが開いた。看護婦さんとほか二人の声が聞こえる。声の主は女性と女の子。どうやらカーテンを閉めていて正解だったようだ。
 作りかけのガンダムのプラモデルを箱から取り出した。
 高校生三年で、受験戦争真ッ最中にいる兄がプレゼントしてくれたものだった。
 入院生活の暇をそれで潰しな。といって、健康な兄は僕の頭を強く叩いてくれた。自慢の兄だった。
 接着剤を取り出して、作りかけだった脚を組み立てていく。ゴツゴツとしてて、とても格好良い。さすが兄が選んだものだった。
 しばらく無言でそれを組み立てていると、またドアの音が聞こえた。それと同時に、人の気配が消える感覚。
 おそらく、入院患者の母親と看護婦さんが出て行ったのだろう。これでこの狭い部屋の中には僕と女の子だけになったわけだ。
 しかし、僕はそれを全くと言っていいほど気にしなかった。
 自慢したくはなかったが、入院経験はザラじゃないし、このような事になることもザラにあるからだ。
 出来上がった脚を風通しの良い窓際に置き、もうひとつの脚を作るためにパーツを切り取っていった。
 普段は面倒くさがって手でちぎり取るそれも、兄から買ってもらったプラモデルではそんなことはしない。ちゃんとハサミを使って、爪きりについているヤスリで研磨などをした。綺麗に作って、兄に見てもらうのだ。
 接着剤を慎重につけて、ゆっくりとくっつける。ここでずれてしまったら、決して良いものはできない。慎重に、慎重に。ゴクリ、と喉がなった。
 そして、あとちょっと、というところ。その時だった。

「誰かいるの?」

「うわっ!」

 カーテンが無理矢理引っ張られて、女の子が声を上げたのは。
 もちろん、僕はそれにびっくりしてしまった。当然手に持っていたパーツは僕の手の進行方向に正直に動いた。
 そして――見事にでたらめな場所にくっついた。

「あ、誰かいたんだ。ごめんね、誰かいるとは思わなくて」

 すまなそうな声。本当にそう思っているような声だった。
 だけれども、僕の頭は火山の如く煮えたぎっていた。慌ててパーツを引き剥がしたものの、綺麗に跡が残ってしまっていたからだ。これでは兄をびっくりさせることは出来そうもなかった。

「何をしてくれるんだ! ずれちゃったじゃないか!」

 我ながら理不尽な怒りだとはわかっていた。
 だけど、誰が悪いのかと言われれば、それは突然カーテンを開けてきた女の子に違いない。
 兄からのプレゼント。それを汚された僕は、後から考えてもおかしいくらい怒っていた。たったひとつのプラモデルなのに。

「そ、そんなこと言われても知らないわよ。カーテンなんか閉めているからわからないのよ」

 まるで自分は悪くないと言う言い草。もちろん、それは僕のフィルター越しだったからだろうけど、酷く腹が立った。

「普通はカーテンを開ける前に断りを入れるだろう! 入院してるくせにそんなこともわからないのか!」

 あまりの腹正しさに、どん、とベッドを殴りつけた。すると、女の子の顔が一気に変わった。顔を真っ赤にして、目がとがっていった。

「あなたこそ入院の礼儀知らないんじゃないの! 普通は挨拶するでしょう!」

「後でしようと思ってたんだよ! 悪いか!」

「悪い。だったらあたしは悪くないじゃない。考えてみれば、あたしから挨拶したんだから」

「あれが挨拶と言えるのか、あれが!」

「あたしには挨拶よ」

「へぇ、つまり、君は初めて会う人に対して『誰かいる?』って挨拶をするんだな」

「ええ、その通り。わるい?」

 僕の精一杯の皮肉も、女の子は一笑して霧散させた。女の子の黒々とした長い髪の毛が宙を舞う。

「大体、中学生にもなってガンダムのプラモデルなんて作ってるんじゃないわよ。恥ずかしいわよあなた」

「俺はまだ小学生だ」

「あ、ごめんね。老けて見えるからあたしと同じくらいだと思ったわ」

 いけいけしゃあしゃあと笑いながら言ってくれる。確かに僕は老けて見えたし、中学生に間違われることも多々あった。だけど、それを僕が納得しているかと言うとそうではない。気にしているのだ。

「とにかく! 挨拶をしたならもういいだろう! さっさとカーテンを閉めてくれ!」

「イヤ。あなたが自分で閉めればいいじゃない」

「くっ……」

 なんて性格の悪い女の子だ。僕は心の中で悪態をついた。クラスメートにも性格の悪い女の子はいたが、ここまで酷いのは始めてだ。
 白い肌と流れる黒髪は綺麗だけど、だからなんだ。重要なのは外見ではなくて中身だ。なになによりは醜女とは僕の信条だ。

「あぁ、わかったよ! ふん!」

 力一杯カーテンを引っ張る。シャ、という音が鳴り、また僕ひとりの世界が形成された。
 手には接着剤の後が残ってしまった脚のパーツ。それを見ると、悲しくて悲しくて仕方がなかった。
 綺麗に拭けば取れるかもしれないが、僕の左手には点滴が繋がっているし、なによりもあの性悪女の前を通っていけないといけない。そんなことは端ッからごめんだ。
 だから、そのパーツは窓際に置いた。ベッドに倒れこんだ。
 いつ寝ても気持ちよくないベッド。柔らかいベッドなら人の心も柔らかく包んでくれるのかもしれないが、硬いベッドにはそんなことを期待するのもアホな話だ。
 とにもかくにも、あの女の子。性悪女だということ決定。これが僕と彼女の出会いだった。



 次の日、やることもないまま本を読んでいた。もちろん漫画だ。僕には小説というものの楽しさが全くわからなかったから。
 昨日からずっとカーテンは閉めたままだった。こっちはあっちの顔なんて見たくないんだから、当然のことだ。
 ただ、新鮮な空気は欲しいだろうから、窓だけは看護婦さんに頼んで開けてもらっていた。僕自身は毛布に包まり、寒さを少しでも和らげようとしている。我ながら、細かいところで気が効くと思った。
 ガラガラガラ、と何かが運ばれてくる音がした。時計を見ると、朝の七時。朝食の時間だ。
 ただ、僕は朝食を食べない。というか、食べられない。僕の病気は、肺のものなのであまり胃に詰め込んではいけないのだ。点滴で栄養も取れているからお腹も減らない。たぶん、あと三日もすれば外されるようになるだろうけど。
 カッ、と音がした。それと同時によいしょっと言う小さな声も。
 あの性悪女が朝食を取りに行ったのだろう。自慢じゃないけど、僕の耳はとても良いのだ。
 ドアを引く音がして、少ししたらもういちど。性悪女が帰ってきたのだろう。
 そこでラジカセのスイッチを入れた。今の流行の歌を知らない僕だから、アニメソング。僕はアニメが好きだった。
 病院で許されているイアホンをラジカセに差した。性悪女といっても女の子には違いない。自分が物を食べる音なんて聞かれたくないに決まっていた。
 前奏が流れ、歌が始まった。
 静かな感じの曲で、女性が歌っている。お気に入りのアニメのエンディングテーマで流れていたやつだ。
 僕はそれの曲調も好きだったし、女性の声の質も好きだった。だけど、それ以上に歌詞が好きだった。

『銀色の地平線で銀色の空で出会った』

 その曲のサビの部分の一番初め。とてもロマンチックな言葉。友人に言ったら笑われるだろうけど、僕は大好きだ。
 そして、いつもいつも僕は目を閉じてその歌に惚れる。たぶん、一日で十回以上聞いている。それほど好きだったし、熱中していた。だから、あの性悪女がカーテンを開けるのも気づかなかったし、何かを叫んでいることにも気づかなかった。ただひたすらに歌の世界にのめりこんでいた。
 その世界が壊されたのは、サビに入るちょっと前。僕の左耳に痛みが走った。

「さっきから呼んでるのに何で無視するのよ」

 何事かと横を向いたら、あの性悪女が目を尖らせてベッドから身を乗り出していた。その手にはイアホンが握られている。さっきの痛みはこれらしい。

「無視なんかしてない。聞こえなかっただけだ」

「あたしからしてみれば同じことじゃない」

 腕を組み、きっぱりと言い放った。本当に性悪だ。

「それで、何のようだよ。俺は歌を聴いてるんだ」

 ふぅ、と溜め息をついてから右耳のイアホンを外した。

「ああ、あのね。朝ごはん食べられないから食べてくれる? 食欲ないの」

「はぁ?」

「聞こえなかったの? 朝ごはん、あたしの代わりに食べてくれない? お願いだから」

 あの性悪女が手を合わせて頭を下げた。ふと見れば、性悪女の前には、食器一杯のご飯が置かれていた。どれもひと口づつぐらい減っている。どうせ口に合わなかったのだろう。

「あのな、俺の左手に何が入っているかわからないのか?」

「点滴」

 さらっと答えた。

「点滴って何のためにやるのかもちろん知っているよな」

「栄養を取るためと、体の内部を改善するため」

 さらっと答える。こいつはわかっている。

「つまりはそういうことなんだよ」

「だから頼んでるの。いいじゃないそれくらい無視しても」

「医者の言うことを守るなって言いたいのか?」

「違うわよ。それぐらいならいいじゃないってこと。可愛いあたしの言うことなんだから聞いてよ」

 さらっと言った。言い放ちやがった。僕の脳内に、性悪女に自意識過剰が追加された。

「無茶を言うな!」

「だったら、この梅干だけでもいいから。お願い」

「あんた、人の話聞いているのか?」

「あなたこそ人の頼みごと聞いてるの?」

 互いにジト目。イヤな空気が漂い始める。
 半ばにらみ合いのようなことが続いたけど、折れてやる気はさらさらなかった。
 物を食べることはできるけど、食欲が一切ないのだ。点滴とはそういうものなのだから。
 すると、性悪自意識過剰女がすっ、と手を動かした。

「じゃあさ、これ。なんだと思う?」

 ニヤニヤとした笑みと共に放たれた言葉。だけど、その言葉は僕には聞こえてなくて。僕の意識は性悪自意識過剰女に向けられた。

「そ、それは!」

「ご名答。あなたの作っていたプラモデルのパーツよ。昨日の夜のうちに取っておいたの」

「な、な、な……」

「さぁ、どうする? これがないとプラモデルは完成しないわよ? 梅干食べてくれるんだったら返してあげるけど」

「……」

 あまりの物言いに、僕は口を金魚のようにパクパク動くことしかできなかった。

「さぁ、どうするの〜〜?」

 ニヤニヤ笑いながら手をヒラヒラ。一番デリケートな部分である頭のパーツを揺らされる。
 気が気じゃなかった。兄からの贈り物。そして、とても大事な場所のパーツ。あそこがないと格好よさが半減――いや、格好よくなくなってしまう。

「か、返してくれよ!」

「だから、梅干食べてくれれば返してあげる」

 何が楽しいのかずっと笑う。抵抗してやりたいけど、カードと切り札は全部あっちの手に渡っていた。服従しかなかった。

「わ、わかったよ。食べるから返してくれ」

「最初からそういえばいいのよ」

 頭を下げて一言。勝ち誇ったかのような笑みが気に入らなかったが、そんなものパーツの前には塵のようなものだ。

「はい。ちゃんと食べてね。あ、ちなみに食べた後じゃないと渡さないからね。捨てたりしたらこれも捨てるからそのつもりで」

 逃げ道は塞がれてしまった。
 ひょいっと僕の手に赤い物体が置かれた。梅干。柔らかい梅干じゃなくて、カリコリ梅といわれる硬い梅だ。
 ごくっ、と喉が鳴る。冷や汗がダラダラと流れる。僕は梅干が大ッ嫌いだった。

「はやくはやく」

 そんな僕の気をしってかしらずか、性悪自意識過剰女は楽しそうに催促している。
 ひょっとしたら、看護婦さんにわざと僕の嫌いなものを聞いて嫌がらせを楽しんでいるのではないだろうか。
 ありえない話ではない。出会ってまだ一日だが、可能性を否定できない。寧ろ、肯定したくなる。

「はやくしないと捨てちゃうよ?」

 ヒラヒラと手を振られた。もう迷えない。意を決して僕はカリコリ梅を口に含んだ。
 耐え難い酸っぱさと歯ざわり。それと、涙の味がした。
 性悪自意識過剰女が何故梅干を残すのがイヤだったのか。僕はそれだけを考えていた。

「ねぇ」

 それから無言の時が続き。彼女がそう話しかけてきたのは、昼飯の時間だった。頭のパーツは大事に箱のなかにしまっておいた。

「なんだよ、もう食べないぞ」

「そのことじゃないわよ」

 呆れたように性悪自意識過剰女は言った。

「じゃあ何のことだよ」

「あなたの名前」

「俺の名前?」

「うん。知らないから」

「知らないからなんだって?」

「教えて」

「やだ」

 舌を出して自己主張。できる限りの冷めた視線を浴びせた。

「なによ、いいじゃないの名前くらい」

 拗ねたように口を尖らす。中身を知っていなかったら、きっと不覚にも可愛いとでも思ってしまっていただろう。もっとも、可愛いというよりは綺麗だと形容した方が的確だと思うけど。

「じゃあ、あんたの名前から教えろよ。その後だったら教えるから」

「やだ」

「何で」

「あなたが教えないから」

 だからあたしも教えない。と彼女は付け加えた。簡潔な理由だ。
 でも、彼女は勘違いしているに違いない。病院には必ずネームプレートというものがあるのだ。つまり、それを見れば人の名前は簡単にわかるようになっている。
 それに頭が回らないということは、彼女は入院し慣れていないのだろう。僕とは違って。

「なら、お互い様だ。俺も教えないからあんたも教えない。それでいいじゃんか」

「やだ」

 一秒も待たずに拒否してきた。

「何で」

「あたしが知りたいから」

「だったら、あんたの名前を教えろ」

「あなたが教えたら教えてあげる」

「ならいいじゃないか」

「やだ」

 な、なんて我がままな女の子だ。僕は半ば戦慄を覚えていた。
 相手にするのも面倒になったし、これ以上喋って得られるものは何もないだろうから、僕は彼女から視線をそらした。
 そのままラジカセのスイッチに手をのばす。再生すれば、朝の続きが流れるはずだった。

「ていっ」

 ちょっと気合を入れたような声。
 そして、ぐきぃ。そんな音が僕の首から鳴ったような気がした。いや、気がしたのではなくて、本当に鳴ったようだ。ズキズキと痛む。
 見れば、性悪自意識過剰女が僕の首を無理矢理回して自分の方を向けさせていた。柔らかい手がどこか気持ちよいとかんじる自分が嫌だった。

「あなたね、人と話する時は目を合わせるって教わらなかったの? ちゃんとあたしの目を見て話しなさい」

 それぐらいは習ったさ。その言葉は口から出なかった。首がもの凄く痛かった。

「ま、いっか。あなたが言わないなら別にいいわ。あたしの名前だけ言っておくね。里久よ」

 どこか深みのある瞳で覗き込まれながら、『りく』と性悪自意識過剰女は名乗った。

「……苗字は?」

「そんなことは自分で調べなさいよ。ちなみに、十四歳。あなたの二つ上よ」

 何が楽しいのかわからないけど、彼女は笑っていた。どこか直視するのが恥ずかしくて、だけど、顔は捕らえられているから動かすことは出来なくて。だから、僕は照れ隠しに言った。

「残念。早生まれだから、まだ十一歳」

「何言ってんのよ。こういうときは数え年なのよ。あなたとあたしの年は二つ違うの」

 それで、あなたの名前は。彼女はそう訊いてきた。

「答えない」

「どうしてよ。約束が違うじゃない」

「約束なんかしてないから」

「あんた、男のくせにそーゆーこと言うんだ」

「男でも女でも関係ない」

「ふーん」

 面白くない。
 彼女の心の声が聞こえてくるようだった。
 心なしか、僕の頭がギシギシと痛んだ。どうやら、彼女が力を入れてるらしい。
 女の子より男の子のほうが成長が遅いとはよく言ったものだ。そして、確かにそうだと僕は頷く。
 何せ、僕は男のくせに性悪自意識過剰女の手を振り解くことができなかったのだ。男として情けなく思うけど、事実は事実。筋肉の成長まで違うのかよ、と心の中で悪態をついた。
 左手に点滴を入れられていて動かすことが出来なかったことなんて忘れていた。

「いた、いたたたたたたっ!」

 いつの間にか、彼女の手はグーに変わっていた。
 容赦なく僕のこめかみをグリグリ。先ほどとは違う意味で涙が出そうになってきた。

「ほらほらほらほら、言いなさい。あなたの名前」

「いやだ」

「もっと痛くされたいの?」

「それもいやだ」

「我がままな男は嫌われるわよ」

「我がままな女も嫌われると思う」

 ピクッ、と彼女の頬を動いた。さっきまでは面白がっていたような顔が、夜叉のように変わっていく。
 人間図星を突かれたら怒るという話もあるが、それはどうやら本当のようだ。そして、どうやら自覚はあったらしい。

「誰が我がままよ誰が」

 性悪自意識過剰女は更に力を強くした。冗談抜きで痛い。何かフォローをしなくては。このままでは痛さで気が狂いそうになる。

「誰もあんたのことだとは言ってない!」

 そう言ってから、僕はなんてフォローをしたんだろうと儚んだ。どこをどう聞いても、絶対にフォローじゃないと今なら確信できる。ただ、あの時は必死だったみたいだ。

「この部屋にあたしとあなた以外に誰がいるのよ!」

「いててててて!」

 結局。僕は彼女に名前を言わなかった。だから、看護婦さんが何事かと部屋に入ってくるまで止められることもなかった。
 ずっとグリグリされていたこめかみが痛かった。
 ただ、この事件で。僕たちの間はちょっとだけ変わったみたいだった。実際には里久っていう名前を知っただけ。でも、確実に何かが変わったみたいだ。
 二人でよく話をしたし、今のように僕は散々彼女からいじめられた。もっとも、僕から話しかけることはあまり多くなかったけど。

 あと、そうだ。着替えの時以外、寝る時でさえもカーテンが引かれることがなくなった。






――2 僕の、彼女の名前


 入院を始めてから一週間が経った時だったと思う。
 僕はやっと退屈なベッド生活から解放された。解放されたといっても、ただ点滴が抜けただけだけど。
 久しぶりに動くようになった左手をブルンブルン動かす。やはり小手先だけでなく、全体が動かせるというものはどこかいい感じだった。
 カツカツ、と音をたてながら病院の廊下を良い気分で歩いた。今日からは病院の食事だって食べることができる。味なんて期待はしてないけど、何かを胃に入れることができるのはそれだけで気持ち良いことだから。
 子どもの声が聞こえてきた。僕も子どもだけど、僕よりも子どもの声だ。手に小さいおもちゃを持って、病院の中を駆け巡ってる。

「おーい、気をつけろよ。転んだら先生に心配かけるぞー」

「わかってるよー」

 僕に返事をして、三人組の子どもたちは走っていった。あれは絶対にわかってないな。思わず苦笑した。
 廊下の突き当たり。角を曲がって、二つのドアの前を通り過ぎる。三つ目のドアが僕の病室だ。
 今まで引いていた点滴を乗せる車のようなものもない。ガラガラと音をたてるアレがないのは少し寂しいような気がした。
 ドアに手をかけたその時、盛大な音が響いてきた。たぶん、さっきの子どもの内の誰かが転んだに違いない。あれだけ注意しろっていったのに。そう思いながらドアノブを回した。音を立ててドアが開いていく。
 ごちん。
 何か鈍い音がした。
 最初は何が起こったのか良く分からなかった。ただ、目の前が真っ暗になったとしかわからなかった。

「……あ、ごめん」

 回復した視界に最初に映ったのは、呆けたような顔。手には丸い物体――リンゴを持っていて、右手は何かを投げたかのようなモーションを取っていた。
 こつん、と足に何かが当たった。いやな予感がしつつも下を覗いてみると、そこには赤い丸い物体が落ちていた。リンゴだ。

「ねぇ」

「な、なに?」

「どうしてリンゴがここに落ちてる?」

「きっとあたしのベッドが気にいらなかったのよ」

「ふんふん、それで?」

 多分、僕の顔は怒りに染まっていたんだろう。珍しく彼女の表情が戸惑っていた。見るのは初めてかもしれない。

「だからね、その……」

「俺に投げたんだよね?」

「……」

「投げたんだよね?」

「あ、あははは……」

 いつもの彼女らしくなく、視線が宙を彷徨っていた。
 僕はリンゴを顔面に投げつけられて笑っていられるような人間じゃなかったし、何よりも痛かった。
 身を屈めて、床の上に落ちているリンゴを拾った。少し変色していた。

「ちょ、ちょっと! もしかしてあたしに投げる気じゃないでしょうね!」

 ご名答。それは口には出さず、大きなモーションをとるフリをした。丁度左手も完全に解放されたのだ。

「男が女の子に手を上げていいわけないでしょ!」

 そんな事は知らない。やられたらやり返すのが僕の信条だ。
 コントロールもヘタクソだし、肩も強くないけど、たかが数メートルにも満たない距離を外すことはない。
 リンゴを手のひらでもてあそんで、軽く一回上に投げる。落ちてきて、左手に乗ったら自意識過剰女に向かって投げるだけだ。この間がたまらない。こういう間が恐怖を誘うのだ。兄にやられていたので良く分かる。
 ぽん、と手の上にリンゴが落ちてきた。後は投げるだけ。
 力を込め――

「へぶっ」

 ――た肩はすかしをくらった。
 僕の目の前は、再び真っ暗になった。今度は何が起きたのか一瞬でわかった。

「二度も投げるか二度も!」

「あたしに投げようとしたから。正当防衛」

 僕はまだ投げてない。正当防衛の意味は知らなかったけど、名称からおおかたの判断はついた。

「あ、あんた……人に謝りもしないで……」

「謝ったわよ」

「いつ」

「あなたがここに入ってきたとき」

 思い返してみる。そういえば言われたような気もしないこともないが、僕の記憶には残っていなかった。

「されてないぞ。聞いてない」

「じゃあ、もう一度言ってあげる。ごめん。満足?」

 せせら笑っているような、そんな笑顔。確かに綺麗だったけど、何よりも腹立たしい。言い返してやりたい。
 ただ、問題があった。それは、この一週間。僕は口喧嘩で勝ったことが無いということだ。年の功とでもいうのか知らないけど、僕は自意識過剰女には勝てなかった。それに何故だか知らないけど、どこかで彼女を許してしまう。
 我がままに付き合っているとかとういうことではなく、なんとなくだ。
 もちろん、僕は彼女に手を上げた事はない。さっきみたいに物でなにかする事はあっても、手を出すことはない。フェミニストと言われるらしい。
 だから、今回も自然と僕から折れた。

「……ふん」

 多少苛立ちを表に出しながら、何も言わずにベッドに横になった。
 薄目を開けて横を見ると、自意識過剰女がベッドから降りてリンゴを拾っていた。あそこまで変色したら痛んでいてとても美味しいとはいえないだろう。
 よいしょ、っと言う掛け声を上げて、彼女がベッドに座った。そして、脇に置いていた本を読み始めた。流石の僕でも題名は読み取れなかった。
 しばらくはそのままベッドで横に。眠気はこなかった。普段なら眠くなるのに、何故か眠くならなかった。ひょっとしたら、さっきのリンゴ攻撃が僕に思いのほかダメージを与えていたのかもしれない。
 このまま横になっているのも仕方が無いので、母が持ってきてくれた参考書を取り出した。左手も自由に動かせるから、勉強するときに苦労しなくてすむ。

「ん? なにやるの?」

 ベッドに備え付けられている台に参考書を置いた。それを彼女は目ざとく見つけたらしく、途中まで読んでいたであろう本に栞を挟んで僕のほうを覗き込んできた。
 それに対し、僕は素っ気無く答えた。

「勉強」

「見ればわかるわよ」

 彼女も素っ気無かった。

「あたしが訊いてるのは、どうして勉強を病院でするのかってこと」

「今後のため」

「今後って何よ」

「だから、将来のため」

 広げた参考書から目を離さずに、すこしだけ苛立ったように言った。

「ふぅん、何か目標でもあるの?」

「うん」

 条件反射で答えて、僕はしまったと思った。

「へぇ〜〜」

 恐る恐る横を向いてみると、性悪女が僕のほうを向いてニヤリと笑っていた。唇は左右に開いて、目は楽しそう。
 危機を察した。
 いけない。これはいけない。絶対にダシにされていじられる。間違いない。性悪女にとってこれは最高のネタだ。
 冷や汗がダラダラと流れる。口がカラカラに渇いた。目が泳いでいる自信がある。

「立派。その目標ってなに? やっぱりお医者さん?」

「えっ?」

「なによ、だらしない顔して。お医者さんじゃないの? 目標って」

「え、あ、うん。そうだけど……」

「いいわね。立派」

 そう言って、彼女はすっごく綺麗な笑顔を浮かべた。
 本当に今まで見たことのない笑顔。綺麗という単語しか頭に浮かんでこなかった。
 性悪女、とか思っていたことが恥ずかしくなるようなくらい。すっごくすっごく綺麗な笑顔だった。

「どこのお医者さんになりたいの? 内科? 外科? それとも小児科?」

 気がつくと、彼女が僕のすぐ横にいた。
 いつの間に動いてきたんだろうか。わからなかった。

「……内科、かな」

「そっか」

 簡潔な言葉。でも、その裏から言葉では言い表せないけど、とても良い感じが溢れていた。

「じゃあ、あたしが勉強見てあげよっか」

「え?」

 また変な声を上げていた。おそらく、変な目もした。

「なによ、その目は。あたしはこれでも中二よ。あんたより勉強してるのよ。ほら、わからないところがあったら見せて」

 いつもの彼女からは到底信じられないような優しい声。僕が良く聞いている歌の声よりも綺麗だったのかもしれない。
 多分、僕はそれに聞きほれていた。
 これが女の人の魅力というやつなんだろうか。

「ほら、出しなさいよ。あたしに見せてみなさい」

 返事はせずに、おずおずと参考書を取り出した。
 彼女は笑いながらそれを受け取った。

「この目印のついてるやつね」

 こくり、と首を縦に振る。何故だろうか。とても素直に彼女の言うことを聞いてしまっている。
 彼女の根は性悪女のはずなのに。自意識過剰のはずなのに。どうしてだかわからない。本当にどうしてだろう。
 ぼーっとしていると、横から唸り声が聞こえてきた。ふと見ると、彼女が参考書を凝視して、うんうん唸っている。
 もしかしたら。いや、間違いない。たぶん、参考書の問題がわからないのだ。自慢じゃないけど、僕の目指している私立中学は難しいことで有名だ。現役の中学生が解けなくてもおかしくないって言われるくらい。
 すっ、と視線を動かす。さっきまでは優しい雰囲気を纏っていた彼女の体。互いの息がかかるようなそんな距離にあった体。今はいつもの雰囲気に戻っていた。
 その変わりようが、どこか面白くて。後でいじめられることも考えないで、僕は声に出して笑ってしまっていた。

「わ、笑わないでよ。こ、こんな問題すぐに解けるんだから!」

 だからシャーペン。と言った彼女に、僕はエンピツしかないと返す。
 書くものがいるの、と叫ぶ彼女に笑いながらエンピツを渡した。僕の体を跨ぐようにして、彼女は台に置いた参考書にエンピツを走らせていくけど、それはすぐに止まる。本当にわからないらしい。
 どうでもいいけど体重が僕にかかってる。軽い、といえば格好つくのだけど重たかった。
 口に出したらきっと殴られるからいわないけど。
 彼女が僕のほうをジロリと睨んできた。

「この参考書借りるわよ。いい?」

 疑問系のはずなのに、有無を言わせない雰囲気がある。いつもの彼女に戻っていた。性悪で、自意識過剰な彼女に。
 当然反抗できるわけもなく僕は無言で頷いた。でも、彼女にはそれが不服そうに見えたのか、自分のベッドに手をのばし、読みかけだった本を僕に手渡した。

「あたしが借りるから、あなたにも貸してあげる。面白いわよ。いつもマンガしか読んでないんだから」

 カバーが外されていて題名はわからなかったけど、読んでみようとは思った。
 何でだろうか。このまえからそればっかしだ。
 彼女は最後に、あたしが終わるまでに読み終わりなさい。と言って、参考書を持っていった。
 横目で見ていたけど、一日では終わりそうにないほど唸っている。僕は声を出さずに笑った。
 ああいうのを可愛いっていうのかもしれない。僕より年上の人にそんなこと考えちゃいけないと思うんだけど、そう思った。
 ちなみに、僕の借りた本はバリバリの恋愛物だった。今まで本を読んだことがなかっただけに、威力は凄まじいものがあったけど、どこか面白いと感じる自分もいた。後でわかったことだったけど、その本は女の子向けの出版社のものだった。



 陳列されている本の中から目当ての本を探す。これが中々に難しいことだと知ったのは、ついさっきだ。
 僕がいるのは、病院内の本屋。大きい国立病院となると、病院内に小さいけど本屋だってあるのだ。他には、花屋もあるし、売店――は他の病院でもある。
 昼時。僕はそんな時間に本屋にいる。目当ては今日発売のマンガだ。大人気のマンガだから、小さな本屋でもちゃんと入荷してる。もっとも数が少ないから、本屋のオバサンと顔見知りになって取ってもらっている。
 そのマンガは、とても凄い医者が出てくるマンガだ。神業的治療術で患者を治すといったような内容のもの。僕はこのマンガをひと目見て気に入った。
 いつか自分が――そう思うだけでワクワクしてくる。その道は険しいけど、マンガを見るだけでも勇気付けられた。それに、ほんの少しだけだけど、病気の名前も覚えたりもした。
 だけど、僕の目的はそれだけじゃあなかった。
 第一、僕がこんな昼時に本屋まで来たのはちゃんとした理由があるのだ。
 それは今日の朝のこと。いつもの通りあんまりご飯を食べない彼女と、力一杯食べる僕が食器を片付けるジャンケンをしている時だった。
 いつのもようにグーを出して負けた僕に、彼女は『今日、何か用事ある?』と訊いてきたのだ。
 考え込むこと数瞬。今日入荷されるマンガのことを思い出して、本屋に行くと返事をした。今思えば、どうしてそんなことを言ったのだろうという後悔ばかりが付き纏った。
 もうわかるだろう、彼女はそれきたとばかりに言ったのだ。『ついでにあたしの本も買ってきて』と。
 当然反対した。だって、間違った本でも買ってきた日には怖すぎる。それに、人の本を探すのはとても面倒くさいから。
 首を横に振る僕に、性悪女がしたことと言えば、僕の参考書を人質ならぬ物質に取った脅迫行動。『これを持っているのは誰かな』と意地が悪い笑顔で。折れるしかなかった。
 しかもその後が悪い。性悪女は、僕に昼時に行くように提案してきたのだ。
 もちろん断った。すぐに本屋に行けば見られるのに、どうしてわざわざ後で行かなければならないのか、と。
 それに対する性悪女の答えも簡単だった。『後で見た方が面白いから。あたしもあなたも』である。傍迷惑な話。だけれども、断ったとして、次に性悪女が取る行動も簡単にわかる。脅迫だ。
 結局、僕は三日前に借りた本を読みながら時間を潰し、性悪女の『そろそろ行ったら?』という声を合図に病室を出てきた。
 三日も読んでまだそれだけしか読んでないのか、とブツブツ言われたから、三日もやってまだそれだけなのかと言ったら、顔を真っ赤にして怒られたことを覚えてる。

「えっと、あ、これか」

 脇に目当てのマンガを持った僕は、ようやく性悪女が言っていた本を見つけた。
 少女漫画のような絵が表紙には描かれていて取るのに少し恥ずかしかった。それを持ってレジへと急ぐ。早くマンガを読みたかったし、何よりも遅くなってどやされるのが嫌だ。
 レジのオバサンに本を渡す。非常に手慣れた手つきで、本が綺麗に包装されていった。一応ブックカバーもつけてもらった。
 兄から貰ったちょっとだけのヘソクリを使って代金を手渡した。その時、横に置かれている本を見つけた。

「雪を見よう?」

 思わず本のタイトルを口に出して、手にとってみた。
 薄いピラピラの本で、どちらかといえば雑誌を言われるものだ。表紙にはどこかの雪が積もった山が張られており、白い文字で雪を見よう。
 最初の数ページをピラピラとめくってみたけど、中にはカラー写真と取ってつけたような短い説明文。しかも、こことは全然関係のない場所でのものばかりだ。
 僕はなんとなくイラつきながらも、それを閉じた。やっぱり見るのなら実物を見たいし、関係ないところの紹介を見ても不愉快になるだけだから。
 そう言えば、最後に雪を見たのはいつだろうか。脇に抱えた本を落とさないように思い出してみた。
 中々雪の降る光景に記憶がさかのぼらず、諦めようとしていた時にようやく思い出した。最後に見たのは小学校一年のころだ。
 もっとも、見たという表現は僕が便宜上使っているだけで、雪を見ることは結構ある。だけど、積もらない。積もるぐらいの雪を、僕は見たと表現するのだ。
 僕が生まれた年には異常気象か何かでたくさん降ったらしいが、僕の記憶にはない。赤ちゃんのころの記憶を覚えているわけなどなかった。

「あら、雪に興味あるの?」

 あの雑誌の前で立ち止まっていたせいか、オバサンが僕に話しかけてきた。

「うん。少しだけ」

「でも、ここじゃ積もらないからね。寂しいでしょう」

「うん」

 オバサンの問いかけに頷く。寂しいと言う気持ちは確かにあった。

「でもね、いいこと教えてあげようか」

「いいこと?」

「そう、いいこと」

 オバサンがニコニコ笑っていた。

「実はね、この病院の中庭のね、大きな木があるでしょ?」

 そう言われて、僕は中庭を思い浮かべてみた。そう言えば、中庭の中心に大きな大きな木があったような気がする。確か樹齢なんたら年とかで、この病院ができたくらいのときからあるらしい木だった。

「あそこの木。根っこの辺りにね、よく雪が積もってるのよ」

「え、でも、枝があるからそこには積もらないんじゃぁ……」

「それが積もるのよ。不思議よね。他のところに積もるぐらいに降ったら、そこにはこれくらいに雪が積もってるのよ」

 オバサンが手を広げる。僕の足が入りそうなくらいな広さだ。

「そんなに積もるの?」

「ええ、今度雪が降ったら行ってみなさい。きっと見られるわよ」

「へぇ〜〜」

 そんなに積もるのか。凄い。
 僕は急にウキウキしてきた。
 そして、同時に、誰かにこの事を話したいと思った。すぐにあの性悪女の顔が浮かんだ。つまらないとか言われそうだけど、それでも良かった。と、思い出した。そうだ、僕はお使いに来ていたのだ。

「時計ありませんか?」

「あら、そこにあるわよ」

 時計の場所なんて目隠ししててもわかるのに、僕はオバサンに確認した。そして、慌てて時計を見た。
 僕が病室から出て、三十分経っていた。性悪女の激怒する姿が目の前に浮かんでは消えた。

「じゃ、じゃあ、これで!」

 礼もせず、僕は必死に走った。
 花屋の横を通り抜け、中庭の側を通り抜け、エレベーターに滑り込んだ。
 廊下を走るな。病院の基本標語だったけど、恐怖の前にはそんなもの無意味だ。
 チン、と電子レンジのような音がして、エレベーターの扉が開いた。待つのももどかしく、ダッシュをかける。
 目標は僕の病室。走れるまでに元気になった――いや、元から元気だけど、僕の体を少し嬉しく思いながら走った。
 途中で車椅子を押してきた看護婦さんにしかられた。少しだけ時間をロスしてしまった。
 病室の前に来て、ひと呼吸。気を落ち着かせる。これからが勝負だ。
 神経を集中させ、自慢の耳で病室の音を探る。昨日、これをしていないせいで、なんというか――見てはいけない状況に遭遇した。同じ徹を二回踏むわけにはいかない。
 しばらくそのようにしていたけど、病室の中からは何の音も聞こえてこなかった。
 ひとまず安心して、次にゆっくりと引き戸に手をかける。何の考えもなく開けば、いつかのようにリンゴを投げつけられる可能性だってある。音をたてないように慎重に。ドアを開けていった。何の襲撃もなかった。
 僕は疑問符を頭に浮かべた。あの性悪女が何もしないとは考えられないことなのだ。ご飯を食べるより僕をいじめる方が楽しいと公言しているほどの性悪女なのだ。
 だけど、本当に何の襲撃もなかった。
 恐る恐る病室に足を踏み入れる。すると、答えは簡単に出た。
 彼女は、ベッドの上で小さい呼吸をしていた。定期的に、すぅすぅと。瞼は閉じられ、両手は律儀に蒲団の中に入っていた。ありていに言えば寝ていた。
 細い顔がとても安らかになっている。まるで僕をいじめているている時のように。
 長い髪の毛が白いシーツと蒲団の上に、どこか気持ち悪く、それでいて優美な絵画を描いていた。
 そう言えば、彼女は少し痩せたのかもしれない。前よりも頬がほっそりとしていた。だけど、その綺麗な容姿には何の問題もなかった。本人の前では絶対に言えないとこを心で呟きながら、僕は足音を消した。
 ゆっくりと彼女のベッドに近づき、そっと本を置いた。その時、視界に入った参考書。三問ほどしか進んでいなかった。
 お腹がぐぅ、と鳴った。そう言えば昼飯を食べていないことに今更ながら気づいた。だけど、今から食べるのは無理なことだった。病院の食事は時間が来れば下げられてしまうのだ。オバサンと立ち話をしていた僕の分があるわけがなかった。
 ふぅ、と溜め息とついてベッドの上に。そこで驚いた。僕の目の前には昼飯と思われる食器がでんと座っていたのだ。
 そして、お盆の下に紙切れが挟まっていた。それを引っ張り出して、更に驚いた。そこには綺麗な文字で『あなたの分。食べてはやく元気になりなさい』と書かれていた。誰が書いたのか――そんな事は自明の理だった。

「やっぱり……本当は優しい人なのかも」

 小さく小さく。病室の空気に溶け込むような大きさで呟く。
 ちらりと盗み見た彼女の寝顔は華奢で綺麗だった。
 僕の夢を強引に語らせられたとき。頑張りなさいと励ましてくれた。その時の彼女はいつもと違った。いや、ここ数日段々と変化していっている。
 僕をいじめる時。いつもとはどこか違うニュアンスがあった。さり気ない優しさがあった。意地悪なことには変わりは無かったけど。
 やっぱり、もう『あんた』と呼ぶのは止めよう。彼女は年上なんだ。そして、優しいんだ。
 これからは、ちゃんと『里久さん』って呼ぼう――僕は心に決めた。
 何故か二つに増えている付け合わせの梅干は見なかったことにしておいた。





――3 僕の心の雪模様


 廊下をぶらぶら。何の目的もなく歩く。
 暖房の効いた病院内では、下界の寒さなどとは無縁。バジャマひとつに軽いものを羽織っているだけな僕の姿。
 手には小さな本と防寒のためのもの。里久さんから貸してもらった恋愛小説を持って。僕は廊下を歩いていた。
 エレベーターに乗って、三階下へ。一階にある中庭でその本を読むことに決めていた。
 僕の病室で読めばいいだろ、なんて言ってはいけないなこと。僕の病室には帰ることができないのだから。
 別に、深い意味でもなんでもない事で、里久さんの親御さんがお見舞いに来ていたからだ。お邪魔してはいけないだろうと思って、少しだけ頭を下げて抜けてきた。考えてみれば、里久さんの親御さんに会ったのは、これで三回目。少なすぎるような気がした。
 そう言えば、僕が里久さんと初めて呼んだ時の気恥ずかしさと、里久さんの表情は心に焼き付いている。僕の顔は気恥ずかしさで真っ赤になっていただろう。里久さんはお腹を抱えて笑っていた。頭にきたのはここだけの話だ。ちなみに、お腹を抱えて笑う前の里久さんの顔はきょとんとしており、馬鹿を見るような感じだった。やっぱり頭にきたのはここだけの話。
 電子音を鳴らして、エレベーターが止まった。皆が出て行くのを確認して、ゆっくりとそれから降りる。それからまっすぐ歩いて防寒装備の開始。
 着ていた軽いものを脱いで、ふかふかの防寒装備をする。そして、大きいガラスのはめられたドアを開ける。寒風が僕の体をこれでもかと打ちつけた。
 吐く息が白い中、足早にベンチを目指す。影が無い日の辺りのいい場所。冬はあまり人がいないから、すぐに取れる場所だ。
 大きな大きな木の横を通り抜けて、目的のベンチへ。予想通り人はいなかった。
 腰を下ろして本を開く。同時に腕時計を確認。後三十分くらいは帰らないほうがいいみたい。
 ちなみに、今日は曇り。鈍色の空が頭上に広がっている。おかげで反射光も目に痛くないし、温かくはないけどそんなに寒くもない。僕は曇りの日が一番好きだった。
 挿んでいた栞を探し、本を開く。ページ数を数えてみると、丁度半分くらい読んでいた。
 小説なんて読んだことのない僕がよくもここまで読めたものだと自分で感心した。同時に、小説とはここまで面白いものなのかと感じた。
 物語の中盤。話のとても盛り上がるところで、次の展開を楽しみにしながらページをめくる。
 寒風が吹きつけてくるけど、楽しみの前にはそんなもの関係ない。すこし手の先がジンジンしたって問題なし。楽しいものの前には、なにも無力なのだ。
 驚くほどはやく時間が過ぎたと思う。何せ、差し込んでくる赤い光で慌てて立ち上がったくらいなのだから。いつの間にか、鈍色の空は真っ赤な空へと変化をとげていた。
 里久さんの親御さんがもう帰っている時間帯。小説は全部の半分からもう半分超えていた。
 ベンチから立ち上がり、大きな木の横を。と、その時、僕は立ち止まった。
 先日、本屋のオバサンから大きな木の根元に雪が溜まっているという話を聞いていたからだ。
 そんな馬鹿なと思いつつ、興味半分根元をのぞいてみる。クリスマスから三日前の昨日の夜、ちらちほらりと雪が降っていたからだ。
 身を屈めて――僕は驚いた。
 そこには確かに雪が積もっていた。他のどこにも積もっていないのに、何故かそこにだけ雪が積もっていた。
 驚愕の表情で、僕は指を雪に埋める。大した量ではなかったけど、指の第一関節が埋まるくらい積もっていた。
 これはありえないことだった。
 僕の住んでいる県は、本当に雪が降らない。降ったとしても粉雪。とても積もるような代物じゃない。それなのに、ここのこの場所にだけ確かに積もっているのだ。
 不思議なこと。とびっきり不思議なこと。
 そう表現すること以外はできそうになかった。
 右手を雪の中に突っ込む。ジン、とした体の芯まで冷える寒さが僕を襲った。
 寒さに体が震えた。歓喜に体が震えた。
 雪は体温で下のほうからじわりじわりと溶け始め、気がつくと僕の手の上には雪解け水が溜まっていた。
 綺麗だな……。
 心の底からそう思った。
 雪解け水は徐々に指の隙間から零れ落ちていった。ぽたぽた、と真っ白な雪の上にそれが降り注いだ。
 やがて、僕の手の上には小さな水滴しか残らなかった。
 最初は大きかった雪解け水の塊。それが小さな水滴となっていた。
 僕は素直に寂しいと感じた。
 綺麗な雪。僕の上で解けていった雪。とても儚い。
 その時、思いついた。そうだ、里久さんに雪を見てもらおうと。この儚い美しさを一緒に見てみたかった。
 だけど、すぐにそれは打ち消した。残念だったけど、病院の中には暖房がかかっているし、なによりも雪を運ぶための道具がなかった。手のひらで運んでも二十秒と経たずに水となり、やがては水滴となるのだから。
 とても残念に思いながら、僕は自分の病室に引き返した。





 病室に帰った僕を迎えてくれたのは、リンゴではなかった。もちろんミカンでもなかった。そして、里久さんでもなかった。

「ただいま」

 そう言ってドアを開けた時。いつもの『おかえり』という声はなかった。『どこに行ってたのよ』という言及もなかった。
 また寝ているのかとも思ったけど、ちゃんと里久さんは起きていた。何故か僕のベッドに。

「ただいま」

 もういちど同じ言葉を。後ろ手にドアを引いた。
 だけど返事はなかった。礼儀にうるさい里久さんなのに。
 里久さんは上半身だけを起こして、僕のベッドに座って、ただ窓の外だけを眺めていた。
 ふたたびただいまを言おうとして、僕は口を閉じた。
 何故だかわからないけど、里久さんに声をかけるのがためらわれた。声をかけちゃいけないような気がした。
 ドアの前に棒立ちしたまま、僕はゆっくりと時が流れるのを待った。
 僕と里久さんの喧嘩声が常に鳴り響いている病室の空気は、完全な沈黙を保っていた。
 苦しい沈黙じゃなかったけど、楽しい沈黙でもなかった。
 ふと、里久さんが何を見ているのかが気になって、窓の外を眺めてみた。
 そこにはいつもと全く変わらない枯れた針葉樹の植え込みと、遠くに見える大きな山。それにいちめんの夕暮れが映し出されていた。
 ここの病院の敷地は本当に広く、針葉樹なども植えられているのだ。
 もっとも冬となればそれは枯れてしまい、葉をつけない。春には喜びを誘ってくれる植え込みだけど、冬には寂寥感を誘ってしまう。いっそのことなかったらいいのにと思うくらい。
 そこで気がついた。里久さんの視線が向けられていたのは山だった。
 護国神社のある山。昔の大名が建立したらしい由緒正しい神社がある山だった。無知な僕は山の名前を知らなかった。
 まだ無言の時は続いていた。
 里久さんは何を考えているのだろう?
 その先に何を見ているのだろう?
 あの綺麗な瞳には何が映ってるのだろう?
 僕の頭はそんな考えで支配された。
 そういえば、里久さんがどんな病気でどれくらい入院しているのかさえ知らない。
 姉妹がいるのだろうか。従姉妹は。なによりも友人は。そんなことすら知らない。
 僕が自慢気に兄のことを喋る横で、里久さんは自分のことを何も喋ってくれなかった。
 僕の知っているのは里久という名前に、中学校二年生であること。性悪女。自意識過剰。いじわる。髪の毛が長く、黒い。吸い込まれるような綺麗な瞳。僕よりも勉強が苦手。恋愛小説が大好き。そして、優しいこと。
 たったそれだけ。それだけが僕の知っていることだった。
 その事に気づくと、無性に寂しくなった。どうしてこんなにも里久さんのことを知らないのだろうか。悔しかった。
 里久さんは、僕にベラベラ喋らせるくせに卑怯だ。ずるい。今度は里久さんにも喋らせてやろう。
 そう思うと、自然と顔がにやけてきた。どうやら僕が良くないことを考えると顔に出てしまうようだ。

「ねぇ」

 だから、里久さんが声をかけてきた時。それを見透かされたような気がして、酷く慌てた。

「な、なに?」

「こっち、来て」

「あ、うん」

 窓を向いたままの里久さんの言葉に従って、僕のベッドの脇まで歩いていく。
 ベッドに座る事はできないから、窓側にある椅子に腰掛けた。

「ここって……あんまり雪が降らないよね」

 寂しそうに、窓の外を眺めながら里久さんは言った。
 里久さんの方を向いた僕の目は、綺麗な瞳に釘付けになった。

「ねぇ、降らないよね?」

 再度呼びかけ。僕は黙って首を縦に振った。

「そっか。残念」

 里久さんは溜め息を吐くように言葉を吐き出した。何故か、心が痛んだ。

「雪が見たいのか?」

「うん、見たい。これでもね、あたしは北国の生まれなの。だから、毎年雪を見てたわ」

 ここにくるまで。里久さんは静かに言った。

「あたしの生まれたところではね、雪は嫌われてるの。ねぇ、あなたは雪が好き。違う?」

 どうして雪が嫌われるのかが良く分からなかったけど、僕は頷いた。

「やっぱり。南の人はね、みんな基本的に雪が好きなの。たぶん、いつもは見られないからだと思うけど」

 にっこり、と里久さんが笑った。
 だけど、その笑顔は僕に向けられたものじゃないと直感的に感じた。
 きっと、里久さんの記憶の向こう側に向けられた笑顔だったんだと思う。
 だって、とても素敵な笑顔だったから。僕にいちども向けられたことのない。
 心と同時に膝が痛んだ。あぁ、明日は雨か雪だ。

「あの山。なんて言うのかはしらないけど、あたしの故郷だったらああいう山は真っ白なの」

 里久さんの細い腕がゆっくりと持ち上がり、窓の外の山を指差した。
 僕の腕とは比べようが無いほどに小さい。女の人なんだ。
 やっぱり里久さんの瞳は窓の外を眺めていた。きっと、その先に自分の故郷のことを重ねていたんだと思う。
 寂しそうな懐かしそうな、そんな瞳の色だったから。

「ねぇ、クリスマスまでに雪が降ると思う?」

 不安そうな瞳で、里久さんは訊ねてきた。
 僕が病室に入ってきてから、初めて僕を見てくれた。それだけで嬉しかった。
 膝の痛みを堪えた。少しでも力になりたくて、僕は自信たっぷりに答えた。

「うん、まちがいなく降る」

「どうしてわかるの?」

「膝が痛むから。俺の膝は壊れてて、低気圧がくるとわかるんだ。だから明日は雨か雪。でも、雪が降ると思う。これだけ寒いんだから」

「あたしには寒くないけど、あなたたちには寒いの?」

「すっごく寒い」

「そうなんだ」

 嘘だ。
 今日はそんなに寒くないし、明日雪が降るなんて限らない。降らない方が可能性が高い。
 だけど、降ると聞いたときの輝いた里久さんの表情を壊したくなかった。だから、僕は精一杯の虚勢を張った。
 例えそれがひと時の嘘だとしても、ひと時は里久さんの表情を守れるのだから。いいことだと思った。
 明日の天気神様が決めることだ。だけど、祈ることはできた。

「じゃあ、もし、雪が降ったらあたしとクリスマスパーティーしない?」

「クリスマスパーティー?」

「ええ、クリスマスパーティー。二人でするの。小さなケーキを買って、ばれないように」

 そう言って微笑んだ里久さんの笑顔は素敵だった。綺麗だった。
 無茶な注文だったけど、とても楽しいように思えた。どうせクリスマスパーティーは家族とはできないんだ。
 それに初めての女の人とのクリスマスパーティー。しかも里久さんと。とってもとっても楽しいことじゃないか。
 だから、僕は二つ返事をした。それこそが罠だったとも気づかないで。

「うん、わかった」

「なら、あなたが全部買ってきてね。今からメモするから」

「はぁっ!?」

「だってあたしは動きたくないから。頼んだわよ」

「だ、だからって!」

「文句あるの?」

 ギロリ、と睨まれる。今、里久さんの座ってるのは僕のベッドなんだぞと叫びたかった。偉そうにするなと言いたかった。
 だけど、この目には弱かった。逆らえない。なんたって怖すぎるのだから。逆らえばグーがとんでくるのだ。

「そういうことで、はい。とりあえずこれを売店で買ってきなさい」

「い、いまからっ!?」

「思い立ったが吉日。早く」

 また睨まれる。
 卑怯だ。逆らえないのがわかってるくせに。

「わ、わかったよ。お金は?」

「後で渡してあげるから。とにかく早く!」

「は、はい!」

 とても情けない声を出して、僕は病室を飛び出した。
 さっきまで寂しそうな顔をしてた里久さんが普通に戻ったのは良かったけど、いきなりパシリ。
 なんだか自分がものすっごく情けなかった。
 いつぞやの子どもに『お兄ちゃん走るのはいけないよ!』と注意され。
 看護婦さんに叱られ。僕は廊下を爆走した。かじんだ手が少し痛かった。
 知らなかった。里久さんが『ありがと』と小さな声で言ったことには。
 僕がそれを知ったのは、もっと、もっと遅すぎるくらい後のことだった。










――5 僕と里久さんのホワイトクリスマス


 翌日。クリスマスイブの前日。天候は曇りだった。
 朝起きた時からずっとこの天気が広がっている。青色の空は見えない。
 僕の好きな天気だったけど、今日はそれを望んじゃいない。僕が望んでいることは、雪が降ることだった。
 ただ、膝が痛むことは救いだった。まだ希望は消えていない。
 昼時に出なさい、といういつもの里久さんの言葉に従い、許可を貰って病院を抜け出した。考えてみれば、入院中に病院から出たのは初めてだった。
 少し悪い子になったみたいがして、嬉しいような怯えているような、そんな気がした。
 入院患者用の裏口から何日かぶりに外に出た。まずは最初はお約束の寒波が僕の身を打った。寒い。厚着をしてきて正解だったようだった。
 里久さんから渡されたメモを見る。必要なもの、ケーキ。思わず僕の目を疑った。
 もっと何か一杯書ける白いメモ用紙に、たったひとつだけケーキ。ケーキ以外はいらないということなのだろうか。そんなのクリスマスじゃないだろうに。
 と、そこでふと考えた。そう言えば、クリスマスでケーキ以外で必要なものとは何なのだろう。
 腕を組み、考えること数分間。答えは簡単に出た。
 必要なものはケーキである。以上。
 結局、里久さんの書いてくれたメモと一緒の答えだった。
 はぁ、と溜め息。僕は商店街に向かって歩き始めた。
 僕の向かう予定の商店街は、この病院を出てから徒歩三十分の距離にある。ケーキ屋ならもっと近くにあるのだけど、僕の懐具合では商店街で精一杯だった。
 後で里久さんが払ってくれるらしいけど、それは後のことで今のことじゃない。そのことを里久さんに言ったら、睨まれた。そこで僕の抵抗は終わった。
 痛む膝を酷使してアスファルトの大地を歩く。
 枯れた針葉樹ばかりが目についた。こうして枯れるくらいなら、やっぱりないほうがいいと思った。無性に寂しくなるから。
 前のほうから自転車が近づいてくる。きっと誰かを見舞いに来た人のだろう。
 そう思い、自転車を眺めていると、それは僕のほうに急転進し、スピードを上げてきた。
 そして、ひと声。

「何してる! 入院患者が!」

 怒鳴られた。背筋が震えた。里久さんとは違った怖さ。何年間も身に染みている恐怖だった。

「い、いやこれにはわけがあるんだよ、兄さん」

 両手を振り、必死に言い訳。だけど、兄には逆効果だったようだった。目がとがっていく。

「わけもくそもあるか! お前は何のために入院してるんだ!」

「よ、良くなるため」

「ならなんで良くなるためのやつが外に出るんだ! 常識を知らないのか!」

「ちゃ、ちゃんと許可も貰ってきたよ」

「俺が許可を出してない!」

 兄は自転車のサドルの上で叫んだ。
 びくっ、と体が震える。僕の中で兄は絶対の存在だったから。

「ほれ、さっさと病院の中に戻れ。戻らないのなら、俺が首根っこ持ってでも連れて行く」

 兄はそう言った。兄はやるといったらやる。筋力も普通の男の人と比べれば、たくさんついている。僕なんかを持ち上げるのはきっと簡単なのだろう。
 兄はいつも正しい。間違ったことなんてしない。僕の自慢の兄なのだから、それは当然だった。  だけど、今日だけは。今日だけは兄に従うわけにはいかなかった。
 もし、僕が兄に従って病室に帰ったらどうなる?
 答えは驚くほど簡単だ、クリスマスパーティーが出来なくなる。
 クリスマスパーティーが出来なくなったら?
 そんなこと考えたくなかった。
 雪が降らなければ意味がなくなってしまうパーティーだけど、ケーキを買えずに終わるなんて。
 そんなの嫌だ。兄の言いつけに従わないのも嫌だけど、里久さんにあの表情をさせることはもっと嫌だった。
 僕が雪が降る、と言ったときの里久さんの表情は忘れられない。
 昨日ことだから当然だ、って言われるかもしれないけど、そんなことじゃない。
 あの表情。寂しそうな表情。それをさせたくなかった。
 だから、僕は大声で叫んでいた。
 『嫌だ』って。
 通行人がいなくて幸いだったけど、僕が初めて兄に逆らった瞬間だった。






 僕は病院の廊下を歩いていた。
 頬がジンジンと痛んだ。あの後、兄に引っぱたかれた頬だった。
 やっぱり兄はものすごく力が強かった。兄の強烈なビンタは、僕の体ごと吹き飛ばしたのだから。
 おかげでコートは汚れてしまったけど、今、僕の手にあるものを見れば、そんなこと気にするまでもなかった。
 僕の手にあるのは、ケーキの箱。里久さんが望んでいたケーキもの。
 それを見ると、自然と頬が緩んだ。同時にジンジンと痛んだけど。
 僕にビンタをした兄の強烈な表情は心の奥底に残っている。鬼の形相というものを初めて知った。
 だけど、僕は退かなかった。あの強大な兄に向かって、必死に抗議した。自分が何をしたいのかを、どうしてこんなことをしたいのかを、必死に主張した。
 今思えば、なんと無謀なことをしたのかとも思う。
 たぶん、泣きながらだったんだと思う。兄がテイッシュを渡しながら、『悪かった』と謝ってきたのだから。
 そして、その後。兄は、僕を自転車の後ろに乗せ、商店街まで乗せて行ってくれた。
 自分で行くから、と何度も断ったけれど、『膝が痛いだろ。わかるんだよ』という言葉には勝てなかった。
 十分という短い時間で商店街についた僕は、急いでケーキを買いに行った。兄も横にいた。
 うんうん、と悩んだ結果。買ったのは、一番安いショートケーキをツーピース。兄がもっといいものを買え、金は出してやるから、といってくれたけど、僕は自分のお金で買いたかったから断った。兄は何だか苦笑してた。
 帰りもまた、兄が乗せて行ってくれた。
 その途中、兄は僕に言った。

「お前は、その里久って子が好きなんだな」

 兄はそう言った。
 言われてしばらくして、その意味に気づいて、考えてみた。
 僕は里久さんが好きなのだろうか?
 今までのことを考えてみた。すると、驚くほど早く答えが出た。
 即ち。

「うん、好きだよ」

「このマセガキが」

 笑っているのか苦笑いしているのかはわからなかったけれども、兄はそう言った。
 マセガキの意味は知らなかったけれども、悪い方向の言葉ということはわかった。『好き』だと言ったことに何の恥ずかしさも感じなかった。
 里久さんから借りている本には、人の事を好きということには恥ずかしいものだ、というようなことが書かれていたけど、全然恥ずかしくもなんともなかった。
 寧ろ、僕が、里久さんを好きだということを誇りに感じた。
 僕という人間が、里久さんという女の人を好きだって――そのことを誇りに感じた。
 その事を兄に言うと、再び同じことを言われた。少しだけ面白くなかった。
 電子レンジに良く似た電子音が響く。
 歩きなれた廊下に足をつけ、角を曲がる。
 心は最高にドキドキしていた。ケーキを持って帰れば、里久さんの笑顔が見られるだろうから。
 もうひとつの角を曲がり、僕はその場に立ち竦んだ。

「……やば」

 言葉が口から漏れていた。
 咄嗟に曲がったばかりの角に隠れた。
 僕の隠れている角の横を、それを押しながら看護婦さんが歩いていった。里久さん担当の看護婦さんだった。
 僕の買ってきたケーキを見られるわけにはいかないのだ。
 看護婦さんが通り過ぎたのを確認して、ひと安心。溜めていた空気を吐き出した。

「あれ、そういえば、いまの車椅子って?」

 首をかしげた。
 どうして里久さん担当の看護婦さんが車椅子なんかを押しているのだろう。
 誰も必要としてないのにおかしいことだ。
 怪訝に思いながら引き戸を握った。何の抵抗もなく開いていく。病室の中の暖められた空気が流れ込んできた。

「里久さん、ただいま。って、あれ?」

 開口一番の言葉。それを受け取ってくれる人はいなかった。
 里久さんが寝ていたはずのベッドは空いていて、ついさっきまでやっていたのだろうと思われる参考書があった。

「どこかに行ったのかな?」

 首をかしげたまま、自分のベッドまで歩いていく。
 膝がビリビリと痛んだ。やはり、歩きすぎたのかもしれない。
 ベッドの傍まできて、ケーキの箱をどこに置こうかと思い悩んだ。
 生ものであるから暖房のかけられた病室だと、ひょっとしたら悪くなってしまうかもしれない。
 かといって、病室以外に置き場所はない。短期入院だったから、冷蔵庫なんて頼んでない。
 しばらく悩み、結局僕のベッドの下に置くことに決めた。
 暖かい空気は上にいって、冷えた空気は下に回ってくるからこれでいいだろう。
 パンパン、と二度手を叩いて、窓の外が見えるようにベッドの上に腰掛けた。
 相もかわらず曇り。痛む膝。雨か雪かすらもわからない。雪が降ったらクリスマスパーティー。
 はやく雪が降らないかな、と天を眺めた。
 そういえば、里久さんはどこに行ったのだろうか。ふと疑問に思った。
 考えてみれば、病院だから見て回るところが無い。売店に行くにしても、僕をパシリにする人だし、頼まれていたものは全部僕が買ってきている。
 普段歩き回らない里久さんだけに、気になった。
 そこで、思い当たった。
 ひょっとしたら定期健診ではないかということだ。
 いや、ひょっとしなくても定期健診なのだろう。考えてみれば、里久さんが定期健診に行くところを見たことが無い。つまり、この可能性はぐっと向上する。
 ベッドに横になり、背を伸ばす。背筋が伸びて気持ちがいい。きっと、ひと仕事終わらせた後であるからでもあると思った。

「でも、里久さんも本当に動かない人だよな」

 そのまま声に出す。
 里久さんが歩いているところなんて数え切れるくらいしか見たことがないのだ。
 きっと根がぐーたらに違いないんだろう。動かないと健康に悪いぞ、と今度言ってやろう。
 笑いが込み上げてきた。里久さんがどんな表情で怒るのかが正確に予想できる。
 目を三角にして、手当たり次第に物を投げてくるに違いない。
 そうだ、里久さんみたいなぐーたらは車椅子に乗って生活すればいいんだ。そうすれば歩かなくて――
 そこまで考えたところで、急にどきりとした。

「歩いたところを見たことがない……? 車椅子……?」

 自分で出した答えを口に出す。そうだ、僕は里久さんが歩いている姿を数え切れるほどしか見てない。
 部屋の温度が急激に落ち込んだ気がした。冷や汗が流れてきた。
 里久さんが歩いたところ。僕のように、長時間歩いたところ。それを今まで見たことがあっただろうか。答えは否だ。
 せいぜい僕が見たことといえば、食事を取りに行くときと返すとき。それとトイレに行くときだけ。
 ごく最近になれば、食事を取りに行くのも返すのも僕が難癖つけられてやっていた。いや、その前に、里久さんがトイレで病室を出たことがあっただろうか。
 冷や汗が垂れてくる。手に汗が滲んできた。
 僕が見たことがないということは、僕の外出中に出て行っているということ。女性の恥じらいだと考えれば納得できないこともない。あのときから、着替える時以外にカーテンを閉めることはなくなったのだから。
 ただ、そんなことが理由だけでわざわざそんなことをするだろうか。
 歩くのを見たことがない。最近になるにつれて比例するように増えてきた僕の外出。担当の看護婦さんが押していた車椅子。
 冷や汗が止まらない。暖かい部屋だというのに。
 考えれば考えるほど辻褄があってしまう。
 里久さんがどうしてわざわざ時間を指定して僕を外出させていたのか。しかも、それは昼時が多い。
 どうして昼時に集中しているのか。それは里久さんが見られたくないものがその時間帯に重なっているのだからではないのか。
 じゃあ、見られたくないものはなんなのだろうか。
 最悪の予想が頭に浮かんでくる。体が震えた。

「そ、そんなことは……」

 喉が渇いた。手はぐっしょりと濡れていた。
 考えたくもないことが次々と浮かんでくる。純粋に怖いと感じた。
 気がつけば。僕はベッドの中で震えていた。だから、雪が舞い始めたことに気づくことはなかった。







 何かを見ている。
 何かはわからないけど、何かを見ている。
 ひどく不透明な何かに目を凝らしてみる。ぼやけていた何かがだんだんとクリアになっていった。
 やがて、完全に視界がクリアになった。
 一番最初に視界に入ったのは、白い物体。天から降り注ぐ白い物体が僕の視界を満たしていた。
 思わず辺りを見渡した。雪化粧の平原。葉のない針葉樹が雪をみにつけていた。
 ここはどこだろう……。
 はっきりとしない頭を動かしてみるけど、答えは出てこなかった。
 人の声が聞こえた。ああ、誰か人がいたんだ。僕はそっちを向いた。
 そして、時が止まった。
 僕の目の前にいるのは、里久さんだった。
 厚着をして、雪化粧の平原を走り回っている。いつもの彼女となんら変わり無い姿。
 不思議と涙が出てきた。里久さんは元気に走っているじゃないか。やっぱり僕の心配なんて杞憂だったんだ。
 心が満たされていくのがわかった。嬉しくて嬉しくて、いてもたってもいられずに、里久さんに声をかけた。
 しかし、どうしたことか声がでない。喉を絞ってみても、腹に精一杯の力を入れてみても、どうしても声が出ない。
 頭の中では里久さんと呼んでいるのに、音の波長となって口から出てきてくれない。
 そうしているうちに、里久さんは僕の見えないところへと走っていってしまう。僕はここにいるんだ。どうしてわかってくれないんだ。
 ひたすらに喉を絞った。声を出せば振り向いてくれると信じて。腹筋が千切れそうなぐらいに力を入れて。ただ叫ぶ。

「里久さん!」

「きゃぁっ!」

 やっと声に出たとわかった瞬間、世界は瓦解した。
 雪化粧の景色はなく、ただ見慣れた部屋が広がっていた。

「あれ……? どうして…?」

 呆然とした声。自分でもわかった。

「あのね、それはこっちのセリフなんだけど」

 不機嫌な声が聞こえた。ふと横を見ると、何故か里久さんが耳を押さえて、僕のベッドに倒れこんでいた。

「……里久さん、何してるの……」

「あなたがうなされてたからちょっと様子を見にきたのよ。そこでいきなり叫ぶもんだから耳が痛いじゃない」

 ちょっと涙目になって、里久さんはそう言った。

「うなされてた? 僕が?」

「そうよ。あたしが帰ってきてからずっと寝てたでしょ。もう二十二時なんだから」

 里久さんの言葉に驚き、脇に置いてある時計を見た。二十一時前、十五分。どうやら僕は何時間も寝ていたらしい。
 ばかばかしく思って、同時に安心した。どうやらさっきのはただの夢らしい。

「ほら、窓のカーテン開けて。いいものが見られるわよ」

 えらくご機嫌な里久さんの声を聞きながら、手をのばし、カーテンを開けた。
 その先にあるものを見て、僕も機嫌が良くなった。

「雪、だ」

「ええ、雪よ。お昼ごろから降ってるの。あなたの言うとおりに」

 にっこりと笑う。とっても綺麗な笑顔。だけど、どこか引っ掛かるものを感じた。

「さ、クリスマスパーティーしましょっか。ちゃんとケーキ買ってきてるんでしょ?」

「当然だよ」

「じゃあ早く出して。ケーキなんて食べるの久しぶりだから、楽しみ」

「うん」

 出来るだけ不穏な表情に出さないようにして、僕はベッドから飛び降りた。
 トン、と床に着地。膝はもう痛まなかった。
 身を屈めて、ベッドの下へと手をのばす。ケーキの入った箱を取り出して、ベッドに戻る。
 そこには、目を輝かせた里久さんが待っていた。

「どんなケーキを買ってきたの?」

 楽しみで楽しみでたまらないといったような感じ。僕をいじめている時とは違う感じ。
 やっぱり女の子らしい一面はあるみたいで、僕は意地悪に笑った。

「それは秘密」

「え?」

 きょとんとした顔。

「だから、秘密。僕が開けるまで教えない」

 里久さんの顔が怒りへと変わっていく。本当にわかりやすい人。
 本当なら、すぐでもケーキを出してクリスマスパーティーをやりたい。好きな人との特別なことだ、誰がやりたくないなんて思うだろうか。
 でも、僕には確かめないといけないことがある。絶対に確かめないといけないことが。
 これでもポーカーフェイスは得意なんだ。だから、表情を隠して、悟られないようにして。僕は言った。

「ひとつだけ、質問に答えてくれたら」

 何の警戒もしていないんだろう。里久さんは普通に首を振った。

「里久さん」

 蒲団の下で足が震えている。痛くなくなったはずの膝が痛み出した。
 ひょっとしたら声が震えているのかもしれない。動揺を隠しきれていない可能性も大いにありえる。
 きょとんとした里久さんの視線。それが僕を責めている様なものに感じられて仕方なかった。

「里久さんは……その……調子はいい?」

「あたしの体を見て言いなさいよ。どこが悪いの?」

 婉曲な言い方。里久さんは笑いながら、半分怒りながら僕にそう言ってきた。

「じゃあ、動ける? ここから売店まで、動ける?」

「……」

 目を伏せて言った言葉。
 怖くて里久さんの表情は見ることが出来なかった。
 沈黙が狭い病室を支配した。時計の針が動く音が耳をつく。

「どうしてそんなこと訊くの?」

 里久さんは、いつもと変わらない声で。僕は震える声で、嘘をついた。

「里久さんが……車椅子に乗っていたから」

 とんだ嘘っぱちだった。僕は里久さんが車椅子に座った姿なんて見たこと無いのに。
 再び沈黙が続いた。
 破ったのは、里久さんだった。

「そっか、見ちゃったか」

 何故か笑って。彼女は軽い調子で言った。

「あたしの計算だったら見られないはずだったんだけど、今日に限って早すぎよ。まったく」

 苦笑い。
 だけど、僕はある言葉を聞き逃さなかった。今日に限って、という言葉を。

「今日に限って……? 明日に何かあるの?」

「ええ。明日ね、あたしは手術するの」

 手術、そんなこと聞いたことない。そんな前振りもなかった。

「だから、今日に限ってってこと。ひょっとしたら、あたしは明日ここからいなくなるから」

 ここからいなくなる。それが暗に意味していることは、僕にでもわかった。
 つまり、里久さんは……。

「……死ぬの……?」

「ええ、手術に失敗したらね」

 何故か苦しそうじゃなく、にっこりと笑って、里久さんは付け加えた。

「あたしはもう諦めてるから」

 そのとき、なるほどって僕は納得してしまった。
 里久さんは、もう最初から知っていたんだ。自分が助かることはないって。
 きっと、僕になんのあとくされも残さずひっそりと去ろうとしていたんだって。
 そうすれば、里久さんの最初のいじわるも、何で怒ったのかも。全部、全部理解できた。
 ただ、里久さんは唯一の誤算をしてしまった。僕が里久さんを好きになってしまったという誤算。
 そう、僕は里久さんが好きだ。いなくなって欲しくない。だから、大声で叫んでいた。

「なんで諦めるんだよ! 助かる可能性は残されてるんだろ!」

 拳を握り固めて、ベッドを殴りつけて。

「無茶を言っちゃダメよ。できない事だってあるの」

「そんなこと、やってみないとわからないじゃないか! どうしてすぐに無理だって諦めるんだよ!」

 きっと、僕は悔しくて悔しくてたまらなかったんだと思う。
 好きな人がいなくなってしまうという時なのに、無力な自分が。とても不甲斐なく思えたんだ。

「やっぱり優しいね、陽一は。だからあたしは知られたくなかったんだけどな」

 柔らかい手と共に初めて呼ばれた僕の名前。

「あたしも諦めたくない。だけど、決まってることなんだから」

「わからない、そんなのわからない」

 僕は首を横に激しく振った。
 涙でも出ているのだろうか、頬が熱かった。

「わがまま言わないで」

 わがままなんて言ってない。言ってないんだ。
 こう言うのが当然の事なんだ。きっと。

「最後に雪も見れた。陽一に悲しい思いさせちゃうのは失敗したけど、クリスマスパーティーも出来る。さ、やりましょ。クリスマスパーティー」

 僕の頬を両手で抱いて、里久さんは優しく言った。
 そこで、僕は気づいた。そうだ、まだ僕にできる事はある。里久さんに大好きな雪を触らせてあげることができる。
 気がつけば、僕は里久さんの手を引いて立たせていた。

「……なに?」

「雪を触りに行く。きっと、里久さんも楽しんでくれる!」

「こんな振り方じゃ積もらな――きゃっ!」

「積もってるところがあるんだ!」

 有無を言わさず里久さんを背中に担ぎ、病室を飛び出した。
 軽いといえれば格好良いのだけど、里久さんは案外重たかった。
 あんまり物を食べていないはずなのに、重い。口に出したら殴られそうだからやめておいた。
 ナースセンターを見つからないように駆け抜け、エレベーターに滑り込む。息があがっていた。

「体の調子悪いんだから、そんな無理しちゃ……」

「無理なんかしてない!」

 心配する里久さんに大声で返した。肺が脈打った。並々ならぬ苦しさだった。
 だけど、里久さんに比べれば些細なこと。どんなことでも我慢できる自信があった。
 エレベーターが下りている間に息を整え、つくと同時に慎重に移動した。見つかってはもともこもない。
 中庭へと続く道。見渡しのいい場所。だけど、中庭に鍵はかかっていないのだ。確か、去年かいつかに壊れたまま直していないと聞いていた。
 音が鳴らないようにドアを開け、中央にある大きな木の根元に急いだ。
 心臓が破裂しそうなほど動いていた。苦しくて息ができなかった。

「里久さん、ついたよ」

 そう言うのだけが精一杯で、半ば投げ出すようにして里久さんを地面に下ろした。
 そして、根元を指差した。

「陽一、だいじょうぶなの?」

「すぐ良くなるから、だから、雪」

 心配そうにしている里久さんに雪を見るように促す。
 きっと満足してもらえるだろうから。笑顔の里久さんが見たかったから。
 のろりのろりと里久さんが体を動かしていく、そして、根元に来たとき、彼女の顔がいっきに変わった。

「わぁ……」

 いつも聞きなれない声。子どものような声。
 里久さんは嬉しそうに積もっている雪を両手に取った。
 その瞬間だった。
 僕の目の前は、再びあの雪原へと変わっていた。
 雪化粧の平原。さきほどと同じようなところで、里久さんと思われる小さな子どもが飛び跳ねていた。
 周りには里久さんの母親。何度か見ているから見間違えはないと思う。
 子どもの里久さんは、とても楽しそうで、母親も笑顔で満ちていた。きっと、里久さんがとても元気なころなんだろう。
 小さな手に、抱えきれないほどの雪を抱いて、子どもの里久さんが走っている。
 ああ、きっとこれが里久さんの幸せだったころの記憶なんだろう……。
 そう思ったと同時に、目の前には里久さんが居た。
 両手に雪を持って、とてもとても幸せそうな笑顔を浮かべていた。

「ありがと。ホントに……ありがと……」

 里久さんの瞳から小さな雫が流れ落ちた。体温で解けた雪が、里久さんの手のひらから零れていった。

「あたしなんかのために、こんなことばっかりしてくれて。あたしは陽一を苦しませることしかできないのに、ホントにホントに……」

 そこからあとは言葉になっていなかった。
 里久さんは勘違いしている。僕は、里久さんに苦しまされていないということを。
 僕は楽しかった。心の底から楽しかった。今思い出せば、何から何までもが楽しかったのひと言で済ませられる。
 不意に、里久さんが僕に体を預けてきた。なんだろうと急にドギマギしたけど、なんのことはなかった。
 ただ、里久さんは泣いていた。きっと、哀しみじゃなくて嬉しい涙だとは思う。僕の勝手な憶測だけど、そうあって欲しかった。
 そういえば、里久さんが泣いている姿、初めて見た。

「ねぇ、陽一。あたしと約束できる? 答えて」

 しばらく泣き続けた里久さんが、赤くなった目を擦りながら、空を見上げて、次いで僕を見て、言った。
 優しい声。僕は首を縦に振った。
 もう僕にもわかっていた。これが本当に最後なんだって。

「まず第一。必ずお医者さんになりなさい。陽一ならきっとなれるわ。厳しいけど、頑張って」

 小さく首を動かした。肯定の証。
 里久さんの両手には、まだ溶けきらない雪があった。

「二つ目。自分の事は『私』って呼びなさい。きっと役に立つから。それと、もっと口調を柔らかく。友達ができなくなるわよ」

 頷いた。

「最後にね、あたしのことを引き摺っちゃだめよ。出来るようならあたしのことは忘れて。陽一が苦しむだけだから、ね?」

 そこだけは、首は振らなかった。
 忘れてたまるもんか。絶対に忘れてやらない。
 僕が初めて好きになった女の人。絶対に、絶対に忘れてやるもんか。
 口に出したかった言葉。だけど、出だしてはいけなかった言葉。
 僕の頬はいつしか濡れていた。

「バカね。なんで陽一まで泣いてるのよ。ここはあたしだけが泣くところでしょ」

 そんな里久さんの言葉なんて聞こえなかった。
 ただ、僕は泣き続けた。

「最後に年上らしいこともしてあげたかったから、丁度いいかな」

 そう言って、里久さんは僕が泣き止むまでずっとなでていてくれた。
 里久さんの体は柔らかくて、雪を持っていた手は冷たくて、それ以上にどこか気持ちよかった。





 それから、僕と里久さんはクリスマスパーティーをした。
 小さな一番安いショートケーキを二人で挟んだ。
 動けない里久さんのために、僕が色々セッテイングをして。兄が買ってくれたロウソクをひとつだけ立てた。
 消灯時間の後。ささやかな時間だった。
 暗闇に浮かぶロウソクの小さな小さな炎。
 ロウソクは燃え上がる前にひときわ輝かしい光を放つってよく言われる。それが見たく無いから、すぐに消した。
 結局、里久さんはケーキをあんまり食べられなかった。
 本当なら食べちゃいけなかったってこと。後から知った。
 だけど、とても幸せそうな笑顔だった。僕は、それをいつまでも覚えているだろう。
 雪はずっと降りそそいでいた。
 鈍色の空は広がり続けていた。
 僕は、ずっと里久さんに話しかけた。
 友達のこと。将来の夢のこと。自慢の兄のこと。好きになった小説のこと。
 ずっと、ずっと話し続けた。
 里久さんはひとつひとつに丁寧に返事をしてくれた。
 ただ、好きな人の事だけは言わなかった。それだけは言っちゃいけないと思ったから。
 そして、里久さんのことも何でも聞き出した。
 北国の生まれのこと。もう八年近く入院を繰り返していること。友達はあまりいないこと。確率が低い手術を受けにここまできたこと。そこで僕に会ったこと。
 僕はそれのひとつひとつを懸命に記憶した。僕が覚えていれば、僕の中から里久さんは消えないのだから。
 二十六時を過ぎたころから、瞼が重くなった。
 『眠くないの?』という里久さんに、まだ大丈夫だと力を入れた。
 それから四十分も経たないうちに、また瞼が落ちてきた。
 『寝なさい』という言葉。それには反発した。したかった。
 だけど、眠気には勝てなくて。優しい笑顔をした里久さんにずっとなでられて。僕の意識は遠のいていった。
 最後に、里久さんの言葉を覚えている。
 『好きでいてくれてありがとう』っていう言葉。
 おかしいな、里久さんに好きだって言った事はなかったのに。



 翌日、目を覚ました。里久さんはいなかった。代わりに手紙が置かれていた。
 それを読んでいた僕は、ある文で目が止まった。
 『参考書。終わらせてあげられないでごめんね。あと、その本はあげるね。それと……ありがと』
 また涙が出てきた。里久さんは僕に嫌われようとしていたんだろうから。だから、あんなことばかりして。
 勝手に好きになったのはこっちなのに。どうして礼を言うんだろう。
 中には、写真が入っていた。僕が寝ていて、それをなでている里久さんの写真が。いつの間に撮ったんだろう。
 いつしか、手紙はしわくちゃになってしまっていた。
 朝食も昼飯もとらずに、ただ窓の外を眺めて過ごした。カーテンは閉めておいた。開けられることを祈って。



 夜になった。雪が降っていた。銀色の空が広がっていた。どうして昨日から振り続けていた。
 カーテンは望んだ人に開けられなかった。
 ただ、看護婦さんがやってきて「里久ちゃんは違う病院に行ったの。寂しくなるわね」と言った。
 きっと、里久さんが昔から頼んでいたんだろう。僕にばれなかったら、僕はあっさりと信じていたのだろう。
 結局、里久さんは帰ってこなかった。
 枯れないのかと思うくらい、涙が流れた。



 明くる日。病室の前のネームプレートが全部外された。
 雪の振る中、僕は退院した。作りかけのプラモデルを持って。


















――エピローグ


 あれから、僕は普通の暮らしに戻った。
 いつもの通学路を通って、いつもの友人に会って、いつもの授業を受けて、いつも通り暮らした。
 有名私立中学には合格した。上から数えても下から数えても同じくらいの場所で合格した。
 人付き合いが悪い、と言われたのが癪だったから、色々な友人を作った。仮面をはめて、八方美人で通した。弊害は特になかった。
 気の許せる親友も出来た。僕を待ちぼうけさせてるのもそのひとり。超がつくほど親友。

「ほらみろ、里久さん。俺だってやればできるんだぜ」

 あの時と同じ鈍色の空。
 空の向こうにいる彼女へ、あのころの一人称を使い、精一杯の虚勢を張った。
 あれから、僕は恋をしていない。
 恋なんて言葉は、僕には理解不能なものに変わっていた。
 手にある小さな小包。里久さんの貸してくれた本の続き。六年経った今でも続いていている。
 僕には、この最後を見守る使命がある。最後まで恥ずかしさを堪えて買って、最後まで読んで、最後に里久さんに報告する。
 でも、肝心なところは教えてやらない。僕に勝手なことを頼んだ罪だ。一番盛り上がるところまで話して、結末は教えてやらないのだ。性悪な彼女には一番効く攻撃。今度は僕が主導権をとってやる。
 笑いが込み上げてきた。涙は消えていた。
 そっと雪に手をのばした。
 あの時とは違う重い雪が僕の手の上に落ちてきた。
 里久さんは大きな雪の塊だった。病に溶かされ、水になって流れていってしまった。
 だけど、僕の手のひらには水滴が残った。
 記憶という名の水滴が。夢という名の水滴が。
 水滴を集めれば、立派な水となる。それは雪解け水となって僕の手のひらにとどまる。
 街頭売りのケーキ屋に一番安いショートケーキを二つ頼んだ。
 かじんだ左手がリンゴを求めていた。
 路地の向こうから見知った顔が走って来る。親友だ。
 流れるのを忘れていた涙をぬぐい、空を眺めた。



 あの時と同じ銀色の空が広がっていた。
















 fin.