12月24日。クリスマスイヴ。
 聖なる夜の前日であるその日は、まさにホワイトクリスマスを予感させる白い粉雪が降っていた。
 空から舞い降りた白い妖精は木々や草花に白化粧を施す。
 そして今の時刻は深夜0時。
 日付が変わり、クリスマスを迎えた漆黒の闇の中、たった一つの電灯の光があたりを照らしている。
 電灯の光はあたりに敷き詰められた白い絨毯に反射され、まさに幻想的な光景を作り出す。
 そんな光景の中央に、一人佇む少年……相沢祐一が存在している。
 未だに雪を降らし続ける漆黒の空を見上げたまま、祐一はそこにいた。
 まるで祐一だけのために用意されたような領域。
 それはまさに光と静寂の支配する空間……そこへ突如侵入者が訪れる。
 侵入者は雪の絨毯の上を歩き、そこから反射される光を全身に浴びながら現れた。
 その姿はさながら宮殿に招待された貴婦人の如く。
 領域の支配者は視線を侵入者へ移し、笑みを浮かながら口を開いた。

「遅刻だぞ……香里」
「いきなり呼び出したくせに言ってくれるわね」

 美麗なる侵入者、美坂香里へと……。






SilentからHappyへ……






「それで? こんな所に呼び出して何の用なの?」

 香里が祐一から連絡を受けたのは23時を回った頃。
 突然の祐一からの誘いに、香里は疑問を抱きながら雪の中を歩いてきた。
 その目的地は街外れの公園。祐一と栞の大切な場所。
 ふと、家を出るときに目にした栞の無理に作ったような笑顔が香里の脳裏に浮かんだ。

「いやな……そろそろクリスマスということで、どうしてもやっておきたいことがあってさ」

 祐一は苦笑したような表情で言葉を述べる。
 “やっておきたいこと”
 それが何を意味するのか、香里には全く持ってわからなかった。
 唯一つわかっていたのは、その“やっておきたいこと”に自分が関係していることだけ。
 香里はそのことを確認するために祐一に問いかけようとしたが、それよりも先に祐一が口を開いた。

「俺……どうやら香里のことが好きらしい」

 祐一の口から放たれた言葉は、香里の予想の範疇にないものだった。
 そして同時にその言葉は香里に多大な衝撃を与えた。
 余命いくばくもなかった栞の支えとなり、香里が否定していた奇跡を起こした人物。
 栞が愛し、また栞を愛していると思っていた人物。
 その祐一がこともあろうに自分のことが好きと言っている。
 香里にはどうしても信じられなかった。
 
「……冗談はやめて。相沢君には栞がいるじゃない」

 内心の動揺を抑えながら香里は言う。
 信じられない、信じたくないという思いが香里の胸中で渦巻いている。
 その内に秘められた本当の思いを必死に隠すようにして。
 そんな香里の思いも知らず、祐一は話を続けていく。

「冗談なんかじゃない。それに、栞とも正式には付き合っちゃいなかった。なんたって……」

 祐一はそこで言葉を区切り、香里の目をしっかり見て言い放った。





「俺はあの日からずっとお前のことが好きだったんだからな」





 祐一の言うあの日。香里が自分の弱さを祐一に晒した日。
 栞がいなくなるという事実に耐えられなかった香里が、それまでの苦しみを吐き出した日。



――あたし、あの子のこと見ないようにしてた…――
――日に日に弱っていくあの子を、これ以上見ていたくなかった…――
――いなくなるって…もうすぐあたしの前からいなくなるんだって、分かってるから…――
――普通に接することなんてできなかった…――
――だから…あの子のこと避けて…――
――妹なんか最初からいなかったらって…――
――こんなに辛いのなら…最初から…――
――最初からいなかったら、こんなに悲しい思いをすることもなかったのに…――
――…相沢君――
――あの子、なんのために生まれてきたの…――



 二人の脳裏にその時の光景が鮮明に浮かび上がる。
 香里にとっては、他人に初めて弱みを見せた日。
 祐一にとっては、一人の女性を愛し始めた日……。
 いろんな解釈が出来るそんな日のことを思い出し、香里はふと気付いた。

「相沢君……あなた狙ったわね?」
「ようやく気付いたか」

 香里の言葉を聞いて、悪戯が成功した子供みたいな笑みを浮かべる祐一。
 いい意味でも悪い意味でもこの男は純粋なのだと、香里は不意に思った。
 そして純粋だからこそ……自分の感情を隠そうとしない。
 だからこそこんな演出を考え付いたのだろう。
 運命の分かれ道となった日とほとんど同じ状況という演出を。

「香里のことが好きになった状況だったからこそ、決断もこんな感じにしてみようと思ってな」
「今は相沢君に吐露する弱さなんか持ち合わせていないけど?」

 いつものペースで掛け合いをする二人。
 だが、今日はそうも言ってられない。
 香里にとっては、妹の大事な人をとってしまうことになりかねない状況なのだから。

「そこまでしてもらって悪いんだけど、あたしの答えは“No”よ。あたしにとって相沢君は恋愛感情の対象外だから」

 それは嘘。
 それは偽り。
 香里の本心は正反対。



――あたしは相沢君のことが好き――




 心の奥底に存在する香里の本心。
 でもそれ以上に大事な妹の存在。
 自分の思いを貫くには罪を重ねすぎたと香里は考えている。
 重ねた罪は偽りの強さとして本当の自分を覆い隠す。
 妹を失うことに耐えられない姿は、妹のいない優等生の姿へと。
 妹を想う気持ちは、妹を拒絶する気持ちへと。
 そして今は……好きな男に飛びつきたい女を、目の前の男に興味を持たない女へと。
 かたくななまでの自制心。
 それを悟らせない為のポーカーフェイス。
 その全てが完璧だった。
 そして完璧すぎた為に、純粋な人間には隠し通せなかった。

「……自分を偽るのはやめにしたらどうだ?」

 香里の仮面に亀裂が走る。
 たった一言の言葉。自分の偽りの姿を見透かしたようなその言葉は、それだけで十分だった。
 一度亀裂の入った仮面は元には戻らない。
 香里はそれでもなお、偽りの自分を演じ続けようとする。

「あ、あたしのどこが偽っているって言うの!? うぬぼれるのも大概にしなさい!」

 香里の言葉に祐一の表情が翳る。
 それと同時に香里の胸にも針を刺すような痛みが走るが、気にとめることはない。
 全ては栞の為。それが一番と信じるが故。
 だがその意志も次の瞬間崩れ落ちた。
 祐一の言葉によって。

「香里は全然変わってない。……妹のいない自分を演じていた頃とな」

 香里から表情が失われる。
 偽りの仮面が取れた後に残るものは、自分の意志を持たないマネキンだけ。
 香里は忘れていたのだ。
 自分の仮面を最初にとったのは目の前の少年だったということを。
 それでも香里はまだ演劇をやめようとはしない。
 香里を動かすのはただ一つ。栞の存在だけ。

「違うわ! あたしは自分を偽ったりしてない! さっきの答えがあたしの――」
「お姉ちゃん!」

 香里の言葉を遮る少女の叫び。
 驚いた香里が振り向いた先には、最愛の姉からもらったストールを羽織っている少女の姿。

「栞……」

 驚きのあまり声を発することが出来ない代わりに、祐一がその少女の名を呟く。
 名前を呼ばれた栞は沈痛な表情で姉の姿を見つめていた。
 三人の間に流れる沈黙。
 その間にも雪は降り続き、それに反射された光があたりを照らしている。
 そんな状況を打ち破る栞の悲痛な訴え。

「お姉ちゃん……お願いだから……これ以上無理しないで……」

 香里の心が揺らぐ。
 自分がかたくななまでに祐一を拒むのは栞の為だったはず。
 それなのに栞は自分に訴えている。
 「これ以上無理しないで」、と。
 その言葉に動揺する香里の背中に、祐一が叫んだ。

「いい加減、本心で俺に答えろよ。俺は本気だぞ? 俺が好きなのは美坂香里ただ一人だ!」

 祐一の嘘偽りない叫び。
 表情が失われていた香里の目からゆっくりと涙が溢れ出す。
 そこへ今度は栞の言葉。

「私はお姉ちゃんが無理してる幸せなんていりません! お姉ちゃんも一緒に笑ってなきゃ嫌です!」

 もはや香里は耐えることが出来なかった。
 栞の言葉を聞き、呆然と祐一の方へ振り向く香里。
 祐一は黙って香里が次に発する言葉を待っている。
 栞ももう何も言わない。
 やがて香里は、大粒の涙を流しながらゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

「……あ、あたしも……相沢君のことが……す……き……です……!」

 香里が自分の本心をさらけ出した時、栞は祐一に笑いかけ、祐一はゆっくりと香里に近づいた。
 祐一が間近で見た香里の顔は、涙によってより美しくすら見える。
 そんな香里を抱き寄せた祐一は静かに呟いた。

「メリークリスマス、香里……」

 祐一はそのまま香里と熱い口付けを交わす。
 栞はそんな二人を笑顔で見つめている。
 空から降り続く雪は二人を優しく包み込む。
 それはまるで恋人達を祝福するように……。





「これがパパとあたしが付き合い始めたきっかけよ」
「そうなんだぁ……なんだかパパ、かっこいいよね」

 あの日から10年経った今、香里は母親になっていた。
 ソファーに腰を下ろし、その腕の中には今年で6歳になる娘の美雪がいる。
 その隣には栞の姿もあった。

「いくらパパがカッコよくてもママは酷い人ですよね〜。なんたってパパを私から取っちゃったんですから」
「そういうのってたしか“りゃくだつあい”っていうんだよね〜」
「栞! あんたまた美雪に変な言葉教えたわね!」

 何気ない日常の一コマ。
 香里が結婚して子供が生まれてからはいつもこんな時間が流れている。
 何も悲しむことのない、平穏で安らぐ日常。
 そんな毎日を香里と共に送るのは当然一人しかいない。

「ただいまー……っと、なんだ今日も来てたのか栞は」
「なんですかその邪魔者みたいな言い方は!」
「言葉通りよ、栞」
「そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いです!」
「おかえりパパー!」

 リビングの入り口から祐一が姿を現し、娘はその体めがけて飛び掛る。
 香里と栞は相変わらずの姉妹喧嘩をしている。
 祐一が初めてこの姉妹と出会った時には想像すらつかなかった姿。
 だからこそ今が幸せだと実感できる。

「二人ともそれくらいにしとけ。ほら美雪、クリスマスプレゼント」
「パパありがとーっ!」

 今日はクリスマス。
 祐一と香里のスタートの日でありもう一つ大事な日。

「でも二人ともやりますね〜。付き合い始めたのもクリスマスなら、結婚式もクリスマスなんですから」

 あの日からちょうど1年後のクリスマスに二人は周りに祝福されながら結婚し、今に至っている。
 ちなみに栞にそんな気配は未だ見られない。

「羨ましいか栞? っと、それよりも香里にクリスマスプレゼントだ」

 そう言って香里の体を抱き寄せる祐一。
 そしてその後に続く光景は……熱い口づけ。

「う、羨ましすぎますお姉ちゃん……」

 その光景を羨望と嫉妬のこもった言葉を発しながら見ている栞。
 長い口づけを終えた香里は、そんな栞を見て勝ち誇ったような表情で言い放つ。

「羨ましい? 栞も早く相手を見つけることね」
「うぅ……こうなったら祐一さん! 私にもクリスマスプレゼントをください!」
「あ、あんたって子は何ふざけたこと言い出すの!」

 再び言い争いに発展する姉妹。
 そんな姉妹を苦笑しながら眺めている祐一と美雪。

「全く……美雪、喧嘩ばかりするママはほっといてさっさと食事にするか」
「うんっ!」









もうあの時のようなSilent Night静かな夜は訪れることはない。
今ここに存在するのはHappy Night幸せな夜
時間は流れ続け、幸福も不幸も平等に訪れる。
これは不幸を味わった少女が幸福を掴み取った物語……。







〜Fin〜