クリスマス・イヴ
雨。
雨が降っている。珍しく暖かい天気のせいなのか、はたまた居るのかどうかも分からない神の悪戯なのか。クリスマスの頃に降るだろうとお天気お姉さんが言っていた雪は、残念ながら雪にはなりきれなかったようだ。
しとしとと、静かに、本当に静かに降りしきる雨。
俺の心を表している? ……まぁ、そうかもしれないな。
自問自答の結果は、そう大して面白味のある結果では無い。それこそ何十回何百回と繰り返されてきた俺自身の心情の確認だ。ただ、この行為にすら慣れてしまったという事実だけが俺の心を静かに打つ。
少し小さめの傘を差して、俺は草むらに立ち尽くす。一人で。
孤独かもしれないとは思う。それくらいの事は分かっている。強がりを言うつもりは無い。まぁ、言う相手もいないのはたった今この場での現状でもあるのだけれども。
人気の無い場所だ。眼下には、俺の住む街とは違う街の灯りが見えている。クリスマス一色に染まっているのは俺の街も隣街も全く変わりは無いわけで。そこにあるであろう日常を考えると、少し落ち込んでしまう。
失恋……と言えばそうなのだろうか? 恋を失うと書いて失恋な訳だけど、俺はここにこうして馬鹿みたいに突っ立っている以上恋を失ったとは思えない。そりゃあ、相手はいない――というか物理的に会えないし、彼女が最期にどういう感情を持っていたのかは、今となっては分からないんだけれども。
でもやっぱり、俺の抱いているこの感情は、恋とか愛とか言うものなんじゃないだろうかと思う。例え、一人で閉じてしまっている感情であっても、だ。……もっとも、最近はそれすらよく分からなくなりつつあるんだけど。
……何とも言えず、重傷だな、俺は。ここまで後腐れの悪い男だとは思ってなかったんだけど、どうにもこうにも……。まぁ、必要以上に軽過ぎるよりはマシだと思うけど。
北川みたいな軽さが丁度いいくらいなんだろうけど、俺も普段はあんな軽さで生活してるんだろうけど、この場所にくると途端に心が重くなる。
なら近づくなよ、なんて言われそうなものだけど、やっぱり諦めきれない感情を持っているのも確かで、にっちもさっちもいかないとはこの事だろう。
……惰性。そんな言葉が一瞬頭をよぎって、奥歯を噛み締める。そして、自分の行為に確証を持てないという事に苛立つ。
どうしようもない。そんな言葉ではとてもじゃないが表せない、そんな気持ち。
そんな事を考えながらただひたすらに立ち尽くすイヴの夜。……いや、もうイヴじゃないか。
普段は嵌めない腕時計で時間を確認。長針と短針は、ぴったり一箇所に重なり合っている。ただし、場所は1と2の間だけど。時間にすれば、午前一時五分頃だ。とっくの昔に、クリスマスはやって来ている。
「……聖なる夜、か。静かなもんだな」
俺の呟きだけが夜空に掻き消える。何時の間にか雨は止んでいて、傘を差しつづけている自分に少し苦笑する。
周りが見えないっていうのも問題だ。傘をたたんで、空を見上げる。墨を流したような濃淡のついた闇が視界一杯に広がる。曇ってるなぁ、と白い息を吐きながらため息。
とりあえず朝まではここにいようかな、とか考えていたけど、今すぐここで却下撤回したくなるような天気だ。いやまぁ、今まで雨降ってたのを気にしなかったくせに、とは思うけど。
さすがに、濡れている地面に腰を降ろす気にはなれない。そんな俺にぴったりの詩が、頭の中でリフレインする。
「雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう……」
「Silent night. Holy night...」
ぽつりと呟いた言葉に、続きの詞が返ってくる。いきなりなその声に、これ以上は無理っていうスピードで振り向く。
「きっと君は来ない……。悲しい詞だよね」
「名雪、お前なんでこんな所に?」
「……祐一って、時々すごく分かりやすいから」
右手に懐中電灯、左手にアニメ調の猫が描かれた傘を持って、名雪が立っていた。そのまま歩いてきて、俺の左隣に並ぶ。
「いや、そういう事じゃなくてだな。お前どうやって今起きてるんだ?」
「わたしだって一年に何回かは夜更かしするよ……。例えば、クリスマスイヴの日とか、大晦日とか」
「なるほど。そのために普段から寝溜めしているんだな?」
「何か、とてもヒドイ事を言われてる気がするんだけど……」
「気のせいって事にしておけって」
肝心な事は何一つ交わされない会話。お互いがお互いに、二人の間の距離をしっかり測って会話している感じがする。いつもの自然な会話とは一風変わった会話。
……それは、この場での暗黙の了解事項だ。
「お母さん、心配してたよ? こんな寒いのに出かけたら風邪を引くんじゃないか、って」
「まぁ、コート着てるから大丈夫だよ。……それに、もうそろそろ帰ろうと思ってたし」
「もう帰るの?」
何気なく発せられた名雪の一言で、俺の動きが止まる。さりげなく、でも強烈に深く踏み込んできた名雪の一言。隣町の灯りを見つめるその横顔は、俺の視点からだと表情を窺えない。
「……帰りたくなんか無いさ、真琴が帰ってくるまでは」
「…………」
とても深い沈黙。その沈黙は、まるで俺と名雪の距離を暗示しているようで……何となく、嫌な沈黙だった。
「祐一は……」
「…………」
「祐一は、どこかに行っちゃったりしないよね?」
「何を馬鹿な事言ってるんだよ。俺の馬鹿親が未だに海外に居る以上、俺の居場所は一つしかないんだぞ?」
「ううん。祐一はずっとここにいるよ。身体はわたしの家に居ても、心はずっとここで一人ぼっちのまま。わたし、分かっちゃうんだよ? 祐一が、わたし達と本当に一緒にいない事」
「それは……」
図星、だ。確かに、俺は人付き合いはちゃんとしている。学校で北川と馬鹿やったり、美坂チームなんて呼ばれる面子で遊んだり。でも……いつだって真琴の事は頭から離れない。
いや、むしろ真琴に会いたいという想いはずっと募りつづけている。あたかも、降り積もり続ける雪のように。
「もう嫌だよ……。わたし、もう耐えられないよ。祐一がずっと真琴の事考え続けてるのも、それを見てお母さんがため息をつくのも、もう嫌なのっ!」
ガツン、と頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。普段のほほんとしている名雪がここまで激しい感情を露にしたところを、俺は知らない。
「わたし、真琴なんて居ない方が良かったって、そんな事思っちゃうんだよ? たまに呼んでも返事しない祐一を見る度に、色んな事かんがえちゃうんだよ? 嫌な事、いっぱい考えちゃうのに……。そんなの嫌なのに、なんでわたしは――!」
掠れたような声は、名雪の精一杯の叫び。その顔に一瞬浮かんだのは、後悔と疑念と、それを上回る深い哀しみ。こんな時だけ相手のことが良く判るなんていう皮肉に、俺は内心で舌打ちをする。
我ながら――最低だ。
「今だって、こんな事祐一に言ったって仕方ないって分かってるのに、なのに、なのに……」
「名雪!」
咄嗟の、と言っていい反応だったと思う。言葉の震えに涙の気配を感じた俺は、思わず名雪を抱き寄せてしまっていた。
……そんなの、逆効果でしかないのに。
「――っ!」
無言の叫びと共にきた衝撃は、意外にも強烈な物だった。渾身の力を込めて突き飛ばされた俺は、闇に翻る長い髪を視界の端にちらつかせつつ、盛大に草むらに倒れこむ。
夜空の闇は濃い。地面に、二組の懐中電灯と傘が転がる。首筋にへばり付いた雑草が鬱陶しいが、そうも言ってられない状況だ。
傘と懐中電灯をそれぞれ引っ掴んで名雪の後を追う。
「くっ!」
本当に、唐突な展開だ。神様なんていないのか、それともとんでもない性悪なのか。
……まぁ、一番の原因は俺なんだけど。そりゃ、一年近くもどこか陰を引き摺ったままだったからな。
そこへきてこの夜中の遠出じゃ、精神的な糸が切れても仕方ないか。
あぁ、こうやって冷静ぶっているんだな、俺は。……くそっ! 何を他人事みたいに考えているんだか!
「名雪っ!」
けどまぁ、今は名雪を探し出す事が先決だ。幸いにして、完全に見失った訳じゃない。自嘲も自戒も自虐も全部後回しでいい。今は名雪を探さないと……!
……なんで、あんな事を言っちゃったんだろう。
そんな思いが頭の中をぐるぐると回る。最初は、ただ祐一を迎えに行っただけなのに。どうして、こんな事になっているのかな。
「祐一の、せい、だからね……!」
息が上がる。暗い中、目隠し状態で走っているから、体力の消耗も早い。……引退しちゃってから、体力落ちちゃってるかも。
そんな事を考えながらでも、さっきの祐一の言葉がまだ頭の中に響いている。
――もうそろそろ帰ろうと思ってたし。
あんまり帰りたくなさそうな口調でそんな事言われたら、いくらわたしでも止まらなくなっちゃうよ……。
「……酷いよ」
本当に、酷い。わたしの嫌な部分を、全部吐き出しちゃった。……それも、祐一に向かって。そう思うと、目尻が熱くなってくる。
最悪の言葉――ずっと待ってたのに、という言葉だけは言わずに済んだのは、ただの偶然。それは、自分が一番良く分かっている。そして、その言葉だけは言っちゃいけないという事も。
なんで祐一が全部忘れちゃったのか、わたしはお母さんから聞いて知っている。だから、無理矢理思い出させちゃいけないって事も分かっちゃう。
そうして、わたしの想いはずっとずっと宙を浮いたまま。
でも、祐一は真琴やあゆちゃんと出会って。真琴もあゆちゃんも不思議な存在だったけど、わたしは本当にびっくりしたんだけど、ずっと何も知らない従姉妹でいなくちゃいけなくて、でもわたしは……。
「痛っ!」
太ももに鋭い痛みが走る。それと同時に、何かが折れる音も聞こえる。たぶん、何かの枝を折ってしまったんだと思う。
気が付けば、わたしはぼろぼろだった。暗くてよく見えないけど、きっと色々な所を擦り剥いたり打ったりしてると思う。
まるで、わたしの心みたいだな。
そう思うと同時に、足が止まった。服が雫で濡れて気持ち悪い。……どうしよう?
懐中電灯は置いてきちゃったし、傘も持ってないし、何よりここがどこなのか、わたしは全然分からない。
本当に、困っちゃったな……。でも、ここで立ち止まってても仕方ないし。
殆ど届かない月の光を頼りに、切れ切れの視界で森を歩く。とりあえず、丘の上の方に向かって登っていく。頂上には公園があったはずだから、そこまで行ければ何とかなるはずだ、と思って。
でも、その前にわたしは一本の道に出た。森に埋もれかけた、獣道みたいな道だ。
「……どうしようかな?」
左右に分かれる道は、どちらに行っても大差は無いと思う。正解を選べば普通の道に出られるだろうし、間違った方を選んでも引き返せばいいだけだ。
でも、今日は家に帰りたくないな。そう考えると、しばらくあのまま彷徨ってても良かったのかもしれない、なんて思えて来ちゃうから不思議だ。
迷う気持ちを抱えながら、とりあえず、とわたしは歩き出した。
左手には、畳んだ傘が二本。右手には、雨に濡れた懐中電灯が一本。そして、ベルトには懐中電灯がもう一本、付属の紐で吊るしてある。
二人分の装備と共に、雨の森を名雪が通った痕跡を辿って早足で歩く。名雪の跡を見逃さないように、名雪に早く追いつけるように。
「でも、追いついてどうするつもりなんだろうな、俺は」
そんな事を呟いてから、自分で無意識に放った言葉に愕然とする。
思わず立ち止まってしまった俺には、その疑問に答える術がなかった。
いきなりに見えた名雪の激昂も、よくよく考えてみれば当然の事だった。……そんな他人事みたいな思いで彼女を追いかけている俺に、解決策などあろうはずもない。
ならば、立ち止まったついでに、名雪の事も真琴の事も、色々な事について考えてみよう。多分、そう悪い考えじゃないはずだ。
……とりあえず、真琴だ。七年ぶりに再会した、俺がかつて助けた子狐。――いや、言い直そう。俺がかつて身勝手な善意で助け、身勝手な都合で捨てた、子狐だ。
今にして思えば、真琴の行動や言葉にはその想いが含まれていたのだろう。俺を最初憎んでいた事だって、ぴろを落としたあの時の言葉だって。
――動物なんて、結局要らなくなったらポイって。
あぁ、本当に、何でこんな時になってこんな事が見えてくるんだろうな、俺は。真琴自身が気付いてなくても、俺の行いは確実にあいつの脳裏に刻み込まれていたわけだ。
それよりも、今の今までこんな事にすら気付かなかった俺がおかしいのか。まぁ、どちらにしても、俺は相当な馬鹿だったって事か。
そして、真琴は現れた時と同じく、唐突に消えた。……唐突、という言葉が違うのならば、夢だったように、と言ってもいいか。
俺は、真琴を見ていたようで見ていなかった……? 想いが揺らぐ。一年間に渡ってずっと抱き続けていたその想いは、実は砂上の楼閣だったのではないか、と。
そんな疑問を持ってしまえば、後は否定しようにも肯定しようにもそのどちらも徹底的に信じられないという自己懐疑が成り立ってしまう。
俺としては、この想いを貫いていると信じたいが、しかし、その自分は真琴を本当に見ていなかったのでは無いかと疑い、それを否定し、でもそんな疑問を抱いてしまうような自分の想いは本物なのかと訝しみ、だが、想いに本物も何も無い、と考える。
そして思うのだ。……こんな事を考えている俺は、他人の視点で“考えて”いるな、と。
やっぱり、こんな事を考えている場合じゃないか? こうしている間にも、名雪の身に何かあったらどうするつもりだ?
……自分がどうして良いか分からない時は、まず身体を動かそう。やはり、少しでも名雪との距離を詰めておくべきだろう。
ただ、名雪の事も考えてみなければいけない。真琴の事を考えるのは後回しでも良いだろう。このままじゃ、自虐思考に走ったままで夜が明けてしまう。
……と言っても、俺は名雪の事をほとんど知らなかったりする。たぶん、俺が真琴の事を知らなかった以上に名雪の事を俺は知らない。
寝起きが悪い。苺と猫が好きだけど猫アレルギー。天然? ちょっとトロい。んでもって陸上部の前部長で、県大会で一万メートルの二位に入ったりいていて、俺はその時心底驚いた。あと、実は可愛かったり胸大きかったりっていうかスタイル抜群。つまり、美人だって事だ。流石は秋子さんの娘。
……まぁ、待て、俺。今はそんな馬鹿な事考えてる場合じゃないぞ。少し落ち着け。
さて、それ以外に俺が名雪の事で知っている事は?
……無いか。あるいは思い出せないだけか。昔は三つ編みだったらしいけど思い出せないし、そもそも昔の事を殆ど覚えていない。今の名雪も、そこまで深くは知らない。
それは、俺が知ろうとする意志が無かったからだろうか? けど、俺はそこまで名雪に対して無関心じゃなかったはずだ。現に、名雪の猫アレルギーは自力で思い出してるし……。
いや、名雪の猫アレルギーは、あいつが猫に触れる寸前まで思い出せなかった。普通に考えれば、猫と名雪が一セットになった時に思い出しそうなものだけど……。それにしたって、名雪が猫好きだという事はもっと前に思い出してたはずだ。あれだけ不憫な境遇にあるのなら、その時ついでに思い出したっておかしくないはずだ……と思う。例えば、あいつの半纏を見た時に、とか。
考えすぎか? でも、俺は未だに記憶が戻っていないのは事実だし。
じゃあ、考える方向を考えてみよう。俺が名雪に追いついた後どうするか、だ。今の問題を、解決してみよう。
……あの時の名雪の様子は、明らかにおかしかった。なんでかは、分からない。分からないからこそ名雪は俺を突き飛ばして走り去ったんだし、今俺がこうして後を追いつつ悩んでいる訳だ。
そして、あの時の名雪の言葉と表情。
――真琴なんて居ない方が良かった。
そんな事を言った名雪のあの言葉は、多分、本心からの言葉だ。俺だって、名雪が本来そういう事を言うような奴じゃないって事は分かってる。けど……、あの時あいつの顔は、言ってしまった、っていう顔をしていた。
それは、真琴なんて居なければ良かったという思考を聞かれてしまった、という後悔の念。俺が真琴を拾ってきた時とは、思考の質が逆転しているだろう。となれば、名雪の考えていた事は大体想像がつく。
……そして、名雪が走り去った訳も、名雪があんな事を口走るハメになった理由も、名雪の想いも、全部判ってしまった。
俺の思考がそこへ至るのとほぼ同時に、再び、足が止まる。目の前には、どこか懐かしさを感じる獣道がある。もちろん、こんな道、今まで俺は通った事は無い。
けど、左右を見渡してみて、やっぱりどこか見覚えがある道だと思った。特に、左手の方へ向かう道筋は……既視感すら覚える。この先に名雪がいるのだろう。何となくだけど、それが分かった。
さぁ、俺はどうしようか。たぶん、右へ曲がれば全ての結末は闇に飲まれ、明日からは平穏な日常が戻ってくるだろう。今日の夜の出来事は、全部夢に出来る。
そういう関係のはずだ。俺と、名雪は。絶対不可侵の領域を少し広くとった間柄。近くて遠い、とはよく言ったものだ。
そこまで分かった上で、俺はどうしたいのだろうか。
……木々の形に切りとられた月は、ただ静かに俺を照らす。
「……ここって、どこかな?」
月明かりを頼りに歩いてみれば、辿り着いたのは小さな広場だった。さっきまで居た草原と比べれば、うんと狭い小さな空間。
その中心には、一つの大きな切り株があった。二抱え以上はありそうな、とても大きな木を切った跡。それを見たわたしは、思わずため息を吐いてしまった。
この木が、全部の元凶なんだって、分かったから。真琴はともかくとしても、祐一が記憶を忘れちゃったのはこの木のせいだ。あゆちゃんが昏睡状態に陥ったのも、祐一が心を壊しかけるほど悲しんだのも、全部この木があったからだ。
……そんな事が分かっても、何の解決にもならないんだけど。
「みんな、終わっちゃった事だもんね……。祐一のせいじゃ、ないんだよね……」
でも、それすらもわたしには分からない。祐一にとってはまだ終わっていない事かもしれないし、こうなってしまった事に対して、祐一にも責任がある部分はあるだろうと思う。
……ちょっと、自分が何をしたいのかが分からなくなってきちゃったかも。
わたしは、祐一が好きだ。七年も会ってなくて、そんな事忘れてたけど、祐一が真琴を連れてきて、初めて思い出した気がする。
けれど、だからどうすればいいのか、それが分からない。
分からないのなら……、分からないなりに考えてみよう。わたしが、どうしたいのかを。そして、その希望願望を見据えた上で、私がどう動くかを。ちょっと考えてみよう。
切り株に腰をおろすと、下着まで濡れていてそれが肌に密着して少し気持ち悪かった。でも、もうそろそろ立っているのも限界だったし、これくらいは我慢しなきゃね。
……我慢、か。我慢する事に慣れたのは何時の頃からだっただろうか。
お父さんがいない事に、祐一に会えない事に、想いを口に出来ない事に、ずっと、わたしは耐えてきた。
うん、今までちゃんと、わたしは笑えて来たと思う。だから、これからも笑って過ごせるんだと勝手に思ってた。
けれど、現実はこうだ。わたしはピエロじゃないし、祐一はずっとわたしを見てくれないままだし、いつかこうなってしまうのは当然の事だったのだろう、と思う。
「はぁ……」
こういう事は、何回思い直したって心地の良い思考じゃないって事は分かってるんだけど。ため息しか出てこないっていうのは、なんか嫌だなぁ……。
もう、言っちゃってもいいかな。祐一の事が……好きだって。
このまま何も言わずに過ごしていたら、たぶん今まで通りの関係でいられると思う。仲の良い従兄妹同士っていう、中途半端だけど居心地の良い関係のままで。
でも、祐一がその関係を望んでいるんだとしたら……。どうしようかな?
……本当に、どうしよっかなぁ?
やっぱり、わたしはまだ迷ったままで頭上に浮かぶ月を見上げる。
少しだけ雨は止んで、綺麗な明るい月が浮かんでいる。……祐一も、同じ月を見ているのかな?
結局、俺は名雪に会ってみる事にした。会ってどうするかなんて決めちゃいないけど、やっぱりこのまま名雪を放っておくのはどうかと思うのだ。まぁ、至極当然の思考の結果だ。
今夜の俺はどうかしている。こんな当たり前の事に今まで気がつかないなんて、本当に頭のネジがどこかイカレてるんじゃないかとすら思う。
再び、月が分厚い雲の中に隠れてしまった今は、さっさと名雪を探し出して家に連れ帰るのが最優先事項だ。心情心裡恋愛感情のもつれ、そんな事は後回しに、今はさっさと二人で家に帰ろう。
でなきゃ、このめでたい日に二人揃って風邪を引く、なんて事になりかねないしな。
……もっとも、今日がめでたい日だなんて、ちっともそうは思えないんだけどな、俺には。
「なんか、思考がセメントはまってるよな……。表現まで一緒になっちまったら、もうなんか完全にお手上げだ」
そう一人白い息を吐く。……いやまぁ、白いかどうかはちょっと分かり辛いけど、俺の脳内イメージでは真っ白な息だ。つまり、それだけ寒いって事。
自分の思考の真っ当さや表現の豊かさなんぞ、気にしていられるような気温じゃねぇ。
少し早足で獣道を行く。前方五メートル、急に森が開けているのが分かる。早足から駆け足に変わりつつ、俺は従兄妹の名前を叫ぶ。
「名雪――!」
視界が一気に広がる。と言っても、懐中電灯に照らされた範囲でしか、はっきりと物は見えないのだが。
さっ、と光を走らせると、大きな切り株の所に、ちょこん、と座っている少女が見えた。
「祐一? ……どうしてここに?」
「そりゃあ、俺がお前を探していたからだろ。ほら、さっさと帰るぞ。こんなとこにいたら風邪引いちまう」
駆け寄って見てみた名雪は、全身雨露に濡れて濡れ鼠のようになっていた。
「…………」
「名雪?」
「……うん、そうだね。早く帰ろっか」
何か言いたげだった沈黙が気に掛かる。名雪は立ち上がり、俺は名雪に懐中電灯と傘を渡す。
……でも、それだけだった。
その場の雰囲気に俺は動けず立ち尽くしたままで、名雪はそんな俺をじっと見つめていて。早く帰らないといけないっていうのに、俺は――
「ねぇ、祐一」
「なんだ?」
思考が中断される。けど、それは今は正直ありがたかった。あのままだと、朝まで動けなさそうだったから。
「気付いているかもしれないけど――」
名雪の言いたい事が分かる。……けれど、開けた口から言葉を発する前に、名雪は言葉の続きを言い切ってしまった。
「わたし、祐一の事が好き。……わたしは、わたしを従兄妹の女の子としてじゃなくて、一人の女の子として見てほしいの」
「…………」
開けた口を、もう一度閉める。
「祐一は、従兄妹のままがいいのかな?」
どうなんだろうか? 俺には分からない。……俺は、名雪の事をどう見ているのだろうか? どう見たいのだろうか?
まぁ、分かっていれば今頃こんな事にはなってないか。
「……正直に言うと、分からない」
「……分からない?」
「俺は、名雪の事を見ているようで見てなかったからさ……。だから、俺が名雪に対してどういう感情を抱いているのかなんて、分からないんだよ」
「……そっか。でも、そんなの誰だって同じだよ? わたしだって、……自分の気持ちに気付いたのは……」
名雪が俯く。たぶん、名雪が俺が好きだと自覚したのは、俺が真琴を拾ってきた、あの時期なんだろう。……言葉には、しにくいはずだ。
「だからね、祐一」
「ん?」
「いきなり恋人さんになって、何て言わないから……。わたしの事を見てください。ちゃんと、一人の女の子として」
「こんなドラマチックな告白をされたのに、か?」
「だって仕方ないよ。祐一は、分からないって言ったんだから」
あー、何だかなぁ。
身長差を見上げるようにして俺を見上げてくる名雪は、俺の答えを期待して待っている。
……それも、俺の答えを見越して、だろうな。
全部お見通し、っていうのは、なんとなく不愉快だ。といっても、俺の答えは決まってるんだけれども。
「分かったよ。でも、俺は真琴の事を忘れた訳じゃないぞ?」
「分かってるよ。わたしだって、真琴の事は忘れないから」
結局のところ、俺と名雪の関係って何が変わったんだろうな。
「まぁ、いいか……。とりあえず、家に帰るぞ。マジで風邪引いちまう」
「うんっ!」
元気いいなぁ、名雪の奴。……その割にはふらふらしてるんだけど。
「無理するな。俺の背中を使えって。どうせ、体力なんて使い果たしてるんだろ?」
「う〜、……誰のせいだと思ってるの?」
「自業自得。ほれ、さっさと負ぶされって」
軽い口調の他愛無いやり取り。……こういうのって、何となく居心地がいい。
「意味、分かってる?」
「もう従兄妹じゃないんだぞ、ってか? そんなふらふらしてる奴を歩かせておけるかっての。観念して負ぶされ」
「……う〜」
唸りながらも、名雪は渋々俺の背中にしがみつく。
とりあえず、その体の冷たさに驚く。……あと、なんか煩悩を刺激しそうな柔らかい感触というかダイレクトタッチっていうか。
やべぇ、服越しの感触じゃねぇって、これ。
「祐一の背中って、暖かいね」
「お前が冷たすぎるんだ」
「……ねぇ、祐一」
「なんだ?」
「……ものすごく恥ずかしいんだけど」
「知らん。……っていうか言うな。俺まで意識するだろうが」
考えるな考えるな。ついでに感覚も一部シャットアウトだ。背中に背負っているのは石だと思え。
「あとね……」
「まだ何かあるのか?」
「うん。……メリークリスマス、祐一」
……あぁ、そう言えばそうだったか。
ふと気付けば、目の前をちらちらと白いものが横切っていく。
「わっ、雪だよ」
「あぁ、雪だな」
雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう、ってか? 出来すぎのような気がしないでもないんだけど……。
まぁ、別にいいか。詩と現実は全然違うものなんだし。これはこれで。
「メリークリスマス、名雪」
終わり/始まり