ぐー。
軽く悲鳴をあげるお腹に一刀は足を止めた。
少女と別れてから約一刻。
そういえば船内で軽い食事をとってから何も食べていないな、と思い出すと空腹感がわきあがってくるのを止められない。
時間的にはちょうどおやつ時といったところだろうか。
茶屋にでも寄るかな。
思い立った少年は周囲をきょろきょろと見回し。
「あれ?」
ふと、目に入ったのは十メートルほど離れた店の軒先の長椅子にころんと寝転がっている金髪の少女。
魏の誇る三軍師の一人、程仲徳こと風がそこですやすやと寝息を立てていた。
―――多数の猫達と一緒に。
一刀の呉国訪問記(猫々編)
「またコイツはこんなところで無防備に……」
戦争が終わり、魏を頂点にした天下三分が成った今の世。
五胡を始めとした諸問題はまだまだ予断を許さないものの、各国内における治安の良さは一昔前とは比べ物にならない。
が、ここは曲がりなりにも元敵国の首都であり、彼女は曹魏の重要人物の一人である。
そうでなくてもつい先程ならず者が女性に絡んでいるのを見たばかりだ。
「……ったく」
苦笑いを浮かべつつ、一刀は猫のように丸まって眠る少女を起こすべく近づいていく。
幸いにも店の周囲に人は少ないが、いつ先程の男達のような者達が現れるかわかったものではない。
(少しは自分の容姿とか自覚しろよな、風)
少々幼い外見ではあるが、風が掛け値なしの美少女であることは疑いようがない。
無防備なその姿に、妙な気を起こす男がいてもおかしくはないのだ。
(とりあえず風を起こして、ついでに腹ごしらえでも……ん?)
一歩踏み出した一刀の視界にこそっと動く小さな影が映った。
風と同じくらいの体格だろうか。
呉の人間によく見られる褐色の肌に、腰よりも下に伸びた長い黒髪。
小柄な体格に似合わぬ、背に背負った長刀。
怪しい、というか変としか形容できない少女がそこにいた。
(……なんだ、あの娘?)
後ろ姿なので顔は見えないが、少女はしきりに風のいる場所を見つめている様子。
近づく様子もなく、ただ物影から観察をしているだけのようだが、どうにも挙動が不審だった。
そわそわと落ち着きなく首が動いているし、手もぷるぷる震えている。
まるで何かを我慢しているような、そんな感じなのだ。
(風の命を狙った暗殺者……なわけはないよなぁ)
もしそうならば当の昔に風は死んでいる。
となると少女の目的は何なのだろうか?
(まさか……風に一目惚れしたとか!?)
突拍子もない推測が少年の頭に生まれる。
が、少なくともこの世界においてはその考えはあながち見当違いとも言い切れないのが怖いところである。
何せ魏の上層部からして君主曹操を初めとした百合の花が咲き乱れているのだ。
呉や蜀にもそういった趣味の女性がいてもまったくおかしくはない。
(お、落ち着け俺。まだそうと決まったわけじゃない。でもそうだとしたら風が危険だ……貞操的な意味で!)
ここにもし魏の天邪鬼軍師とフード耳軍師がいれば「お前が言うな」的なツッコミをしただろう。
が、この場には幸か不幸か一刀しかいない。
ゆえに一人盛り上がる少年は妄想たくましく危機感を募らせていく。
ちなみに、一刀からすれば女性同士の同性愛は別に忌避するものではない。
愛する華琳が正にその筆頭ではあるが、ちゃんと男である自分を愛してくれるのだから。
それにぶっちゃけた話、目の保養になる状況になることが多いのだ、彼女達の性癖は。
今まで数々の眼福、ないしはおこぼれを得てきた魏の種馬的にはむしろどんとこいといったところなのである。
(……よし、とりあえず声をかけてみるか)
とはいえ、求愛側が魏以外の人間となると話は別だ。
風は魏にとって、自分にとっても大切な女の子なのだから。
いざとなったら己の身を盾にしてでも彼女を守らなければ。
そう覚悟を決めつつ、一刀はゆっくりと気配を殺して少女に近づいていった。
「はぅぅ……可愛いです」
少女は余程見ているものに気をとられているのか、一刀が近づいてもそれに気がつく様子はない。
後ろから微かに覗く顔には正に恍惚といった表情が浮かび、可愛らしく整った美貌をギャグっぽく崩している。
(結構可愛いかも……)
だらしなく緩んでいはいるが、少女の容貌は美少女と評して差し支えないほどのものだった。
記憶の中にある孫策や周瑜、それに先程のエプロンドレスの女の子。
呉も魏に劣らず美女美少女がたくさんいるんだな、と一刀は思わず感心してしまう。
「あぅあ〜、ほっぺたをスリスリ……モフモフもしたいです……」
(……でも普通じゃないんだな、やっぱり)
妄想モードに入った稟や華琳に対する桂花を髣髴させる黒髪の少女の様子に一刀は溜息をついた。
何故に自分の知る美女美少女は見た目は極上なのにその誰もが普通ではないのだろうか?
先程出会った少女も性格は普通そのものだったというのにとんでもない武力を持っているようだった。
この世界には普通の可愛い女の子は存在しないのか?
そんな贅沢な悩みを抱きつつも、一刀は更に少女へと近づき。
「ちょっと、君……」
ぽん、と肩を叩いた。
「はぅぅ……可愛いです」
孫呉の誇る将軍の一人にして最高の隠密である周幼平、真名は明命。
彼女は自分を見つめる少年の視線に気づくことなくじっと前方を観察していた。
普段の少女ならば接近する他者に気づかないなどということはない。
だが、今の状況に限っては鍛え抜かれた気配察知能力も全く働いてはいなかった。
理由は彼女の視界に入っている愛らしさ満点の小動物(明命視点)―――猫の存在にある。
明命は猫が好きだった、それはもう大好きだった。
どれくらい好きかと言うと、模擬戦の最中に猫を見つければ思わず集中をといて隙を見せてしまうくらいに好きだった。
「あぅあ〜、ほっぺたをスリスリ……モフモフもしたいです……」
少女の視線の先には猫に囲まれて眠る金髪の少女の姿があった。
無論、明命がだらしなく破顔しているのは周りにいる猫が理由であり、金髪少女こと風には何の興味もない。
羨ましいなー、とか私と変わって欲しい! とかそんなことは考えてはいたりするが。
ちなみに彼女は風が魏の三軍師の一人であることを知っているのだが、猫に意識を奪われているため今の所そのことに気づいてはいなかった。
(お猫様があんなにいっぱい……わ、私もあんな風に囲まれてお昼寝ができたら……!)
ふらふら、とまたたびに吸い寄せられる猫の如く明命は風の元へと前進を始める。
しかしその第一歩が刻まれたその瞬間、少女の肩に手が置かれた。
「ちょっと、君……」
「!!」
刹那のことだった。
男のものらしい大きな手のひらの感触が肩に伝わるのと同時に明命はハッと我に帰った。
反射的に少女は大きく後ろに飛びすさり、距離をとる。
「え……あれ? え?」
はたして、そこにいたのは間抜けそうな顔で肩に手を置く形のまま固まっている一人の少年だった。
なおこの瞬間、明命の緊張が一気にとけたのは言うまでもないことだろう。
(速っ!? 目で追うのが精一杯だったぞ今の動き!?)
肩を叩かれた少女が飛びすさるまでの一連の動きは、動揺からか稚拙で慌しいもの。
しかしその速度が半端ではなかった。
人外とも言える魏の武将たちの動きを普段から見ているはずの一刀の目でギリギリ追えるレベルの速度。
動きの速さだけで言うのならば霞や春蘭すらも凌いでいるかもしれない。
(一体なんなんだよ呉は……魏も人のことは言えないけど、こんな女の子ばっかりなのか?)
外見と中身が一致しない女性などもう腐るほど見てきた一刀。
しかし、先程のエプロンドレス少女に続き、旅先でまでこうだと流石に己の女運に疑問を抱かざるを得なかった。
「えーと」
黙っていても仕方がない。
そう考えた一刀はとりあえず飛びすさったまま動かない少女に声をかけた。
「!」
ビクリ!
その声に反応した少女は窺うような視線を一刀に投げかけてくる。
幸いにも背中の獲物には手を伸ばしてはいないが、明らかに警戒している様子だ。
「いや、その! 俺は怪しい者じゃなくて! ほら、あそこにいるのは俺の連れで……その、君が彼女を見てたから、だから気になって?」
少女の好意的ではない態度に焦った一刀はとにかく現状を打破するべく言葉を紡ぐ。
慌てていたためか、やや羅列的な説明になってしまうが、少女はそれでも言いたいことを理解したらしい。
そのくりっとした瞳から警戒の色が薄れていく。
「あ、あの……こちらこそ、その、ごめんなさい!」
「へ?」
勢いよく頭を下げる黒髪の少女に一刀は思わず間の抜けた声をあげてしまう。
しかし少女はそれを気にすることなく、更に謝罪の言葉を重ねていく。
「そのっ、私あの人がお猫様に囲まれていたので、それで見ていたんですけど羨ましくて、それでっ」
「え、お、お猫様?」
「だからついフラフラと……あの、別に危害を加えようとかそんなことは思ってなかったんです、ごめんなさい!」
九十度をゆうに越える角度で状態を折り曲げたまま、少女は一刀に頭を下げ続けている。
一刀としてはそこまで申し訳なさそうにされても、といった心情なのだ。
というか、今の状態は他人に見られたら非常にマズイ状態である。
客観的には自分は女の子を脅す悪人に見えないこともないのだから。
「い、いや俺は別に怒ってないから頭を上げてくれないかな?」
「ですが……」
「俺がいいっていうんだからいいんだってば。ていうかお願いだから上げてください!」
少年の必死の懇願に、ようやく頭を上げる少女。
だがその表情は依然として曇ったままだ。
一体どうすれば。
一刀が悩みかけたその時。
「にゃ〜」
「ん?」
と、一刀の足元に一匹の猫が近寄ってきた。
船で食べた焼き魚の匂いにつられたのか、それともただ人懐っこいだけなのか。
とにかく近寄ってきたその猫は、何かをねだるように頬を少年の足を擦り寄せてくる。
「っと、腹でもへってるのかお前……って、き、君?」
「あぅあ〜」
突如聞こえてきた奇妙な声に視線を向けてみれば、そこではいつのまにか少女が恍惚の表情を浮かべていた。
つい先程までの硬い表情など見る影もない。
緩みに緩みきっているその表情は声をかける前に彼女が浮かべていたものと全く同じだ。
(もしかして、この娘猫が好きで、それでさっきは風じゃなくて猫を見ていたのか?)
先程からの少女の言動を分析する限り、その考えは正しいように思える。
だが、それならそれで一刀としては安心であった。
風の身はこれで安全ということになるし、こんなに可愛い美少女が百合の人じゃないのは歓迎すべきことなのだから。
「はぁぁ〜」
「猫、好きなんだな」
「はっ!? あ、いえっ、その……」
「ははっ、そんなに慌てなくても。別におかしいことじゃないだろ? 俺だって猫は嫌いじゃないし」
「あぅ……」
猫を抱えあげながらニコニコと微笑みかける一刀に、少女は照れたように顔を伏せた。
だが、その目線はチラチラと抱きかかえられた猫を捉えて離さない。
(余程猫が好きなんだな……)
少し度が過ぎているように見えなくもないが、女の子が小動物を愛でる姿というものは悪くはない。
女の子がこの少女のように美のつく容姿を持っているのならば眼福とすら言える。
魏の女性陣にはあまり見かけない、女の子らしいその様子に一刀は思わず顔をほころばせていく。
「……あれ?」
「な、何かな?」
と、気がつけば少女が猫ではなく自分の顔を見ていることに気がつく。
何か変な顔をしていたのだろうか?
もしやコイツニヤニヤしてキモイとか思われたのでは?
ジッとこちらを見つめてくる少女の瞳に不安を覚える一刀。
そして次の瞬間。
「あ! も、もしかして貴方は……て、天の遣い様では!?」
「へ? あ、うん、そうだけど」
目を真ん丸に見開いて悲鳴のように問いかけてくる少女に、思わず肯定の意を返してしまう。
少女の素性がわからない以上この返答は迂闊なものではあったが、一刀は反射で答えてしまったのだ。
「も、ももも申し訳ありません! 私ときたら、そうとも知らず先程から……っ!」
「い、いやそんなにかしこまらなくても……っていうか、俺のこと知ってるの?」
「申し遅れました! 私は姓は周、名は泰、字は幼平と申しますっ」
しゃちほこばって名乗りを上げる少女―――明命に一刀は軽い驚きを覚えていた。
周泰といえば呉の将軍の一人である。
同じ呉の将軍である甘寧や呂蒙と比べれば知名度は低いが、呉を支える勇将の一人であることは間違いない存在。
そんな人物が目の前に、美少女として存在していることに一刀は
(……やっぱりか)
という納得の気持ちを抱きつつ、もう何度目になるかわからないこの世界の不条理さを改めて実感していた。
魏の上層部や各国の首脳が女の子だったことを考えると周泰が女の子でも今更驚くようなことではない。
しかしいい加減一人くらい自分の知る性別そのままの有名人が出てきてもいいのではないか。
そんなことを思ってしまうのだ。
無論、むさくるしい男よりも見目麗しい女の子のほうが一刀としても嬉しいことは確かなのではあるが。
「……知ってるとは思うけど、俺の名前は北郷一刀。確かに天の遣いとか呼ばれてるけどそんな大したもんじゃないから」
「いえ! 私のような者からすれば天の遣い様は正に雲の上の存在ですから!」
緊張しっぱなしの少女の姿に一刀は苦笑するとともに軽い感動を覚えていた。
思えばこの世界に来て、華琳に天の遣いという役割をもらったが実際にそう扱われたことなどない。
華琳たち魏の面々は言わずもがなであるし、統治下の民はどちらかというと敬うというよりも親しんでいるといった色が強かった。
各国首脳にいたっては頭から信じていない者ばかり。
別にちやほやされたかったわけではないが、これなら別に天の遣いなんて名乗る必要はなかったんじゃ?
そう思うことは何度もあったのだ。
「あー、まあとにかくその天の遣い様って呼び方はやめてもらえないかな? ほら、あんまり目立ちたくないし」
「あ、は、はい……そうですね。それでは、なんとお呼びすればいいのでしょうか?」
「一刀でいいよ」
「わかりました、一刀様」
いや、様はいらないんだけど。
そう言おうとする一刀だったがすぐにそれをやめた。
言っても無駄な気がしたのだ。
この辺の生真面目さは直属の部下の一人である凪に通ずるものがあるが、こういったタイプは総じて頑固である。
一度決めたことはそう簡単に覆すような真似はしない、そう感じとったのだ。
「えーと、それで周泰さん」
「はい!」
「あー」
呼びかけてはみたものの、一刀は特にこれといった用件があるわけではなかった。
政庁を訪ねるのは明日のことだし、先程のことは誤解だと判明している。
なんで天の遣いがこんなところにいるのか、という疑問を口にしないあたり自分の訪問は既に知れていると思っていい。
しかしなんとなくとはいえ名前を呼んでしまった以上、何か言わなくてはいけない。
数秒ほど悩んだ末、一刀は常々気になっていたことを聞いてみた。
「聞きたいことがあるんだけど……他国、というか呉では俺ってどういう扱いなんだ?」
「扱い……つまり、評価ということでしょうか?」
「うん、ほら俺って戦とかで特別目立ってるわけでもないし、それでちょっと気になってね」
実際は呂布・劉備連合軍との戦における曹操救出。
それに定軍山や赤壁における重要情報の提供などと魏からすればかなりの戦功を立ててはいるのだが、一刀にその自覚はない。
曹操救出に関しては当たり前のことをしただけ、定軍山と赤壁に関しては知識を話しただけ。
その程度にしか考えていないのだから。
勿論、そう考えているのは一刀ただ一人であり、曹操を初めとした魏の上層部からの評価は非常に高いものではあるのだが。
「呉では……天の遣いの存在は眉唾物というのが見解の一致しているところだったと思います」
「あー、やっぱり」
「ですが、その存在が信じられるようになったのは魏の躍進が始まってからでしょうか。
正に天が味方しているとしか思えない勢力拡大の早さ、そして決定的だったのは赤壁での戦い」
赤壁。
その言葉に一刀は僅かに顔を顰める。
思えば自身の消滅を決定付けたのはこの戦いなのだ。
勿論後悔などしてはいないし、今でも正しいことをしたと思っている。
だが、それはあくまで一刀の視点でしかない。
華琳たちからすればそれによって一刀は消えてしまったわけだし、呉からすれば多数の将兵を失う原因になったと言えるのだから。
「正直、あの戦いで私達呉は勝利を確信していました。いえ、実際に確信していたのは周瑜さまを含めたごく一部の方々だけで
私たちはあの時黄蓋さまの裏切りという策に半ば混乱していましたが」
「……」
「ですが、蓋を開けてみればその策も見破られ、私達は敗北しました。
勿論、勝敗は兵家の常ですが……あの時の魏は本当に天が味方しているようにしか見えませんでした」
淡々と語る少女の表情には恨みや怒りといった負の感情は見えなかった。
一瞬、一刀の頭の中に事の顛末を話すべきではないかという思考がよぎる。
周泰の話し方からして、赤壁の勝敗の鍵を自分が握っていたことは知られていないようだった。
ならば話すべきだ。
決心した一刀が口を開きかけ
「と言っても、天の遣いの名はどちらかというと……その、女性関係の方で有名なのですが」
「ぶっ!」
そのまま吹いた。
いきなり百八十度転換した話に頭が真っ白になり、口から出かけた言葉が宙に消えていく。
「女色で有名な曹孟徳を初めとして、曹魏の上層部の女性達を次々にその、て、手篭めにしていく一人の男性。
その偉業こそが正に天の遣いであると……あ、あの、一刀様?」
突然仰け反った一刀を心配する明命。
しかし少女の心配を他所に一刀は多大なダメージを受けていた。
最早先程までのシリアスな思考も彼方にぶっ飛んでしまっている。
「え、何、俺ってそんな風に他国に伝わってるの?」
「は、はい……その、実際に一刀様にお会いした私からすれば、今となってはとても信じられないのですが……」
つまり会うまでは信じてたってことじゃないのか?
そう問いかけたい気持ちに駆られる一刀だったがそれを口に出すことはしなかった。
絶対肯定されるか気まずそうな顔をされるに決まっているからだった。
それに実際にその風評は全く間違っていないわけで。
「あ、あの落ち込まないで下さい! 大丈夫です、私は一刀様がそんな人だなんて信じてはいませんから!」
「気持ちは嬉しいけどそれ以上はこの話題に触れないでくれるかな? もう正直俺のライフはゼロなんだ……」
少女は善意で励ましているのだろうが、一刀には逆にそれがつらかった。
正直自分は今までの所業からしてどう考えても天の遣いといわれるよりも魏の種馬と呼ばれているほうが正しい。
ぶっちゃけ、純真無垢に自分を信じてくれる少女の視線が痛い、痛すぎるのである。
「え、でも……」
「ミャア」
「お前も慰めてくれるんだな。でもいいんだ、俺は所詮種馬なんだ、鬼畜外道なんだよ……ははっ」
落ち込んだ少年を慰めるようにペロリと頬を舐め、続けて頭をこすり付ける猫。
しかし一刀はそんな健気な慰めにも元気を回復することはなかった。
が、そんな心温まる(?)やりとりに反応する少女がここにいた。
お猫様大好き周幼平こと明命である。
「はぅあ〜、う、羨ましいです……」
「……周泰さんも抱く?」
「ふぇあ!? よ、よろしいのですか!?」
「構わないよ。こんな穢れた俺に抱かれてたら猫も穢れてしまうし……あはは」
自嘲気味に表情を引きつらせながら、一刀は抱えていた猫を少女に渡そうと手を伸ばす。
明命は一刀の優しさにキラキラを目を輝かせながら同じく手を伸ばし。
そしてその瞬間、事件はおきた。
「ニャッ!」
「あ!」
いい加減抱かれていることに飽きたのか、猫が手渡しを終える前に一刀の腕の中から飛び出した。
そのまま前方にジャンプした猫は明命の後頭部を踏んづけると再度跳躍。
あっという間にその場を離れ、立ち去ってしまう。
「あ、あわっ……」
「危なっ……」
猫に後頭部を蹴られてバランスを崩した明命は前のめりに倒れかける。
咄嗟に一刀は伸ばしたままの手をそのまま前方に突き出し少女を支えようと試みた。
だが、この時不幸にも両者は咄嗟だったということもあり位置関係を修正することはできなかった。
つまり、一刀は明命の胸元に猫を渡そうと手を伸ばしていて、明命は猫を受け取るべく手を広げていたのである。
となるとこの状況が導く結果はおのずと一つに絞られるわけで。
ふにっ
「あ……?」
「あ……!」
戸惑いと驚愕の声音が交錯する。
前者は少女、後者は少年のものだ。
少女は呆然と自身の握り締められている胸元を見下ろし、少年も同じく呆然と両手でしっかと握り締めた少女の胸を見つめていた。
「わわわ、ご、ごめん! マジごめん!」
ハプニングに気づいて先に動いたのは一刀だった。
これはまずいとばかりに神速で手を離し、一気に後退する。
一方、被害者である明命はしばし呆然と胸元を見下ろしたまま、今起きたことをゆっくりと反芻していた。
「はぅ、はううう……」
「いや、そのこれは不幸な事故で! 俺には不幸じゃなかったけど、そうじゃなくて、とにかくごめんなさい!」
徐々に褐色の肌に朱を浮かばせ始めた明命に一刀は焦りながら謝る。
これが魏の女性陣であれば鉄拳(剣)制裁確実ゆえに少年も冷や汗を止められない。
しかし黒髪の少女はふるふると震え始めたかと思うと勢いよく頭を下げ。
「しっ、失礼いたします!」
ギクシャクと早足で、しかしその後ろを追いかけること決して許さない雰囲気を纏いつつその場を去ってしまうのだった。
「……流石は魏の種馬だねぇ、いよっ、この幸運助平男!」
「うわ、宝ャ!? ていうか風!?」
「やれやれ、ちょっと目を離した隙に女の子に手を出すとは……これは華琳さまに報告しないといけませんねー」
「おまっ、いつから起きて……いやそれより報告とかやめろよ!?」
「まったく、あまりの種馬っぷりに……ぐぅ」
「寝るなよ!? 今まで散々寝てただろうが!?」
いつの間にか目を覚ましていた風にチクチクいじめられる一刀を置いて。
あとがき
前回といい、お約束というかベタなイベントが大好きなtaiです。
ちなみにこの世界で唯一、一刀の知る歴史と同じ性別を持つ孫尚香こと小蓮ですが、一刀は彼女の存在を知りません(華佗は数に入れない)
呉攻めの際に曹操と舌戦を繰り広げてる彼女ですが、あの時一刀は舌戦を聞いてないようですし。
周泰が一刀の顔を知っているのは、まあ彼女は諜報担当ですしね。