『へ?』
一刀を筆頭にした、その光景を見ていた全ての者がぽかんと口をあけてそう呟いた。
だがそれも無理はない。
つい先程まで女の子の短刀を突きつけていたはずの男が宙を舞っているのだから。
「ぐべっ」
たっぷり五メートルほどは浮き上がっただろうか。
直立不動のまま垂直に打ち上げられた男は、身体を逆さまにするとそのまま頭から地面へと落下する。
車田落ちだ。
そう突っ込んだのは一刀だけであったが、そのおかげか男は生きていた。
頭からドクドク血が流れているが、即死しててもおかしくない惨劇を生き残ったのだから運がいいといえよう。
「え、えっと、そのっ……」
そんな血達磨の男をおろおろと見下ろすエプロンドレスの少女。
他の人間は気づいていないようだが、一刀だけはしっかりと目撃していた。
男の顎を真下から突き上げる見事なアッパー。
それを放ったのが、注目の中心地であわあわしている可憐な少女だということを。
一刀の呉国訪問記(旗立編)
「あ、兄貴―――ぽめぎゃ!?」
少女を捕まえていた男を心配して駆け寄った仲間の男が少女まで後一歩といったところで大きく仰け反ってそのまま倒れこんだ。
見れば少女が右手を突き出しているが、明らかに距離が届いていない。
すわ仙術か何かかと周囲の者達は驚愕の表情を浮かべる。
だがまたしても一刀だけは何が起こったのかをかろうじて目撃していた。
(今、袖から何か……)
何か、までは確認できなかった。
しかし日々魏の将軍たちによって鍛えられていた少年の動体視力は少女の袖から何かが飛び出し。
そしてそれが男の額を強かに打ちつけたのを視認していた。
暗器の類だろうか?
戦闘者としての一刀の思考がその正体を推測するも、虫も殺せぬような少女の風体を見ていると見間違いとしか思えなくなってくる。
「ぐぎゃ!?」
「ぶげっ!」
「ごはっ!」
しかしそんな困惑を他所に、少女は近寄ってくる男達を指一本触れることなく倒していく。
気がつけばならず者の残りは一人。
「ひっ……」
一見してか弱げな少女が大の男を次々と手も触れずに倒していった光景に恐れをなしたのか。
唯一無傷の男は反転して逃走の体勢に入る。
だが少女に注意を向けていた男はいつの間にか一刀が背後に回っていたことに気がつかず。
逃走の一歩目すら踏み出すことなく昏倒させられてしまうのだった。
『おおおおおおおお!!』
男達が皆地に伏せると同時に、周囲の野次馬から歓声がわきあがった。
その歓声を受ける立場になってしまった一刀と少女は、それぞれ苦笑と照れを浮かべる。
「あちゃあ、まいったな……」
「ひゃ、ひゃああ……」
ぽりぽりと頭をかく一刀。
両手で恥ずかしさに赤くなった顔を隠す少女。
ふとそんな二人の視線がバッチリと合い。
「あの……」
「あっ、ありが」
「こっちか! 騒ぎがあると通報があったのは!」
両者が声を口に出そうとしたその瞬間、ようやく駆けつけた警備兵の声が遠くから聞こえてきた。
これに反応したのは一刀だ。
(っと、まずい!)
呉に到着したばかりで揉め事を起こしたことがバレれば後で華琳からどれだけ叱られるかわかったものではない。
焦りを表情に浮かべた一刀は素早く身を翻し、その場を離れるべくダッシュをかける。
「どこに逃げるか……!」
「あ、あの、こっちです!」
「え? って君!?」
走りながら横を向いた一刀の口から驚愕の声が漏れる。
人ごみを縫うように駆け抜ける自分の横で、なんと先程助けた少女がピッタリと併走しているではないか。
「ど、どうして!?」
「わ、私も少しばかり理由がありまして……それよりも、こっちです!」
「うお!?」
手を握られた。
一刀がそう思った時には少女は右の路地へと駆け込み。
そして少年の姿も彼女に連れ去られるように消えていくのだった。
「こ、ここまで来れば大丈夫だと思います……」
「あ、ああ……ありがとう」
五分ほど走り続けただろうか。
ようやく足を止めた二人は追っ手がいないことを確認するとほっと息を吐いた。
ちなみに、一刀がゼェゼェと息を吐いているのに対し、少女はうっすらと汗を浮かべているだけだったりする。
「そんな……! お礼を言うのは私のほうです!」
「でも、俺が手を出さなくても君一人で解決できただろうし」
「いえ、そんなことは……ああっ!?」
突然すっとんきょうな声を上げる少女に一刀は目を白黒させる。
が、続いて聞こえてきたか細い「本が……」の一言に彼は状況を把握した。
今の今まで気がつかなかったが、少女の手元には抱えていた本はない。
逃亡を優先した結果、多量の本は現場に置きっぱなしになっていたのだ。
「ど、どうするんだ?」
「多分、役所に届けられていると思うので後で取りに行きます……あうう」
「一緒に行こうか? その、俺に責任があるわけだし……」
「いっいえ! 元はといえば私の責任ですから! それにその、役所には知り合いもいますから大丈夫です!」
これ以上迷惑をかけるわけにはいかないとばかりに力説する少女に困惑する一刀。
ここまで関わった以上、一緒についていくくらい大した手間ではないのだが少女はそれすらも心苦しいらしい。
いつもならばここで退かない一刀なのだが、あまりに一生懸命に抗弁する少女に押し切られてしまう。
「では……それではこれで。あの、本当にありがとうございました。なんの御礼も出来ないのは心苦しいのですが……」
「いや、単に見過ごせないだけだったから気にしないでいいよ。君も気をつけて」
「は、はい。それでは」
何かこの後用事でもあるのか、焦っている様子の少女を微笑んで見送る。
礼が出来ないことに少女は本当に心苦しそうではあったが、一刀としては別にお礼目当てで助けに入ったわけではない。
そんな少年の想いが伝わったのか、少女はほっとしたような、嬉しそうな表情で足を踏み出し。
「うわっ」
「え?」
ぐいっ。
手を引かれる感覚に一刀の身体が前のめりになって倒れかける。
「ととっ……」
たたらを踏んで何とか転倒を避ける一刀。
見れば片手は少女の手に握られていた。
いわゆる握手、シェイクハンドの状態でだ。
どうやら逃げる時に掴まれていた状態がずっと続いていたようだ、と今更ながらに気がつく。
先程はあれだけの強さを見せたのに、手のひらから伝わる柔らかさは普通の女の子のもので。
その辺は華琳たちと変わらないんだな、と一刀は妙な共通項に感心する。
「えっ、えっ?」
一方、少女のほうはイマイチ事態が理解できていないのか戸惑った様子で繋がれた手を見つめていた。
だが数秒後、ようやく状況を把握―――自分が異性の手を握り締めていたことに気がつくと。
「ひゃわっ?」
ぽむ、と頬を桜色に染めて半歩ほど後退。
一方的に少女のほうから手を握っていたため、それと同時に繋がれていた二人の手は解けてしまう。
「あー」
「ああああああああの! すみませんすみませんっ! 私ったら、なんてことを―――」
余程混乱しているのか、顔を隠しながらペコペコと頭を下げる少女。
一刀としては不快感などなく、むしろこんな美少女と手を繋げてラッキーくらいとしか思っていないのだから逆に困ってしまう。
凄い純情な娘なんだなぁ、と自分の周囲にはあんまりいないタイプの女の子にちょっと感動を抱いたりもしてしまったり。
「気にしないで……っていうのも変だけど、とにかく謝らなくてもいいからさ」
「で、でもっ」
「それにほら、俺としては君みたいな可愛い女の子と手を繋げて嬉しかったし」
「はひっ?」
ぽぽむ!
魏の種馬の本領発揮とばかりの台詞に、遠目にもわかるほど顔を真っ赤に染めた少女がなんとか自分の顔を隠そうと両手を持ち上げる。
余程恥ずかしかったのだろう。
手の隙間からチラチラと見える少女の顔は気の毒なくらい朱に染まり、目はこれでもかという位にぎゅっと閉じられていた。
そして次の瞬間。
「あっあの……失礼します〜〜〜〜〜!!」
疾風の如く。
正にそんな表現がぴったりといった速度で少女はその場を駆け去っていった。
残されたのは呆然とした表情の一刀のみ。
「……なんだったんだ?」
自分の言動の影響を理解していない種馬少年は一人首を捻る。
彼は知らなかった、彼女が去っていった方向に明日訪ねる予定の政庁があることを。
そして、彼女がこの呉を支える大都督―――呂子明その人だったということを。
あとがき
ちなみにこの作品において、一刀は呉と蜀の主要面子の顔は知らない(覚えていない)人のほうが多いです。
反董卓連合、戦争、終戦の宴と何度か顔を合わせる機会はあったものの戦争や終戦の宴の時はそんな余裕はなかったということで。
なので彼は呂蒙(亞莎)の顔を知らなかったわけです、まあ仮に知ってても今回の場合はわからなかったでしょうが。
ヒロイン側も同様に一刀の顔と名前を覚えていない人が結構います。
まあ写真とかがない世界ですし、戦争とかで前面に出てない以上他国もそれほど興味を持ってなかったでしょうしね。
劉備・孔明・孫策・周瑜あたりは反董卓連合の時に顔を合わせてるので流石にお互い記憶にありますが。
指摘されて気がつきましたが、亞莎の着てるエプロンドレスって半袖ですね…流石にあの袖に暗器は隠せない。
な、長袖のやつを着てたってことで一つ!