「どこだ……ここ?」
愛しい少女との別れの後、目を覚ました北郷一刀は目に入ってきた光景に目を細める。
最初に感じたのは太陽の光。
次に視界に入ったのは頭上にそびえ立つ大樹だった。
「……ここは、どっちの世界だ?」
華琳と別れた場所ではなく、自分の部屋でもない。
だが、一刀は瞬時に感覚で理解していた。
ここは、魏の地であると。
自分の愛した女性がいる、かけがえのない世界なのだと。
「あー、結局元の世界には帰れなかったかぁ」
残念そうな声を出しながらも少年の表情には影は射していなかった。
勿論元の世界に残している両親や友人たちのことが気にならないといえば嘘になる。
しかし、ここには仲間がいる、家族がいる、愛する人がいる。
別れの瞬間は強がったけれども、必死で泣きそうになるのをこらえるくらい去るのを惜しんだ地を、今踏みしめている。
その喜びが一刀の身体に活気を与えていた。
「華琳……」
この世界で愛した女性の名を呟く。
もう一度彼女と会える。
一刀の足は自然と動き出していた。
真・恋姫無双 魏ルートアフターSS 『帰ってきた魏の種馬』
大陸を制覇した魏の本拠に建つ王城。
その玉座の間の中心部に一人の少女が腰を下ろしている。
大陸の王者のみが触れることを許される至高の玉座に座るその少女の名は曹操。
彼女は己の金髪縦ロールを揺らしながら今日も王としての責務を果たしていた。
(一刀……)
テキパキと部下に指示を出し、決裁を進める少女の心を占めているのは一人の少年のことだった。
蜀と呉の連合軍を降した後、姿を消した少年。
ふと気を抜けばその姿が脳裏に浮かび、切なさと寂しさが胸の中に宿る。
無論そんな心情を表面に出すことはないが、見るものが見れば彼女の表情に影がよぎっているのは一目瞭然だった。
「華琳さま……」
「よせ姉者、気持ちはわかるがこればかりは私たちではどうにもならん」
「わかっている! わかってはいるが……クソ!」
左目を眼帯で隠した黒髪の女性―――春蘭がそんな主の様子に口惜しげに足を踏み鳴らす。
姉の行動を諌めながら蒼髪の女性、秋蘭は大きく溜息を吐いた。
これは魏の上層部の中でも唯一の男だった一刀が姿を消してからよく見られるようになってしまった光景だった。
いや、彼女たちだけではない。
一刀直属の部下であった凪・真桜・沙和のかしまし三人娘は敬愛する隊長の失踪にすっかり意気消沈し、一昔前の騒がしさはナリを潜め。
魏の誇る三軍師、桂花・風・稟にお気楽姐御こと霞もどこか物足りなさそうに日々を過ごし。
今では大陸全土に熱狂的なファンを抱える張三姉妹はマネージャーの不在に悲しそうな表情で不平不満を愚痴り。
一刀を兄と慕っていた流琉と季衣は目に見えて元気をなくしてしまっていた。
「おい、姉者。どこへ……」
「少し外の空気を吸いにいくだけだ」
窓へと向かう姉の姿に、秋蘭は再び溜息をつく。
たった一人、たった一人の人間がいなくなっただけでこんなにも悪い影響が広がるなど誰も思っていなかったに違いない。
いや、誰もが決め付けていたのだ。
彼は、北郷一刀は自分たちの傍からいなくなったりなどしないと。
(だが、その結果がこれだ……)
主が目元を涙のあとで赤く染めて戻ってきて一刀の消失を告げた時、魏陣営の女性たちの反応は様々だった。
嘘だ、と叫んだ者。
冗談ですよね? と不安そうに問うた者。
ぽかんと事態を理解できずに呆然とし、次の瞬間泣き出した者。
ただ寂しそうに事実を受け入れ、顔を伏せた者。
一様に言えたのは、皆が少年と二度と会えないことを悲しんだということだった。
(馬鹿者め……)
今ここにいない、主の隣に立っているべき少年に秋蘭は恨みを吐く。
お前のせいで華琳様が、姉が、仲間たちが悲しんでいる。
この責任を、どうとってくれるというのだ。
魏随一の弓の使い手は、自身の寂しさをもこめ歯をギシリと噛みしめ。
「なあああああああああ!?」
そして次の瞬間、姉の素っ頓狂な叫び声に目を見開いた。
「あ、姉者!? 何をいきなり大声を、いや、危ないぞ!」
「春蘭!?」
「何やってるのよ、この馬鹿!」
奇声を上げながら窓から身を乗り出している―――否、落ちかけている春蘭にその場にいた全ての人間が驚愕した。
秋蘭は慌てて姉を引き上げるべく駆け寄り、華琳は玉座から立ち上がり、報告書を読み上げていた桂花は言を中断させられたことに憤慨する。
しかしそんな周りの喧騒を意に介することなく魏の筆頭将軍は更に身を乗り出さんと上半身を投げ出していく。
「こら、姉者! それ以上乗り出したら落ちる……」
「あ、あ、あ、あれ! あれを見ろ秋蘭!」
「あれ? 一体何のこ―――」
姉の指差す先に視線を移した秋蘭の動きが止まった。
支えを失った春蘭が危うく窓から転落しかけるが、既に彼女はそれを気にしてはいなかった。
それほどに、目に映ったものが信じがたかったのだ。
「どうしたの秋蘭、貴女まで」
「何? 五胡でも攻めてきたの?」
常に冷静沈着であるはずの蒼髪の女性までもが平静を欠いている。
そんな珍しい光景に華琳と桂花の主従コンビはいぶかしむ。
何が彼女たちをそこまで驚愕させているのか。
興味を惹かれた二人は窓に近づき。
「え―――」
整った唇から零れるように出た声は華琳のものだった。
大陸の王者としてではない、ただ一人の少女としての素の声が玉座の間に響き渡る。
居並ぶ文官は主の変貌に驚き、誰一人として動けない。
唯一彼女の傍にいた筆頭軍師も主の視線を追うように窓の外へと目を向けたまま動きを見せてはいなかった。
シンと場が静まり返る。
「嘘……あれって……ほん、ごう?」
ポツリと桂花の口から呟かれた名前に最初に反応したのは金髪の少女だった。
神速といってよい速度で踵を返した華琳は猛然と出口へと向かい、あっという間にその姿を消す。
数瞬遅れて反応した夏侯姉妹も主に続くように外へと駆け出した。
残されたのは未だ窓の外を立ったまま見つめている桂花と事態を理解できていない文官たち。
「あの……荀ケ様?」
「ふ、ふふふ……そう、帰ってきたのね。あの大馬鹿者!」
不気味に笑い出す桂花。
その様は怒っているようで、それでいて嬉しそうで。
どうにも理解しがたい上司の様子に、文官たちは恐れおののくしかないのだった。
春蘭が叫び声を上げる数分前。
一刀は何故か城内の庭園にこっそりと潜り込んでいた。
「ってなんで俺隠れてるんだ?」
自問自答しながらも一刀は身を隠しながら庭園を移動する。
目を覚ました場所は城の近くだったらしく、勝手知ったる我が家とばかりに城内へと忍び込んだのだが
その後に忍び込む必要がなかったことを思い出し、しかし最早後には引けずに彼は息を潜めていた。
「もろに不審者じゃないか俺……でも今更正面から帰るなんてできないし……」
とにかく知り合いを見つけなければ。
自分が消えてからどれくらいの時間がたったのかはわからないが、見回りの兵に見つかるのはまずい。
こちらを知っている者であればいいが、そうでなければ間者扱いである。
危機的状況を理解していた一刀は極力物音を立てずに周囲の気配を探りながら進んでいく。
魏の将軍たちを相手に鍛えられた隠行は見回り兵に見つけられるレベルではない。
静かに、しかし素早く少年の影は物陰から物陰へと移動する。
「あっちは確か玉座の間だったな。けど会議中だったりしたらマズイし……ん?」
思案にふける一刀の視界に小柄な肢体が映る。
木陰で寝転がる長髪の少女はこの世界で初めて出会った人物の一人にして魏の三軍師の一角―――風だった。
「……相変わらず寝てばっかりか、こいつは」
「ぐぅ……」
昼間だというのに呑気に惰眠をむさぼっている少女の姿に苦笑を隠せない。
自分の感覚では彼女と別れたのはつい先程なのだが、どこか懐かしいものを感じてしまう。
なんとなく衝動に駆られて一刀は眠りこける風の頬をぷにぷにと突いた。
「むぅ……くぅ」
「うん、紛れもなく風の頬っぺただな。柔らかい」
「うむむ、だめですよーお兄さん」
「あれ、起きてる?」
「むにゃ……」
「いや、寝てるな……寝言か? どんな夢を見ているのやら」
微笑ましさを感じた一刀は更に指を突かせる。
押し返してくる肌の弾力が癖になりそうなくらいに心地よい。
「っと。いつまでもこうしているわけにはいかないな。おい、起きてくれ風」
「んー……おや?」
「お、起きたか?」
「お兄さん……?」
「おう」
「なんだ、夢ですか……ぐー」
「いや、夢じゃないから! 俺ここにいるから、帰ってきたから!」
目を開けたかと思うと瞬時に再び目を閉じた風。
焦った一刀はガックンガックンと少女の身体を揺すって覚醒を促す。
はたして、パッチリと目を覚ました風の反応はというと。
「しつこい人ですねー。布団の上では早いくせに」
「早くねえよ!? 誰が早漏だ!」
「おぉ、今日の夢は何やら現実的……ツッコミが返ってくるとは」
「だーかーらー! 夢じゃない、本物だっての!」
「夢とはいえ、お兄さんとまた会えたのは嬉しいです。ちゅー」
「んむっ?」
寝ぼけ眼で突然唇を重ねてきた少女に一刀は思わず目を見開いてしまう。
が、そんな少年の驚愕などおかまいなしに風は離さないとばかりにぎゅーっと身体ごと抱きついてきた。
気がつけば、唇からは舌が伸びてきて口内に侵入を開始する始末である。
「んにゅっ……れる……お兄さんの、おいし……」
(ちょっ、こらっ! 風! 嬉しいけど今はそんなことしてる場合じゃ……)
突然のキスに喜びを覚えながらも一刀は焦りに手をばたつかせる。
こんなところを誰かに見られたら一大事だ、なんとか引き離さなければ。
しかしそんな少年の努力もむなしく、よく見知った三つの気配が彼の背後から近づいてきていた。
「あーあ、つまんないのー」
「おい沙和。真面目に……ん?」
「どないしたん凪。むむ? あそこにいるのは風やないか」
「ほんとだー。あれ、でもなんか様子がおかしいの」
「うひゃー、風の奴男と抱きついとるで! 密会か、密会なんか!?」
「こ、こらっ、お前たち人の逢瀬を覗き見するなど趣味が悪……いや待て、おかしいぞ」
「何がなの?」
「風さまが隊長以外の男に抱きつくはずがない」
「確かに……せやったら、これはどういうこっちゃ?」
「無理矢理襲われてるんじゃないのかなぁ?」
「ほなら助けんと!」
(ちょ!?)
背後から聞こえてくる物騒な会話に一刀は冷や汗を止められなかった。
このままではマズイ、非常にマズイ。
しかしコアラのごとくガッチリと抱きついている風はなかなか引き離すことができない。
頭を振ることでかろうじてディープキスからは逃れることができたものの、首から下は依然として拘束されたままだった。
それどころか、風の手はそろそろと股間に伸びてきているではないか。
「風! やばいって、離れないと!」
「むふふ……そうは言いながらここは素直ですねー」
「お願いだからいい加減起きてくれぇー!?」
色んな意味で大ピンチの一刀。
だが義憤に燃える三羽烏は容赦なくいたいけな少女を襲う(ように見えている)暴漢へとそれぞれの武器を向ける。
「そこのごーかんま、神妙にしろなの!」
「大人しくしてれば半殺しですましたるで?」
「手足の骨は覚悟してもらうがな」
包囲を狭めた三人組が一斉に飛び掛ってくる。
しかし風が抱きついたままの一刀は回避行動をとることはできない。
唯一自由に動くのは首から上のみ。
なんとか三人のほうを向くべく一刀は首を捻り。
「うご!? ま、待て! 俺だ、俺だよ!」
『へ?』
ゴキリ、と微妙に嫌な音を立てながらもなんとか振り向いた一刀の顔を見た三羽烏の動きが寸でのところで止まった。
同時に凪の拳が、真桜の螺旋槍が、沙和の二天が一刀の鼻先で静止する。
「……ひ、久しぶり? 皆」
『隊長!?』
青褪めた表情の一刀に向けて、三人の悲鳴のような驚愕が唱和する。
だが次の瞬間、くしゃりとそれぞれ顔を歪めた少女たちは先程にも増して阿吽のタイミングで地を蹴り。
「げぐっ!?」
「ふにゃ!?」
「おわ!?」
「わあっ!?」
三人同時に愛しの少年に抱きつこうとして、失敗した。
なんのことはない、三人の着地点にいた一刀が後ろから首襟を引かれ倒れこんでしまったからだった。
「あいたた……」
「むぎゅ〜」
「おい、沙和、真桜! 早くどけ……重いだろう」
「おやおや、魏の誇る将軍たちともあろうものが情けない姿ですね」
三人が折り重なるように倒れこんでいる姿をいつの間にか一刀から離れて見下ろす風。
ちなみに、一刀の襟を引っ張ったのは言うまでもなく彼女である。
自身が生み出した惨状にも関わらず、眉一つ動かさないあたりは流石数百の兵で袁の大軍と対した軍師と言えよう。
単に図太いだけとも言うが。
「げほっ……ごほっ!」
「大丈夫ですかお兄さん?」
「な、なんとか……って風、起きてたのか!?」
「はい」
「いつから?」
「さあ、いつからでしょう?」
口元に人差し指を当てながら微笑む不思議少女に一刀は苦笑するほかない。
なお、すぐ側では三人娘が「たいちょ〜」と情けない声を出しながらもがいているのだが、二人は華麗にスルーした。
数瞬の間を置き、風がややこわばった表情で口を開く。
「あの……」
「ん?」
「本物の、お兄さんですよね? 帰ってきて、くれたんですよね?」
いつものように淡々と、それでいて真剣な声音と瞳で見上げてくる小さな軍師に一刀はしっかりと頷く。
風は少年の存在を確かめるようにぺたぺたと身体中(何故か股間を重点的に)を撫で回し、ふにゃりと微笑んだ。
「お兄さん」
「なんだ?」
「おかえ―――」
『ああーっ!?』
「……おや、お邪魔が入りましたか」
何事かを言いかけた風の声を遮るように響き渡る二つの声。
一刀が発生源へと視線を向けてみれば、そこには目をまん丸に見開いた流琉と季衣の姿があった。
二人はまるで幽霊を見たかのような驚きの視線でこちらを見つめている。
だが、それも数瞬のことだった。
三羽烏と同じように顔を歓喜に染めたチビっ子コンビは足をぐっとたわませ、次の瞬間には爆発的な勢いで駆け出しはじめる。
勿論、ロックオンされている目的地は一刀の胸の中だ。
「兄様!」
「兄ちゃん!」
(おお、まるで飼い主を見つけた犬のようだ……って、あの速度はヤバくない?)
オリンピック選手を軽く凌いでいるであろう加速で迫ってくる二人の少女に少年は戦慄する。
あのスピードのままタックルされようものなら骨の二、三本は覚悟しなければならないのは間違いない。
かといってかわすという選択肢は選べるはずもなく。
一刀は覚悟を決めて両手を広げ、そして。
「一刀!」
瞬間、少年の名を呼んだ王たる少女の声にその場にいた全ての人間の動きが止まった。
慣性の法則を無視して急ブレーキをかけた流琉と季衣。
もみくちゃに重なり合って未だ身動きの取れない凪・真桜・沙和。
騒ぎを聞きつけてやってきた稟と霞。
少女の少し後方を駆ける春蘭と秋蘭。
そして座り込んだまま中途半端に両手を広げた格好の一刀とその傍に佇む風。
全員が己の仕える美しい少女へと視線を向ける。
「華琳……」
ポツリと呟かれた一刀の声をスイッチにして、息を切らしながら仁王立ちしていた少女が動き出す。
ザッ、ザッと一歩一歩地を踏みしめながら歩を進めるその姿は大陸の覇王に相応しい威厳を伴っている。
しかしその挙動には僅かに焦りという乱れが混じっていた。
そのことを最初に気がついた小柄な軍師がポン、と少年の肩を叩く。
「風よりもこの言葉をお兄さんに言うべきお人がやってきましたのでここは身を引こうと思うのです」
今回だけですけど。
そう語尾に付け加えながら風はすすーっと後退していく。
ついでに一刀親衛隊三人娘をも引き摺って。
「一刀……」
魏の誇る軍師や将軍たちに見守られる中、遂に少女が少年の前へと辿り着く。
一刀は倒れこんだまま半身を起こしている体勢のため、華琳が彼を見下ろしている格好だ。
「いつ、帰ってきたの?」
「ついさっきだと思う。気がついたら城のすぐ傍の森―――あっちの方かな、にいたんだ」
「……橋玄さまの墓がある場所じゃない」
「あ……そういえばそうだな、気がつかなかった」
「どんな偶然なのかしらね。それとも、橋玄さまがあなたを導いたのかしら」
「かもしれないな」
ハハッ、と軽く笑いかけた一刀の表情が硬直した。
自分を見つめる少女の眼光が猛禽のように鋭く吊り上っていたのだ。
だが、それも無理はない。
あのような別れをした後にこんな再会では怒って当たり前だ。
これは首を刎ねられることも覚悟しないといけないかな。
ゾッとしない未来予想図に覚悟を決めながら、それでも一刀は目の前の少女から目を離さない。
「私が今、何を考えているかわかる?」
「……多分、怒ってる?」
「多分?」
「確実に」
更に目尻を吊り上げていく華琳の姿を周囲の女性陣はハラハラと見守る。
これはただではすまない。
今までの経験則からそう察した少女たちが惨劇を止めるべく足を踏み出しかけ。
そして主の一睨みで動きを封じられてしまう。
「目を閉じなさい」
反射とも言える反応で命令に従った一刀は静かに目を閉じたまま裁きの瞬間を待った。
振り上げられる華琳の右手。
その場にいた全ての者が次の瞬間に鳴り響くであろう痛打の音を覚悟し。
ちゅっ―――
しかし次の刹那、一刀が感じたのは唇と両頬に触れる柔らかな感覚だった。
驚きに目を見開いた少年の視界一杯に愛しい少女の顔が広がる。
華琳が、自分にキスをしている。
そう理解した瞬間、頬に当てられていた少女の両手がすっと下がっていき、胸元を掴む。
同時に唇が離れ、目を伏せながら俯いた少女は手を追うように顔を移動させ。
「……ばか」
胸元から聞こえてくる少女の声は弱々しかった。
それはとても三国を統一した王が発したとは思えないほどのか細い声。
「ばか……ばかばかばかばかぁッ!! どうしていなくなったりしたのよ! どうして私の前から消えたりしたの!」
「……華琳」
「言ったじゃない、ずっといるって! なのに……なのに……っ」
顔を伏せていても、涙がその蒼眼からボロボロと零れているであろうことは一目瞭然だった。
あの曹孟徳が童のように泣いている。
ありえない光景に春蘭たちは目を見張り、しかし誰一人として近づかない。
その涙を止める義務と権利を持つのはたった一人。
彼女が抱きついている少年だけだと皆わかっていたからだ。
「ごめん」
「ひっく……謝って、すむと思っているの!?」
「じゃあ、どうすればいいのかな」
「今度こそ、約束なさい。ずっとここにいるって、もう私から離れたりしないって!」
ああ、綺麗だな―――
場違いにも、一刀は顔を上げた華琳の表情を見てそう思った。
それほどに、初めて見る少女の泣き顔は美しかったのだ。
きっと、自分が消えた時もこうして彼女は泣いてくれたのだろう。
女の子を泣かせるなんて最低だとはわかってはいるが、涙を見せるほどに想われていたという実感が歓喜を運んでくる。
もう、我慢などできなかった。
「約束する。ずっと華琳の側にいるよ」
「一刀……んっ」
再びのキスは少年から行われる。
神聖さすら感じさせるその光景に、周囲の者たちは心奪われてしまう。
そして同時に実感する。
北郷一刀が、魏に帰ってきたのだと。
「華琳……」
「何よ?」
「ただいま」
その言葉を合図に、春蘭たちが一斉に動き始める。
苦笑、歓喜、笑顔、怒り、呆れ。
十人十色の感情を浮かべながら少女たちは主とその側にいる少年目掛けて駆け寄っていく。
瞬間、陽光が輝き、少年の制服と少女の金糸を眩しく照らした。
それはまるで再び動き始めた物語を天が祝福しているような、そんな一瞬だった。
華琳は、近づいてくる愛しい部下たちに目をやり、最後に大切な少年を見つめ。
ありったけの笑顔で―――
「―――おかえりなさい、一刀!」
あとがき
どーしても魏ルートのあの別離EDが納得いかなくて書いてみました。
エピローグでは割と皆さんからっと過ごされていましたが、きっと裏では寂しがっていたはずだよ!
なんかあからさまに風が優遇されているのと台詞すらない稟や霞の存在は気にしないで下さい。