記憶
第三新東京市が壊滅的なダメージより復旧が始まってから数ヶ月が経っていた。
NREVは使徒迎撃組織から復旧組織へと姿を変えて、今も活動していた。
かつては使徒の解析、エヴァとのシンクロ率の測定など中枢を担っていたMAGIも今は施設の復旧に掛かる計算に使用されていた。
そんな平和になった時代ではサードチルドレン、碇シンジも平和な事の手伝いをしていた。
対アルミサエル戦にて大破した零号機は使用不可、量産型エヴァとの戦いで大破した弐号機もまた使用不可の状態だった。
そして唯一、最終戦にも生き残った初号機だけが、瓦礫の撤去作業にいそしんでいた。
大型の廃墟はクレーンなどで撤去するより、エヴァによる手作業のほうが早かった。
そのため、シンジはほとんどの時間を大型瓦礫の撤去作業に従事していた。
「ふぅ…」
そしてあらかた済んだ撤去作業。
作業の指揮をとっていたミサトから「お疲れさん」との言葉と共にその労働から解放された。
そして、陽炎揺らめく大地に一人、シンジは空を見上げて立っていた。
「暑いな……」
復旧された道路の上でシンジは一人、手を庇代わりにして空を眺めていた。
照りつける太陽の仕事はまだまだ半分ほどしか終わっていなかった。
ふと、自分のその体勢に既視感を憶えた。そう、それは初めて第三新東京市に降り立ったときの記憶だ。
「そういえば、あの時、綾波を見たんだっけ?」
一年ほど前のことが昨日のように思い出された。
シンジはあの時の記憶が印象的に残っていた。
陽炎揺らめく大地に歩く、蒼銀色の髪の少女。
誰もいなくなったその街で一人、中学の制服を纏っている少女が歩く姿は神秘的であった。
「でも、あれって本当に綾波だったのかな?」
一人、首を傾げるシンジの目の隅に何かが映った。
陽炎揺らめく大地を歩いていたのは、一年前と同じ姿のレイだった。
シンジはレイが前に来るのをその場所で待っていた。
レイはシンジの姿が見ているにも関わらず、歩く速度は変わらず、一定の速度でシンジに近づいてきた。
「何をしているの?」
蒼銀の髪に紅玉の瞳。妖精を連想させるようなレイの姿だったが、学生服と言うのが現実味を帯びていた。
「ミサトさんに休みを貰ったんだけど、一人だと暇だからどうしようかなって」
「そう」
「綾波は?」
「ただ、歩いていただけ」
「そっか……綾波は今、暇?」
「ええ」
「なら、付き合ってくれる?」
「分かったわ」
陽炎揺らめく土地を二人は歩き出した。
コンクリートを規則正しく叩く二つの足音。そして年中鳴き続ける蝉の声。それが消えるのはいつだろうか?
揺れる蒼銀の髪と黒の髪。
会話は無く、ただ歩くだけ。
そんな二人の間に流れるものは自然の歌声。
「ふぅ……」
シンジとレイが訪れた場所。
そこは復興途中の街を見渡す事ができる小高い丘だった。
そこだけはまるで何事も無かったかのように背の低い草が風になびき、風の行く末を表していた。
夏色に染まった風は二人の間を駆け抜ける。蝉の声は相変わらず鼓膜を叩いていた。
いい加減疲れてくる。
「良い景色だね」
「……分からないわ」
感受性が乏しい彼女に同意を求める事が間違いだったかもしれない。
しかし、シンジはレイにもっと知ってほしい思いを持っていた。だからこそ、こうして同意を求めようとしていた。
鳥のさえずりが聞こえた。
永遠に夏が続く今の地球には、四季があった頃の動物で絶滅したものも数多いだろう。
春だからこそ咲き誇る花。
夏だからこそ聞ける虫の声。
秋だからこそ見られる月。
冬だからこそ触れられる結晶。
四季が無くなった厳しい環境でも生きている鳥たち。懸命な囀りをシンジとレイは聞いていた。
「鳥が鳴いてるね」
「そうね…」
また、無言が支配する。
シンジもレイも喋る事が無い。ただ、その無言に緊張も不愉快さも無い。あるものは平穏。あるものは心地よさ。
雲一つ無い蒼穹が広がっていた。黒い点が移動しているのは空を翔る鳥だろうか。
シンジはそれを見上げていた。
レイはそんなシンジを見習って同じように空を見上げた。
「……」
「世界の始まり…」
「えっ?」
「世界の始まりをあなたは見た。そして私も……」
「……そうだね」
真っ赤に染まった世界。
LCLの海があちこちに出来ていた。それがシンジの世界の最初だった。
そして、人々が生まれた。LCLは人々の形へ変化を遂げた。
サードインパクトは起きた。しかし、それは一人の少年の願いで再び新しい世界の始まりとなった。
それを見ていたものは碇シンジであり、綾波レイであり、惣流・アスカ・ラングレーであった。
「あの時、私はあなたに触れた」
「あの時、僕は綾波に触れた」
草の絨毯に手を置いてシンジの左手にレイの白い右手が重なった。
見た目と同じように冷たいレイの手がシンジの体温を少しだけ奪った。
「温かいわ……」
「六度目…かな?」
「ええ……」
視線は一度も絡んでいない。
二人ともまだ、視線を絡める事を望んでいなかった。
レイの手に少しだけ力が篭った。シンジはそれを感じ取る。
二人はまだ、空を眺めていた。
手の甲から平に返して、レイの手を握った。急激に密度が増す二人の距離。
シンジの体温がレイに奪われていく。
「碇君」
「うん?」
シンジはレイのほうに向く。レイは正面に広がる風景を見ていた。
横から見える紅玉の瞳は透き通るような美しさと共に脆さと強さを感じた。
「私は空っぽだった」
「……」
「私の中には何も無かった」
「綾波……」
「空っぽの身体だった」
そういってから、初めてレイがシンジのほうを向いた。
赤と黒が混じる。
赤を軍服、黒を僧服と言ったのは誰だったか…
赤が黒を射抜き、黒が赤を射抜いた。
人はどうやってできるのか?
神は塵を集めてアダムの形を作り、鼻から息を吹き込んだ。そして初めて人は生まれた。
なら、今もそうなのだろうか?
「碇君が私に思い出をくれた」
そう、人はそうやって出来上がっていく。
一つ一つの記憶が積み重なり、人の形を成していく。
忘れたくない想いを心に重ねて、人は息を吹き込まれていく。
決して神に息を吹き込まれるのではない。
人が、人に想いという息を吹き込むのだ。そして生まれる。
「私の胸は空っぽだった」
感情を知らない彼女は空っぽだった。
そのことを教えてくれた人こそ碇シンジだった。
笑顔を教え、喜びでも泣く事を教え、そして怒りを知った。
そして、彼は人を愛すると言う事も教えた。
甘くて苦い、そんな感情を彼は空っぽのレイの胸の中に注ぎ込んだ。
「そんな私に碇君は感情をくれた」
注ぎ込まれた様々な感情はレイの胸に着実に埋めていった。
そんなレイの次の望みは?
「綾波は……何が欲しいの?」
シンジの問いかけに紅玉が揺れる。
ためらいと不安がそこに宿る。強固な意志はそこになく、脆弱な不安がそこにあった。
―――――― 一度、レイはシンジの中に入った。
ならば、怖いものはどこにある?
シンジは一度、レイを受け入れている。ならば、不安要素はどこにある?
―――――― もう一度、手を伸ばせばいいだけ。
伸ばす事が不安?
道が無いのではない。道は確かに彼女の前に広がっている。
ならば、その道を辿れば良い。
一度、開けた道を歩く事に何の不安がある?
「碇君」
「………」
「私は………碇君が……欲しい」
もう一度、手を伸ばす。シンジの中に……
互いに一度は触れ合った。
互いに一度離れていった。
「綾波…」
「……」
「僕は一度、綾波の中に入った」
「……」
「だから、知ってる。僕も……綾波が欲しい」
――――――― 一度だけ、シンジはレイの中にたどり着いた。
――――――― 一度だけ、レイはシンジの中にたどり着いた。
だから、二人の中には互いが存在していた。
そして、互いが互いを迷わぬように導いていた。互いが導いた先は……。
――――――― 手を伸ばす事に恐れは無い。
――――――― それを受け入れる事に恐れは無い。
自分の中にある相手の受け入れる事のどこに不安がある?
自分の中に相手が居るなら、なぜもう一度入ってくる事に戸惑いを覚える?
――――――― 行くべき場所はただ一つ。
――――――― 帰るべき場所はただ一つ。
シンジが行くべき場所は、レイの中にあるシンジのところ。
レイが行くべき場所は、シンジの中にあるレイのところ。
「碇君」
「綾波」
蝉は変わらず泣き続け、日差しは変わらず照りつけた。
風が二人を撫でる。
そして、レイの胸は溢れた。
「あ……」
紅玉の瞳から零れ出る透明な雫。
頬を伝い、一筋の道を作り上げる。
「あやなみ……」
「嬉しいときも涙を流す」
「えっ?」
「昔、碇君が言った言葉」
そして、浮べる微笑。
それはシンジが放った言葉の次に起きた出来事。
シンジが涙を拭い、発した言葉。
『笑えば良いと思うよ?』
夜の太陽に照らされて輝いた少女の笑みは、昼の太陽に照らされて輝いた。
あとがき
はい、ちょっとずつtaiさんのHPに侵食しつつある氷人です。
今回は投稿のところには無かったエヴァに挑戦してみました。映画版を含めて全て見たのですが、何しろ二年前の話。
正直言って、うっすらとしか覚えていません。と言う事で、現在発売中にして連載中のコミックのほうを題材にしてみました。
この舞台はサードインパクト発生後、シンジがもう一度、同じような世界を望んだ、と言う設定でしてまず有り得ない設定です。
が、どうしてもこの二人の話を書いてみたいと思い、強引な設定をしてしまいました。
余裕があれば、この無理な設定のエヴァを書いてみたいと思っています。
まぁ、Catharsisもまだ終わってませんから、それが終わってからでも……と