「ん……」



 佐伯和人の朝は早い。

 今時、といってはやや語弊があるかもしれないが彼は新聞配達のアルバイトをしているのだ。

 時刻は四時。

 日がまだ昇りかけてすらいない時間。

 和人は手早く着がえると、身支度を済ませ部屋を出た。















 けれどまた咲く桜のように   プロローグ 『邂逅』















 「あと三軒か」



 和人は懐に抱える新聞紙の束と腕時計をチラリと見た。

 時間はいつも通り。

 このままならば帰宅は特に遅くも早くもならない。



 「そういえば、今日から二年生か……」



 ふと、和人は桜坂市を一望することのできる丘を見上げた。

 そこには二本の桜が生えている。

 無論、和人のいる位置からではかろうじて確認できる程度にしか見えない。















 「え……?」















 ひゅうっ、と風が吹いた。

 道に並ぶ桜の木が一斉に花びらを飛ばす。

 瞬間、和人は見た。

 丘の桜に寄り添うようにして立っている人がいるのを。



 「―――――なっ」



 そして『見えた』

 見えるはずがないというのに。

 桜の木の下にいた人物―――――自分と同じくらいの歳の少年がこちらを見て笑う場面が。



 それは禍々しい笑みだった。

 そして、どこか寂しそうな笑みでもあった。



 離れない視線。

 そらされない視線。

 お互いがお互いを確認できる距離ではないはずなのに、二人はただじっと見つめ合っていた。



 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。

 朝日が差し込んで、二人の姿を照らし始めた。

 少年はふっと微笑む。

 すると、再び風が吹き始め桜の花びらが舞う。

 視界を一時的に奪われた和人が次に丘を見た時には、少年の姿はそこになかった。















 「なんだったんだ……一体」



 和人は少しばかり呆然としながらも己の仕事をこなしていった。

 多少のタイムロスはあったものの、仕事を終えた和人は帰宅の途につく。



 「少し遅れたな。瑞音なら何も言わないとは思うけど……」



 和人は苦笑しながら階段をのぼる。

 さくら荘203号室。

 それが現在の和人の住んでいる場所だった。

 和人はドアのノブに手をかけ、ふと動きを止めた。

 視線が隣の部屋、204号室へと向けられる。

 表札には桜井の二文字。



 「舞人にい、また桜の季節がやってきた。俺も舞人にいがあの人と結ばれた歳になった」



 住人に聞こえるはずもない小さな声。

 和人は苦笑と期待と寂しさを混ぜたような表情を作った。



 「俺にもできるかな、舞人にいみたいに。特別な誰かが」



 当たり前のことだが、返事は返ってこない。

 だが、和人には同じ質問を彼にぶつけた時に帰ってくる答えを明確に予想することが出来た。



 『バーカ、そんなこと自分で考えなさいっての。この人生勝ち組めが』



 きっと自分の兄貴分はこういいながら頭を小突いてくるのだろう。

 バカなことを考えたな、と和人は笑った。















 桜の季節は出会いと別れが待っている。

 それは舞い散る桜のように。

 八年前に起こった物語のように。

 けれど桜は再び咲き誇る。



 さあ、始めよう。桜と共に再び開演する一年の物語を。