最終話「辿り着く先」
夜の帳が降りた風音神社の御神木の前。丘野真と月代彩の姿はそこにあった。
三日間の同棲生活、その最後の夜。
「真さん、約束はまだ果たされてはいませんよ」
「……っ!」
「みなもさんの想いが心に在るなら、約束は守ってこそ意味があります。ですから真さん……私と指きりしてくれますか。みなもさんと幸せになる事を、私と約束してください」
「彩ちゃん」
それは彼女の意志。千年の時を経て心を開いた少女が決意した最後の一歩を踏み出す勇気。
「女の子と指きりするのはこれで二度目だな」
彼女の想いに応えるべく、悲しみを堪えて真は小指を差し出した。
そよぐ夜風に包まれ、二つの小指が合わさろうと触れ合った――――刹那。
「カットカットカットカットカットカットカットォォーーーーーーーッ!!!」
突然の絶叫の介入に、今にも絡まるところだった小指が離れた。
二人が振り向くと、木陰から見覚えのある馴染みの体躯が険しい表情で駆け出してきた。その青年は誰あろう橘勤である。
「勤!」
「橘さん!?」
驚きの声をその身に浴びながら、勤はすちゃりとポーズを決めた。いつもどおりのノリを演じているようだが、そこにおちゃらけた空気は感じられない。
「悪いけど二人の会話は覗き見、盗み聞きさせてもうた。まだ色々と分からん事が多いけど、とりあえずの事情は理解したで。だからハッキリ言わせてもらうけどな、そんな結末はわいの望むところやない。せやから、リテイクや」
「橘君の言うとおりだよ。私、まこちゃんのことが好きだよ? でも、彩ちゃんの犠牲の上でまこちゃんと幸せになるのは……なんていえばいいのかな……その、困るよ。勝手だけど、やっぱり彩ちゃんには生きていてほしいから」
「みなもさんまで……」
勤の現れた木陰の辺りからそっと歩いてきたみなもに、真と彩は目をぱちぱちさせる。
こんなときに何故そう感じたのか分からないが、似合わない組み合わせだと思った。
「橘さんとみなもさんの気持ちは嬉しいですけど……無理なんです。風を解き放つにはこうするしか方法がないんです。どうしようもないんですよ」
「彩ちゃん……」
儚げに微笑む彩。悲しそうに立ち尽くすみなも。
ここで動けるのは物語の主人公であり、そして、それは真ではなく――
「現実的に無理なんやったら、奇跡でも起これば何とかなるんやないか」
橘勤。
「……奇跡は一度しか起こらないものです。私にとって、琴葉さんやその娘たち、そして真さんと出会えて今に至る事が奇跡なんです。ですから、これ以上はありません」
「わいはそうは思わんけど……彩ちゃんが言うには一度だけのもんなんやな? せやったら大丈夫や、わいはまだそんなものにお目にかかったことがないから、わいが奇跡を起こせばええっちゅうことや」
「何を、言っているんですか……無茶苦茶です……。じゃあどうやってそれを」
足音が鳴り、勤が彩の正面に立つ。その顔は不可思議な自信に満ちていた。
戸惑う少女の双眸を真剣な眼差しで見据え、勤はひとつ深呼吸。
そして、言った。
「わいは、男・橘勤は……彩ちゃんのことが好きや。月代彩を愛しているんやっ!!!」
「…………え?」
時が止まる――とはこういう事か。彩と真は口が半開きのまま声も出ない。
ただ一人、みなもだけが、誇らしい、微笑ましい表情でこの状況を見つめていた。
恋ではなく、愛。気付けば簡単なことだった。
勤は意を決してまだ状況が飲み込めないでいる少女の肩に両手を添えると、優しく、優しく、その小さな唇に自分の唇を重ね合わせた。
「……!」
大きく見開かれる、紅玉にきらめく彩の瞳。対照的に勤の方は目を閉じている。
真はもとより、みなもでさえ口元に手をやってびっくりした顔を覗かせ、その直後に勤は唇が触れるだけの軽くて淡い接吻を終えた。
「な……な……」
顔を真っ赤にして呆ける彩。あまりのことに気が動転して思考が纏まらない。
そのとき、風が舞った。
見ると神木から数えきれない程の風蛍が、同化体にされて木に繋ぎとめられた人々の想いが、翡翠色の粒子となって瞬く間に群青の空へと昇ってゆくではないか。
「これは……風が解き放たれている……? まさか、そんな!」
愕然とする彩の胸元から、一振りの刀が抜き出ると同時に中空へ浮かび上がり、亀裂が入るやいなや、キィィィィン! という破砕音と共に砕け散って、碧の粒子を伴いながら夜空の向こうに溶けて消えた。
静寂が戻ったとき、彩は信じられないという風に掠れた声を漏らした。
「風が解き放たれて……私の死の楔も消え去って……全てが」
「全てが無事に収まった。そう納得してええんやろ?」
「橘さん……これは、いったい、どうやって、貴方は」
まだ口付けの余韻が残っているのか、勤はやや頬を赤らめたまま真面目な顔で返す。
「さっきの彩ちゃんの話やと、この街にあった力っちゅうのは、人それぞれの「想い」によるものなんやろ? だったらや、力を持たない人間が、もしも強い想いによって「力」が芽生えたとしたら……それは大切なものを救うために奇跡すら起こせたって不思議はないんやないか」
「…………」
「ま、そんな風に理屈をつけてみたけど、結局は愛の力やな」
「……はい?」
「はいやない。愛や、愛。わいの彩ちゃんへの愛の強さが勝ったわけや。これは受け売りやけどな、愛は世界を救うことはでけへんけど、自分と自分の大切に思う相手一人くらいなら幸せにする事ができるんや!」
わははははははははは、と腰に手を当てて爆笑する勤。唖然として開いた口が塞がらない一同だが、少なくとも街から風が解き放たれ、彩という一人の少女が救われた事だけは、紛れもなく真実、確かであった。
「ちゅうわけで彩ちゃん! わいはこれから彩ちゃんとの恋を成就させるために遠慮なくアタックするさかい、よろしく頼むわ!」
「えっ……あの」
「それから真!」
きょとんとする彩を無視して、勤は真に向けて人差し指を突きつけた。
「今日から、いや、今この瞬間からお前は親友であると同時に恋のライバルや! 大きな障害にして強敵と書いて「とも」と読む、やからな!」
放置状態だったところに名指しされ、「え、俺?」という顔になる真。しかし状況を把握できると、どこか寂しそうに穏やかに口元を緩めた。
「ああ……頑張れよ」
今度は勤が豆鉄砲を食らったような顔をする番だった。
「な、な、な、なんやそれはぁっ! 余裕か? 余裕の笑みやな? 流石や、それでこそライバルや。けどわいは負けへんでぇぇーーーーっ!!」
「いや、そういう意味じゃ……」
「まこちゃん!」
入れ替わるように、みなも。
「わ、私も……まこちゃんとの恋を成就するために、遠慮なく仕掛けるからね」
「仕掛けるって……おい、みなも」
顔を真っ赤にして只ならぬ気合が入っているみなもに、真はジト汗を流すばかり。
ぽかんとその様子を眺めていた彩は、やがて初めて張りつめていたものが解けたように全身を弛緩させ、小さな微笑を浮かべたのだった。
顛末を耳にして誰よりも仰天したのは、紫光院霞その人である。
勤にどう言ってアドバイスしたのかをみなもに聞くも、もはや後の祭りであり、霞は呆れと感心が入り混じった、長い溜息を吐いて呟いたものだ。
「同情が愛に変わることって、本当にあるのね」
あの日、霞に視えた勤の心の色は恋心でも愛情でもなく、クールで人との関わりを避けていながら、どこか儚げな彩への一種の同情心であった。
それが、みなもの勘違いによる助言と、それを信じた勤の僅かな心の期間が、まさかこんな結果になろうとは思いもよらなかったに違いない。
「少し……居心地の良さに浸かって、近くに居すぎたかもしれないわね」
眼鏡を外して空の遠くを見つめる霞の声は、黄昏の寂しさを含んでいた。
夏が過ぎ、秋が終わり、冬に入る頃――紫光院家の中庭。
霞は言った。
「勤のことを、好きだったわ」
勤は返した。
「紫光院のこと、好きやったで」
その交錯で全て事足りた。
そして霞は、勤の傍らに立つ少女に近づくと、薄く微笑んだ。
「月代さん、勤のことをよろしく頼むわ。馬鹿だけど頼りになるいいやつだから」
「誰が馬鹿や。街から力が消えたってゆうのに、未だに眼鏡かけてるお前の方が……」
肘鉄が脇腹に決まり、言葉途中で悶絶する勤。成り行きを見守っていた真とみなもが苦笑を浮かべる。
「はい。これからゆっくりと、勤さんとの恋を育んでいきます」
真面目な眼差しで微笑みを返した彩に、霞は満足そうな顔で頷いた。
その近くで、一部始終を見届けたみなもが、上目遣いにはにかんで、真を見つめる。真はそっとその肩に手をかけて引き寄せ、みなもは嬉しそうに身体を預けた。
あの日の夜、彩の意志を受け入れて指きりに応じようとした真と、それを否定して彩を助ける可能性にかけた勤。どちらの行動も間違ってはいないが、そのときにこの結末は決まっていたのかもしれない。
霞が何か思いついたように部屋に戻る。帰ってきた彼女の手にはカメラが握られていた。
「みんなのこれからを祝して写真を撮ってあげるから、そこに揃ってくれるかしら」
ファインダー越しに、寄り添う二組の男女が映る。位置合わせの最中、ふと勤とみなもの視線が重なり、瞬間的に二人の顔に何かのアイコンタクトが走った。
「それじゃ、いくわよ」
霞の声と同時にシャッターが押される直前、勤は彩を抱き寄せ、みなもは真の横で爪先立ちに。
シャッター音とともに霞の目に映ったのは、互いに愛しき相手に口付けする勤とみなもと、驚きと恥ずかしさに頬が桜色に染まる彩と真の、そんな暖かい光景。
――それぞれの想いの行方は辿り着くべき場所へ。
(了)