第3話「十二夜」



正午前の「one day」店内。

望とわかばは出ていないようで、カウンターではいつものとおり、マスターが無言で微動だにせずコーヒーを淹れている。

テーブル席に、鳴風みなも、橘勤、紫光院霞の姿があった。

「そうそう、二人にはまだ話してなかったけど昨日の夜から丘野君と月代さん、同棲を始めたみたいよ」

「えええーーーーーーっ!?」

「なんやてぇぇーーーーーーーーーっ!!?」

席を立ち上がらんばかりの勢いで大声を発して驚くみなもと勤。すぐにハッとして落ち着くも、ショックを隠せないようだった。

「事情は分からないけど、丘野君かなり真剣な様子だったわよ……って、鳴風さんはまあ当然だとして、どうして勤までそんなにショックを受けてるのよ」

ジト目で勤を睨む霞。みなもも不思議そうな眼差しになる。

「そういえば勤、最近よく月代さんのこと口にするようになったけど、何か気になることでもあるの? 変に物思いに耽ってることも多いし……」

少女二人に怪訝な眼差しを送られ、勤はやけに真面目な顔で腕を組んで何事か考えていたが、やがて大きく溜息をついて言った。

「わい、もしかして彩ちゃんに恋してもうたんやろか」

みなもと霞が、口に含みかけたコーヒーを仲良く噴いた。

「うわおっ、なんや二人して汚いなぁっ」

「た、橘君が突然おかしなこと言うから……」

「勤がいきなり噴きだすようなこと言うからよ!」

ナプキンで顔に掛かったコーヒーを拭くみなもと、眼鏡に掛かった液体を丁寧に拭き取る霞に目を向けることなく、勤は勝手に頷いて悩む仕種をしていた。

「ふと気が付いたら彩ちゃんのことが気になって仕方ないんや。直に会うことは殆どないし、会話したりする事も少ないんやけど、彼女のちょっとした仕種や言葉に心を動かされる自分がおる。これは一般にいうところの恋っちゅうやつやないんか」

「あのね……」

拭き終わった眼鏡をかけようとした霞だが、その際に勤の顔が目に入り、心の色が視えてしまった。

慌てて眼鏡を掛け直すが後の祭り。みなもと勤も理解したらしく、その場に気まずい空気が流れる。口には出さないものの、どこか期待が篭められた二対の双眸に観念したか、霞は一息ついて口を開いた。

「勤……結論から言うと、それは恋とは違うわ」

「なんやてぇーっ!」

「いいから落ち着いてくれるかしら。私から言うべき事じゃないから黙っておくけど、簡単なことよ。きっと勤なら気付くと思うわ」

ピシャリと言いきった霞にそれ以上何も聞けず、勤はただただ首を捻るばかりだ。

「さてと、それじゃ私はこれで。勘定は払っておくから二人は好きにしてていいわよ」

「ちょ、まてや、水臭い事言うな。送ってくで」

「悪いけど、ちょっとそういう気分じゃないから……気にせずゆっくりしていって」

申し訳無さそうに、それでいて複雑な一瞥を向けて、霞は足早に席を立った。

みなもが心配そうな目で勤を見つめる。

「付いて行かなくて、いいの?」

「……あかんな。今のわいには、あいつに掛けてやれる言葉はなさそうや」

勤の眼差しもまた、複雑な心中に揺れているがゆえに。




「one day」を出た後、二人は神妙な顔付きのまま並木道を散歩していた。みなもは徒歩なので、勤は乗ってきた自転車を手で押しながら歩いている。

「しっかし、真と彩ちゃんが同棲とは……あの二人、いつの間にそんな仲になったんや」

「そうだね……。う、ん? それならどうして彩ちゃん、あんなこと」

「なんや、彩ちゃんがどないしたんや」

「あ、うん、橘君には話しておいたほうがいいかもしれないね」

みなもは包み隠さず話した。数日前の夜に彩が意味深なことを言って立ち去った出来事を。

勤が彩に対して特別な感情を抱いているらしい事実を知ることがなければ、そのままみなもの胸に埋もれてしまっていたであろう話題だった。

「……その話が本当やったら、彩ちゃんの取った行動の意味がわからんな」

「うん……でも、彩ちゃんとっても悲しそうな顔してた」

脳裏に浮かぶ少女の儚げな姿は、とても数日後に異性と一つ屋根の下で生活を始める人間のそれとは思えなかった。

「うがが〜、一体何がどないなっとんねん! 紫光院のやつもわいの気持ちが恋やないとかぬかしおるしっ」

顔を紅潮させて唸り始める勤。非常に危険な状態だ。

「あっ、そのことなんだけど、私は紫光院さんの言葉の意味、分かった気がする」

水差しというわけでもないみなもの発言だが、気をそらすには十分だった。

「そりゃどうゆう……まさか、みなもちゃんも心の色を見る力が!?」

「ち、違う、違うよ〜。うーん、女の子だから分かるってこともあるんだけど……ちょっと珍しいかな。橘君らしいといえばらしいと思うけど」

「そない勿体つけた言い方で含み持たされると、ごっつ気になるで〜」

「ええーとね、恋愛感情って、何も恋から始まるとは限らないってことだよ」

そう口にしてから、ちょっと言い過ぎたかなぁ、と苦笑するみなも。

勤は三度考え込んでいたが、やがて頭をぐしゃぐしや掻いて「うがーっ」と叫ぶや否や、ファイティングポーズをとって背後にメラメラ炎を燃え上がらせた。

「ぐだぐだ悩んでるんは、わいらしくないっ! どや、みなもちゃん、よかったら自転車に乗ってサイクリングと洒落込めへんか?」

いつもの口調で笑い飛ばし、ばんとサドルを叩いて爽やかな笑みを向ける勤。普段のみなもなら丁重に遠慮するところだが、今日は都合が違った。

「乗ってもいいの?」

「ま、紫光院専用ゆうわけでもないさかいな……ヒントをくれたみなもちゃんのために、特別に乗せたるわ!!」

「それじゃ、お邪魔するね」

妙な言い方で、サドルに跨る勤の後ろに横座りするみなも。

軽快に滑り出す自転車。勤とみなもの二人乗りという、間違いなくこれが最初で最後の珍しい組み合わせ。

「スーパーツトムターボ、全速力で――風の息吹を感じるんやあぁぁっ!!!」

ペダルをこぐ足に力を込め、向かい風には負けない。通り過ぎる風に髪がたなびき、爽快感が心を満たしていく。

加速する自転車はとどまることなく勢いを増し、駆け抜ける風となって宙を舞った。


清々しい青空の下、きらめく陽光が、空を駆ける車体の影を地に焼き付けた。

高く 高く 空の高く 

悠久の風となって遥かな高みへ 遠い 遠い 遠い空へ


風の息吹を――








「……風の息吹、冷たかったね」

「正直すまんかった……みなもちゃん、どないしたら許してくれる」

「たこ焼き七箱で……許してあげるよ……」

「たこ焼きか……わいはカキ氷が食べたいな……」

「じゃあたこ焼き入りのカキ氷……」

「ははは、そりゃ勘弁や……たこ焼き七箱で水に流したってや」

「……水には流されたけどね」

「さすがみなもちゃん……一本取られたわ」

全身水浸しの二人が隣り合ったベンチの上に横たわり、照り付ける陽光を浴びて身体を乾かしていた。自転車はベンチの後ろで日陰乾しになっている。

全速力で走行したまではよかったが、途中に坂道があることを失念していて加速が止まらず宙を舞う自転車を想像するのは簡単な事だ。ましてその先にあったのが川という有様だったのだから、さらに別格、最悪だ。

「なにやってるの、二人とも……」

驚き半分、呆れ半分の眼差しで、紫光院霞が見下ろしてきた。

「なんや紫光院、わいを笑いに来たんやったらもう遅いで。あらかた乾ききったさかいな」

のそりと上体を起こして毒づく勤。みなもも身体を起こしてベンチに腰を下ろす。

「あ、そうや紫光院。one dayでお前が言ったこと、何となく分かったで」

「え……そうなの?」

「まあ、みなもちゃんが大きなヒント与えてくれたおかげなんやけどな」

「ふーん。でも自分で気付けたならいいわ。それならもう、大丈夫よね」

「わいを天下のトムちゃんと知って言うとるんか? 大丈夫に決まってるやろ」

それを聞いてほっとした風に微笑する霞。

そして、傾いた流れに気付かないまま進むのも物語ゆえ――

縁というものが不思議なものであるなら、これは奇縁と呼べるだろうか?


さて――――もしもこれを喜劇と例えるならば、連なる傾斜のその果ては。



二日後の夜。

勤とみなもが風音神社へ向けて走っていた。

風音山の神社の方に何か力が集まっていると、紫光院から電話で知らされた。丘野家に電話をしても繋がらない事から、ほぼ直感で真と彩がそこにいるのではないかとの推測に至ったわけだ。


奇縁であれ、喜劇であれ、収束する物語の顛末は全てにおいて一つである。