第2話「暑い日差しが眩しくて」



燦々と降り注ぐ陽光が眩しかった日のこと。

からっとした陽気に包まれて、気だるい空虚を解き放った午後の出来事。



「掴まえたっ!」

九月堂のドアに手をかけた彩を、背後から抱き寄せた鳴風みなもだった。彩はここ数日間、店を留守にして姿をくらませていたのだが、戻ってきたところをタイミングよく見つけられてしまったらしい。

「彩ちゃん、お願いがあるんだけど、いいかな」

「その前にまず私を解放してくれませんか」

「駄目だよ。手を離しても逃げないって約束するまで離さないから」

「……わかりました」

肩越しにまわされた腕が離れるのを感じると、彩はあらためて向き直った。

「みなもさん、少し、やつれましたね」

「あれ、おかしいな。自分ではちゃんとしてるつもりなのに、他人から見たら分かっちゃうんだ」

苦笑いするみなもの顔色は、彩の言葉どおり、精神的な疲労の跡が伺えた。

「私……ここ数日ね、家に閉じこもってたから……」

「確か、お父さんが亡くなったそうですね」

滑稽だ――と、彩は心の中で自嘲した。確かも何も、眼前の少女の父親を手にかけたのは他ならぬ自分自身だ。その上で表情一つ変わることなく、感情のさざなみひとつ揺れることなく、そんな台詞を口に出せる自分の滑稽さ。

もしも紫光院が今の自分の心の色を視たら、その漆黒に飲み込まれて間違いなく気が触れることだろう。

「うん。それでね、彩ちゃん、しばらく前に……雨の日に電話で会話したことあるよね。その後なの、お父さんが……消えちゃったのは」

「消えたんですか」

「あっ、言い方おかしいよね。その、死んじゃった……だね」

みなも自信は必死に堪えているのだろう、その痛々しさが彩の漆黒をさらに塗り潰していく。

黒く。黒く。黒く。暗黒の真円――漆黒に染まった彼女の月。

「だから、あのときの電話で言ったこと、覚えてるかな。私、彩ちゃんともっともっとお話したい、仲良く遊んだりしたいって」

「覚えています」

「それなら、今日、私に付き合ってくれるかな?」

「……親を失った痛みを慰めてほしいだけなら無駄ですよ。私は同情という名の偽善を誰かに施す術なんて持っていませんから」

見る間に強張るみなもの頬。また黒く上塗られる彩の黒円。だが問題はない、黒をどれだけ昏く濃くしても、黒よりも昏い蒼には成り得ないのだから。

しかし、みなもは怯まなかった。

「ずるいって、分かってるよ。お父さんの死を餌にしてるみたいで、自分でも嫌だなって思うもん。でも……」

「別に私でなくとも、丘野さんがいるでしょう」

「彩ちゃんじゃないと駄目なんだよっ!」

「な……」

彩は絶句した。同時に、彼女の真円に小さな水滴がこぼれた。

「どうしてだか分からないけど、今は彩ちゃんと一緒にいたいの! 彩ちゃんとお話して、色んなところを歩き回って、たこ焼き食べて、そんな時間を過ごしたいの!!」

みなもは泣いていた。漆黒を澄んだ蒼に満たしていくのは、その涙であろうか。

彩は、正面から強く抱きしめられた。頬に当たる胸から熱い鼓動が響いてくる。

「お願い彩ちゃん……今日一日、私と付き合って」

「わ……かりました。みなもさんとご一緒しますから……泣かないで下さい」

努めて無感情に答える彩だったが、身体は少し震えていた。

清涼に澄み渡る水面が、尽きることなく沸き出でる青の波紋が、千年の闇で塗り上げられた漆黒の月を、ただひと筋の雫で蒼く清められてしまうことが怖かった。


それを心地良く感じてしまう胸の悦びが怖かったから。




肌にじわりと汗が浮かぶほど、快晴だった。

商店街の中をウインドウショッピングしながら歩く二人の少女。

大き目の白い帽子に、ノースリーブのワンピースを着た彩を見やり、

「うーん、彩ちゃんって丈の長いスカートばかりだね。ミニスカートも似合うと思うんだけど、短いのは嫌いなの?」

「嫌い、というわけではありませんが……慣れていませんから」

「それじゃ今から彩ちゃんに合うものを見に行こうよ。ほら、ちょうどあそこに洋服屋さんがあるから」

「え、あ、みなもさん……っ」

拒否の態度を示そうとしたが、腕を引っ張るみなもの表情がとても楽しそうなものだったので、彩は素直に連行される事にした。



「これなんかどうかなぁ……あ、あれも似合うかも。うーん、こっちも捨てがたいね。でも、こういうのもいい感じじゃないかな」

「…………」

一人ではしゃいでいるみなもを、彩はぼんやりと眺めていた。ちらりと店内の時計に目をやると、店に入ってから既に30分以上経っている。何もせずに立ち続けるのは慣れているので退屈ではないが、少しは変化がほしい。

この間に起きた事といえば、店員の女性に小学生と間違われたことくらいだった。

ふと気付くと、みなもはミニスカートだけじゃなく、いつの間にかそれに合う上衣まで、あれやこれやと探していた。

「私はそろそろお茶が怖いですね」

彩のぼそっとした呟きは、誰の耳にも届く事はなかった。


結局それからさらに30分後、みなもが選んできた衣類の中から一点ずつ購入して店を後にする彩。彼女がそれを決めた時間は、店内に滞在していた時間の十分の一以下であった。



その後も商店街を気ままに見て回り、穴場のたこ焼き屋で遅めの昼食を取る二人。常にみなもが先導する形だが、彩も意外とまんざらではなさそうで、ところどころで小さな笑みがこぼれる場面もあった。

そして楽しい時間はあっという間に過ぎていき、夕焼けの川沿いに二人の姿はあった。

夕陽を受けてきらきら反射する川面を背にした二人の手には、飲み口までガラスでできた昔懐かしいラムネ瓶。

「ねえ彩ちゃん。昔このラムネ瓶の真ん中にある玉を、瓶を割らずに取り出せたら千円だか一万円だか貰えたらしい伝説って知ってる?」

「知りませんが、どうでもいい知識ですね」

「そ、そうだね……」

苦笑いするみなもだが、その節々にとても残念そうな気持ちが漂っていた。

それからおもむろに彩に視線を戻した彼女が、あっ、と声を上げる。瓶の口から長いストローを差して液体を吸い込んでいた彩は、どうしました、という顔をした。

「いけないよ、瓶のラムネは直飲みしないと」

「この方が飲みやすくて効率がいいと思いますが」

「駄目駄目、ストローなんて邪道だよ。瓶ラムネは片手を腰に当てて、ぐいってラッパ飲みするのが正しい日本人の飲み方なんだから」

「誰の受け売りですか」

「えっと……以前、まこちゃんから」

たちまち照れ臭そうに頬を赤らめるみなもだった。

「と、とにかく。ほら、彩ちゃんも一緒に!」

「言っても聞かなさそうですね」

仕方なくストローを離し、みなもに合わせて腰に手を当て、ラムネ瓶を掲げる彩。

そして二人はそのままぐいっとラッパ飲みを始め、

「けほっ! ごほこほっ!!」

――――むせ込んだ。

「ひどいよ、まこちゃん……」

涙目でここにはいない相手に逆恨み的発言をぶつけるみなもに、彩の口から吹き出すような笑い声が漏れた。それは本当に小さな笑いだが、彼女がそんな風に笑うのを見たのは、みなもにとって海水浴以来、二度目であった。

自然とみなもの口からも笑いがこぼれ、ささやかな響きが交錯して空に消えていった。



「あれ、鳴風さんと月代さんよね。ふーん、鳴風さん元気になったみたいね。何だかとっても楽しそう」

「そう……やな」

ラムネを片手に笑いあう少女を、自転車に二人乗りした、眼鏡をかけた一組の男女が遠くから見つめていた。この二人の家は、今みなもと彩が佇んでいる川沿いから近いらしく、ちょうど何処かへ寄ってきた帰路の途中だったようだ。

青年の眼は、普段は殆ど見ることのない少女の笑顔を捉えて離さなかった。

「どうしたの、勤」

「いや……彩ちゃんのあんな顔を見たの、海水浴以来やなぁ〜思うてな」

その声は、どこか遠くから聞こえるような、おかしな錯覚を伴わせていた。

自転車の進む先は坂道――夕暮れに赤黒く染まる傾斜。






数日後の夜、買い物から帰ってきたみなもの前に、一人の少女が立っていた。

「どうしたの彩ちゃん、こんな時間に。あっ、この前は楽しかったね。今度はみんなでレジャーランド行こうよ。そのときは商店街で買った服を着て来てくれると嬉しいな」

「そうですね。行けたら……いいですね……」

「……彩ちゃん?」

よく見ると、彩はとても悲しそうな表情をしていた。

「みなもさん……真さんと幸せになってください」

「えっ、ちょっと……彩ちゃんっ!?」

すっと頭を下げて走り去っていく彩。突然の事に一瞬きょとんとしたみなもが我に返って追いかけるも、小柄な少女の姿は薄闇の彼方へ溶けていた。

群青色の空の下、みなもは漠然とした不安を胸に、ただ立ち尽くすばかりだった。