第1話「雨の日はしょうがない」
「珍しい組み合わせですね」
照りつける日差しの下、少女――月代彩の淡々とした声音が、素っ気無く空気に溶けた。
声をかけてきたのは鳴風みなもと橘勤。確かに珍しい組み合わせといえるが、そう言った彩自身は興味を示した風でもなく、どうでもよさそうな無表情だった。
話し掛けられたから言葉を返しただけのこと。だんまりを決め込むつもりはない。
「ちっちっちっ、甘いな彩ちゃんは。もうすぐ夏休みっちゅうこの数日の間に、わいとみなもちゃんは熱いアバンチュールを過ごす仲になったんや」
「まこちゃんがひなたちゃんと先に帰って、紫光院さんも用事があるからって、たまたま橘君と二人で帰ることになったんだよ」
「……うおお、みなもちゃん、そのスルーめっちゃキッツイで」
後ろでガクガク震える勤を気にせず笑いかけてくる辺り、随分と慣れてきたらしい。
「それで、私に何か用ですか。ただ声をかけただけならこれで失礼しますが」
「彩ちゃん、相変わらず無愛想やなぁ。そないに可愛いのにもったいないで」
「用がなければこれで――」
「わっ、待って。いま橘君と話してたところなんだけど、明日の日曜にみんなでカラオケ行こうということになったの。そしたら彩ちゃんを見かけたから、よかったら一緒にどうかなって思って」
「…………遠慮します」
やや間を置いて、呟くように断る彩。視線を逸らしたその表情からは何も読み取れない。
言葉に詰まるみなも。ふいっと背を向ける少女の正面に、眼鏡をかけた似非関西弁が回り込んだ。
「一人でゆったりすんのもええけど、みんなでわいわいやんのも楽しいで。どや、騙されたと思うて」
「そ、そうだよ。私、彩ちゃんが来てくれたらもっと楽しくなると思うな」
「私がいたら逆に場の雰囲気を暗くするだけですよ。仮にみなもさんや橘さんが楽しくても、それに私を当て嵌めないでください。自分の感情を押し付けられても困ります」
流石に黙り込む二人の間を、表情一つ変えることなく彩が通り過ぎていく。
そんな彼女の背中を見つめる事しかできず、勤はがしがしと頭を掻いた。
「はあ、わいに「場の空気を友好的にする力」があったらなぁ〜」
「そういえば、橘君の「力」って結局何なの?」
ふと思い出したように訊くみなも。
「決まっとるやないか。地軸すら傾ける、スーパーツトムパンチやーーーっ!!」
「それはもう聞いたから……」
「まあ、みなもちゃんが信じられへんのも無理はない。でもな、わいはこの力で風音市の平和を人知れず守り通しているんやっ」
無駄に拳を振り上げて意気込む勤の言葉に、遠ざかりかけていた少女の足音が止まった。
二人の方を振り向いた顔は、僅かに苛立たしさが浮かんでいるように見えた。
「どんな力でこの街を守っているというんですか」
突き刺すような口調。視線という鋭利な刃物の先は、呆気に取られている勤に突きつけられている。
「貴方にそんな力が――いえ、力自体があるんですか?」
「……っ!」
微妙なアクセントがかかった言い換えに、勤の表情が強張った。まるで全てを見通されているかのような視線と、言葉という無限の刃に貫かれ、いっとき呼吸をするのも忘れた。
みなもは訳がわからず「ど、どうしたの?」と、おろおろと二人を交互に見やるばかりだ。
「嫌やな彩ちゃん。そない熱い眼差しを送られたら、わい照れるやんか」
氷のように冷たい眼差しなのだが、しかし勤の表現は言い得て妙でもあった。
「…………」
彩は無言で見つめていたが、やがて、
「失礼します」
今度こそ遠ざかる足音が停止する事はなかった。
「彩ちゃん……か」
「橘君?」
「ん、ああ。ほないこか、みなもちゃん」
にかりと笑ったムードメーカーの顔は、いつもの橘勤であった。
ただ、帰り道にあるように、緩やかな傾斜が続き始めているのだとしても。
八月某日。
その日は雨だった。墨汁を水で流したような、灰色に広がる世界。
それを涙雨と表現できるなら、少女の代わりに空が泣いているのかもしれなかった。
雨に濡れた少女は電話ボックスの中にいた。身体を乾かすためなどでは決してない。
受話器は耳にあてがわれている――――通話中である。
何故、電話をかけたのか分からない。ひとつ明確なのは、それが彼女にとって、救いを求めるための行為ではないということだ。
それは、残酷な現実の間の僅かなひととき、二人の少女が織り成す他愛のない遊戯。
「ねえ彩ちゃん――好きは、簡単には壊れないんだよ?」
「私、彩ちゃんともっともっとお話したり、仲良く遊んだりしたいよ」
受話器越しに届いてくる想いという名の言葉。
それもすぐに途絶える。テレカの度数は残り少なかったのだから。
電話ボックスを後にしてどれだけ経過したか、ふと気が付くと、少女に降りかかる雨の雫がふいに遮られた。
一瞥すると、眼鏡をかけた青年が差した傘の中。
「どないしたんや、傘もささんと歩いてたら風邪ひくで」
「……放っておいてください」
少女は無視して歩を進める。再び降り注ぐ水滴は、十歩もいかないうちに、隣に追い付いた傘に弾かれて遮断された。数分後もその状況が続き、少女は折れたとばかりに足を止めて青年を見上げた。
「橘さん、私に何か用ですか」
「用も何も、雨の中をずぶ濡れになって歩いてる彩ちゃんを見かけて、そのまま通り過ぎるなんて真似できるわけないやろ」
「気を使ってもらわなくて結構です。同情で自己満足の行為を押し売りされても迷惑なだけですから」
「ならわいの勝手にさせてもらうっちゅーことで」
「人の話を聞いてませんね」
諦めの溜息ひとつ。
先刻のみなもとの電話に感化されたのだろうか、少し会話してもいい気になった。
「橘さん、こんなところをもし紫光院さんに見られたら、困るんじゃないですか?」
「はあ? なんで紫光院が。あんなブンドキ女に見られて困ることなんかあらへんあらへん」
「第三者から見れば、相合傘という状況です。誤解されても知りませんよ」
「まてまてまて、彩ちゃんに限らずみんな誤解してるけどな、わいと紫光院は何でもない。た〜だ〜の腐れ縁や」
「そうですか? まあ、私にはどうでもいいことですけど」
「自分から話振っといて、そりゃないで」
「……一理ありますね」
成程、と頷く彩。しとしとと降りしきる濁った水世界に生まれつつある奇妙な雰囲気。
遠くで鴉の鳴き声が聞こえたような気がした。
雨音が全ての雑音を掻き消しているようで、世界に二人しかいないと錯覚させる。
「夏祭り」
「ん、なんや。夏祭りがどないしたんや」
「夏祭りを、みなもさんと真さんとご一緒しました。色々な屋台を巡って、たぶん、私は楽しかった……のかもしれません」
「あー、わいも彩ちゃんの浴衣姿を見たかったなぁ〜。なんせ、わいは……」
紫光院と一緒だったとは言えず、不自然な無言状態になる勤。気にした風もなく彩は自分のペースで続けた。
「小さい頃、祭りがあると、いつも終わらなければいいと願ってました。楽しい時間はいつまでも続いてほしいと思うのが子供じゃないですか」
小さい頃。子供。どう見ても年端もいかぬ少女である彩の、しかし長い年月を懐かしむかのような声。遠くを見つめる眼差しは驚くほど深く、勤は思わず我を忘れて見入ってしまった。その紅玉の双眸が、ふっと彼のほうに向けられる。
「でも、祭りは終わるんです。人の生命もまた同じように。時は巡り季節は移ろいゆく、それが世に在るものの正しい姿」
「彩ちゃん……」
「だから、私は……自分の生命の終わりは自分で決めます。運命を変えられないなら、せめて人生の膜引きは自分の手で――」
そこまで言ったとき、ばんっと彩の背中が叩かれた。
「きゃっ!?」
前のめりになって足元がよろめくのを必死に堪える。眉根を寄せて見上げる彩だが、勤は笑いながら彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫で付けると、ずれた帽子を丁寧に調えた。
「彩ちゃん、事情は分からんけど、それはわいに言ってもええもんなんか?」
「…………」
途端、彩はきょとんと目を丸くして、まじまじと勤を見つめた。
「気が緩んでしまったんでしょうか……私、変ですね」
自分からこんなことを話した事は今まで殆ど無かったというのに、それほどまでに真やみなも達との出会いと交流が何かを変えていっているのだろうか。
或いは――
「ま、雨の日はしょうがないやろ」
「……そうですね」
理屈になってない勤の言葉に、何故か彩は可笑しさがこみ上げてきた。
九月堂までの帰り道、傘はずっと彼女の天に飛翔していたのだった。