〜エピローグ〜

 
 生まれつき体の弱かった少女は、病院内の広い個室の中央に配置されたベッドで静かな寝息をたてていた。

 個室の窓には厚めの白いカーテンが引かれていた。その隙間から陽光が差し込み、室内をほんのりと照らしていた。

 少女は「うう〜ん」と可愛らしい声を漏らし、ゆっくりと眼を覚ました。

 時刻は午前八時を少し過ぎたところだった。

 上半身だけを起こした状態で少女はしばし時計を見つめていた。そしてベッドから両足をおろし、スリッパを履いてカーテンを開いた。

「うっ!」

 陽光の強さに眼を細めた。それでも片手を日よけ代わりにし、少女は窓から外の景色を眺めた。――今日もいいお天気ですね。

 少女は、姉から贈られたストールを慈しむように一度抱き締め、寝巻きの上に羽織り病室の扉を開けて中庭へと向かった。



 中庭に足を踏み出した少女を、「にゃ〜」と鳴き声が迎えた。

「おはよう、『リン』」

 少女は足元に擦り寄ってきた――真っ白な猫―― “リン” の頭を撫でながら言った。

『リン』という名は、少女が勝手にそう呼んでいるだけである。リンは真っ白な猫で、どういうわけか、よくこの病院に顔を見せるのだ。

 少女は病院の敷地内という限られた場所で、この猫に会うことが日課になり、楽しみになった。

 リンと親しくなるにつれ、少女は――名前が必要だ、と思った。

 だが、リンには首輪がつけられており、すでに名前がある。しかし、その名を本人から聞き出すのは不可能である。

 そこで少女はその首輪に注目した。首輪には小さな “鈴” が二つ付いており、動けばチリンチリンとその音を鳴らしていた。

 そこで――。

 少女は “鈴”を『リン』とし、そう呼んだ。

 少女――『美坂 栞』に奇跡が起こる、一年前の日常である。




                          『〜真夏の名残り雪〜』




        1


八月一日。大学病院での検査入院を終え、栞が家に戻ってこれたのは夏休みを一週間強過ぎてからだった。


「おかえり、栞」

 久しぶりに見る実家の外観を、正面口前から見上げていた栞に、隣に立っていた姉の香里が栞の前にまわりこみ、笑顔で出迎えた。

「ただいま帰りました」

 栞は深々と頭を下げてみせ、「くっくっくっ――」

「くすくすくす――」

 と、香里とともに顔を見合わせて笑った。

 今日は栞の退院日で、それを病院まで迎えに行ったのは香里だった。


“――今年の誕生日まで、生きられるかわからない”


 そう医者が宣告した予定日から、すでに半年ほどが過ぎた。

 栞は奇跡的に一命を取りとめたのだ。

 そして、以前よりも健康的になり普通の暮らしをおくれるほどになっていた。奇跡が、起こったのだ。



「おかえり、栞」

 香里は微笑しながら言った。

「うん。ただいま、お姉ちゃん」

 栞も笑った。しかった。

 しかし――。

 香里は、くすくすと笑う栞を見て小さく頭を振った。それでも、油断はできない。

 奇跡は起こった――が、それはまだ“奇跡の最中”なのかもしれない。これは現実で、日常なんだと完全に認識するためには、もう少し時間が

かかるだろう、と香里は思っていた。

 香里の心境は無理もないことだった。栞が生きてきた時間は、現実よりも夢の中にいた時間のほうが比重は多いからだ。

 現に、健常者として学園に通うことが出来るようになったとはいえ、一ヶ月に一度は検査入院が義務付けられている。今回は夏休みということも

あり、一週間ほどの精密検査入院から帰ってきたのだ。



「なんか不思議な感じね」

 香里も栞と同じく実家の外観見上げながら言った。

「そうだね、さっきも病院の正面口前でお姉ちゃんが出迎えてくれたときにも言ったのに」しおり栞は照れ臭く笑った。「家を目前にして言うと、

とっても実感が湧くね」

「帰ってきた〜って?」

「うん。“還ってきた”〜って……」

 栞は眩しげに実家を見上げていた。香里は苦笑し、

「こら、変に “カエッテキタ” を強調しないの」

と言って眼を細めた。

 栞は香里に顔をむけ、

「そういう眼をする人は嫌いです」

 と言って、ちょこんと人差し指を口元にあてた。

「そういう仕草が、――子供っぽい、ってみんなから言われているんだけど」

 香里はわざとらしく頭をふってみせた。栞はそのままのかっこうで、

「そんなこと言う人……嫌いです」

 と言った。

 ふたりは同時に吹き出した。


        2


『退院、おめでとう〜!』

 ――パン、パン、とクラッカーの炸裂音が鳴り、紙テープなどが栞の頭上に舞い落ちた。

「ありがとうございます」

 栞は一同に頭を下げ謝辞を述べた。今日は夜から水瀬家で「栞の退院パーティー」が開かれたのだ。面子は――相沢祐一、水瀬名雪とその母親の


秋子と、香里に主賓の栞である。

 五人は長方形の木製テーブルを囲むように座っていた。

「お勤めご苦労さん」

 一番右端に座る祐一が言うと、左隣に座っていた名雪が、

「それじゃあ、まるでヤクザ屋さんみたいだよ〜」

 と、苦笑気味に言った。栞も苦笑した。

「こら、相沢くん。私の大切な妹を、勝手に前科者にしないでくれる?」

 祐一の向かいに座る香里が言った。香里は眼を細め、意地悪な笑みを浮かべていた。

「やれやれ、ハーレム状態で浮かれていたら、実はけっこう不利な立場のようだな」

 祐一は頭を振り苦笑した。

「これだけの美女達を捕まえておいて、けっこう欲張りなんですね、祐一さんは」

 香里の隣に座る栞が言った。

「そうだな。でも、ひとりは子供だけどな」

 祐一は眼だけで栞を見て含み笑いをした。

「あっ! なんですかその眼は?」

「さあ?」

「そんなこと言うヒト、嫌いです」

 栞は口を尖らせた。その仕草を見つめ、祐一は――栞は変わらないな、と微笑ましく感じた。

 そこへ「あらあら」と柔和な笑みを浮かべた秋子が料理を運んできた。一同は雑談を一時止め、秋子の手料理を運ぶのを手伝った。



「今日はありがとうございます」香里が秋子に頭を下げた。「お宅にお邪魔しただけではなく、夕食までご馳走になってしまいまして」

 今日は栞の退院記念ということで、いつも以上に素晴らしい料理の品々が、ところ狭しと長方形の六人掛け木製テーブルに並べられており、

香しい匂いが湯気と共に立ち昇っていた。

「あらあら、いいんですよ。名雪もお世話になっているようですし」

 秋子も香里に頭を下げた。

「ほら、栞」

 香里は隣に座る栞を軽く肘で小突いた。栞も慌てて頭を下げ、

「す、すいませんでした」

 と、言った。一同は笑いをかみ殺した。病院生活が長かったため、栞は人前で何かをするということに不慣れであり、苦手だった。

 栞は、的外れな自分の言葉と漏れる失笑に赤面した。

「さあ、いただきましょう」

 名雪の左隣に腰掛けた秋子が、ぽんっと手を叩いた。

 会食が開かれた。



 雑談と温もり溢れる会食に栞は感動していた。その中でも特筆すべき点は、やはり秋子の手料理だった。

 ――パーティー料理を意識して作ってみました

 秋子の言葉に偽りは無かった。食卓に並べられた料理は洋食をベースとしたものであった。――が、肉主体の重たいものでもなかった。

 トマトを基調にしたスープにシーザーサラダ。サイドディッシュにはパスタがあり、メインディッシュにはローストビーフが用意されている。

ローストビーフは食べやすく薄切りで、肉の苦手なヒトでも食べやすくなっている。女性に嬉しく、男性も満足できる量が確保されていた。

 それらは全て秋子の手作りであり、味も然ることながら美しい彩りに舌鼓をした。

 ――ああ、なんて美味しいんだろう、栞は頬を緩めた。

 しかし――。

 栞は料理を口に運びながら苦笑した。“美味し過ぎる”のだ。

 なにより歳頃の女の子にとって一番気になること、それは食べ過ぎにより『成長』しすぎること、だ。

 ――名雪さんは部活で栄養の全てを使いきり、お姉ちゃんは不思議と変わらない。祐一さんは男性だから省くとして…………

 しかし、栞は急激な運動を禁止されている。


過食は厳禁である


「……栞さん? 今日の料理はお口に合いませんでしたか?」

 栞は秋子の声にハッとした。考え事をしているうちに動作全てが止まっていたようだ。秋子と名雪が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「い、いえ違うんです」栞は慌てて両手を振った。「少し考え事をしていたんです」

「なにを?」

 香里が訊ねた。

「うん。こうやって独りの食事じゃないって、やっぱりいいな〜って」

 栞は笑った。秋子と名雪も微笑んだ。

「食事は、やはり大勢でするほうが何倍も美味しく感じられますものね」

「私もそう思うよ」

 秋子の言葉に名雪は頷いた。

「それに――」栞も頷いた。「秋子さんの作ってくれる料理ですから」

 秋子は「あらあら」と手を頬に添えて微笑んだ。

「そうね、この料理を毎日食べられるふたりは、最高に果報者だわ」

 香里は祐一と名雪を交互に見た。

「うん」

 香里の言葉に栞は頷いた。――還ってこれたんだ。

 秋子は満面の笑みを浮べた。

「あらあら、そこまで誉められると少し照れますね」秋子は立ち上がった。「それでは今晩のスペシャルデザートをお持ちしますね」

 拍手とともに「おお〜!」と歓声が上がった。

「待ってました!」

「わ〜い」

 祐一と名雪は手放しで喜び、香里は拍手をした。

「わ〜!」

 栞も歓声をあげたが、内心は少々複雑だった。

「今回のデザートは栞さんのお祝い品ですから、美味しさも“食べごたえも増量”ですよ」

 秋子の言葉に歓声はさらに沸いた。――が、

 ――過食……厳禁…………か

 と、栞の脳裏に重い言葉が浮かんだ。

「さあ、皆さん。準備はよろしいですか?」

「おお〜!」

 栞は本気で苦笑した。


        3


「ふ〜、もう食えねえ。ごちそうさまです、秋子さん」

「私ももう食べられないよ。う〜ん、少々はみ出しそうな気がする。ごちそうさま、お母さん」

 祐一と名雪は苦しそうに声を漏らした。表情は至福そのものである。

「ご馳走様です」

 香里は丁重に頭を下げた。

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

 栞は言った。――ちょっと食べ過ぎてしまったかな。

「いえ、お粗末さまでした」

 秋子は笑みを湛え、深々と頭を下げた。

「もういいのか栞?」祐一は眼を細め笑った。「そんなんじゃ大きくなれないぞ」

「十分すぎるほど食べました」

「ナイスボディから遠のいたな」

「いいんです。病み上がりですから」

 祐一の追随を栞は笑顔で振り切った。

「そうですね」秋子は微笑んだ。「腹八分目が健康に貢献しますもの」

「はい」

 栞と秋子は「ね〜」と互いの顔を見て頷いた。

「おっ、栞は秋子さんを味方にして逃げたな〜。食事は健康の基本だ、いっぱい食べて元気を補充しなきゃいかんぞ。な?」祐一は名雪を見た。

「だよな、名雪」

「まあ、祐一の言うことも一理あるかな?」

 名雪は小首を傾げながら頷いた。

「食事は “百薬の長” と呼ばれるほどだ」

 祐一は胸を張って言った。

「それをいうなら “医食同源” じゃありませんか?」

 栞は口元に人差し指をちょこんと乗せ、言った。

「う……。そうとも言うな」

 食卓は笑いに包まれた。



「あ、そういえば秋子さん。“ユキ” は?」

 祐一が縁側の窓を見ながら言った。“雪っ!?” ――栞は眼を丸くした。

「そうですね、もうそろそろではないでしょうか?」

 秋子も祐一と同じ方向を見ながら言った。――ええ? まだ八月だよ!

「ユキ〜ユキ〜」

 名雪は眼をうっとりとさせ窓を眺めていた。

 八月に入ったばかりだというのに、季語を無視した言葉は、栞をひどく混乱させた。私が入院している間に、世界はそんなにも急変してしまった

のだろうか? ――と。

「来たみたいね」

 香里が嬉しそうに言い、祐一は窓を開け、縁側に立った。すっと手を差し出す。栞を除く、他のものたちも縁側に詰め寄った。

 ――え、嘘でしょ? 栞も駆け寄った。

「あ!」

 栞は声をあげた。庭に真っ白な猫がいた。

「そういえば、栞は “ユキ” に会うのは初めてだったな」

 祐一は一番後ろにいる栞に振り返った。

「そうね」

 香里も振り返った。

「猫〜猫〜」

「栞さんが入院してからですものね、“ユキ” が家に遊びに来るようになったのは」

 最前列に行こうとする名雪を、変わらぬ笑顔で阻止しながら秋子は言った。

「そうそう “ユキ” は栞が入院してからここのお客様になったんだ」祐一は笑った。「見ての通り真っ白な奴だから「雪」にちなんで

――“ユキ” って呼んでる」

 ユキは、ひょこひょこと縁側に近付き、「にゃ〜ん」と鳴いた。

「猫〜猫〜」

 秋子は「はいはい食事の催促ですね」と言って名雪を引きずるように台所に引っ込むと、すぐに皿にエサを盛って戻ってきた。

 祐一はそれを受け取り、地面に置いた。ユキは嬉しそうに飛びついた。

 その時――、


 ――ちりん、ちりん、


 聞き覚えのある音が栞の耳に反響した。栞は眼を見開き、
 
「……リン?」

 と、半ば呆然と呟いた。すると “ユキ” は食事をピタリと止め、栞を見た。

「……リン…………リンだよね!」

 栞は皆を押しのけ先頭に踊り出た。

「おおっと!」祐一は縁側から落ちそうになった。「こら、無茶するな栞!」

 栞は祐一の抗議を気にも留めず、旧友の名を呼んだ。

「リン!」

“リン” と呼ばれた猫が「にゃ〜」と鳴いた。それは返答なのだと栞は解釈した。――そう、絶対にリンだ!

「リンでしょ! ? 私だよ、栞だよ!」

 栞はスリッパのまま庭に出てリンを抱き上げた。

“――久しぶりだね”

 リンの鳴き声が、栞にはそう聞こえた。


        4


「リンはね、私がこうして奇跡に助けられる前、高校の入学式で倒れた日から、初めて祐一さんとお会いした日までの……入院生活の中で、

たった一人の友達だったんです」

 一同は椅子に座り、食後の軽いお茶会をしながら栞の話を聞いていた。テーブルの上には人数ぶんのミルクティが振る舞われ、真ん中に

置かれたバスケット内にはクッキーなどのお菓子が上品に並べられていた。

 栞は膝の上に寝転ぶリンの頭を撫でながら話した。リンと偶然に出会ったこと、病院での穏やかな日々のことなどを…………。




「へえ〜そんなことがあったんだ」

「なるほどね、ユキ……いや、リンとは旧友だったのね」

「そんなことがあったんですね」

「うう〜猫〜」

 祐一、香里、秋子は微笑ましい昔話に息をついた。名雪は、優しくリンを撫でている栞を羨ましそうに眺めている。

「はい。リンとは九ヶ月ちょっとしか一緒にいられなかったけど、とても大切な友人なんです」栞は、くすっと笑った。「でも、あのときから

リンは立派大人だったから、もうおじいちゃんかな?」

 リンは気持ち良さそうに、ごろごろ――と喉を鳴らした。

「本当なら、リンを飼い猫として、家族の一員に迎えいれたかったんですけど……」栞は少し残念そうな笑みを浮かべた。「首輪からして……

すでに他の家族だったようでした。そして、今もそのようですね」

 その言葉に栞を除く他の一同が曖昧に頷いた。栞は、あれ? ――と小首をひねった。

「どうしたんですか、皆さん?」

「ああ……それがな」祐一は言い辛そうに笑った。「そいつ……捨て猫か、迷子だと思うんだ…………」

「え! 嘘ですよね?」

 栞は一同の顔を見回した。皆は困ったような表情をしていた。

「それが……、たぶん可能性を全否定することは出来ないんじゃないかと…………」

 祐一は助けを請うように秋子に視線を移した。栞はその視線をたどるように秋子を見た。

「はい……祐一さんの仰っていることは間違いではない、と私も思います」

 申し訳なさそうに秋子は言った。

「私も……そう思うよ」

 名雪は呟いた。栞は渋面をつくった。

「なぜですか?」

「いや、リンを最初に発見したときな、もの凄い汚く……じゃなくて――」祐一は視線を泳がせた。「修羅場を体験しました――みたいな

感じでさ」

 祐一は曖昧に笑った。名雪も苦笑している。

「 “雪” ――というより、“泥” ――と…………」

 と、言いかけたところで、祐一は秋子に口を押さえられた。

「ええ、まあ……。とてもお疲れのご様子でしたので、私がお風呂で旅の疲れを落とし、一晩泊めて差し上げましたところ――」秋子も曖昧な笑み
を浮かべた。「それがご縁でちょくちょく顔を出すようになったみたいです」

「そう……なんだ…………」

 栞は、膝元でいつのまにか寝てしまったリンに眼を落とし、そのまま一同に頭を下げた。

「ありがとうございます」栞は言って、顔を上げると微笑みを浮かべた。「私の大切な友達に善くしてくれたみたいで」

 一同は少し眼を見開き、すぐに栞を見て微笑み返した。

「リンを最初に発見したのは――名雪、だったわね」

「発見?」

 香里の言葉に栞は小首を傾げ、ミルクティをすする名雪に顔をむけた。

「うん」名雪はティカップを置いた。「その子ね……倒れてたんだよ、私の家の前で」

「えっ!?」

「一週間前くらい前の終業式の日だったかな? 祐一と一緒に帰っていたときに見つけたの」

「あの日は……一時的な豪雨がありましたね」

 秋子もカップを置いた。表情は優れないものだった。

「その日にリンをみつけたの。最初はぴくりとも動かないからわからなかったけど――」

「数歩近付くと、名雪が――猫っ! って叫んで駆け寄ったんだよな」

 名雪の言葉を祐一が紡ぎ、ふたりは静かに頷いた。

「まあ、そういういきさつで“捕獲”したのだ」

「“保護”だよ〜」
 
 祐一の言葉を、眉を寄せた名雪が訂正した。

「だから……すまん」

「ごめんね」

 ふたりが急に謝罪したので、栞は眼を広げた。

「あんときのリンが、あまりに衰弱していたように見えたからさ、獣医さんのところへ行って診療を終えたときには、その……約束してた

栞との面会時間を逃しちまった」

 祐一は顔の前で手を合わせた。名雪も頭を下げた。そんなふたりに、栞は頭をふり優しく微笑んだ。

「いいえ、こちらこそお礼を言わせてください」

 栞の言葉と表情に、ふたりはほっと胸を撫で下ろした。

「ね? 言ったでしょ、ふたりとも」香里はにんまりと笑った。「栞は“とても幼く見える”けど、そんなこと気にするほど子供じゃないって」

「あ〜! お姉ちゃん、いま変なところ強調したでしょ?」

「え? 何が?」

 香里は意地悪な笑みを浮かべた。秋子は、くすくすと笑った。

「そこは笑うところじゃないですよ、秋子さん!」

 栞は唇を尖らせた。

「ほらほら、そんな小さなことを気にしているから幼く見られるの」

 香里は意地悪な笑みをさらに深く浮かべた。栞は、ぷいっと顔を背け、

「そんなこと言うひと、嫌いです」

 と、言った。

「まあ、気にするなよ栞」祐一が笑いながら割って入って言った。「“そういうのが趣味だ”ってやつは、けっこう多いぞ」

「フォローになっていません」

 栞は渋面を作った――が、すぐに笑顔にもどった。居間は笑いに包まれた。

 栞は笑いを飲み込むと言った。

「でもリンは、まだ首輪をしているみたいだから……きっと迷子になってしまっただけですよ」

「そういえば……そうかもな」

 祐一は頷いた。栞は頷き返し、申し訳ないといった表情で香里を上目づかいに見た。

「あの……お姉ちゃん」

「なに?」

「あ、あの……リン、なんだけど」栞は深呼吸をした。「リンを、家で飼えないかな?」

 形はあくまでも問いかけだった。――が、栞の眼は雄弁に語っていた。

飼うっ!

 ――と。

 香里は苦笑し、いったん眼を閉じるとすぐに眼を開いた。

「それは……お父さんとお母さんに訊いてみないと、ね」

「……うん」

 栞の眼を、香里は真正面から受け止めていた。

「美坂家」はマンションなどの借家ではないため、ペットの飼育について規制はない。両親にいたっても動物嫌いではない。

 ――が、問題がないわけではない。

 人類が未知の恐怖にさらされるとき、それはいつのときも動物を媒介にして忍び寄る、姿無き恐怖の大王―― ウィルス によるもである。

 健常者並の生活がおくれるようになったとはいえ、栞の病気が完治したとは言い切れない。健常者からすれば、栞の免疫力が並以下であることは

明白であった。

 そんな栞が動物を飼うことを両親が許すだろうか、ましてや “リン” は現在では野良だ。「迷い猫」と説明したところで、それが一体、

どれほどの意味をもつというのか、首輪をしていたとしても、何の証拠になる?
 
 栞の力強く儚い眼を、香里は必死に苦笑で受け止め続けた。

 しかし――。

 すぐに限界が来て香里は意識的に室内を見回した。それに救いの手を伸ばしたのは秋子だった。

「いきなり “リンさん” を連れ帰っても、ご両親が驚かれるでしょう」

「……はい」

 栞は低い声で答えた。

「ですから……」秋子は軽い咳払いをして笑った。「ご両親にお話しをして、承諾を得てから連れ帰る。そして飼い主の方を見つけて返し

てさしあげる。リンさんの飼い主さんも心配していらっしゃるでしょうし、そのほうがリンさんにも良いと思います。

さすがに名雪のこともありますので飼うことは出来ませんが、それまでは、お客様として、私が食事などのお世話をする、というのはどう

でしょうか?」

 秋子は栞に微笑んでみせた。栞は軽く鼻をすすって眼を輝かせた。

「ありがとうございます!」

「さっすが〜秋子さん! 話がわかる」祐一は、パチンと指を鳴らした。「よかったな栞、しばらくはリンも家族だ」

「はい」

 栞は、眼の端を人差し指でそっとぬぐった。

 秋子は、香里だけにわかるようにちらりと視線を向け微笑んだ。

 ――ありがとうございます、秋子さん。香里は祈るように眼を閉じ、無言で秋子に感謝の意を示した。

「お母さんっ!」

 名雪は秋子に抱きついた。秋子は――あらあら、と言いながら名雪を抱きとめた。

 栞はリンをなでながら、

「私、絶対にリンの家を探してみせます」

 と意気込んだ。

「しょうがないわね、可愛い妹の親友のためなら」

 香里は腕組みをしながら頷いた。

「まあ、夏休みは意外と暇だしな」

 祐一は笑いながら言った。

「名雪、私達もがんばりましょうね」

「うん、私がんばるよっ!」

 四人を見回しながら、香里は自然に微笑んでいた。――絶対に見つけてみせるわ。

 秋子は、ぽんっと手を叩いた。

「さあ皆さん、明日からリンさんのご自宅を捜索するのですから早めの消灯ですよ」秋子は大きく深呼吸して言った。「明日は、大忙しですよ」

「おお〜!」

 一同は高らかに拳を突き上げた。



 栞はリンを優しくなでながら囁いた。

「私、頑張るから。今度は私が助けてあげるから」

 いつ発作が始まり、この孤独な世界で死んでしまうのか? そんな恐怖に怯えて暮らしていた私に、勇気と微笑みを思い出させてくれたリン。

だから、今度は私がリンを助けてあげたい。恩返しがしたい――と、栞は思った。――友達なんだから。



 二年ぶりの再会を果たした一人と一匹。しかし、この日を境にリンの体調は急激に衰退していったのである。


        5


「リンっ! しっかりしてよ、こんなの……やだよ!」

 栞は涙を惜しみなく流し続け、昏睡するリンを呼び続けた。

 リンの食欲が減少し、吐血にいたり昏睡し始めて三日が経った。

 しかしながら、飼い主の行方は依然としてわからなかった。

 動物病院の診療室でリンは中型動物用の呼吸器で息をしていた。自力で命を繋ぐのは困難であるためだ。

「今は……呼吸器でもっているが」初老の獣医が苦虫を噛み殺したように言った。「この子も年で、各器官がだいぶ弱っているから」

 正方形の病室の周りには所狭しと医療機器が配置され、その真ん中の診療台でリンは横たわっていた。栞を筆頭に、他のメンバーはリンの周りを

囲み、沈痛な面持ちで見守っていた。しかし、その場に祐一の姿はない。



「わかったぜ栞! リンの、リンの飼い主の居場所がっ!!」

 ダンッ、という乱暴な音とともに祐一が病室内に飛び込んできた。

 祐一が別行動をしていたのにはわけがある。中型二輪免許保持者の祐一は、他のメンバーに比べて広範囲に動くことが可能だった。

 依然としてつかめない飼い主の情報を、秋子は町内会の連絡網などを使い、もっと広域に散策網を広げていた。それが項をそうした。

 確かな情報が二つほど離れた町から、リンの「探し猫」という張り紙とともにFAXで送られてきたのだ。

 祐一は秋子に頼まれ、それに記載された住所をもとに飼い主のマンションを探し出して診療所に戻ってきたのだった。



 皆は一同に驚いて眼を広げていたが、

「そこへ、そこへ私を連れて行ってください!」

 栞の言葉に一同は頷いた。



 ――グワンッ、とういう音を響かせ、祐一は目的地のマンション前でエンジンを切った。

「着いたぞ」

「ここ……ですね」

 祐一は顎でマンションを指した。栞は、ごくりと喉を鳴らした。

 ふたりはヘルメットをバイクに掛けると、早足で向かった。



 五階建て新築マンションの三階玄関先の前で、ふたりは大きく深呼吸をした。

 ――ピンポーン、

 ためらいがちな栞の代わりに、祐一が勢いよくチャイムを鳴らした、すると中から「はい」という若い女の声が返ってきた。

「あの……」祐一は軽く咳払いをした。「こちらで飼われていたと思われる猫を保護したのですが、今……大変な状態にあるんです」

 祐一は玄関が開くなり飛び込むように言った。女は驚き、数歩下がった。

「あ……すいません、いきなりで申し訳ありません」祐一は深々と頭を下げすぐに頭をあげた。「それで、ですね。猫が…………」

 祐一は言葉を止めた、女の表情が明らかに不機嫌を物語っていたからである。しかも、「猫」という言葉に対して。

 間違えたのだろうか――祐一は途端に不安になった。困惑気味のふたりに、女が言った。

「その猫は真っ白で、首輪に小さな鈴をつけている猫?」

 その言葉に、祐一と栞は安堵の息を漏らした。――よかった、このヒトが飼い主にまちがいない。

「はい、そうです。「迷い猫」とういう張り紙を見て伺いました」

 祐一は、背にいる栞から張り紙を受け取り、女に広げてみせた。

 しかし――。

 安堵したのも束の間、女は眼を大きく息を吐き出しながら呟いた。

「余計なことを………」

 祐一と栞は顔を見合わせた。何かの聞き違いなのか――と。

「謝礼金目的でわざわざ来たの?」

 女は眼を細め、感情のこもらないひどく冷めた声で言い、続けた。

「ふん、何を大そう慌てて言うのかと思ったら、そんなこと」

 女は鼻を鳴らし、ふたりを忌々しそうに見据えた。

 祐一と栞は、頭の中がとてつもない冷気に満たされていくような錯覚を感じ、瞬時思考が停止した。

「用件はそれだけ? なら、帰ってね」

 冷たく閉じられていく扉を、祐一が間一髪阻止した。

「おおっと! なにすんの、危ないじゃない!」

 女は思いもよらない祐一の行動で、前のめりに転がりそうになった。

「手……離してよ」

 苛立つ声が祐一に向けられた。祐一は努めて笑い、女に優しく言った。

「いえ……ですから、猫が――」

 女の鼻を鳴らす音が祐一の言葉を制した。

「だからなんなの?」女は眉間に眉を寄せた。「アレは勝手に出て行っちゃったの」

「え、ああ……でも、こちらで最近までは飼われていたんですよね?」

 祐一の問いに、女は嘲笑ぎみに答えた。

「ええ、そうよ。でも、もういらないわ。アレには飽きちゃってたし」

「な、なにを……」

 ――言っているんだ、祐一は震えた。胸の奥から込み上げてくるものがあった。

「まあ、なんていうのかな? 二年くらい前に拾ってさ、しばらく面倒見てたんだけど、飽きちゃったのよ」

 女は笑いながら、しれっと言った。祐一の裾を握る栞の手が震えた。

「だから捨てたのよ……あっ!」

 女の――しまった、という表情を祐一は見逃さなかった。

「どういう……ことですか?」

 祐一の質問に、女は眼を泳がせた。だが、もうわかっていた。自分の眼の前にいる女性は、今はっきりと言った。

――捨てた

 と。最初は――逃げた、と言い、途中でボロを出したのだ。

 眼を細めた祐一の視線から逃れるように、女は苦笑しながら言った。

「もともと野生だったみたいだしね、元に戻したっていうか――」女は、ぽんっと手を叩いた。「自由にしてやった、ってやつかな?」

 祐一は言葉を失った。その姿を見て、女は大げさに肩をすくませてみせた。

「う〜ん、拾ったころはすんごく可愛がっていて、お洒落な鈴付きの首輪も買ってあげたけど、でも全然懐かないしすぐに居なくなるしで

可愛くないのよね。おまけに、私に感化されたようなこと言って友達も猫を飼ったのよ。それが血統書付きの子猫で、最高にラブリーだったわけ、

そんなの見せられたら、なんかひどく愛情が冷めちゃってさ。私が飼っていた猫なんて、拾ったときにはすでに大人で、しかもただ雑種。

なんの価値もないのよね〜」

 女が一気に言った。祐一は顔をしかめた。

「あんたな、黙って聞いていれば価値がどうとか……そういう問題じゃないだろう?」

「ならさ、あんたらが飼ってよ? 私は新しい血統書付きのやつを買う予定だから」

「じゃあ、なんで「探し猫」なんて張り紙を出したんですか?」

 頭に血が上り、祐一は敬語と無礼語が入り混じった。女は――もうどうでもいい、といった感じで、ふたりに応対していた。

「ああ〜アレね。そこは世間体みたいなもので、このマンションは動物を飼うことが許されているから、けっこう動物好きなヒトが多いのよね。

そのヒトたちの手前「捨てました」なんて言えないでしょ? だから家出したことにしているの。それでも、何日も帰ってこないのに、

なんで探さないの――なんて訊かれた困るでしょ? とりあえず “探してはいます” って格好だけはしておかないとまずいのよ」

 女は、手をひらひらと振った。その動作に、祐一の奥歯が、ぎりっと鳴った。

「まあ、自分で貼って、一週間くらいで剥がしたけどね。だから、あんたらみたいなお節介焼きは、本当困るのよ」

女はため息を吐きながら「全部剥がしたと思ったのにな……」と、口内で呟いた。

祐一は女を睨みつけた。 

「今、仮にもあんたが飼っていた猫がやばい状態なんだ。死にそうなんだよ、動物病院で苦しそうに頑張ってるんだよ! あんた元飼主だろ?

せめて顔くらいみせろよ」

 祐一は吹き出しそうな怒りを抑え、低い声で言った。女は頭を振った。

「嫌よ。そんなこと聞いたらますます行きたくない。だって動物病院にいるんでしょ? 診療されているんでしょ?」

 女はわざとらしくため息をつき、

「お金取られちゃうじゃん」

 と、言った。そして「迷惑なの、帰って」と言って、ふたりを睨んだ。

 だが、祐一はドアから手を離さず、唇を噛んだ。すると女が怒鳴った。

「いい加減にして! 張り紙になにを書いたかなんて忘れたけど、礼を出す筋合いはないのっ!」

 ――この野郎、祐一の怒りは頂点に達した。大きく息を吸い込み女を睨みつけると、


――ふざけないでっ!


 と、叫んだのは――栞だった。女も、祐一も眼を大きく見開いた。

 祐一の背にいた栞は、飛び掛るように女の前に立ち、ありったけの怒気を女に叩きつけた。

「一度は飼っていたんでしょ! 家族だったんでしょ! お金とか、そういうことを言っているんじゃない!」

「し、栞っ!」

 祐一は慌てて栞の腕を掴んだ。虚をつかれた時点で、祐一の怒りはぶっ飛んでいた。

 それでも栞は振り向きもせず、女に喰ってかかった。

「家族が死にそうなんですよ、最後かもしれないんです、それを……よくも、よくもそんなことが!!」

「栞、落ち着け!」

「少しでいいんです、優しい声をかけてあげて、顔を見せてあげてください――って、頼んでいるんじゃないですか!」

 およそ頼んでいるように聞こえない栞を、祐一は必死になだめようと声をかけた。

「栞、栞落ち着けってっ!」

 祐一の声が届いたのか、栞はうつむき、肩で息をした。

「行こう……祐一さん」栞は鼻をすすった。「リンが……待ってる」

 祐一は女に軽く頭を下げ、扉を閉めた。――どす、っという尻餅をつくような音が中から聞こえた。

 力なく前を行く栞のあとを、祐一は追った。


        6


 診療台の上で呼吸器につながれたリンの病室にふたりが帰って来ると、名雪と香里が栞に駆け寄ってきた。

「どう――」

 だった? そう訊こうとするふたりを祐一は頭を振って制した。祐一の表情から察したのか、ふたりはそれっきり何も訊かず、栞に道を譲った。

「リン……リン聞こえる?」栞はリンに優しく笑いかけた。「私ね、この学園に入学してとっても、幸せだよ」

 空調と、規則正しい呼吸音、それを指し示す、ピ、ピ、ピ――という機械音が、しん、と皆の鼓膜に広がっていった。

「リン……私のこと心配してここまで来てくれたんでしょ?」栞は唇を噛み締め、すぐに微笑んだ。「私は大丈夫だよ、ここには優しい友人も沢山

出来たし、あのころよりも大人に近付いて……体も丈夫になったよ。だから…………」

 急に栞の言葉は熱を帯び震えた。

「だから……だから…………」栞は何度もしゃくりあげ、言葉を詰まらせた。「今度は私がリンを守ってあげるから」

 栞の言葉に獣医を含め皆は眼を伏せ、沈痛な面持ちで黙していた。

「だから……だから…………」

 栞は悔しそうに唇を噛み締め、恥じらいも無く涙を零した。

「これからはずっと一緒に暮らすの、私の新しい家族として。楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、嬉しいことも全部一緒だよ」

 ぼろぼろの顔で、栞は精一杯笑った。

「リン、だから……頑張ってよ」

 栞は静かに嗚咽した。その一滴がリンに零れ落ちた。

「……にゃ〜」

 そのとき、呼吸器でくぐもるリンの鳴き声が病室に微かに木霊した。

「リン!」

 栞は歪む視界でリンを見た。リンは微かに眼を開け、そのまますぐに閉じると…………

 ――ピー、というビープ音が無情にも響いた。

 獣医はゆっくりと呼吸器をリンから外し、静かに頭を振った。

 複数のすすり泣きと、激しく嗚咽する栞の声が世界を塗りつぶした。


        7


「よう、栞の調子はどうだ?」

 祐一は、姿を現した香里に手をあげ声をかけた。

 祐一と名雪は、幼いころによく遊んだ近所の公園で香里と待ち合わせをしていた。

 香里は頭を振った。

 リンが他界し、その亡骸を「ものみの丘」に埋葬してから三日が経った。

 香里の話しによれば、リンが診療所で息をひきとった日の夜、家に帰ってからの栞は一晩中嗚咽し続けたという。

 次の日は暗くなるまで「ものみの丘」に行き、帰ってきたら部屋に閉じこもり泣きくれる。昨日もそうだったというのだ。

「今夜もか?」

「たぶん……ね」

 祐一の質問に香里が力なく答えた。

「祐一……」

 名雪が――どうにかならないかな、と言った眼で祐一に言った。祐一は眼を閉じ腕を組んで思案した。

「……香里」

 祐一の言葉に、香里は無言のままで祐一を見た。

「栞は今――「ものみの丘」にいるのか?」

「たぶん……ね」

「そうか」

 祐一は腕組みをやめ眼を開き、公園の出口へ歩きだした。

「相沢くん?」

「えっ、ちょっと祐一〜?」

 香里と名雪が、祐一の背に声を掛けた。祐一は振り返らず、

「ふたりはそこで待っていてくれ、ちょっくら行ってくる」

 と、言って手を振った。



 栞は「ものみの丘」の頂上で、体育座りのままぼんやりと町を眺めていた。傍らにはリンの簡素な墓があり、そこに生える草花には少し前に
 
湿ったばかりだ――と、いう痕跡が黒く残っていた。

「ごめんね……リン」

 栞は呟き、手の中にある形見の鈴付きの首輪を強く握り締めて、自分の膝に顔をうずめた。

 ――ちりん、

 小さく鈴の音が聴こえて、栞は顔を上げた。そして驚いた。

「横に座ってもいいですかな?」

 いつの間にか自分の左隣に初老の男が立っていた。まるで気配がなかった。

 男は真っ白なスーツ姿でそれによく似合う紳士的な帽子を被っていた。一昔前の映画かドラマの探偵のような出で立ちである。

 栞は、ぽかんとその男見上げていた。すると眼があった。

「お邪魔ですか?」

 男は、目尻の皺を一層深くし柔和な笑みを浮かべた。

「い、いえ。どうぞ」

 栞は慌てて許可を出した。男は――どうも、と言って帽子を持ち上げて挨拶した。

 ふたりはしばらく町を見下ろしていた。



「すいません。付かぬ事をお訊きしますが、なにか悲しいことでもあったのですか?」

 先に言葉を発したのは、初老の男だった。栞はしばし思案したが、言った。

「友達が……死んでしまったんです」

「……そうですか」

 男は悪びれることも驚いた風もなく、静かに頷いた。

「大切な……友達だったんです。でも、私は何もしてあげられなくて」

 止まっていた涙が、思いを言葉にすると再び湧き出してきた。栞は膝に顔をうずめた。

 ――ちりんっ、

 栞の手の中で鈴が鳴った。

「栞ちゃん……いつまでも悲しみに囚われてばかりではいけないよ」

 男が、教えてもいない「栞(自分)」の名を呼んだことに、栞は驚いて顔を上げた。

 眼を広げて見上げる栞を、男は柔和な笑みで迎えた。

「それ、ちょっといいですか?」

 男はそのままの表情で、鈴付きの首輪が握られた栞の手を指差した。栞は言われるがままに鈴を差し出した。

「ありがとう」

 男は栞から首輪を受け取ると帽子を持ち上げ、そのままジャケットの胸ポケットにしまってしまった。

「え……あのっ!」

 栞は狼狽の声をあげた――が、男は頭を振って言葉を制した。

「この鈴は、僕のお気に入りでしてね」

 男は言って、立ち上がった。

 ――ざわざわ、と草花は風が強くなってきているのを告げ始めた。

「ダメだよそんな暗い顔をしてちゃ」

 初老の男にしては、とても子供っぽい悪戯な笑みを栞に向けた。

「約束したじゃないですか、僕を案心させてくれると」


「えっ?」

「僕のことをそこまで思ってくれるのは嬉しいのですが、そのせいで栞ちゃんの未来を閉ざしてしまうことになったら、僕は罪人……いえ」

男は苦笑した。「罪猫になってしまうじゃないか、それはあんまりだ」

 荒唐無稽な言葉を、男は肩をすくませたりしながら大仰なアクションで喋った。

 だが、栞は――変人だ、とは思わなかった。栞は瞬きもせずに聞いていた。

 そして――、

 栞は眼の前にいる男の名を、無意識に呼んだ。

「リ……ン?」

 それに答えるように、男が帽子をあげた瞬間――、

 ごうっ、とういう突風が栞の視界を奪った。



 栞が眼を開いたとき、そこには誰もいなかった。正確には――栞が眼を覚ました、だ。

「あれ?」

 栞の眼前には、どこまでも抜けるような青空が広がっていた。背にはひんやりと心地の良い土の感触が広がっている。――寝てた……のかな?

 栞はそのままの体勢で眼を再び閉じた。広がっていく暗闇の中で、「にゃ〜」という鳴声が聴こえ、栞は急激に上半身を起こした。

「うっ……」

 栞は呻いた。あまりにいきなりだったため、立ち眩みをのような感覚に襲われた。

 手の平で目元を押さえようとしたとき、気が付いた。――首輪がないっ!

 栞は揺れる視界で、必死に辺りを見回した。そのとき――、

 ――ちりんっ、

 と、鈴の音がすぐ近くで聴こえた。

 栞は音のした方に眼を向けた。

 そこは――。

 栞は眼を見開いた。簡素的に作られた墓の上に、鈴付きの首輪が鎮座しているではないか。――夢ではなかった。リンは確かに受け取り

に来たのだ、お気に入りだと言った首輪を、そして、私のことを心配して励ましてくれたのだ、と栞は確信した。

 栞は首輪に手を伸ばし――頭を振って引っ込めた。思い出は記憶として、教訓として未来にいかすものだよね。

 栞の眼からは涙が溢れたが、それは温かい感情だった。


        9


 祐一が、「ものみの丘」のなだらかな傾斜を半分ほど登りきったところで、小さい人影が降りてくるのが見えた。――栞だな、

と検討をつけた。

「よお! 栞っ!」

 祐一は右手を上げ、左手を拡声器代わりにして栞を呼んだ。人影は手をあげて答えた。

 ふたりはゆっくりとその距離を縮めた。



「どうしたんですか? 祐一さん」

「いや……まあ、なんだ?」

 祐一は口篭もった。とりあえず来てみたものの、具体的な案などなかったからだ。付け加え、栞の予想外の――普通な――対応に混乱していた。

――いつも通りじゃないか?

 なんと切り出していいのかわからない祐一に栞が、
         
「迎えに来てくれたんですか?」

 と、人差し指をちょこんと口元にあてて笑った。

「し、栞……その……大丈夫か?」

 祐一は――しまったっ! と言ってから狼狽した。あまりにも唐突で直球な質問である。祐一は栞の反応に息を飲んだ。

 しかし、栞は微笑んだ。その笑みに、一切の強がりも偽りもなかった。

「はい、皆さんには大変ご心配をおかけしましたが、私はもう大丈夫です」

「栞……」祐一は苦笑して頭を振った。「そうか」

「私がいつまでも泣いていたら、リンが……困ってしまいますから」

 栞の微笑が、三日ぶりに戻ったのだ。


                                          〜FIN〜