「あ、待ってよ」

 そんな気弱な声など、この賑わいと喧噪に掻き消されてしまう。彼女は簡単に解かれてしまった縛めの弱さと、計算違いに理不尽な怒りを感じずにはおれなかった。いつもは閑散としたこの場所も、この時期限定で異様な程の盛況さを見せる。木の葉を隠すなら森の中とは良く言ったもので、人が織り成す森の中で特定の人物を捜すのは不可能に近い。

 今日は特別な日だ。

 特別だからこそ、それは切っ掛けとなる。いつもは当たり前すぎて言えない事、出来ない事が「特別」という免罪符を得て解放される。

 他者の目から見ればそれはありふれた、注意力と観察力があればそれこそ何処でも見掛ける様な行動である。ただの一歩、ただの始まり、ただ少しだけ――彼我の関係が変わるだけだ。万人がその些細な事に多大な労力を使う事もまた、事実ではある。彼女もまた、世間一般の例に漏れず綿密な(と本人だけが思っている)計画の下にこの場に来ていた。

 その計画が一瞬で崩壊するなどと、彼女は夢にも思っていなかったのだ。

「……なぁ、俺の恰好ってどうよ」

「僕にどう答えて欲しいのですか」

「何かこう、あるだろ。こういう場に相応しい言葉っつーか何つーかよォ」

 そんな失望の海に沈む彼女の視界に、同年代の少年少女の遣り取りが映る。華やかな振り袖の少女と、礼服にジャケットの少年である。短めの髪と男言葉でその人物単体で見ると美少年に見えなくもないが、男は特殊な趣味でもない限りは振り袖なんて物は着ないだろう。

 その年齢に似合わず馬鹿丁寧な口調を崩さず、少年は少女の奥歯の挟まった様な要望に応える。早熟な少年としては、大人ぶっているものの年齢相応に子供っぽい少女に対して苦笑を禁じ得ない。それでも望むものを与える彼は、やはりお人好しなのだ。

「僕としては馬子にも衣装と言いたい所ですが、それはそれとして。振り袖、良く似合ってますよ」

「本当か」

「疑り深いですね、僕に『ケバケバしいのは好きじゃない』とでも言って欲しかったのですか」

「違げーよ。そっか、似合ってるか」

 少年に褒められた事が余程嬉しいのだろう、少女は見る間に不安顔から振り袖に負けない位に華やいだ笑顔へと変わる。少女は内心、振り袖など男勝りな自分には似合わないと思っていた。母親に説得され、父親に懇願されて彼女は漸く袖を通したのだ。鏡を見た自分に失望を禁じ得なかった。両親は振り袖を着た彼女を手放しで褒めていたが、何処までも女らしくない自分の姿は彼女の劣等感そのものである。

 それでも彼女もまた女として生まれた者である、振り袖に憧れを抱く一人でもあった。これを着さえすれば、女らしくない自分でも多少は女として見られるのではないか。そんな淡い期待がなかった訳ではない。

 特に仲の良いこの少年には見て欲しくなかった。だが同時に見て欲しかった。少年は決して嘘を言わず、時として他人を傷付けてしまう程に正直者だから。そのくせ他人の痛みに人一倍敏感で、お人好しだから。悪態を吐きながらも、彼を頼ってる者を絶対に見捨てない。

 彼女は思い切って少年の手を握った。氷点下の気温と違い、彼女の掌に温かで柔らかな感触が伝わる。

「何の真似ですか」

「いや、はぐれない様にと思ってよ」

 太陽の様な笑顔で言われれば、少年に為す術はない。白い溜息を吐いて、彼は少女の冷たい手を握り返した。

「好きにして下さい」

 少年と少女が、恨めしげな彼女の視界から人混みへ消える。幸せそうだった。これ以上ない位に理想の光景と、己の差を感じずにはおれない。今、彼女は独りだ。ついさっきまでは二人だったが、彼女が具体的な行動を起こすよりも早くこの人混みに紛れてしまったのだ。

「祐一、極悪だよ」

 恨み節は喧噪に掻き消され、誰にも聞かれる事なく白いと息と共に霧散した。





Me262Tan




 穏やかに舞い降りる粉雪が、人の足に車のタイヤにと踏み固められた圧雪に薄く飾られる。そんな早朝の一コマを名雪は惰眠の誘惑に打ち克って眺めていた。いつもならば凄まじい騒音の大合唱を生み出す目覚まし時計群にがなり立てられても、彼女はこんな時間に起きはしない。冬の日に感じる布団の温もりがどれだけ素晴らしいものか、彼女は嫌という程知ってるからだ。好きなものを三つ挙げろと言われれば苺、猫と来て、次に早朝の布団が来るだろう。

「天気は……仕方ないよね」

 窓の外には、彼女の自作したてるてる坊主が吊り下げられている。効果がなかった事に苦笑しつつ、名雪は吹雪ではない事に胸を撫で下ろした。神ならぬ身では、どうしても最善などそうそう導けるものではない。むしろ想定外の誤算だらけでままならない現状に比べれば、どうと言う事もないだろう。彼女はまだ起き抜けでふらつく己の身体を完全に起こす為に、窓を少し開けて外の空気を一心に浴びた。

「うっ、やっぱり寒いよ」

 パジャマ一枚で防寒対策がまるでなってない所に氷点下の風を浴びれば、寒いのは当然である。寒暖差から来る風ですら名雪の身体を鋭く切り込み、身震いを誘発させる。内外の気温差を体感した彼女は早々に窓を閉め、鍵を掛けた。

 そして一階で朝食を食べる為に、パジャマを着替える。名雪は年相応の体付きをしているので、着替えに殆ど時間が掛からない。彼女はまだブラジャーが必要な年齢ではないので、顔から下は男と見紛う程に平らに出来ている。今後の成長が期待出来ると言えば聞こえは良いが、要するに心身共に子供なのだ。普段左右二本の三つ編みを垂らしているせいか、ウェーブが掛かった髪が女らしさを強調する最大のポイントとなっている。

 欠伸を噛み殺しつつ名雪がのろのろと着替えていると、不意に自室のドアが開いた。この家に今住人は三人しかいない。即ち彼女の母親である秋子と、冬休みの間だけ水瀬家に泊まっている従兄弟の祐一と、彼女自身だ。

「名雪、起き――」

 彼女を起こそうと入ってきたのだろう、従兄弟の祐一の科白が途中で停止する。彼の視線の先にあるものは当然、名雪自身であろう。着替えの真っ最中、それもシャツを新しいものに代えようとした矢先だったのでなだらかな曲線すらない胸部すら白日の下に晒されていた。自分の胸とそう変わらない従姉妹のそれを見て欲情出来る程に特殊な趣味を持っていなかった事、そもそも恋愛の機微を全く理解していない事が視線を彼女の顔に釘付けにしていた。

 思考停止から先に脱却したのが祐一だったのが、彼らにとって果たして幸いだったのかどうかはともかく。彼は誰にともなく驚愕の言葉を発した。

「天変地異の前触れかっ、エッグモンスターの地球ちゃんが自爆してしまう!」

「祐一、何の疑問も持たずに酷い事言ってない?」

 名雪の半眼にも彼女の非難にも全く取り合わず、祐一は名探偵を気取って後ろ髪をゴムで縛って彼女に詰め寄った。最近読み始めた推理漫画の影響らしいが、少女漫画しか読まない彼女には詳しくは分からない。

「本物の名雪なら、起こさなければ少なくとも昼頃までは寝ている。さてはお前、偽物だな。じっちゃんの名にかけて、お前を暴く」

「わたし、本物だよ」

 朝から意味不明にテンションの高い従兄弟に、名雪は不満を表明する。いつも奇天烈な程にノリの良い祐一だったが、予想だにしなかった出来事に更におかしくなっていた。大抵の事には順応出来る位の順応性は持ち合わせていたが、流石に斜め上の事態に適応出来る程の経験も許容量もない。

「脱げ。というか取れ、精巧なマスクだろう。早起きの名雪なんて悪い冗談は止めろ」

「いひゃいよゆうひひ」

 痛いよ祐一、と彼女は言いたいのだろう。祐一に頬を左右に引っ張られ、発音が不自由になっている名雪は彼の手を外そうと精一杯力を込める。だがそこは男女差があるので、祐一の方に軍配が上がる。引っ張られて暫く抵抗した名雪だったが、諦めてされるがままになった。せめてもの抵抗と、力の限り祐一を睨むが彼からすればそれどころではないのだろう。名雪の非難の視線が全く目に入っていない。

 満足したのか、それとも諦めたのか漸く祐一が名雪の頬から手を離した。

「おかしいな、取れない」

「本人だもん」

「赤化革命を阻む米帝の走狗である所の名雪に対し、俺は異議を申し立てる」

「……祐一、時々何言ってるのかわからないよ」

 実際は時々などという頻度ではないが、名雪の貧相な語彙ではこれが限界であった。そもそも彼女は二十年程前、共産主義に狂った学生が各地の大学を占拠したなどという「歴史」を知らない。実の所祐一も知っている訳でないが、父親の影響かはたまたニュース番組の影響か変な言葉を使いたがる傾向にあった。彼も言っている事自体を分かっていないのだから、よくよく意味を考えると矛盾大爆発なのもご愛敬だ。

「ところで祐一、わたしの部屋に何しに来たの」

「そうだ、危うく本題を忘れる所だった。俺は名雪を起こしに来たんだ」

「わたし、起きてる」

「そう、有り得ない事態に俺は狼狽えてしまったという訳だ。ところで名雪」

「なに」

「パジャマとシャツ、今から着て寝直すのか?」

「え」

 祐一に言われ、名雪は初めて自分の状態に関心が移った。彼女はパジャマの上着を脱ぎ昨日から着ていたシャツを脱ぎ、半裸状態である事に初めて気が付いた様だった。寒い寒いと言っておきながら、この恰好で祐一と漫才出来るのだから彼女も充分頑健である。だが精神的な面ではそうでもなかったらしい、彼女の中で無数のエラーが生じる。幾ら彼女が発展途上だとは言え、性別的には立派に女の子である。異性に自分の半裸を見られていたという事実を認識した途端意識せずに両腕が素肌を晒す胸部を覆い、身は目の前に在る具体的な危機に硬直する。

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 エラーは羞恥という形で名雪本人から思考能力を奪い、精神と肉体の齟齬が物理的な悲鳴となって家中に響いた。




 ――回想終了。

 今朝の事件を口実に元旦である今日、祐一を地元の神社に連れだした所までは良かった。どうやら別の誰かと遊びたかったらしい(名雪は発達しつつあった女の勘で、それが異性であると感じ取っていた)彼を「断ったら朝食から祐一のごはんはずっと紅生姜」と平和的威嚇で勝ち取る口実に出来たのは大きい。正にそれは怪我の功名である、彼女にとって祐一に裸を見られるのは恥ずかしいが嫌ではないのだから。何処かの誰かから彼を護った、と彼女は優越感すら抱いていた。

 ただし彼女の計画が上手くいったのはここまでであった。やはり子供の浅知恵か、名雪は祐一と初詣が出来ると喜んでばかりいて彼の性格まで目に入っていなかったのだ。彼は新しいものが好きで、面白いものが好きで、何より一所にじっとしていられない性分である。いつも閑散としている神社と違い、人が林となる程の賑わいを見せるこの場は実に様々な出店がある。林檎飴にチョコバナナ、金魚掬いに射的に各種くじ。

 祐一を知る者ならば、彼が起こす行動など充分予見出来るだろう。出店を見てくると言って、名雪の手を振り切って走っていってしまう事は火を見るより明らかである。本来なら名雪もまた『祐一を知る者』に含まれているだろうが、この場合は祐一と初詣に行けると舞い上がってしまい、彼女は目を曇らせていた。

 もっとしっかりと手を繋いでおくべきだった、そう後悔しても最早遅い。気恥ずかしさから軽く握られていた祐一の手を繋ぎ直す余裕など、情報処理能力限界まで緊張していた名雪にはなかった。逃げられない様に腕を絡ませるべきだった、とも思う。蛇の様に巻き付いておけば幾ら彼とて逃げられなかった筈なのだから。そうしておけば少しだけ大人に近付ける様な気もする。

「でもそれは幾ら何でも恥ずかしいよっ」

 段々思考が怪しくなり、正比例して上昇する体温を鎮めようと名雪は深呼吸した。氷点下の冷たい空気を二、三度肺に取り込み彼女は際限なく上昇する体温を落ち着かせた。それでも増殖する都合の良い妄想は留まる所を知らない。少女漫画に多数掲載されている恋愛漫画の読み過ぎか、少女の妄想力は同年代の異性のそれよりも遙かに逞しい。名雪も例に漏れず、そんな妄想力豊かな一人であった。

『ねえ祐一、何を願ったの』

『教えたら叶わなくなるんだろ、教えない』

『わたしも教えるから、ねえお願いだよ』

『……笑わないか』

『うん。わたしはね、祐一のお嫁さんになれますようにって』

『俺は……名雪を護れる様にって』

 ――うん、これでいこう。わたしの望んだのはこれだよっ!

 視線を地面に向け、ガッツポーズを取る名雪は端から見てかなり不気味なのだが本人は気付かない。無論の事怪訝な視線を投げ掛ける参拝者達の姿など、彼女の視界に入っていない。そんな彼女を他の通行人達と同じ様に遠巻きに見ている祐一すら、背景以下の存在という認識である。

「おーい、名雪」

 暫く躊躇った様だが、意を決して祐一は声を掛ける。良く注意して観察すれば彼の腰が引き気味になっているのが分かるのだが、今の名雪にそんな観察眼は期待出来なかった。意中の彼が突然現れた事に動揺と歓喜が彼女に武者震いを引き起こさせ、本人は鎮める為に再度深呼吸する。意を固め、一抱え程のエアガンの箱を持っている彼に歩み寄る。

「名雪、ストップだ。それ以上俺に寄るな」

思わぬ彼の言動に、名雪の足が止まる。哀しいとか辛いとかいう以前に、彼女の頭では意味が理解出来ないのだ。

「祐一?」

「名雪菌が俺に感染る」

「わたし、そんなの持ってないよ」

「エロールなんて関係ない」

「意味分からないよ」

 本当に意味が繋がらないが、人より鈍い名雪にも祐一が何を言わんとしているのかは気が付いた。要するに先程の彼女の行動を祐一は見ており、それを不審がっているらしい。確かに第三者から見たらかなり不思議な挙動だったのかも知れない、と彼女は内心反省する。故に彼女は多少強引でも、話題を変える事にした。

「祐一、その箱くじか何かで当てたの?」

「結構良心的な射的があったからな、俺が取ってきた戦利品だよ」

 祐一は射的やダーツ、その他飛び道具を使うものなら何でも得意なのだ。彼の父親の趣味を受け継いだからなのだそうだが、それでもこの歳でその腕とは一種の才能であるとすら言えるだろう。名雪と祐一、どちらも使用出来る金額は三百円。出店一回分だ。そして彼はその一回分を使用して景品を獲得してしまっている。

 名雪もワンチャンスをものに出来るくらい何か才能があれば良いのだが、出店で発揮出来る様な才能は生憎彼女にはない。

「ねえ祐一、その射的って他に何の景品があったの」

「色々。でかい猫のぬいぐるみとか、結構良いもの揃えてたぞ」

「ねこ? 祐一案内してよ、取ってよ、欲しいよ猫さんのぬいぐるみ」

 声が上擦る程に目を輝かせた名雪を見て、祐一は露骨に顔をしかめる。失言をした、そんな表情だ。彼女の猫好きは尋常ではない。何しろ猫が好きなのに、猫アレルギーなのだ。せめてぬいぐるみ位は、と思う彼女の心情は祐一にも分からないではない。出来る事なら叶えてやりたいのは山々だが、彼はその願いを却下する。

「無理。あのぬいぐるみの的は重すぎて、射的の銃じゃどうにもならない」

「うー、ねこーねこー」

「ぬいぐるみなら確か蛙の奴があった筈だから、それなら取ってやるよ」

「かえるきらい」

「名雪、サンリオ好きだろ」

「サンリオは好きだよ。ミッフィー可愛いよ」

 ミッフィーは会社が違う、祐一はそう突っ込みたかったが今回は敢えて無視する。

「けろけろけろっぴだって蛙だろ」

「けろっぴは別物だもん」

 何がどう別物なのか彼としては問い詰めてやりたかったが、質問を腹の奥に還す事にした。彼にとって理解不能な名雪ワールドを長々と聞かされるに決まっているから、それに彼女を言いくるめる為の時間が惜しい。

「射的屋の蛙だって同じ蛙だ、蛙差別するなよ。……と、店が見えてきた」

 人の波を掻き分け、二人は出店の前に到着する。名雪と祐一、当たり前だが二人は別人であるからしてそれぞれに見る場所も視線の質も違う。名雪の視線は景品の猫のぬいぐるみを、祐一の視線は射撃で撃ち落とすべき的へと注がれている。名雪のそれは羨望だが、祐一の方はどうすれば目標を獲れるかという極めて戦術的なものであった。件の蛙のぬいぐるみへは一瞥をくれただけに過ぎない。

「ねこーねこー」

「名雪もいい加減諦めろよ、あれは見せ用のプライズ。ディスプレイなんだって」

「ゆういちーお願いだよー、ねこーねこー」

 全く聞いてない事に祐一は辟易するが、無理なものは無理である。何しろ射的の銃から出る弾の威力では、的が倒れないのだから。彼もまた何もやらずにそんな結論を下した訳ではなく、ちゃんと別の人間が狙って駄目だった現場を見ての意見なのである。的が小さい上に一発命中しても、びくともしなかった。恐らく的の中にかなりの重量物でも入っているのだろう、ある種詐欺の様な出店にあって更に酷い仕掛けもあるものだ。、

「おーねーがーいーだーよー」

「聞けよ、風のクリスタルじゃないんだから」

 全く人の話を聞かない名雪の後頭部にチョップを敢行し、漸く彼女は止まった。武力行使をした為だろう、彼女の瞳には祐一に対する非難が満載で浮かんでいた。彼にとって理不尽な事に、涙まで浮かべている。

「祐一酷いよ、どうしてわたしとねこさんの仲を引き裂こうとするの」

「俺にも、名雪にも無駄に出来る金はないからだ」

「祐一分かってないよ、恋は傷害が多い程燃え上がるんだよっ」

「益々意味分からんぞ」

 平行線を辿っているという事位しか、愛だの恋だのに全く興味がない祐一には分からないのだ。彼の年齢を鑑みれば無理からぬ事なのだが、そんな事は既に精神的に盲目状態の名雪に察する余裕はない。

「おーねーがーいー」

「諦めろっての、そもそも俺はもう使ってしまったから金は名雪の分しかないんだぞ。もっと冷静になれよ」

「おーねーがーいー」

「……無駄か」

 何を言っても全く変化のない名雪に祐一はがっくりと肩を落として、改めて彼女に手を差し出した。

「金、よこせよ。名雪の要望通りあの猫に挑戦してみるけど、多分獲れないぞ」

「祐一、大好きだよっ」

「くっつくな、スライムじゃないんだからくっついても合体しないってば」

 新雪よりも眩しい笑顔で彼の腕にしがみつく名雪に、祐一は嬉しいやら恥ずかしいやら。何しろ店の前で騒いでいるので、ギャラリーが集まってきているのだ。こんな状況では集中出来るのかどうかすらあやしいものだったが、一応約束した以上は守らなければなるまい。そう考えると、祐一の頭は動揺から立ち直り冷えていった。




「ひゃあぁぁうっ」

 気の抜けた悲鳴は突然やってきた危機に対する必死の叫声だったが、やはりどうにも間が抜けていた。咄嗟に危機が起こった箇所――首筋を触ると、水で濡れて冷たい。それ以外に変わった所がないか注意深く調べるが、外傷はないらしい。

「起きたか」

 声のする方向に視線を伸ばせば、そこには案の定の人物がいた。相沢 祐一、彼女――水瀬 名雪の従兄弟である。意地悪で鉄面皮のひねくれ者、一般的な評価はそんな所だ。そんな対外評価は決して間違っていない、半分程水の入ったペットボトルを片手に立っている彼を見れば誰だって納得するだろう。普段は鈍い彼女にも、先程彼が何をしたのかは分かっている。

 それでも抗議の意味で、確認の意味で名雪は彼を問い詰める。

「祐一、何をしたの」

 天地がひっくり返る程驚いた名雪の動悸は、未だに収まらない。

「寝ている名雪の首筋に水を少し、な」

「滅茶苦茶驚いたよっ!」

「それは当たり前だろう。しかし、効果覿面だな」

「お願いだからもう止めてね」

「まずは名雪が自力で起きる努力をすべきだと思うが」

「祐一、嫌い」

 「嫌いな人間に起こされたくなければ、さっさと自分で起きられる様になれ」、そんな科白を最後に彼は名雪の部屋を出ていった。彼女は一人になってから少しの間唸っていたが、言い返せない自分に自己嫌悪を抱く。行動には問題が大ありだが、方向性としては正しい。何しろ彼は名雪を素早く、確実に起こしてみせた。彼女としては御免被る手法だが、結果論として祐一を非難する者はいないだろう。

 ――昔はそんな男の子じゃなかったのに。

 名雪は着替えながら、自分のベッドの一角へ視線を滑らせる。そこには不格好な蛙のぬいぐるみ、けろぴーがいる。それは元旦の神社で、彼が取ってくれたぬいぐるみだ。結局彼は猫のぬいぐるみを獲得出来ず、名雪は祐一を非難した。そこへ通りかかった(今考えると通りかかったのではなく、遠巻きに二人を見ていたのではないかと名雪は思う)名雪の母親が、二人にもう一度だけチャンスをくれたのだ。そのワンチャンスで、祐一は蛙のぬいぐるみを撃ち落とした。

 彼女が今の様に蛙を本格的に好きになったのは、その時からである。

 そんな元旦の一幕を祐一は最早覚えていない。彼女にとってそれは思い出の日である、何しろ祐一が彼女の為にプレゼントをした最初の日なのだ。その日以来、けろぴーは名雪の大事な宝物となった。

「けろぴー、行ってきます」

 蛙は何も語らない。