命の刻限とその価値



 人生に意味など在るのだろうか。

 人間として生まれたならば誰しも一度は思い当たるこの命題、彼女もその例外に漏れる事無く考えた事がある。何気無い行動の間隙にふと過ぎる些末にして巨大なこの問題は、人間が生きていく上で必要が無い場合が多い。日々の生活に追われる身で、メビウスの終点を探すが如き戯れ事に等しい行為に時間を費やせる者はそう多くないのだ。

 思考の裡に消えて行く筈の問い掛けに対し真摯に答えを出そうとする者は哲学者か、またはまだ物心付く前の純粋な子供か、或いは余命幾ばくかも無い死すべき運命にある者である。

 卑近な例を挙げるならばそう、丁度彼女の様な。

 誕生のその瞬間から死せる運命を背負って生きてきた彼女は、二十歳にもならざる身なれど絶対と言うものがある事を知っていた。大学病院に何百何千と飼われている実験動物の運命の様に、己の力では決して覆らない事実がある事。

 彼女は病に冒されている、公的な見解では少なくともそう言われている。彼女の発症している病気は世界でも非常に例が少なく、原因は未だ杳として知れない。故に対策が全く見当たらない彼女の奇病には、現代医学は太刀打ち出来無かった。

 彼女が病院では無く、自宅療養をしているのはある意味医学の敗北とも取れる。或いは実験動物然とした扱い――病院側からの言い分を信じるならば、少しでも病理の解明に繋げる為の過酷な投薬や手術に彼女が耐えられなくなったからか。

 ひょっとすると、彼女のそれは病気ですら無い可能性もある。便宜上『病気』であると定義付けられているだけで、彼女本人の遺伝子に含まれる因子が何らかのアレルギーを引き起こしているのかもしれない。どちらにせよ、死を目前にした彼女にはどうでも良い問題であった。

 件の彼女はその目をハードカバーの本から、外の景色へと移した。外界は一面雪景色を通り越して吹雪となっている。

 やはり家の外は寒いだろうか。寒いのだろう。

 やはり肌に雪が張り付いた時、体温に負けて水に変わるのだろうか。変わるのだろう。

 彼女とて知識としては頭に入っている。だが実際に生の実感として捉えた事は驚く程少ない。病院と自宅を往復する生活は、彼女にとって無味乾燥極まる退屈そのものだった。雪に触れてみたい、自分の足で雪を纏った街を散策してみたい。その様な欲求が心の内より出でるのは無理からぬ事である。だがそんな事を具申すれば、彼女の両親と姉が彼女の願いを打ち砕くに違い無い。

 故に彼女は些細な我が侭を胸裡にしまう。だからと言って彼女には両親や姉を恨む気には到底なれなかった。彼女の生来の病弱さに加え、現状の危うさを鑑みればむしろ彼らの方こそが社会的な正義の下にあるのだから。彼女の様な病の極致にある娘を吹雪の中に放り出すなど、正気の沙汰では無いだろう。

 両親にとっては大事な娘、姉にとっては大切な妹なのだ。社会的通念など抜きにしても、親愛の情から彼女の身を案じるに違いない。同じ立場に置かれたとしたら彼女自身、全く同じ行動を取るだろう。疑問を差し挟む余地すら無い事である。

 人生に意味など在るのだろうか。

 生まれた時から自宅と病院を往復する毎日を送っていた彼女には、その命題を考える為の時間が他人よりも遙かに多かった。

 この世界を造った神なる存在がいるとすれば、それは恐ろしく醜悪に違いない。悪意に満ちた愉悦に貌を歪め、生き物が藻掻き苦しむ姿を見て手を叩いて楽しんでいるに違いない。もし神が世に広まる宗教で言われている様な無限の愛などと言うものを持つ存在ならば、そいつは余程構成力に欠ける三文作家なのだろう。無限の愛を語るには、世界は理想から遠くかけ離れすぎている。この様な駄作としか言い様の無い世界を、全知全能が見逃す筈が無い。

 ここに神の矛盾がある。

 死から縁遠い姉と、死を日常のものとしなければならなかった妹。同じ血から生まれ出でた姉妹だったが、両者には明らかな差異が見られた。何が二人を分けたのか、何故自分だけ姉と違うのか、運命を呪う事数千回。だが彼女はある日を境にしてそれを止めた。

 己の奥底に燻っていたどす黒い感情を姉にぶちまけたその日から。反撃は怒声でも、罵詈雑言でも無く、問答無用の平手打ちだった。彼女は突然の姉の行為に驚きを感じたものの、やり返そうと思う事は無かった。文字通り全てを込めたのであろう、平手を見舞った筈の姉の目から涙が零れ落ちていた。

 気丈な筈の姉の涙は、彼女にとって平手よりも余程衝撃的だった。その時彼女は悟ったのだ。辛いのは自分だけでは無いと言う当たり前の事実に。

 何の因果か死ななければならない自分と、死せる自分を見送らなければならない姉。一瞬にして永遠の断絶か、それとも身内の死と言う一生の傷か。一体より不幸なのはどちらだろうか。総じて不幸だと言うならば、貧困と内戦に喘ぐ国の子供の立場はどうなるのか。

 匙加減一つで価値観は激変する。本人が不幸を不幸と認識しなければ、それは不幸と成り得ない。逆に本人が幸福を幸福と認識しなければ、それは幸福と成り得ない。

 彼女の命が尽きるまで、後約一ヶ月。彼女は限られた時間を目一杯生きてやろうと思う。それこそが彼女なりの神へのささやかな反逆であり、家族への手向けになると確信しているから。一度きり、やり直しの利かない人生で後悔などしたくない。それは一つの恋も経験していない彼女の、少女の決意だった。

 玄関の引き戸が開く音が聞こえる。住み慣れた家屋に身近な隣人、彼女は当然の様に音で誰が帰ってきたのかの判別が付く様になっていた。この音は、恐らく姉の音だ。

「お帰りなさい、お姉ちゃん」

「ええ。ただいま、栞」

 姉は学校から帰って来ると、何よりも先に彼女――栞に会おうとする。痛々しい程に明るく姉は彼女に接する。妹の方にしろ、それが分からぬ程に鈍くは無いのだ。

「体調はどうかしら」

 いつからか栞は姉の翳りに気が付いていた。何処か遠慮している様な、よそよそしさが姉の言動や仕草の端々に現れる。腫れ物に触る様な、とは正にこの事だろう。会って日の浅い他人同士ならばともかく、生まれた時から顔を突き合わせている姉妹では隠そうとしてもそうそう隠しきれるものでは無かった。

「今のところ、落ち着いているよ」

 口では言い表せない違和感を肌で味わいながらの会話は、形式的なものに終始してしまう。大切な姉との会話が上滑りしてしまう事が、栞には何とも悲しかった。

「そう」

「このまま症状が安定したら学校に行けるかも知れないね」

 姉の瞳孔が一瞬狭まり、表情が強張る。

「そう、ね」

 姉は嘘が下手だ。そして妹は残酷だ。誰も、口にした本人すらそんな希望を欠片も持っていないと言うのに。言い分を否定して欲しかった、と言うのはやはり叶わぬ願いだろう。

「そうしたら栞の好きなアイスも沢山食べられるわね」

「でも」
 ――私の身体は、もう長く保たないよ。

 彼女は言い出そうか躊躇い、視線を泳がせる。

 断絶は恐怖そのものである。死とはこの世からの抹消であり、以上でも以下でも無いのだ。死後の世界を一心に信ずる程に彼女は純粋でも、まだ生きていられると思える程脳天気でもなかった。死ねば彼女の一切を過去にし、いずれ全てを無に帰してしまう。目の前の最愛の姉ですら、彼女の僅かな記憶を残して忘れ去ってしまうだろう。

「……怖い」

 華奢な自らの両肩を両腕で抱くが、震えは止まらない。偽らざる気持ちを姉に吐露するのは何回目だっただろうか。喉が渇く。それはただ渇きではない。命を、己が生きる為に他者の他者を欲しているのだ。

 その一言で姉が微笑み、制服のリボンを解いて白い肩を露出させる。栞もまた、隠し事や嘘が苦手な人種なのだ。


「お姉ちゃん」

 姉に抱擁される。妹の方も相手の背に手を回してはいるのだが、体格差からか抱き締めるのが少々厳しい。彼女の顔が、姉の左首筋に来る。そこには真新しいガーゼが張られている。それを、彼女は姉に苦痛にならない様に慎重に取り去った。姉の肩が小さく震える。

 ガーゼの下には歯形がある。白い肩に赤い傷のコントラストには、見る者を圧倒させる力がある。一種異様な、妖艶な美の魔力とでも言おうか。

 栞は姉の傷口に、自らの歯を合わせた。口から姉の緊張が伝わる。痛いのだろう、それでも姉は一度でも苦痛を訴えた事は無かった。

 栞の口内に甘美な味が広がる。姉の身体を流れるぬめった鉄の味は、妹に安心を約束した。姉の血を吸うと言う異常な行動は、二人以外には家族や掛かり付けの医師も知らない事だ。何を思って妹がこの様な行動に出たのか、それは姉の知る所では無い。ただ言える事は、この吸血行動をやり始めてから妹の体調が維持されていると言う一点である。

 気休めでしかないどころか、全く意味が無いと言う可能性は勿論ある。だが元々原因不明の病なのだ、姉は可能性を語る事自体が間違っていると思っていた。

「……ん」

 栞が姉の肩から口を離す。

「もう良いの」

「うん」

 満足げな顔。姉には栞が、妹が後一ヶ月しか生きられないと言う事実が信じられなかった。まだ彼女は生きている。今、自分の目の前で微笑んでいる。死と言う現実がまるで夢の様に感じられた。

「また欲しくなったら、いつでも言いなさい」

「うん、お姉ちゃん」

 命の刻限。

 運命を呪おうが嘆こうが、限られた時間の中では何も変わらない。神ならぬ身では、どうする事も出来無いのだ。

 命の価値。

 自他の意識改革に過ぎない行為しか、神ならぬ身には残されてはいない。価値を高める、いや価値が高くなったと思い込む事こそがヒトの逃げ道なのである。虚飾を剥ぎ取られた真実に耐えきれないからこそ、ヒトは納得させる手段を磨いてきたのだと言い換える事も出来る。

 姉も、妹も今は答えを先延ばしにする事しか出来無い。

 物語は、未だ始まってすらいない。