今、ここで君が笑うから

12.ありがとう





















その日、あゆは焦っていた。

秋子に頼まれて夕食の買い物に来ていたところに祐一の姿を見つけたからだ。普段ならば喜んで駆け寄っていただろう。だが、状況が違った。

これまでにも何度か、同じ状況になったことがある。それは、祐一が水瀬の家を後にしてから。名雪のクラスメイトに茉莉が増えてから。

祐一が桔梗や茉莉、更には蘭や彩芽、楓らと一緒に歩いている姿が何度も目撃されているからだ。焦りを感じつつも、名雪に至っては特に何もできていない。今まで同居という距離の近さに甘えていたのだ。今更距離が開いた状態で立ち回るのは難しかった。

今現在、明確な焦りを感じていたのはあゆともう1人。川澄舞だった。沢渡真琴は既に答えを示し、自分の道を進んでいる。一時はあゆはそれを羨ましいと感じていたが、今では真琴と同時期に行動しなかった自分を恨んでいるくらいだった。

既に、あゆは抜け出すには重過ぎるくらいにまで来ている。それほどまでに募らせた想いは大きい。真琴は募らせた想いの違いに早く気付き、答えを出した。

だが、あゆは自分の想いが明確な恋心であることを承知している。だから、真琴と同じことはできなかった。そして気付けば残った4人で牽制し合い、一歩として進めない状況になっている。

「…帰ったら、秋子さんに電話を借りよう」

そう呟き、あゆはすぐに秋子に頼まれたものを籠に放り込んでいった。

覚悟を決めてからの行動は早いほうがいい。それを、あゆも舞も知っているから。

一方、あゆに気付いていた祐一はその表情を見て声をかけることを躊躇った。まだ、香里の他にクラスの中で茉莉と話したことのある者はいない。最初の頃に出していた近寄りがたい雰囲気はだいぶ払拭されたものの、まだ抵抗は感じているらしい。

だから、一応同年代のあゆを茉莉に紹介しようと思っていたのだ。だが、そんな空気ではなかった。

「…まぁ、急ぐか」

今日は茉莉と楓が夕食を食べにきて、そのまま楓だけが泊まっていく。準備を怠るわけにはいかないのだ。

























あゆは帰宅後、すぐに秋子に電話を借りますと言い、暗記していた舞の携帯電話に連絡をした。アルバイトの途中で出てこない可能性もあるが、それでも連絡をしてみることは重要だった。

『…はい』

?がった。

「もしもし、舞さん?ボクです。あゆです」

『どうしたの?』

あゆの言葉に何かを感じたのか、舞は静かに、強く問いかけた。

「…もう、時間がないみたいだから。どうする?多分、これを伝えて行動ができるのは今は舞さんだけだと思うから」

舞の問いかけに対し、あゆははっきりとした答えを用意しなかった。それがどういうことなのか、舞にはわかった。

あゆは、いや、自分たちは感情に決着をつけるには時間を使いすぎた。何より、ある程度自分でけじめをつけられる時期はとうに過ぎてしまっている。そんなもの、あの冬の時点で相沢祐一というファクターを排除しない限り、無理なのだが。

それをした場合、祐一の周囲で生存している者は名雪、香里、潤、美汐ぐらいだろう。舞の親友である倉田佐祐理はどうなるかはわからない。

これは、避けられない出来事だった。あゆも舞もそれで納得している。心を同じとするが故に、それを理解できた。

『今日、今すぐに祐一を呼び出して。答えを…出す』

だから、舞は祐一を呼び出すようあゆに指示した。

決着の日。

思いを告げる日。

感情にけじめをつける日。

一つの、幼年期の終りの日。盲目的過ぎた幼年期が終り、世界を見渡す日。

「うん…じゃあ、噴水のある公園で」

























「すまん」

アップスター邸で、唐突にこんなことが起きていた。

謝罪と共に頭を下げる祐一と、困惑する桔梗と茉莉の姿。

「何なの、一体」

「事情は後で詳しく説明する。ただ、こっちの用件が終わるまで桔梗を見ててやってくれ」

祐一は頭を下げたまま言う。

茉莉の知る祐一は必死さを匂わせる人物ではあったが、今は何かが違った。何かの終りを匂わせる。それを、彼女は敏感に感じ取った。

「うん…それは、いいんだけど。帰ってきたときに、今の顔はしないでね。そんな顔、桔梗ちゃんに見せたら駄目だから」

「わかってる」

頷くと、祐一は背を向けて歩き出した。

もしかしたら、帰ってこないかもしれない。茉莉にはそんな予感すらあった。だったら、どうして桔梗を置いていくのか。それを理解しようとしても、わからなかった。

「…祐一君!!」

気付くと、茉莉は叫んでいた。

「晩ご飯、祐一君の分も用意して、桔梗ちゃんと、楓と一緒に待ってるから」

待ってる。

今の茉莉にできるのはそれだけだった。帰りを待つ。帰ってこない予感すらあるのに、それだけしかできない。今の微妙な距離がそれを生んでいる。

これでいいのかという葛藤はある。

だが、踏み込んでもいいのかという迷いもある。

茉莉はどちらにも行けないでいる。祐一の隣か、離れていくか。その間に立ったまま、動けなくなっている。まだ、痛みは振り切れていない。未だに心の底でその存在を主張し続けている。

「…お姉ちゃん」

ただ祐一を見送っていた茉莉の元に楓がやってきた。

「行って」

そして、一言。そのまま茉莉の背を押した。

「え…?」

わけもわからず、茉莉は振り返った。

「だいじょーぶ。カギはかけるから」

楓は笑っていた。

まだ、祐一と話したことはあまりない。

ただ、友達の話をしたことの無い茉莉が家で祐一の話ばかりする。それは異常なことだった。

だからこそ、楓は茉莉を送り出さなければならないと無意識で思った。どうしてそれをしなければならないのかはわからないが、それをしなければ茉莉はいつまでも先に進めないのだと。そんな気がしていた。

「行かなきゃ。なくなっちゃうよ、大事なもの」

「…うん。行ってくる、戸締りよろしくね」

「任せてよ」

茉莉は走り出した。

サンダル履きで走りにくいことに気付くと、サンダルを脱ぎ捨てた。それを見ていた楓が少し歩いてサンダルを拾う。

「がんばってね、お姉ちゃん」

楓は、茉莉が過去に経験したこと、まだ、楓が生まれて間もない頃に起きたことを知っていた。

それは、どこか距離を置いた接し方をする姉がどこか友人の姉とは違う気がしたから。だから、母親を問い詰め、父親にも訊いた。そして答えを得た。

だから、楓はそれから茉莉の傍に居続けた。

そうすることで少しでも、姉を変えられるなら。

いや、そんな難しい考えは無かっただろう。ただ少しでも、姉に自分のほうを向いてほしかった。少しでも、一緒にいたかった。

年が離れていても、茉莉はたった一人の姉で、かけがえの無い大切な存在なのだから。

「ばいばい。あたしだけのお姉ちゃん」

そして、こんにちは。皆のお姉ちゃん。

























噴水公園。

そこは、栞の思い出の場所。

ただし、今そこにいるのはあゆと舞だった。

「来た」

舞がポツリと呟く。その言葉の通り、祐一が公園に足を踏み入れ、あゆと舞の姿を認めた。

「…答えを、聞かせてくれるって言ってたっけ」

夕日が沈もうとする中で、祐一は空を見上げた。まだ真っ赤な空だが、少しずつ、夜が侵食し始めている。

どうして彼女らが今を選んだのか、理解した気がした。

自分たちの行動が遅かったことを理解しているのだ。

「ボクは、祐一くんのことが、ずっとずっと大好きで…もう、この人しかいないんだって、どこかでそう思ってた」

「私も」

だから、あゆも舞も『好きです』という言葉で終わらせようとしなかった。

「でも、祐一くんの目はこっちを向いてない。その前に、終わらせちゃったから」

あゆは泣きそうだった。

そこからは、舞が言葉を引き継いだ。

「真琴が動くまで。それまでだった」

真琴の行動。それは引き金となるはずだった。少なくとも、変革は生じる。全員がそれに気付き、気付かない振りをした。

それが、間違いだった。

気付いたままでいればよかった。変わればよかった。引き返せなくなる前に、走り出せばよかった。

そうすれば、これからもずっと隣にいられたかもしれない。これからもずっと、楽しく過ごせたかもしれない。

けれど、全員が偽りの不変を望んでしまった。欠落した日常。そこに真琴の姿は無い。それまで当たり前に存在していたはずの、一人の姿は無い。

それでも、皆がそれまでの日常を演じた。変わりたくないが故に。

そして、破綻した。

祐一の下に桔梗がやってきて、水瀬の家を出た。茉莉がやってきた。

何もかもが変わってしまった。

「私たちは、祐一の、親友になりたい」

だから、変わるんだ。そう、この噴水の前で二人で誓った。

いつか、自慢できるほどいい人に巡りあえば祐一に自慢してやるんだ。そこまで決めて。

何より、祐一を好きになれたということは最高の恋だったと。いつか、笑顔で祐一に語るために。

「本当に大好きな人の隣で、ずっとずっと、笑っていたいから」

きっとそれは、とても幸せで、

「皆で、ずっと、一緒に」

素晴らしいことだから。

自分たちが一番に望んでいたことではないけれど。

それでも、相沢祐一という本当に大切な存在に出会えたことに後悔は無くて、パートナーにはなれなくても、傍にいたい。最高の友として。

2人はそれを願った。祐一の回答を聞くことすらなく、2人は結論を出した。

それは祐一にとっては予想外のことだった。

きっと、告白で自分の答えを迫ってくるだろうと考えていたのだから。けれど、そんなことはなくて。

自分で想いを断ち切る代わりに親友になりたいと願った。それほど簡単に断ち切れる想いでなかったことくらい、祐一とて理解している。だが、2人はそうしなければ祐一を切り捨てるしか選択肢が無いところに立たされていたのだ。自分たちの想いを自己完結させなければ、祐一と、その周囲の皆を傷つけるだけの関係になってしまう。

それは、2人には許せないことだった。

たとえ、名雪や栞に罵倒されたとしても。

「…ふぅ。その答えは考えてもみなかった。まぁ、確かに俺は2人…いや、皆の気持ちには応えられない。

 けど、2人の願いなら応えられる。改めて、よろしくな」

そんな2人の願いを、祐一は受け入れた。

親友と呼ぶには男女として近付き過ぎた。しかし、それでも良かった。今のそれぞれを形成しているのは、皆がいてこそなのだから。誰か1人でも欠けていたら今はない。

だから、祐一も2人を突き放すような真似はしなかった。

「ねえ。最近、上星さんの他にさ、小さな女の子と一緒にいない?」

漸く涙を堪えたのか、あゆが今回のことを決意した切っ掛けについて祐一に質問した。

「何だ。見てたのか、そっか」

それに対し、祐一はどこか呆然としつつ笑った。

「祐一…?」

「そういえば、俺が水瀬家を出てからあんまり話をしてなかったな。真琴とか、天野なんかは会ったら話はしてたけど」

意図的に距離を取ってたから。あゆは喉まで出かけていたその言葉を呑み込んだ。きっと、口に出していい言葉ではない。

「紹介するよ。はい、この子な」

財布を取り出してその中から写真を取り出して2人の前に差し出した。

「事情があって、俺が引き取った子供なんだ。名前は、桔梗っていうんだ」

写真と、桔梗の紹介をする祐一の表情を舞は交互に見比べた。

今の祐一は、決して自分たちには見せたことの無い、とても穏やかな表情をしていた。一緒に遊んでいるときに見せた笑顔は本物でも、落ち着いた表情でいることは無かったのかもしれない。

それを思うと、間違いなく、祐一が桔梗を大事にしていることが理解できた。

大切な何か。それは誰にだってあるもので。

舞にとっては、親友。あゆにとっては新しい家族。それは、本当に大切で、決して手放したくは無いと思っているもの。

祐一にとって、桔梗はそれそのものなのだ。

今、ここで君が笑うから。だから祐一は穏やかな笑みを浮かべ、桔梗の前に立つ。少しでも桔梗が笑って生きていけるように。その為に。

「ボク…桔梗ちゃんに会ってみたいな」

「今度、家に来いよ。ちゃんと、歓迎してやるから。桔梗と一緒にさ」

「私も、行きたい」

「…勿論、舞も。佐祐理さんと一緒でもいいからさ」

そして、少しずつ、桔梗を守るもの、その輪を広げていく。

皆で手を取り合って、桔梗が祐一の下から巣立っていくその日まで。皆で守り続けよう。

約束の証が、椿の遺品の懐中時計が夕日を反射して輝いていた。

























次回予告

「茉莉です。

 祐一君を追いかけて走っている間に郊外の森の辺りにまで出てきてました。

 そして、そこに祐一君はやってきた。

 ここで伝えなきゃ、私はもうどこにも行けない。

 次回、今、ここで君が笑うから

 13.私が守る

 決めた。後悔しないように頑張るから」



















後書

セナ「あゆ、舞に決着」

あゆ「やっぱり実らないんだ…」

セナ「申し訳ない」

あゆ「や、この作品を考え出した時点で多分メインヒロインは外されると思うし。何より、メインヒロインで組むんならそのアフターストーリーで組むと思うから」

セナ「わかってるじゃない」

あゆ「まぁ…簡単なことだしね」

セナ「と、まぁ。次回予告でわかるとは思いますが、間に合ったのはあゆと舞だけです。もう名雪と栞は手遅れです」

あゆ「…やっぱり、扱い悪いんじゃ」

セナ「前ほどじゃないから」