今、ここで君が笑うから
9.七瀬、襲来
大型連休初日、午前4時30分。
留美は自分の恋人である折原浩平の家へと向かった。
因みに、ギリギリまで惰眠を貪るのが浩平の日常である。まして、休日であるならば尚の事。
無論、こんな早朝に起きている事などまずない。あったとしても、起こしに来る者に対する悪戯の準備のために起きているぐらいである。そういうことに全力になれる、いわば悪ガキがそのまま大きくなったような人間というのが折原浩平である。
そして、この日は普通にベッドの中で寝ていた。昨晩はずっと遊んでいたためか、疲れてそのまま寝てしまったらしい。
留美にとっては幸い、浩平にとっては…
「起きな…」
とてもとても大きな、
「さいっ!!!」
「ぐほぁっ!?」
痛みを伴う。
留美が、浩平の鳩尾に向かって拳を叩き込んでいた。以前はダウンエルボーだったが、本気で死にそうになったためかやめていた。
それでも、運が悪ければ死ねるのだが。
「な、七瀬。何しやがる。俺が腹筋を強化した挙句に、防御用にクッションとかを仕込んでなきゃ死んでるところだぞ」
言ってから、浩平は窓の外の景色を見た。
暗かった。ありえない。
「七瀬。俺、寝るわ」
「寝るな」
もう一度布団の中に戻ろうとする浩平の肩を掴んで止める留美。
おかしい。この時間に迎えに行く事自体は伝えてあったはず。なのに、何故浩平は。
「七瀬。どうして俺がお前の昔の男のところに行かねばならん。そういうのは1人で行ってくれ。普通なら嫉妬で荒れ狂うところをこの程度で収めてやってるんだ。感謝してほしいくらいだな」
「…相沢が、あんたを連れて来いって言ってるからよ。あんたが、自分で思っていたよりもかなり早く“戻ってこれた”理由を説明するって」
戻ってこれた。
この言葉を聞いて、浩平の中で何か別のスイッチが入った。誰もが知らないこと。浩平と七瀬の2人だけの記憶だった。
だが、違う。真実に近い人間がもう1人いた。
「わかった。行ってやるよ。そこまで言われたんじゃ、行かなきゃ男が廃るもんな。
その辺、漢としてはどう思う?」
「誰が漢よ!!」
「ぐはっ!」
下らないことを言った報いで、浩平は留美の全力で殴られた。
後に浩平は語る。
『あいつ、いつもは手加減してたんだな』
そこからは強行軍だった。
浩平の発案、というか、情け容赦の欠片もない行動で、同じくゆったりとした休日の朝を迎えようとしていた幼馴染、長森瑞佳を叩き起こし、強制連行。
今も浩平の少し後ろを眠そうについてきている。
「あんた、最悪ね」
「何を言う。こんな休みに朝から叩き起こされるのが俺だけでいい訳がないだろう?だったら、長森も道連れにしてしかるべきだ」
この発言自体、人として限りなく底辺にいる証明なのだが、実際はそこまで腐った人間ではないので留美もこの程度で愛想を尽かすことはない。
もっとも、起こされた瑞佳としては堪ったものではないのだが。
「ごめんね、瑞佳。浩平が変なこと言い出して聞かなかったから」
「ううん。もう諦めてるから」
留美の謝罪を笑顔で何でもないかのように言い切る瑞佳。ここまで来ると何か悟りきっているというか、最早聖人の域にある。
当然、留美にとっては眩しすぎる。いくらかつてのように無理をしてまで乙女を目指そうとはしていないとはいえ、瑞佳はある意味で素晴らしいまでに乙女だった。そんな瑞佳の慈愛の精神は素晴らしいを通り越してもう別の次元に入っていた。後光が差してくるくらい。
「ふっ、流石だな。長森は良くわかってるじゃないか。まだまだだな、七瀬」
その慈愛の精神に対して何も思わないのは自愛の精神の固まりでもある浩平ぐらいだろう。いっそ清々しいくらいなのだが、それで気がすまないのが留美だ。具体的に言えば今すぐに浩平を殴りたくなるくらいに。
だが、堪えることにした。
殴るのは簡単だ。しかし、最早当たり前となってしまったこのどつき合いでは浩平の反省が促せない事など分かっている。
「浩平…電車の窓から投げ捨てるわよ」
だから、浩平の命を賭けた。
「ゴメンナサイ、ボクワルカタヨ」
ギギギ、と油のさされていないブリキ人形のような音を立てて浩平の首が瑞佳の方を向いたかと思うと、パブのフィリピン人のお姉さんばりの片言で謝りだした。
終いには「シャッチョサン、シャッチョサン」と言い出しそうなぐらいだったが、流石の浩平も空気ぐらいは読んだようだ。
瑞佳は諦めているとは言ったが、怒っていないとは一言も言っていない。
留美が気付いていないだけで、瑞佳は間違いなく怒っていた。
それもそのはず。この日、友達と買い物に出かける予定のはずが、唐突に小旅行に巻き込まれてしまったのだから。
「もういいよ。浩平の事だもん。こうなる事なんて簡単に想像できるもん。だから諦められるんだよ」
やはり慈愛に満ちている。留美がそう感心していた時だった。
「北海道産の特濃だからね」
「…分かりました」
きっちり対価を払わせていた。
(でも…この小旅行の対価が牛乳で収まるのよね)
「2か月分、たっぷりとね」
「…はい」
容赦の欠片もなかった。
電車に揺られる事約4時間。これだから留美は早朝に出ることを選んだのだった。足りない睡眠は各自電車の中で眠る事で解決。
降車直前になっても起きない浩平は、到着と同時に留美の手によってホームに向かって投げつけられていた。哀れ。
「痛い」
「煩い」
「痛い」
「喧しい」
「痛い」
「黙れ」
「痛い」
「泣け」
浩平と留美が終わりのない問答をしながら改札を抜けると、留美にとっては懐かしい人影が待っていた。
「相沢っ!」
それに気付いて大きく手を振る留美。
その視線の先にいる祐一は苦笑しながら小さく手を振り返した。
「わ、相沢君だ」
「…そうだな」
素直に懐かしい人物に会えたということに驚いている瑞佳と、留美の嬉しそうな態度が気に食わない浩平。
そして、2人は出会う。
留美にとっては数多の救いを与えてくれた人物、浩平にとっては真実に至る道しるべ。
「おねえちゃん、ひさしぶりだねっ!」
相沢、桔梗。
運命を捻じ曲げられた少女。
「桔梗ちゃん!!久し振り〜!元気だった?」
「うん!」
留美はしゃがんで桔梗と視線を合わせるとそのまま抱き締めた。
「ありがとう。桔梗ちゃんたちのお陰で、色々乗り越えられたから。だから、またこうやって桔梗ちゃんの前でも笑えるようになったから。ありがとう。もう一度、これを伝えたかったの」
「どう、いたしまして」
少し戸惑いながらも桔梗は留美の感謝に応えた。
「あの子、誰の子?」
「…さぁ」
状況に完全に置いていかれた浩平と瑞佳だったが、浩平だけがある違和感に気付いた。
それは、この世界の理の外に身を置いた人間だから気付く事。そして、それを見抜く余裕がそれに気付かせた。
(世界との繋がりが弱くないか?)
まるでかつての自分のように。
世界から自分を繋ぎとめる糸が少ない。
世界は、手にいれた存在を決して離すまいと、まるで蜘蛛の糸のように存在を雁字搦めにしてしまう。だが、その存在が世界を見限ってしまう時、糸は切れていく。
それを繋ぎとめようとする世界と、抵抗する存在、そして、理の外へと誘う何か。それらがぶつかり合い、存在は糸を全て断ち切り、消えてしまう。
かつて浩平に起きた事。しかし、桔梗のそれは違う。
元から少ない。
本来、両親が存在する事により、世界との結びつきは強化される。それは、どちらが不慮の死を迎えようとも変わらない。世界に存在した事実が結びつきを残したままにするのだから。
だが、それが少ないというのはどういうことなのだろう。
「流石に気付くよな。お前なら」
祐一が浩平の後ろからボソッと呟いた。
「相沢…お前、何を知ってる」
「多分、全部。この子との繋がりは、世界の外を見ることだから」
「…外、だと」
「今はまだ。長森さんが来ていたのは予想外だったが、都合がいい。この話はまだ桔梗に知らせるつもりはないから」
祐一と浩平の密談は瑞佳にも気付かせないまま進み、後で全てを語るということで決着を迎えた。
『祐一君。私は、祐一君になら自分の弱さ、全部見せられるよ。だから、私、頑張るね。祐一君が弱さを見せられる、ちょっとした支えになれるように。友達なんだから、それぐらいはいいよね?』
家についてから、祐一は先日の茉莉の言葉を思い出した。
あれが茉莉の覚悟だというなら、茉莉には真実を知る権利がある。
いや、これから先、祐一の傍にいることを選択するなら知らなければならない。以前、事情があるとだけ言って濁した事。
だが、今はあの頃とは違う。秘密を共有する者ではない。
信じるに足る人物であるとわかる今なら、伝えられる。
「七瀬。少しゆっくりしててくれ。今から、人を1人呼んでくる」
祐一は留美にそう告げて靴を履いた。
「それは、あたしと同じで、真実を知る権利があるって祐一が選んだ人?」
「…そうだ」
留美の問いに対し、祐一は一瞬の沈黙の後に答えた。
祐一からすれば、茉莉の存在はまだそこまで大きなものになっているかはわからない。だが、知らせなければならない気がしていた。
人は、その人に大きく関わる人というのは出会うべくして出会う。
浩平を繋ぎとめる杭となったのが留美であったように。
そんな存在が茉莉であるかはまだわからないが、それでも伝えなければならない気がした。
「俺にとって、あいつは」
恋人じゃない。
片想いでもない。
友達。
そのラインは超えている気がする。
親友…は少し違う気がする。
「…わからない。それぐらい曖昧な存在だな」
「それでも、その人を選んだんでしょ」
「あぁ」
「だったら自信持ってよ。あたしが憧れた祐一は強かった。自分のやることに自信があって、振り返ることなんてしなかった」
振り返らない。
それは強さではない。それは、勢いだ。
余裕の無さがその勢いを作り出す。
「…七瀬。俺は、きっとこれから何度でも振り返る。見落としは無かったか、大事な事を忘れてはいないかって。
でも、それは弱さじゃない。俺は自分を知らなきゃいけない。その為に、俺は何度でも振り返るよ。それが、俺のためであり、あいつのためで、桔梗のためだから」
アップスター邸。
屋敷と呼んで差し支えないその家に、茉莉は1人でいた。
楓は蘭の家に遊びに行った。
両親は商品の買い付けに海外まで出張。
家政婦は休み。
1人。
それは、今までの茉莉の心だった。
たとえ傍に楓がいても茉莉は孤独なままだった。
自分で壁を作り、全てを拒んでいた。
「祐一君。私を知ればきっと幻滅するよね」
祐一を信じるとしながらも、茉莉は不安を消せなかった。
それは己自身が背負う罪の証か、それとも性格か。
そんな時、唐突に玄関の呼び鈴が鳴らされた。
「…誰だろう?アーチボルドさんはこの前帰ったから違うけど」
先日まで家にいた父の友人を思い出しながらインターフォンの前へと向かう。
「どちらさまでしょうか?」
『茉莉か?祐一だよ、相沢祐一。ちょっと、真面目な話があって来た』
茉莉は内心でどきりとしていた。
自分が、何を背負っているのか、祐一は何となく気付いているはずだ。それを問い詰めに来たのかもしれない。
信じると言って、何も言わない自分を信じられなくて。
「…いいよ。ちょっと上がって。私も話したいことがあるから」
だから、先手を打つ。自分から伝えて、そして、祐一の話を聞く。
それが、茉莉の答え。
自分の祐一への感情は自覚した。
絶対に嫌われたくない。
その感情が行き着く先は一つしかなかった。
恋愛感情。
だから、この感情に決着をつける前に、過去を清算しよう。
全ては、それから。
〈次回予告〉
「茉莉です。
私は、ずっとずっと、誰にも言えないでいたことを祐一君に話すことにしました。
でも、祐一君も、誰にも言えないことを話してくれるって言います。
あれ、この人たち…誰?
次回、今、ここで君が笑うから
10.ホントウ
この話、聞かせてもらえるってことは、祐一君は私のことを信頼してくれてるのかな」
後餓鬼
セナ「というわけで七瀬襲来」
留美「あたしは使○なの?」
セナ「さぁ?でも、妙にしっくり来るんだよね、あのサブタイトル」
留美「はぁ…もういいわよ」
セナ「さて、今回、前回までとはかなり毛色が違います。ていうか、僕のスタイルを前面に押し出して真面目モードでお送りしました。次回も間違いなくこうなります」
留美「こんなことしてるからマホーが書けないんじゃないの?」
セナ「まぁ、そうなんだけどね」
留美「それはそうと、最近は結構他の作家さんの影響受けてるみたいよね」
セナ「そう。殆ど女性の方だとは思うんだけど、凄いね。あそこまでピンポイントで僕好みの話を上手く書けるとは思えなかったね。やっぱり、女性の方が人間の内面を上手く書けるのかな?そういうことではないと思うけど」
留美「えっと、今回のはどうなの?」
セナ「いや、特には受けてないかな。寧ろ世界云々のくだりはとある作品の続編を考えてる時に浮かんだ設定で、こっちで使えると思ったんだよね」
留美「それで使ったと」
セナ「そういうこと」
留美「さて、あまり長くても困るでしょうから」
セナ「はい。ではまた次回でお会いしましょう」