今、ここで君が笑うから
1.君に会いたい
その日、水瀬名雪は同居している従兄の祐一の様子がおかしいと感じていた。
彼女だけに限ったことではない。この春、晴れて水瀬家の次女となった水瀬(旧姓月宮)あゆとて、それを感じていた。
複雑な味のする甘くないジャムを家主である水瀬秋子ばりの笑顔で平らげる彼を見れば、そのジャムの味を知る友人一同なら誰でも気付くことだろう。
無論、先に挙げた二人はこの部類に含まれる。
また、名雪は母である秋子ならば何か知っているかもしれないと思い、訊ねてみたが、返ってきたのは否定の言葉だった。
そもそも、彼女等の知る祐一には空白の七年間が存在する。
祐一はこの街で自身の空白だった七年前の記憶を手に入れているが、彼女等は祐一の空白期間には一切触れていない。
彼女等にとっては、今祐一が傍にいてくれることが全てであり、空白など関係なかった。
そして、それは概ねは正しい。
しかし、祐一にはその空白期間に人生を変えてしまった出来事が起きている。
これまでしてきた悪ふざけも、その出来事で手に入れた大切なものが傍にいないことの不安を誤魔化すためのモノだった。
閑話休題。
朝食も(慌ただしく)終わり、彼らは学校へ向かう。
ねぼすけを抱えているため、毎朝全力疾走のマラソンをしている。
これを祐一が本人に言ったところ、本人からクレームをつけられ恐ろしい目にあわされたため、最早それを口にする者はいない。
普段ならば嫌そうな顔をして走る祐一だが、この日は違った。
「〜♪」
嬉しそうに、今にも踊りだしそうな勢いで走っていた。
因みに、これを見たら誰であっても多少引くことだろう。一部例外はあるが。
もちろん、一緒に走っている二人はその例外だった。
二人とも祐一に恋をしていた。だからこそ、嬉しそうな祐一の姿を見るのは好きだった。
とにかく、彼らは今日も遅刻を防ぐために走っていた。
そして、どこか落ち着かない様子で祐一は一日を過ごし、放課後を迎えた。
「北川、香里。後は任せた」
前日比200%増しの爽やかな笑顔を残して祐一は教室を飛び出していった。
「………」
「おい、美坂!美坂!」
祐一を見て固まった香里を北川が呼ぶ。
「マジかよ…どうやったらあの美坂をこんなにできるんだよ」
北川が一人嘆く。
これから北川は数人の恋する乙女を何とか宥めなくてはならない。
もっとも、祐一にとってはそれはどうでもいいわけで。
所変わって駅前。
文字通り必死に走って(3回ほど曳かれかけた)、祐一はそこに辿り着いた。
この日は、祐一にとっては最高の日。
そう、桔梗と再会できる日。
そして、また一緒に暮らせるようになった日。
それ故に祐一には周りの全てが輝いて見えた。
秋子のジャムも、寝坊した名雪も、黒板の文字も何もかもが祐一にとっては祝福だった。
大袈裟かもしれないが、祐一にとって、桔梗はそれほどに大切な存在だった。
「さて、待つか」
待つことは嫌いな祐一だったが、桔梗を待つのならば100年でも喜んで待つだろう。
…もっとも、その前に人生に終止符を打つことになるだろうが。
そして、十数分後。
缶コーヒー片手にベンチに座っていた祐一の胸に小さな影が飛び込んだ。
「桔梗!」
「えへへ…」
小さな影…桔梗は祐一の膝の上にちょこん、と納まると祐一を見上げた。
祐一は笑顔で桔梗の頭を撫でた。
その周囲からは何やらひそひそと話し声が。
祐一がそれに気付き、顔を上げると突き刺さるような視線を感じた。
「な、何でそんな目で見るんだ?俺はロリコンじゃないし、この子は恋人じゃないぞ」
半ば泣きそうな声と顔で祐一は訴えた。
「ぱぱぁ…何かかなしいことでもあったの?」
「みんなに悪い人だって思われてることが悲しいかな」
「ぱぱはいい人なのにね」
涙目で周囲を見回す桔梗。
「本当…偉い人にはそれがわからんのですよ」
「えらい人ってだれ?」
嘆く祐一に、桔梗はきょとんとしながら問い掛けた。
「いろんな人よ。テレビで喧嘩してる人たちとかね」
「母さん!」
祐一の母、冬希がそこにいた。
「おばあちゃんと一緒だったけど、桔梗、いい子にしてたよ」
「あぁ、偉いぞ」
祐一は桔梗の頭を撫で、桔梗は嬉しそうに目を細めた。
ただ、おばあちゃんと言われた冬希はいじけて地面に“た”の字を書いていた。
「母よ…何故に“た”の字だ?普通は“の”の字じゃないのか?」
秋子さんに引っ越しの挨拶をしにいこう、と祐一が言った数十分後。
「気のせいかしら…?壁が新築の頃から一切劣化とかしてないように見えるわ」
と言う冬希の目の前には昔と変わらぬ水瀬家の姿。
「桔梗…怖い?」
人見知りの激しい桔梗にとって、未知への挑戦だった。
「ぱぱといっしょならだいじょーぶ」
「よし、じゃあ行こうか」
祐一は桔梗の手を優しく握って、空いた手で水瀬家のドアを開けた。
「いいなぁ…祐一」
基本的に祐一としか手を繋がない桔梗。
だからこそ、その光景を見ていた相沢家祖母こと、相沢冬希は涙を流しながら羨んだ。
祐一は秋子以外の誰もが家に帰っていないのに気付き、明日には北川がボロ雑巾のようになっているだろうと思った。
「あら、祐一さん。おかえりなさ……い」
祐一の帰宅に気付いた秋子がリビングから顔を覗かせてから祐一を出迎えようとして固まった。
「だから、秋子ぐらいには説明しなさいって言ったのに…」
涙を拭った冬希が秋子の顔を見ながら言う。
一方の秋子の視線は祐一と手を繋いでいる桔梗に注がれていた。
「ああ、秋子さん。ただいま」
多少戸惑いながらも祐一は秋子に言った。
「あ、はい」
呆然としながらも秋子は答えた。
「それから、紹介しておきますね。この子は桔梗。俺の大切な娘です」
祐一は最高に爽やかな笑顔を向けた。
それは、何よりも慈愛に満ちた笑顔だった。
「そう…ですか」
そう返してから秋子は考えた。
そして、確信を得た。
血縁はないだろうが、桔梗は本当に祐一の娘なのだろう、と。
「それで、申し訳ないんですけど…桔梗と一緒に引っ越しますね。何の相談もなしにっていうのは本当に悪いと思っていますけど」
「そうですか。とにかく、上がってください。お話もあるでしょうし」
「はい。そうします」
祐一達はリビングに移動していた。
そこで祐一はこっちで新居を買ったこと、桔梗とそこに移り住むこと等を告げた。
終始、祐一が桔梗との出会いを語ることはなく、秋子もそれを詮索することはなかった。
「取り敢えず、俺たちはもう行きます。後は残りの荷物を持っていくだけですから」
そう言って祐一は立ち上がった。
「残り?」
秋子は首を傾げた。
何度か祐一の部屋に入ってはいたが、荷物が増えたり減ったり等の変化は見られなかった。
「衣類とかはもうほとんど持って行きましたから」
秋子の疑問を解消するかのように祐一は言った。
「そうですか。寂しくなりますね」
「大丈夫ですよ。家は結構近いですし。何より、家族だって言ってくれたのは秋子さんじゃないですか。家族は、離れてたって家族ですよ」
「ふふ…そうでしたね」
秋子は微笑んだ。
「じゃ、行くぞ桔梗」
祐一は桔梗を連れて二階に向かった。
「姉さんは…」
「秋子。これだけは覚えておいてほしいの」
何か言おうとしていた秋子を遮り、冬希はいつになく真面目な声で言った。
「もしもね、桔梗ちゃんを傷つけるような人がいたらね、その人の命はないと思っておきない。
祐一にとってあの子はそれ程に絶対的な存在で、不可侵の存在だから」
「それは、過去には触れるな、と解釈してもいいのかしら?」
「実際にはそれだけじゃないけど、まぁそういうことでいいわ」
冬希はこれでおしまい、と言わんばかりにソファーにふんぞり返った。
「実際ね、偶然あの子達が歩いてるのを見つけた先生が中学の頃にいてね。道徳上の問題だって桔梗ちゃんの目の前で怒鳴り散らしてね…泣かせたことがあるのよ」
冬希は思い出すのも嫌そうにしていた。
「結局、その日は祐一が何とが宥めながら帰ってきたんだけどね…秋子、今その先生何やってると思う?」
「そういう言い方をするということはとんでもないことになった、ということ?」
「夜中に闇討ちにあって、桔梗ちゃんのこと、撤回するまで殴られたらしいわよ」
事もなげに言い切る冬希に秋子は言葉を失った。
「もう一つ言うなら、それやったの祐一だからね。返り血浴びて帰ってきたもんだから問い詰めたら白状してくれたわ」
秋子は悟った。
電話で報告していた名雪を始めとする祐一に好意を抱いている少女達に気を付けるようにしろと言っているのだ。
そのころは中学生だったが、今は高校生で筋力も違う。
そう、命の保障ができない、と。
<次回予告>
「久瀬です。
アルバイトがしてみたくて、校内の掲示板に書いてあった引っ越しの手伝いに応募してみたら採用されてた。
何だ…相沢君のところだったのか。
ところで、相沢君。その子は妹さんかい?
え?娘さん?
次回、今、ここで君が笑うから
2.祐一のIは愛とともに
何も言わないほうがいいんだろうね…」
後書き
セナ「改訂版今ここ一話です」
祐一「要は、以前の規約の改編を機に、話数を減らして少し話をいじってみようって程度だろ?」
セナ「まぁ、ぶっちゃけた話、かつての1と2をくっつけて話を多少いじっただけだしね」
祐一「次回は3の増量だろ」
セナ「まーねー。でも、当初のプロットからはかけ離れた話にしたい」
祐一「何で?」
セナ「書いたり読んだりした後に名雪や栞の話を書けないし読めなくなるから」
結論としては、名雪と栞の扱いがめちゃ悪かった