エピローグ「未来へのMelody」
夕焼けの下、真と彩は村への帰り道を歩いていた。
時空の歪みが収まると、あの場所に石燈篭の姿は無く、周りに咲いていたはずの常盤露草も影も形もなくなっていた。不思議な事にさやかの姿もなかった。一緒に時空のうねりに飲み込まれたはずだが、何らかの形で一足早く戻れたのかどうかは分からない。
とりあえず二人が空間から脱出できたのは間違いないようで、一定地点を越えても情景に吸い込まれるような事態は起こらず、無事にもときた村へと辿り着けた。
念のため村人に現在の日付を訊いてみたが、空間に迷い込んだ日にちと同じで時間的にも問題ないことを確認し、ようやく戻ってこれた事を実感した。
「真さん、これからどうします?」
「そうだな……もう日が暮れそうだし、宿を探そう」
「そうですね」
村に到着した時にちらりと見かけた民宿のことを思い出し、記憶を頼りに村の中を進む二人。しかし現実の時間は僅かしか経過していなくても、真と彩にとっては数日前の感覚になるわけで、小さな村ながら道を間違えてしまったらしく、神社に出てしまった。
「これは、誰かに訊いた方がよさそうだな」
「それじゃ、私があの人に道を聞いてきます」
神社の本堂前を箒で掃除している巫女を目にとめ、彩は小走りに駆けていった。
声をかけると、巫女は「なんですか」と振り向いた。その顔を見て、彩は思わず驚きの声を上げた。何故ならそれは、最後に会話を交わした常盤と瓜二つだったからである。
そのときの彼女に比べて髪は背中まで伸び、顔立ちも幾分か幼さが抜けているように見えるが、彩にはどうしても目の前の巫女が常盤に思えて仕方なかった。
「あの……私に覚えがありませんか?」
確証もないのにそんなことを言った。当然の反応というか、巫女はきょとんと首をかしげる。向こうからすれば初対面の相手にいきなり変な質問をされた以外の何者でもないだろう。やはり勘違いだろうか、困らせてしまってはどうしようもない。
彩が何でもないと謝ろうとしたとき、巫女はハッと表情を変えると、
「あなた、もしかして私のことを知っているんですか!?」
と言った。
今度は彩がきょとんとした表情を浮かべた。
「それはどういう――」
「私、三年前までの記憶がないんです」
眼を丸くする彩に、巫女は少し寂しげに声のトーンを落として語り始めた。
彼女は三年前の今時分に、村外れの森の中で倒れているのを、たまたまそこを訪れていた旅行者に発見されたらしい。
村に運ばれて介抱され、意識は取り戻したが、名前や素性に至るまで全く何も思い出せない記憶喪失状態だった。
その後も記憶が戻る事はなく、行く当ても無い彼女は結局この村の神社に、巫女見習として住み込みで働かせてもらう事になった。不思議なことに神職関係の物覚えは非常に良く、その飲み込みの速さは関係者も舌を巻くほどだった。
それからは身寄りのない神主夫妻に我が子のように可愛がられ、今はもうすっかり村人の一人として馴染んでおり、毎日を穏やかに過ごしているという。
「そんな事情があったんですか」
「それで、いまのあなたの態度を見て、もしかして私のことを知っているんじゃないかと思って……」
「……いえ、私の勘違いだったようです」
少し考えたあと、彩は眼を伏せてそう返事した。今が幸せならそれは何よりのことだ。
「そうですか……すみません」
巫女は微かに残念そうな顔を覗かせて頭を下げた。
そんな様子を見て彩は訊いてみた。
「やはり記憶は戻ってほしいですか?」
「戻らなくても構わないというと嘘になります。確かに私がどこの誰でどんな人間だったのかは気になりますが……でも、私はいまの生活に満足していますから。素性がわからない不安はこの先も消える事はないでしょうけど、いま私は幸せであると胸を張って言えるから大丈夫です」
その爽やかな笑顔に、彩も「そうですね」と力強く微笑んだ。
大切なのは今だ。
そう、彼女の前には澄み渡る青空のように未来が広がっているのだから。
「このことを他の人に話したのは初めてです。何だかあなたとは初めて会った気がしませんね……えーと」
「私の名前は彩です、丘野彩。そういえば、貴女は……」
「鵤です。私を発見した旅行者の女性が付けてくれたんです。森の中に倒れている私を見つけたとき、空に鵤が舞って鳴いていたみたいで」
彼女自身も気に入ったらしく、それを自分の名前にする事に決めたらしい。
「ところで彩さんはこの村に旅行で来られたんですか?」
「はい。これから宿に向かうところなんですよ」
「そうですか。もうすぐ日が暮れてすぐに暗くなりますから、気をつけてくださいね」
和やかに会釈してその場を後にする彩。
すぐに途中で慌てて引き返してきて、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「……宿の場所を教えてくれませんか?」
夕焼けが濃い蒼に変貌する頃、民宿の外観を視界に捉えた真と彩の足元に、風に飛ばされた何かが転がってきた。
それは大きな白い丸帽子。
「おむすびころりん♪ すっころりん♪」
耳慣れした陽気な声に正面を向くと、見慣れた女性が手を振って立っていた。
二人の口から同時に飛び出す名前――白河さやかその人である。
ぱたぱたと駆け寄ってきて、拾い上げた帽子をかぶると、ゆったりとおてんこスマイル。
「さやかちゃんも無事に戻ってきてたんだな、安心したよ」
「真くん、彩ちゃん、久しぶり〜。ちょっと村に着くのが遅れちゃって間に合わなかったけど、宿の前で待ってれば会えるかなと思ったの」
「久しぶりって……」
加えてそのあとの不可解な発言に怪訝な顔をする二人。見ると、心なしかさやかの容貌が少し大人っぽくなっている気がした。
「あっ、そうか。真くんと彩ちゃんからすれば、まだ一時間くらいしか経ってないんだよね。でも……わたしは三年ぶりなんだよ」
その言葉の内容で、ある可能性に思い至って顔を見合わせた。
「もしかして、あのとき俺の持ってた新聞を興味深げに見て、いつのものか訊いてきたのはそういうことだったのか」
「うん。年月日を確認して、はややーってびっくりしたけど、こういうこともあるかなって」
それで納得してしまうところは流石といえた。彩には色々と疑問に思うところがあったが、今更そんなことを考える必要も無いだろうから口には出さない事にした。
そのとき、さやかの左手の薬指で何かがきらめくのが目に入った。
「さやかさん、それは」
「あっ、これはね。ふふふ、彩ちゃんの知っている白河さやかはもういないの。今のわたしは上代さやかなんだよ〜♪ さらば白河さやか、あなたの屍を乗り越えて、わたしはひとつ大人になりました」
「……私の知っているさやかさんそのままですけど」
変わったのは性だけのようだ。
「でも、おめでとうございます」
「おめでとう、さやかちゃん」
「ありがとう二人とも。本当は蒼司くんと一緒に来たかったんだけど、都合がつかなくて」
薬指にきらめく指輪を贈った相手のことだろう。いかにも残念そうな顔を作る。それから思い出したように、旅行用のバッグから何かを取り出すさやか。
「そうそう、わたしあれから詩集を出したの。よかったら受け取ってもらえるかな」
差し出された一冊の本。
真は「あれ?」という顔になり、彩は信じられないといった風に何度も目をしばたたかせた。
そして、彩は自分のポーチの中から読みかけの詩集を取り出した。
たちまち三つの視線が二冊の本を行き来する。
「縁〜えにし〜の赤い糸だね〜」
「本当に……こんなことって、あるんですね」
彩は感慨をこめて、穏やかに口元を緩ませた。
三年前と現在を繋いだのは、一冊の小さな詩集という不思議な縁だったのだ。
「ありがとう、彩ちゃん♪」
「ひゃあっっ」
感慨に耽っているところをさやかに抱きつかれ、彩は頬を赤くして声を上げた。
そんな様子を楽しそうに眺め、真は群青色に染まりゆく空を見上げる。
沈みきった落日へ一羽の鵤が飛び去っていった――
(了)