第六景「夜明け」



神社の寝室。真と彩が見つめる中で、さやかは真面目な顔付きのまま懐中時計を開けた。

マジシャンがワン・ツー・スリーとステッキを打ち鳴らして開いた箱のように、七色の虹を思わせる色彩が溢れ出した。

「これは……今までの情景か?」

色彩に投影されている光景は確かに、この場にいる三人の情景そのもの。映画のフィルムのように溢れ出した情景はたちまち室内を覆い尽くし、それはさながらビックリ箱から飛び出した走馬灯のプラネタリウムだ。

最後に懐中時計も七色に輝く情景と化し、室内に際限なく漂う全ての情景と重なり、虹の螺旋となって唯一の出入口である障子に吸い込まれていった。

三つの双眸は、淡く発光して自動的に左右に開く障子と、その先に続く一本の渡り廊下をしかと留めた。

「この渡り廊下の先まで行けば、空間から抜け出せるんだろうか」

「わからないけど……道が一つしかない以上、先に進むしかないと思うよ」

「行きましょう、これはお嬢さんと華子さんが創ってくれた道なんですから」

それは紛れもなく二つの想いが解き放った道である。

三人は顔を見合わせて意志の篭もった瞳を交錯させて頷くと、渡り廊下へ一歩を踏み出した。

次の瞬間、唐突に彩の意識は暗転した――



そこは闇の中。人の手の届かぬ深海のような、光の差さぬ闇の只中。

微かに声がした。何処からかはわからない。眼を閉じて耳を澄ました。

呼び声だ。自分の名前を呼ぶ声だ。それは背後から聴こえた。

「真さん!?」

愛する人の呼び声に振り向いた。

眼前に迫る巫女装束の自身。赤黒く濁った瞳。伸びてくる両手。

彩の意識が再び途切れる寸前、暗闇に声が響いた。


つ か ま え た


うっすらと目を開けると、そこはまた闇。

彩の前に、同じ容姿をした巫女――常盤が浮かんでいた。闇の只中で互いの姿だけがはっきりと映っている。

「千歳村の『神降ろしの儀』が失敗に終わったのは、儀式の執行者である貴女自身が原因ですね」

驚くほど落ち着いた声を切り出せたのは、目の前の常盤からは彩を追っていた時の狂気の空気が感じられないからか。

「肉体を捨て、群体として意思ある空間へ昇華する――それが千歳村の悲願である「永遠」。でも貴女は、群ではなく個として、空間ではなく人間のままでの永遠を望んだ。そうではないんですか」

「そのとおりです」

暗闇の中、常盤の口端が笑みの形に薄く吊り上がった。

「兄はいつも村を抜け出して外に行った時のことを楽しそうに語ってくれました。物心ついた頃から巫女としての教育を注がれた私は耳を貸さないようになりましたが、いつしか心の奥底に蓄積していったのかもしれません」

儀式のとき、彼女は個であることを、人としての永遠を望んでしまったのである。

そして儀式自体は失敗し、千歳村は一夜にしてこの世から消滅した。しかし不完全ながらも成功はしていたので空間は誕生したが、それは災厄として周囲を巻き込むもの故に、常盤の兄が自身の命を持って時空の狭間に封印した。

それでも儀式を行った日だけは封印が弱まり、その日に、封印された場所――石燈篭に近づいた者は、時空の狭間に引き寄せられて空間に迷い込んでしまう。そうなると情景の中にある出口への道を見つけるしか脱出する事は出来ないのだ。だがどれだけ時間がかかっても必ず出口には辿り着けるので、迷い込んだ人間が死ぬことは無い。

脱出しても空間にいるときの記憶は失われ、現実での時間は迷い込む直前から殆ど経過していないため、現象が噂になることも明るみになることもなかった。

「ごく稀にこの空間に誰かが迷い込んだ時だけ、村人たちは意思無き情景として浮かび、私はその人間の姿を投影した存在となって肉体を得る事ができるんです。そして迷い込んだ人間が脱出すると、私は再びこの闇の中を漂い続ける意識に戻るわけです」

千年の時を、自身の感情を殺して人との関わりを捨て、同化体と称する生贄を狩り続けてきた彩と、九百年の時を、数年、或いは十数年に一度しか人と関わる機会を与えられず、意識のみで暗闇を茫漠と漂い続けてきた常盤。

二人の巫女の運命は対照的であり、それでいて根底では似通っていた。

「それならどうして、貴女は私を捕まえようとしたんですか」

彩はずっと考えていた疑問をぶつけた。空間から脱出するまでの、只の暇潰しや悪戯だというなら問題はない。もしも、他に理由があるのだとしたら――

ああ、見るがいい。常盤の表情は、その質問を待っていたかのようではないか。

「あるとき私は思ったんです。空間内を漂う意識とはいえ、少なくともこれは「個」としての「永遠」を得たと言えるのではないかと。そこで私は考えました。もし迷い込んだ人間の精神を消して、その肉体を奪って現実に出ることができれば……私は人として永遠を生きるという望みを成就できます」

「……っ!!」

「ただ、最大の問題は、その人間に永遠の命を受け入れられるだけの器がないといけないこと。そして私は待つことにしたんです、それだけの器を持つ人間が迷い込んでくるのを。そう、時間はいくらでもありますから。それから数百年……長かったですが、とうとう目の前に」

「まさか、私が……」

「神に仕える巫女として千年の時を生きた肉体――永遠を降ろす器として是非もありません。それがよもや根津村の月代一族の娘とは、不思議な縁もあったものですね」

どこか感慨深げな常盤の眼差し。息を飲む彩だったが、次の瞬間には強い意志を秘めた顔付きで眼前に浮かぶ巫女を見据えた。

「私の精神を消そうというなら、やってみて下さい。絶対に負けません」

「貴方の大切な人が死んでもその精神力が続きますか?」

「え……っ」

「絶望は簡単に心を侵食するんです」

「……ま……さか」

言葉に詰まり、彩の顔はみるみる蒼白の色が濃くなっていく。

「やめて……やめてくださいっ!!」

必死に手を伸ばすも、常盤の姿は暗闇に溶けていく。闇の中に一人残された彩へ、サラウンドのような嘲笑だけが降り注いだ。



何度も名前を呼ばれ、少女は我に返ったように真とさやかに焦点を合わせる。

「どうしたんだ。急にぼうっと突っ立って」

「彩ちゃん、どこか具合でも悪いの?」

「すみません、ちょっと考え事をしていました。大丈夫ですから気にしないで下さい」

心配げに覗き込む二人に申し訳無さそうに微笑む彩。

「そうなのか? ならいいんだ、それじゃ行くか」

「はい、真さん」

そして三者は空間の出口を目指して渡り廊下を歩き始めた。前を進む二人の背中を瞳に映した彩の表情は――冷笑。



闇の中をどこまで走っても変化は無い。そもそも移動しているかどうかの感覚すらつかめず、彩は途方に暮れていた。まるでモルダヴィアのルスコウを一昼夜封じた暗黒光に捕われたかのように、暗闇から抜け出せないでいた。

「このままじゃ……」

気ばかり焦ってどうにもならないもどかしさと苛立ちと不甲斐なさが彩の胸中を交錯する。不安に押し潰されて泣きたくなるのを喉元で堪えながら、歯を食いしばって気丈な心構えを崩さない。

そのとき、何の前触れもなく一人の男が眼前に姿を現した。着物に袴姿という二十代前半の青年。何故か坊主頭だが顔立ちは端正にして爽やかで、どこか飄々とした雰囲気を漂わせていた。

思わず身構える彩は、しかし目の前の青年に敵意がないことを見てとると警戒を解いた。

「貴方は……?」

「君を此処から出してやろう」

「えっ」

「それにしても、永き檻歌を解き放つ役目を託すのが月代一族の巫女であった君だとはね。成程、縁とはつくづく不思議なものであるらしい」

露骨に感心を纏わせた笑みを浮かべ、青年は胸元から古めいた一つの鍵を取り出すと、彩の前に掲げた。指先が離れ、落下に身を任せるそれを、彩は反射的に受け取った。

「それであいつの――想い出に埋もれた、遠い夢の欠片を解放してやってくれ」

「この鍵は……」

「往きたまえ、未来への旋律を奏でるために」

青年の手の平が眼前に翳されると、彩の意識は急速に遠のいていった――



渡り廊下の只中で真たちは一息ついていた。いや、立ち往生といった方が正しいか。

道を遮るものは何も無い。そう、何も無い。どれだけ歩いても先が見えないのだ。かれこれ二時間以上経過するが、進めど進めど渡り廊下の果ては見えず、それはまるで無限の直線廊下のようだった。ゆえに立ち往生である。

「本当にこの先に出口があるんでしょうか?」

不安そうに顔をしかめる彩。

「でも道はひとつしかないし……これじゃ一本道の迷路だね」

「さやかさん、上手い例えですね」

「えへへ、そう?」

和やかな少女二人のやりとりに、真の口から自然と穏やかな笑みがこぼれる。

と、そこで彼の脳裏に電光が走った。

「まてよ……出口に辿り着けない迷路?」

以前ひなたが紙に書いて迷路を作ったことがあった。宇宙人の考える迷路だけに一癖も二癖もありそうだと胡散臭げにやってみたが、予想は的中した。その迷路にはゴールへと続く道がなかったのである。しかし、ひなたはちゃんとゴールはあると言い張った。結局分からず、観念して答えを聞いた真は、思わずチョップを食らわしてしまった思い出。

「もし、それが当て嵌まるなら……」

「どうしたの真くん」

視線を傾けてくるさやかと彩を向いて、真は声高く言った。

「出口は、スタート地点だ!」

それが引き金となったか、突如として前方の渡り廊下がぼろぼろと崩れ始めた。崩れた床の残骸は底無しの奈落に吸い込まれていき、見る間に三者の足元へと迫ってくる。

「走るぞ!!」

真たちは踵を返すと全力で逆走を始め、崩壊する床から逃げ出した。

すると、二時間もかかって歩いてきた道が嘘だったかのように、僅か数分で寝室への障子が見えてきたではないか。正解だとばかりに三人は顔を見合わせ、障子の前に到着すると、一気に開いて中に転がり込んだ。

「はやや〜」

呼吸を落ち着けたあと、周囲を見回したさやかが驚いたように間延びした声を上げた。そこは巫女の寝室ではなく、神社の祭壇前であった。後ろを向いても障子は跡形も無い。

「ここが終着か」

「あの縄紐を引っ張れば、この茶番劇に幕を下ろすことができるはずです」

彩の指差す先、祭壇の天井からは一本の縄紐が垂れ下がっている。

「よし、それじゃ俺が」

周囲を警戒しながら慎重に祭壇に近づき、真が太い縄紐に手を伸ばしたときだった。後ろから伸びてきた両手が、真の腕を掴んで引き戻した。

慌てて振り返ると、紫水晶のようにきらめく薄紫の双眸が真剣な眼差しを向けていた。

「駄目だよ真くん」

「さやかちゃん、どうして止めるんだ」

「だって、幕は下ろしたら……終わっちゃうんだよ?」

「どういうことだ?」

「あの縄紐を引いたら、きっと、わたしたちの人生の幕が下りちゃうと思うな」

そう言って彩へと向き直り、さやかは人差し指を突きつけた。

「そうだよね――彩ちゃんの偽者さん」

ぎょっと真が視線を移動した先で、彩は数瞬のあいだ沈黙していたが、やがて自嘲めいた笑みを浮き彫りにするや、顔をふるふると振って溜息をついた。

「身体は本物の彩なんですけどね」

「それじゃ、君はまさか……」

「二度ある事は三度ある、また会いましたね丘野真さん。そして白河さやか、貴方の神がかり的な洞察力を失念していました」

相手の僅かな表情の動きを見るだけで、簡単にその感情を読み取れてしまうさやか。常盤村において周囲の人々から「常盤の魔女」と呼ばれ疎外されてきた彼女の洞察力が、こんな形で「常盤」という巫女の九百年越しの悲願を破綻させてしまうとは。

「仕方ありませんね。空間に迷い込んだところからやり直してもらいましょうか」

そう言った常盤の手には、あの金色の懐中時計が握られていた。その意図に気付いた真とさやかの口が「あっ」という動きを見せ、急いで駆け寄ろうとするがどう考えても距離と時間的に間に合わない。

常盤の指が懐中時計を開こうとした刹那――

「そこまでです」

金鈴のように凛とした声が響いた。

三者の見つめる先に、身体が半透明に霞んだ「本物」の丘野彩が立っていた。

「どうやってあそこから……」

空間の全てを知るはずの常盤からそんな言葉が漏れる。懐中時計を開けようにも、目の前に本物の彩が存在する事で意識と肉体が反動し合い、指を動かすこともままならない。

常盤は、諦めたように心底悔しげな睨みの視線を彩に送った。

「私の負けですね。さっさと空間から脱出するといいでしょう。私はまた暗闇の中で機会が訪れるのを待ち続けるだけのことです」

「いいえ。いまここですべてを終わらせます」

彩が胸もとに持つ一本の古びた鍵を目にし、常盤は驚愕の表情を浮かべた。

「それは……!」

「想い出に埋もれた、心の片隅にある小箱を開く鍵」

手を離すと、鍵は仄かに燐光を漂わせて水平にとんだ。

「やめろ!!」

目を見開いた常盤の絶叫。

鍵が彼女の胸に触れると波紋ができた。何の抵抗も無く、そのままするりと吸い込まれた。

光が放出した。




生活臭の漂う寝室に一人の少女がいた。

巫女装束を身に纏った、セミロングの黒髪の落ち着いた雰囲気の娘。

ふと、彼女は室内に誰かの気配を感じ、その澄んだ鳶色の瞳を彷徨わせた。

銀色がかった白髪のボブカットの少女が立っていた。その少女が身につけている衣服は、生まれて十数年、初めて目にするものだった。

巫女装束の少女は訊いた。

「あなたは、だれ?」

白いワンピースを着た少女は答えた。

「私は彩。月代一族の、唯一の生き残りの……彩です」

「あなたが……根津村の……月代の巫女。でも、その格好はいったい?」

実に興味深そうな眼で凝視され、彩は少し照れ臭そうに微笑んだ。

「私はもう巫女ではありませんから」

「……えっ」

「宿命から解き放たれて、普通の女の子としての自由を得たんです」

「普通の……」

「貴女ももう、好きなようにしていいんですよ」

「私も……? 自由になって……いいんですか?」

「自由は外的な事実の中にあるものではありません。それは人間のうちにあるのであって、自由であろうと欲するものが自由なんです」

巫女の少女に笑顔が燈った。よろこびに満ち溢れた、無垢な笑顔――

彩が鍵を差し出すと、少女は受け取るのを拒んだ。私にはもう必要のないものだから、と言った。

最後にもう一度笑顔を見せて、少女の姿は夢霞のように掻き消えた。

小箱だけが残った。彩はそっとその小箱を手にとると、鍵穴に鍵を差し込んだ。

かちり、と音が鳴った。

箱を開くと天から差し込んだ朝陽がすべてを包み込んだ。




石燈篭の前に三人の姿はあった。

周囲の空間は歪曲しており、間もなく彼らを飲み込むことだろう。九百年に亘り永らえてきた千歳村の残照が終焉を迎えようとしている。

「真くん、彩ちゃん、また会おうね」

別れの挨拶には早いんじゃないかと思う真と彩だったが、さやかのほがらかな笑顔に水を差す事もないと感じ、握手を交わした。

全ての役目を終えたように、石燈篭がさらさらと粉微塵に崩れ去って風に流される。

そして、固く手を握り合った三人の姿も時空のうねりに歪んで見えなくなった――