第五景「想い紡ぐ譚詩」



そこは満天の星空が広がる、二階の渡り廊下だった。白霧に覆われていない安全地帯らしく、彩は疲れた身体を癒すために休憩していた。

渡り廊下の中央あたりに腰を下ろしている彼女の手には黒猫のぬいぐるみ。

「ときに、彩といったか」

少女が頷くと、アルキメデスは名前の漢字を訊いてきた。色彩の彩と答えた。

「普通そうは読ませぬほど見事な当て字だな」

「そうですね。でも、ちゃんと意味はあるんですよ」

「意味……か」

「はい。人の名前は必ず何かしらの意味を持っています。私の名前を兄さ……父がひとつの願いを込めて名付けてくれたように」

彩という名前に篭められた願い――千年という永き時の果て、ついぞ叶わぬと思われたそれは、四年前に一人の青年によって意味を成せたのである。

「では、名前が無いということは、その存在が認められていないとされるわけか?」

「えっ」

「お嬢――と呼ばれる事が、どれだけの救いになっているかは、吾輩には分からんことだ。吾輩はお嬢ではないのだから」

「アルキメデス……?」

「もしかしたらお嬢は、自身の存在の泡沫さよりも何よりも、ただ一言、自分の名前を呼んでもらいたいだけなのかもしれぬな」

それは誰かに聞いてほしいゆえの自問自答なのか。彩は改めてお嬢のことを思い返す。名乗りたくないのではなく、名前が無いということに今更気付いた。そして、彼女の事情を知らぬ彩には、アルキメデスにかけられる言葉も、返す答えも、持ち合わせてはいなかった。

「すまんな、独り善がりな発言になってしまった。話題を変えるが、彩を追ってくる同じ容姿の巫女は、たぶんこの空間の全てを知る者であろう。では、何故に追われている?」

「それは……」

常盤との会話が脳裏に蘇った。

神降ろしの儀の失敗。空間の中、意思無き情景と化してしまった村人たち。そして、何故か巫女の常盤だけが意思ある存在として空間内を自在に行き来できる事実。その疑問をぶつけたとき、狂気に彩られた高笑いを発して――それから現状に至る。

彩は考え、ひとつの結論に達していた。もしかしたら儀式が失敗した原因は、儀式の執行者である巫女の、他ならぬ常盤自身にあったのではないか。だから彼女だけが空間内で特異な位置に留まり、意思を保ったまま存在していられるのではないか、と。

だが、自分を追ってくる――捕まえようとする理由は分からない。

「ふむ、脳内で自問自答といったところか」

「すみません」

「いや、そこは謝るところではない。そうだな、吾輩たちにできるのは前に進むことくらいか」

「……そうですね」

彩は眼を伏せて微笑すると、黒猫のぬいぐるみを抱えて立ち上がった。

「それじゃ、進みましょうか。私たちの行く先を求めて」

広がる星空の下、彩は渡り廊下の先にある木戸に手をかけた。



「ああーっ、くそーっ!!」

悔しそうにテーブルをドンと叩いて、片手に持ったビールをごくごくと喉に流す女。大衆食堂内のTV画面では、某球団がさよなら負けを喫した様子が中継されていた。

女――七条華子がジョッキの半分までビールを飲んで一息つくのを眺め、テーブルの向かいに座っている丘野真は心の中で苦笑いした。

「6月に入った辺りから負けが込み始めるんだから……」

はあーと溜息をつく華子。一度は見限ったことのある真もその気持ちは分からないでもなかった。そして、どうやらこの情景は四年前のものであるようだ。

「きっと来年は優勝するよ」

「……んー? 何だか随分と自信ありげに言うじゃないの」

「あ、ああ、いや」

「まあ別にいいけどね。それじゃ観戦に付き合ってくれた丘野君の聞きたい事に答えるけど、私は自分が情景に映る存在だということを自覚しているし、君が情景外の人間だということも分かるわ」

「そうだったのか……てっきり俺と同じように空間に迷い込んだ人間かと」

それでも不自然な点に関しての疑問は一応納得がついた。

「しかし、情景の存在であることを自覚しているなんて、君はいったい」

「あ〜、私じゃなくて「中の人」のおかげといえるか、うん」

「中の人?」

「どう言っていいのやら……ま、実際のとこ、私もよくは分からないんだけどね」

まるで他人事のように話す華子。面白ければどうでもいいといった態度だ。

この空間から抜け出す方法について訊いてみる真だが、返ってきた答は別情景で彩がお嬢に質問したのと同様、情景内を自由に行き来できても空間の摂理には逆らえない、というものだった。

「悪いわね、あまり役に立てなくて」

「いや、そんな……」

思わず考えあぐねる真。と、後ろの方で引き戸が開く音がして客が入ってきたようだ。

真たちの後ろのテーブルに座ったらしいのだが、メニューを注文する声が大いに聞き覚えのあるものだった。

「やっと食事をとることができるよ〜♪」

うきうき気分の声にまさかと思いながら、真が振り向くと、聞き覚えどころか見覚えばっちりの黒髪ロングのおてんこ娘が陽気を振りまいていた。

「……さやかちゃん?」

「あれ、真くん、はろはろ〜」

「はろはろ〜って、どうしてさやかちゃんが」

「やっぱりわたしも待ってるだけっていうのは性に合わなくて。彩ちゃんが戻ってきても大丈夫なように、書き置きだけは目に付くところに残してきたから……ん?」

「おや」

さやかと華子の目が合った。

華子の顔を認識するなり、何か思い出したように席を立ってビシッと指先を突きつける。

「あーーっ! いつかの怖い人!!」

「…………いや、それは中の人のことであって、私とは初めてなんだけどね」

苦笑いを浮かべながらも、華子の口調はどこか楽しそうでもあった。

とりあえず店を出て詳しい話をしようということになり、「わたしまだ食べてないのにぃ〜」と涙声のさやかを引きずって三人分の勘定を払う真。情景内ではいくらお金を使っても現実に変化はないのだ。当然ながら情景内でいくら物を買っても、神社の寝室に戻ってきたら無くなっているのは言うまでもない。

そして三人で店を出たとき、華子のそばに立っているのは白河さやかのみであった。



渡り廊下の戸口を抜けた彩が辿り着いたのは、どこかの病院のロビーだった。

見回してみると、既に夜なのか電気の明かりは消えており、人影の無い薄暗い静寂が周囲を包み込んでいた。

「ここは……そうか、そういうことか」

「アルキメデス?」

ふいに何かを含んだような声を出す黒猫のぬいぐるみに怪訝な目を向ける彩。

「どうやら吾輩はここでお別れのようだ」

「えっ」

「覆水盆に帰らず――とは言うが、こぼれた水はまた汲めばいい。取り返しの付かない事をしてしまっても、取り返そうとする心根が大切なのだ。ましてや、それが自分の存在意義に関わるなら尚更だ」

突然に語り始めるアルキメデス。彩は不思議とそれが四年前のあの日に、真にこれから消える自身の心の充足を話したときの感覚と似ている気がした。

「だが、だからといって同じ失敗は繰り返してはいけない。誰だって二の徹は踏みたくないだろう」

「…………」

「――彩!!」

「は、はいっ」

しん、とした空気が漂ったところに名前を一喝され、彩はかしこまった声を上げた。

「お前はお前の道を往け――そして、好機は絶対に逸するな」

その言葉を最後に静寂が降りた。彩の腕に抱かれたものは、その瞬間、物言わぬただのぬいぐるみとなった。

ふいに鈴の音が鳴った。薄闇の中から、黒い帽子とマントに身を包んだ、銀髪赤眼の少女の輪郭が浮かぶと、ゆっくりとした足取りで彩の方に近づいてくる。

「お嬢さん……」

彩はそっと黒猫のぬいぐるみを少女へと手渡す。

お嬢は震える手でぎゅっとぬいぐるみを腕に抱くと、一言その名前を呼んで、涙を流した。微かに嗚咽を漏らす彼女に、彩は何も言葉をかけられない。やがて手の甲で涙を拭った少女の顔は、大人びた落ち着きに満ちていた。

「彩ちゃん、アルキメデスは最後に何て言ったの」

「……お前はお前の道を往け。好機は絶対に逸するなと」

「そうなんだ……うん……そうだよね」

納得するように何度も頷いて、

「彩ちゃん、行こう。ボクたちはボクたちの進む道へ」

「はい。行きましょう、お嬢さん」

強い握手を交わす二人。

そしてお嬢は黒猫のぬいぐるみをロビーの長椅子にそっと横たえた。

「置いていっていいんですか?」

「うん、今アルキメデスを必要としているのは、ボクの大事なお友達だから」

爽やかに両目を伏せ、最後の別れ。

「今までありがとう……アルキメデス」



夕暮れの常盤神社に白河さやかと七条華子は立ち尽くしていた。

「いやー、まさか店を出た途端に別の情景に移動するとは」

「おまけに真くんだけ違うところ飛んじゃったみたいだね〜」

世間話でもするように言葉を交わす。かつて境内を掃除していた、漫画好きの巫女の姿はすでになく、賽銭箱の前に一人の少女が座っているだけだった。二人が気付いて目を向けると、少女は黒帽子の左右に垂らした鈴の音を鳴らして腰を上げた。

「おやー、お嬢ちゃんじゃないの」

華子の陽気な挨拶に、目の前まで来た少女は無言で真剣な眼差しを返す。眼鏡越しにそれを受け取った華子は、真面目な顔付きになって腕組みした。

「…………」

そんな様子を興味深げに見ていたさやかの薄紫の双眸は、お嬢の姿を映してきらきら輝き出す。

「ねえ、お嬢ちゃん」

「えっと……あなたは?」

きょとんと首を傾けるお嬢に、さやかは妖しい眼差しを注ぎながら、言った。


「ちょっと抱きしめてもいいかな」

「空気読め」


華子のデコピンが綺麗に炸裂。

たちまちさやかはおでこをさすりながら、うるうるとした涙目で眉根を寄せた。

「痛いよ〜。やっぱり犯人はヤスなのね、びしっ!」

明後日の方向に人差し指を突きつけるおてんこ娘を無視して、華子は呆気に取られているお嬢に向き直ると、

「どうやら探し物は見つかったようね。ま、これはこれで結構楽しかった」

眼を閉じ、再び開いたときには別の彼女。

今この瞬間は千夏と名乗る女が、首から提げた金色の懐中時計を空に差し出した。お嬢がそれに手を重ねると、そこから眩いばかりの白い光が溢れ出す。瞬く間に白色の閃光はどこまでも広がり、さやかを除く全てがその輝きの中に飲み込まれていった。



「彩! しっかりするんだ、彩!」

「真さ……ん。よかった……やっと……逢えた」

血塗れになった、痛々しい状態の彩を抱き起こし、真が必死で呼びかけている。

稲穂の映える燦々とした風景。その情景が千年前のものであることまでは知らないが、大衆食堂を出た途端に真はここにいた。目の前に傷ついてぼろぼろの彩を発見し、一瞬気が遠くなるくらい衝撃を受けた。

彩と同じ顔をしているという巫女――常盤に捕まって傷つけられたようだった。

「とりあえず情景を移って何とか戻らないと……」

歯噛みしたそのとき、新たに人の気配が加わった。

「真さん! あ……」

振り向いた真の前には、思わず息を呑む、もう一人の彩の姿があった。そっと血塗れの彩を横たえると、真は胸奥に湧き上がる激情を抑える事が出来ずに、茫と立ち尽くす彩を拳で殴りつけた。

「……っ!!」

よほど勢いがついていたか、小柄で繊細な身体は容赦なく地面に叩きつけられて転がる。

はあ、はあ、と荒い息を吐いて自分を落ち着かせる真。もし彼が激情に気を取り乱していなかったら、拳を振るう前におかしな点に気付いたはずだった。

痛みとショックのあまり今にも泣きそうな表情で顔を上げた彩は、真の背後に目をやって驚愕の声を放った。

「真さんっ!」

「……!?」

異変を察して振り返る真。そこに立っていたのは、骨まで凍りつくような冷笑を浮かべて刀を構えた、巫女装束を纏った彩。

鮮やかな軌跡を残して煌めく銀光。

首が胴から分かれた瞬間、真は自分が大きな過ちを犯した事を知った――

「真さーーーーーん!!」

絶叫して駆け寄る彩だが、空気に溶けるように掻き消える宙を舞った首と崩れ落ちる胴体。それは情景が終わって神社の寝室に戻るときの感覚そのものであり、情景内で死んでもそのまま現実に戻るということが分かって彩は胸を撫で下ろした。

それからハッと戦慄を覚えたが時既に遅し、巫女装束の彩――常盤が眼前にまで迫っており、伸ばされた手から逃れる事はもはや不可能な距離である。

だがその寸前、彩の姿も一瞬にして情景から消え、伸びた手は空を掴んだ。

直後、突然に差し込んだ白色の閃光に全てが飲み込まれて消えていく。

「意外に早かったですね」

純白の輝きを視界に収め、感心したように呟く常盤。

「これでフィナーレに移行……ようやく私の望む永遠が」

白の奔流に狂気の高笑いがどこまでも重なった。




彩は例の神社の寝室で気が付いた。ようやく戻ってこれたことを理解し、安堵の息が小さな唇から漏れる。まるで長い旅路から帰ってきたような気分だった。

寝室から境内に出ると、夜空には相変わらず中秋の名月が仄かに輝いており、睥睨する地上には一人の青年がただただ棒立ちになっていた。

「真さん」

そっと呼びかけて近づいてゆく彩。真はびくっと小さく肩を震わせたが、ゆっくりと彩の方を向き直った。その顔に浮き出ているのは自責と後悔の憤り。

「彩…………ごめん!」

「真さん、謝らないでください。謝られると……私が悲しいです」

「だけど……俺は……俺は……っ!」

真は苦渋に顔をゆがめながら両膝を地に付けてうなだれた。ぶるぶると小刻みに震える拳に小さな手が添えられ、顔を上げると、同じく地に膝を下ろした彩の優しい微笑が目に入った。

「真さんは、私が傷つけられたと思って本気で怒ってくれたんですよね」

「でも、それが偽者だということに気付かなかくて、俺は――」

「いいんです。真さんが私のために心から怒ってくれたことが、私は嬉しいんですから。それで十分です」

「彩……」

彩は真の右手を取ると、まだ少し腫れている自分の左頬へと添える。

「この痛みは、真さんの私への真摯な想いですから」

その微笑みはとても暖かく、その紅玉色の眼差しはとても優しくて。

「……っ!!」

真は彩の膝の上に崩れ落ちた。そしてこみ上げてくるものを抑えずに、子供が母親に抱かれるように泣いた。彩はそっと真の髪を撫でた。撫でられる度に子供に戻っていくような気がした。

夜風が肌に心地良く、月光は淡く静かに降り注いでいた。

「ぶぇぷしっ」

暫くたたずんでいた二人が、突然のくしゃみを耳にして辺りを見回す。

ちょうど草葉の陰に当たる場所から、がさがさと現れたのは白河さやかに間違いなかった。

「さのばびっち、ばんごはーん♪」

陽気を振りまいていつものハイセンスな挨拶。いつから覗かれていたのかは分からないが、とくに真は『愛する少女の膝上にすがって泣いた』様子を見られていたかと思うと、恥ずかしさで死にそうだった。

「ん、それは……」

照れ隠しに何か言おうとした真は、さやかの胸元に見覚えのあるものが揺れている事に気が付いた。

首から提げられた、金色の懐中時計――