第四景「片割れ月」





彩の双眸は、見知らぬ神社の境内に立つ少女に吸い込まれた。

背は彩より数センチほど低いだろうか。足首まで覆う黒マントの内側は、ノースリーブの赤いミニのワンピース。細い脚を黒のニーソックスが包み、足首から下はワンピースと同色のブーツが占領していた。大きな黒帽子の左右に黄色い鈴が吊り下げられていて、ときおり通り過ぎる風を受け、涼やかな音色を奏でる。

その腕には、何やら目が大きく、首に鈴をつけてだらりと四肢と尻尾を下げた、不思議な黒い物体のぬいぐるみ。手の部分に当たる先端には鎌が添えられていた。

「あの、貴方は?」

彩はなるだけ顔を綻ばせて話し掛けた。口に出したあと、まず自分から名乗るべきだと思い直した。警戒心は持ちつ持たれつである。

「ボクのこと?」

少女がきょとんと小首を傾げる。ボクと言った。少年のような一人称だが、その声はれっきとした女の子だ。腕に抱いた黒いぬいぐるみに何か話しかけだした。少女の声に混じって、男の声らしきものが風に乗って聴こえた気がするのは、只の幻聴だろうか。

やがて少女は溌剌とした顔を彩のほうへ戻し、

「ボクは、赤胴鈴之助だよ!」

と言った。

「…………ええと、ここは笑うべきところなんでしょうか」

彩はなんとかそれだけを口にした。少女は両目をぱちくりとさせ、再びぬいぐるみにぼそぼそとやり始める。それはまるでウケを外したお笑い芸人が、そそくさと次のネタを模索しているようでもあった。
満面の笑顔が向けられる。お待たせしました、ときた。

「ボクの名前は、鈴木土下座衛門だよ♪」

彩が言葉を押し出すのに、数秒かかった。

「まあ、名乗りたくないならいいんですが……それよりも」

少女に近づいて、ぬいぐるみを指差す。

「もしかして、喋りますか、そのぬいぐるみ」

確かに男の声が少女に受け答えていた。腹話術かとも考えたが、そのほうがマシだ。黒い物体は口もなければ、少女の手で動かされもしなかった。返事は其処からきた。

「ほう。存外に察しのよい娘だな」

「貴方は?」

「吾輩はアルキメデス。見てのとおりの黒猫である」

深く静かな魂が篭もったような凛とした声音。アルキメデスとは古代ギリシアの叡智の一人と謳われた、著名な哲学者の名前であったろうか。

「あ、猫だったんですね……」

余計な一言を彩は放った。

かろうじて猫に見えないことはない、異様なフォルムのぬいぐるみではある。そこはかとなく気まずい空気が流れたような気がしたが、彩は乾いた笑みで取り繕い、少女と人語を話す黒猫のぬいぐるみ――アルキメデスを視界に収めて本題を切り出した。

「貴方は私を助けてくれたんですよね」

「うん。何だか危なそうだったから、気付いてくれてよかった」

「お嬢に感謝の言葉のひとつでもかけてやってもらいたい」

「そうですね、ありがとうございます。ところで、お嬢って?」

「アルキメデスはボクのことをそう呼ぶんだよ〜」

「お嬢……さん、ですか」

さん付けすると奇妙だが、呼び捨てにするのもはばかられる。

「それで、お嬢さんもここに迷い込んできたんですか?」

「ううん。ボクはこの空間に投影された存在だけど」

「えっ……でも」

情景に投影された存在が、自身の現状を自覚しているとは?

しかも情景間を自由に移動できるというのか。

「ボクが普通じゃないからだと思う……きっとね」

「え?」

流石に言葉の意味を汲み取れず、彩は困惑の眼差しを向けた。代わりにアルキメデスが解答した。

「お嬢は普通の人間ではない。まあ、何を以って人とするかは、非常に曖昧で難解な、それでいて簡潔ゆえに答えの出ない命題であるのだが、この場合それは思慮に入れなくていい。要はお嬢の存在は特殊だという事だ。そして特殊なものを受け入れるには、ある程度の容認が必要となる」

「……つまり、情景が川で、投影された存在が川面に映る自分だとするなら、お嬢さんは川を泳ぐ魚という感じになるわけですか」

「面白い例えをするものだ。まあそういうことになるだろう、推測の域を出ないが」

「ボクは泳ぐの下手だけど……特訓中なんだ。焼き魚も美味しいけど、やっぱり焼きたての焼きもろこしが一番だね〜♪」

「お嬢、よだれは垂らさないように」

「むっ、ボク、そんなことしないもん。嘘つきは泥棒の始まりだよ、アルキメデス〜」

むーっとジト目で口を尖らせるお嬢。この辺は見た目どおり子供っぽい。その様子に彩は一瞬おだやかな微笑を浮かべ、真面目な表情に戻した。

「この空間から脱出する方法は何か知りませんか?」

「ん〜……残念だけど知らないよ。さっきのような簡単な手助けならできると思うけど、そういう直接的なのは無理かなあ」

「魚は川の中を自由に泳ぐ事はできるが、摂理そのものである川に逆らうことはできないというわけだ」

「そうですね……無茶な質問でした」

納得して頷く彩。もともと期待して放った質問ではない。

「ところでお嬢さん、白河さやかさんという人をご存知でしょうか」

「ん〜、知らない。その人がどうかしたの」

「いまここに迷い込んでいるのは、私を含めて三人なんです。それで、私ともう一人は貴女と何の面識もありません。ですから、貴女と関係がありそうなのは、残る一人である白河さやかさんしか可能性がないんですが」

空間に投影される情景は、そこに迷い込んだ人間に関わりのあるものしか映さない。いかにお嬢の存在が特殊とはいえ、その絶対的法則の範疇から外れる事はありえないだろう。

人差し指を口元に添えて考えこんでいたお嬢だが、小さな唇が、あっ、と閃いた。

「もしかすると……」

「ふむ、お嬢の考えているとおりだろう」

「何か思い出したんですか」

「そのさやかさんって人と会ったことがあるのは、もう一人のボクだと思う」

「もう一人の?」

彩がオウム返しで眉を寄せた。

「どう言えばいいんだろう……分かれたボクの心の半身、かな。それがその人と会ったことがあるんだよ、きっと」

「成程。そのもう一人とは切っても切り離せない間柄だから、さやかさんと直接の関係はなくても、お嬢さんの姿も投影されているというわけですか」

よく考えると結構とんでもない会話だが、彩は納得している。自分だって神の夢に覆われた街で千年を生きてきた人間だ。

「そうだ、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないよ」

お嬢が思いついたような声をあげた。

「ボクがもう一人のボクと逢えば、何かが起こるかも」

「本当ですか!」

「たぶん。確証はないけど……」

それでも彩には初めて光明が差し込んできた気がした。可能性があるならそれに賭けてみるべきだ。四年前、独りよがりの達観で自分の宿命に準じようとした彩を、決して諦めずに身を持って救ってくれた真に教えられたのだから。

「でも、お嬢さんはいいんですか? 何が起こるか分からないのに」

「いいよ。不安なのは確かだけど、変えないと、前に進まないといけないと思うから」

「お嬢が決めた事なら、吾輩に異論はない」

「ありがとうございます」

心から感謝の言葉を送る彩。お嬢は少し照れたように笑ったが、すぐに真剣な顔つきになった。

「それより気をつけてね。あなたはボクのこと、見えてるから」

「え? それはどういう……」

「ボクは情景に投影された存在だから、本物とは違うけど、それでもボクの姿が見えるっていうことは――」

ドンドンと、戸を叩くような音が聴こえたのは、そのときである。

ハッとして宙を彷徨う二対の視線。耳を澄ますと、社の真横にある蔵から響いてくる。顔を見合わせ、用心しながら裏手に回り、蔵の入り口に足を運ぶ二人。古風で頑丈そうな扉がギシギシと呻き声を上げる。

じっと様子をうかがっていると、内側から声がかかった。

「おーい、誰か! 誰かいないのか! 開けてくれーっ」

お嬢が「?」の表情に小首を傾け、彩が驚いて目を見開く。

「真さん!?」

「……その声は彩か? そこにいるのか?」

それは聞き間違えようもなく、丘野真の声だった。

「はい! 真さんこそどうしてそんなところに?」

「彩を探して空間に飛び込んだら、いきなり蔵の中みたいなところで、扉が開かなくて出られないんだ。そっちから開けられないか?」

扉に目をやると、木製のかんぬきがかかっている。錠前らしきものは見当たらないので、このかんぬきを外せば事足りそうだった。

「待っていてください、いま開けます」

機敏な動作でかんぬきに手をかける彩の声は、安堵と喜びが入り混じっていた。その背後で、お嬢が青ざめた顔で膝を震わせ始めたではないか。

「開けちゃ駄目――――――っ!!」

「えっ?」

彩の注意力は散漫になっていたかもしれない。既にかんぬきは地に落ちていた。

ギィィィィィと、重い唸りとともに開いていく扉。恐る恐る夕陽差し込む薄闇に目を凝らすと、そこに立っていたのは愛する青年ではなく、唇を冷笑の形に歪めた巫女装束の彩自身であった。

「……っ!!」

息を飲んで数歩後退する彩。見る間に周囲が白霧に覆われていく。燃えるように鮮やかな夕焼けも、照り返り影を落とす神社も、人の目を癒す木々の緑も、皆等しく白い靄に浸食されていった。

「彩ちゃん!!」

高く響いた呼び声に彩が振り向くと、黒い物体が華奢な腕から放り投げられるのが見えた。放物線を描いて緩やかに下降を始めた黒猫のぬいぐるみは、しっかりと彩の両手に収まった。

次の瞬間、お嬢の姿は白い靄にかき消される。

「お嬢さん!」

彩が伸ばした片手は虚しく空を掴み、おぞましい静寂が辺りを包む。茫と立ちすくむ彩の胸に、

「危ない!」

「え……あっ」

アルキメデスの一声で我にかえるや、身を翻して、間近まで迫っていた巫女の接触を回避してのけた。

「あ、ありがとう」

「礼はありがたく受け取っておくが、今は逃げるのが先決だぞ」

こくんと頷くと、彩は再びモノクロの世界を駆け出した。今度はその腕に、人語を話すぬいぐるみを抱えながら――




一夜あけ、真は風音商店街近くの情景にいた。さやかは神社の室内で留守番中だ。彩が戻ってきたとき入れ違いになってはいけないので、交互に空間へ飛び込むことにしたのである。

「そこいく青年」

突然に見知らぬ女性に声をかけられ、首をめぐらせる真。人差し指を自分に向けて、「俺のこと?」という意思表示をすると、相手は首を縦に振った。

「そう、君。ちょっといいかな」

女性は真とさほど歳が変わらないように見えた。おかっぱに切り揃えられた髪。眼の中ほどにかけられた眼鏡。縦にストライプの入ったセーターは、ハイネックのノースリーブ。そこにミニのプリーツスカートという組み合わせだが、落ち着いた濃い紺系で纏められているせいか、少女というイメージはない。首から下げられた金色の懐中時計が胸元のアクセントとして機能している。

「何ですか」

真はとりあえず敬語で返した。女性は後ろ手に持っていたものを差し出し、

「これ、心当たりはない?」

と言った。

「……それは!」

心当たりどころか、どう見ても彩のポーチであった。受け取って中を確かめてみると、彼女愛用の手鏡、村を訪れる前に買った読みかけの詩集、小型の懐中電灯や筆記用具など、彩の所持品に間違いなかった。

「これをどこで」

「ちょっと前に立ち寄った神社の境内に落ちてたのよ。君の?」

「いや、連れのです。拾ってくれてありがとう…………ええと」

「華子よ、七条華子」

「俺は真。丘野真」

「そう、丘野君ね。とりあえずよかったわ」

真の頭は浮き足立って回転していた。彩のポーチは神社に落ちていたという。すると風音神社だろうか。だが、ここから神社へ足を運んでも、その途中で情景が終わりそうだ。それよりも、この華子という女性に色々と訊いたほうがいいだろう。どうして警察に届けず見ず知らずの自分にあたりをつけたのかなど、情景にしては気になる点が幾つもある。

「あの――」

「ところで丘野君」

いきなり出足をくじかれ、真はしぶしぶ先を譲った。

「君は野球に興味がある?」

「……まあ、普通だと思うけど」

「ふむ。それじゃ応援してる球団は?」

と訊かれ、真はある一つの球団名を答えた。四年前に、あまりの不甲斐なさに愛想をつかして見限ったのだが、その翌年に18年振りの奇跡の優勝を果たした球団だった。

華子の表情に変化が生じた。腕に片肘をつき、手を顎に添えて、にやり、とした。

「よし、ちょっと付き合ってくれる?」

「え、どこへ……」

女が指差したのは近くの大衆食堂である。

「落し物を拾ってあげたんだから、ちょっとばかりTV観戦に付き合ってくれても罰は当たるまい」

「いや、しかし」

「それに、私に何か訊ねたいこともあるんだろう?」

「…………仕方ないな」

かくて二人の姿は商店街近くの大衆食堂に吸い込まれていった。