第三景「幕間」





「あっ」と、二人の少女は小さく声を上げた。

まさか同じ情景内で鉢合わせるとは思わなかったからであり、月代彩と白河さやかは、お互いの目を、まじまじと見つめあったものである。

「ぼんじゅ〜る、おっひるごはん♪」

おてんこ全開の挨拶は、疑うまでもなく、白河さやか本人だった。

「奇遇だね彩ちゃん。こんなにいい天気だと、あの青々とした空を切り取って食べたら、きっと美味しいと思うよ〜」

「さやかさん、何だか食べる事ばかり口にしてますね」

「お腹はすかなくても、食事が恋しくなるのは人としての性。甘いものは別腹って言うよね」

「それは違います……いえ、そうじゃなくて、あの」

ペースに呑まれて言葉が続かない。

何とかこの状況に対する埒をあけようとした彩へ、

「ストップ!」

と、白い指先がビシッと突きつけられた。その人差し指はしなやかで瑞々しくて、空よりもこちらのほうが美味しそうだと彩は思った。

「これまで自分に関係ある情景以外は出てこなかったのに。まして同じ情景内で出会うなんて、だよね」

分かってるよ、といったニュアンス。そのとおり、さやか自身も自分とは関係ない情景を見たのは、真と彩がこの空間に迷い込んだそのときだけだった。

「でも、そんなことは考えても意味がないよ。むしろ大切なのは、わたしたちがこうしてここにいることのほうだと思うんだけど」

「……さやかさんには敵いませんね」

何も考えていなさそうで頭の回転が速いのか、おとなしそうで直情的なのか。普通に見えて異色なのか、異色だから普通なのか。さりとてそれは掴みどころのない話で、彩にとってそれこそ考えても無意味なことだった。

「じゃあ、私は目を閉じておきましょうか?」

「どうして?」

「ここはさやかさんの情景みたいですから、私が見たら悪いんじゃないかと」

他人のプライバシーに関わる事を覗き見るようで、あまり気分のいいものではない。

腰までかかるロングへアーが左右に揺れた。

「別に構わないよ。こんな気持ちいいお日様の下で、眼を閉じてるなんて勿体無いよ」

「そう……ですか? それなら」

彩は目を開いて、周囲に視線を向けた。

時が止まったように感じた。何もない、世界はここだけと錯覚しそうな、どこまでも広がる草原が目の前に存在する。

海に面している丘なのか、少し離れた崖側からは穏やかな水平線が見えた。

「いい場所ですね……風の息吹が身近に感じられます」

ひとつ深呼吸して景色を眺めていると、一面の鮮やかな黄色が網膜に焼き付いた。

「向日葵?」

燦々と降り注ぐ太陽の下で咲き誇る向日葵畑。それだけではない。よく見ると、その色彩が少しずつ草原の緑に侵食されている。原因を作っているのは小さな女の子だった。

ひとりの女の子が、刃物か何かで向日葵を一本ずつ切り落として回っているのだ。

その光景を、さやかは、ただぼんやりと眺めていた。

「さやかさん」

「あ、ん。何かな彩ちゃん」

「やっぱり、私が見るべき光景ではないんじゃ……」

「ノンノンノン♪ 問題はないよ。過去は変わらないけど、未来はいつもわたしたちの前にあるんだよ」

ああ、向日葵のような笑顔。

「それにしても、彩ちゃんは本当に可愛いな〜」

「きゃっ」

突然に抱きつかれ、彩は身体を竦める。見事な不意打ちであった。

「うう〜、可愛いな〜、持って帰って食べちゃいたいなぁ。味付けは蜂蜜とシロップで……と、それじゃ「ゴンゲ〜」と声を出す怪魚さんみたいだね。難しいかも」

そのとき、さやかの手が、彩の腰あたりに下げられたポーチに触れた。トートバッグはかさばるため、神社の室内に置いてきている。

閃光が迸った。

虹色にきらめく色彩の中に、少女の驚きの声が飲み込まれていく。

「はやや、彩ちゃん!?」

輝きが収まったとき、草原に立ち尽くすのは白河さやか一人であった。




ここ数日ですっかり馴染み深くなった神社の一室だった。

気が付いたとき、そこに戻ってきたと彩が勘違いしてしまったのも無理はない。調度品や内装に多少の差異はみられるが、現在自分たちの寝床となっている和室に酷似していたのだから。

「……?」

ふと耳を澄ますと、声が聴こえてきた。誰も居ないはずなのに、さもこの室内で行われているような会話。それはまだ幼い少年と少女のものだった。


「ほら、僕からの贈りものだ」

「わあ〜、きれいな小箱……」

「ちょっと隣村の市で買ってきたんだ。あそこは都からの珍しい物を置いてるから」

「でもいいの? 勝手に村を抜け出したことが分かったら、また父様に叱られちゃうよ?」

「いいんだよ、もう慣れっこさ。それに今日はお前の誕生日だから」

「ありがとう兄様! 大事にするね」

「喜んでもらえたようでよかったよ。それで、これが鍵」

「…………」

「ん、どうした」

「えっと、鍵は兄様が持っていて」

「え。だってまだ何も入れてないじゃ……」

「私の想いをたっぷり篭めたから。この小箱は私と兄様を繋ぐ絆。私の心を開けるのは兄様だけがいいから、だから――」


そこで会話は途切れた。

途端、室内がセピア色に染まり、フィルムリールを流したかのようにノイズが走る。

「役者が演劇中に舞台裏へ入って来られては困りますね」

「えっ!!」

思わず驚いたのは突然に声が響いたからという理由だけではなく、それが自分の声音と全く同じであったからだ。

周囲がふっと明滅したかと思うと、軽いまばたきの後、そこは白い薄靄に覆われた境内だった。見覚えのありすぎる風音神社の境内に、巫女装束に身を包んだ自分自身が立っている。四年前、夢に囚われた時に現れたもう一人の自分とかぶるが、当然ながら目の前の少女はそれとは違う相手だ。

「貴女が、真さんの言っていた常盤さんですか?」

巫女少女が冷笑を浮かべる。それは肯定の仕種だ。

「ふふ、ふふふ……まさか根津村の、月代一族の巫女とは……何という奇縁。これで……ようやく……」

「私のことを知っている……貴女はいったい何者なんです」

「千歳村という名に覚えはありませんか?」

「ちとせ」

反芻して、彩は首をめぐらせた。遠い遠い過去の記憶を呼び起こす。

常盤と千歳。

それがどちらも同じ意味を持っていることに気付いたとき、朧の彼方の霧が、僅かにうっすらと晴れて消えた。

「永遠を求めて神降ろしの儀式を行い、一夜にしてこの世から消えた村があると。確か……その村の名前が……そして、そのとき儀式を執り行った巫女が――」

「そのとおりです」

そして、常盤という名前の巫女は、昔話を語り始めた。


それは九百年前のこと。

古来、さまざまな信仰は多岐に亘り、特に人里離れた山間に位置する地方の村は、その土地独特の信仰が行われていた。とりわけ「神降ろしの儀」と呼ばれる、土着の神を招来して、幸をもたらしたり、村にふりかかる災厄を祓ったりするために執り行われる祭は代表的なものであった。

どの地方においても、こういった信仰というものは近隣の人々には忌み嫌われ、蓋をされるものだ。千歳村もそのひとつで、そうした他の村の例に漏れず、村には、余所者を嫌う雰囲気があった。千歳村には、遠い昔から伝えられてきた悲願があり、それが同時に信仰の対象でもあった。

彼らが求めるのは、とこしえ――――すなわち「永遠」。

しかし、千歳村の価値観は特殊なもので、単純に永遠の命を得るのが望みではなかった。肉体を捨て、意思ある村の空間となること――それが彼らの求める永遠だった。個ではなく群としての、概念という存在への昇華を悲願としたのだ。数百年の年月を重ねて進められてきた儀式の準備は、星の並び等の条件において、ついに成就の時期を迎えた。

千歳村に村長というものは存在せず、神職に携わる家系が村の全てを取り仕切っている。その時期、千歳神社には二人の兄妹がいた。兄のほうは物覚えよく聡明で、並々ならぬ法力の持ち主。だが唯一にして最大の欠点は、外への好奇が強すぎて、度々村を抜け出しては見聞を広めてくる事だった。重要なのは妹のほうである。間違いなく彼女が巫女として、儀式の執行者の役目を果たす事になるからだ。故に物心つく頃には籠の中の鳥として扱われ、全精力をかけて育てられた。

彼女が16になった年のその日。中秋の名月がまたたく夜、村人たちはすべて千歳神社の境内に集い、ついに神降ろしの儀は執り行われた。

――――儀式は失敗した。

外からそれを確認した兄は、神社の御神体である秘宝を使い、全身全霊その身を持って、儀式の失敗による大災厄を封印したのである。平地に残ったのは、封印の証である石燈篭ひとつきり。

そして千歳村はこの世から消滅した――


人の手で神を招来することの代償は、その成功にせよ失敗にせよ、秘儀者に辛い運命や結末をもたらすのか。彩の心中を一抹の悲哀が通り過ぎた。

自分たちが迷い込んだこの空間は、儀式に失敗した千歳村のなれの果てだったのだ。

「だとしたら、村人は一体どうなったんです」

当然、そこに行き着く。白く霞む靄の只中、常盤は振袖を口元に当て、わざと視線を外して付け加えた。

「そうそう。儀式は失敗しましたが、完全な失敗に終わったというわけでもなかったんですよ」

「えっ!?」

「不完全ながらも、村人たちの願いは成就したんです。貴女がたも、この数日間のうちに、もう何度も遭っているじゃないですか」

「……………………まさか」

声が震えたのは愕然としたからか。言葉どおり、まさか、と思った。だがそれだと納得がいく。村人たちはそうなることを望んでいたのではなかったか。ただひとつ哀れな事があるとすれば――

「残念ながら、意識と呼べるものは存在していませんけど」

「そんな……」

そうなのだろう。そういう事もあるのだろう。

意思の無い空間の欠片として、ごく稀に迷い込んでくる人間の情景を投影するだけの存在。不完全たる所以にして、それはまさに哀切なことであった。

「でも」

そこで彩は、また、疑問に行き着いた。或いは核心と言うべきか。

「それなら貴女は……貴女だけがどうして、意思ある存在として、そこに立っているんですか?」

「…………」

沈黙が舞い降りた。常盤の――見た目は彩自身なのだが――顔は能面のような無表情を形作り、時の止場を境内全体に広げたかのようだった。

少女の顔が、巫女装束を纏った全身が、静寂を打ち破って小刻みに揺れ始める。伴って、銀鈴のような響きが彼女の唇から発せられた。


あはははははははは! あははははははははは! あははっ!

あはははははっ! あははははははははははははははははははははは!


耳を覆いたくなるほどの狂笑。

見つめる彩の眼差しは複雑だった。かつての自分の心の闇を、鏡写しにして見せ付けられている感じがしたからだ。

「……」

突然、少女の高笑いが止んだ。真紅の双眸が、じっとりと、ねめつけるように、彩を捉える。口元は闇色の翳が張り付いたかのごとき冷笑を湛え、強烈な怖気に彩の背筋は凍り付いた。

巫女装束の振袖から覗く手が、自分に向かって伸びてきた瞬間、恐怖の引き金は引かれ、間一髪あとずさって接触を拒んだ。

「あっ」

慌てて後退したせいか、腰に下げたポーチがするりと落ちた。地面に手を伸ばす間もなく、狂気に彩られた冷たい笑みが迫ってくる。仕方なく彩はポーチを拾うのを諦め、踵を返すと一目散に逃げ出した。

どこへ逃げればいいのか――恐怖に駆られた頭の中は真っ白だった。




「彩ちゃん、まだ戻ってこない……」

今の寝床であり拠点である神社の一室で、さやかの心配げな顔が蝋燭の明かりに揺れた。

既に夜の帳は降りている。対面の真がうなだれ、その表情には疲労の色が濃い。さやかから事情を聞き、二人でさんざん探し回ったが、彩は見つからず、一度も戻ってきていない。

「一体なにがあったんだ」

考えてもわからない。ただひとつ思い当たる節が常盤という存在ゆえ、不安を隠せないでいた。




胸が高鳴っている。張り裂けそうな鼓動。好きな人と一緒のドキドキなら歓迎だが、こんな状況の追いかけっこによる心拍の上昇は御免だ。

あれからどれくらい経ったのか。ずっと走って逃げている。幸いといっていいのか、自身を投影した巫女の移動スピードは速くなく、ただ幽霊のように地に足をつけず、ゆっくりと漂いながら追いかけてきていた。

逃げている間に、いくつも情景が変化した。しかし何も起こらず、全く人の姿も無い。それは彼女が現れてから、ずっと周囲を覆っている、霧のような白い薄靄のせいか。今は風音市の商店街が目の前に広がっていた。

そして、微かに音が聞こえた。

リン。リン。リリ……ン。

幻聴か。否。それは確かに、風に流されて運ばれてきた鈴の音だった。

「どこから……」

見回すと、アンティークショップの角の方で、真っ黒な何かが遠ざかった。小さな人影のような気もしたが、一瞬の事だったので判別不能である。

迷っている暇は無い。このままではいずれ体力が尽きて追いつかれてしまう。彩は意を決して駆け出すと、その店の角を曲がった。

白色の逆光に目がくらんだ。

気がつくと情景は色彩を取り戻していた。薄靄は視界から消えており、追いかけてくる巫女の姿も見えない。とりあえず逃げ切る事が出来たらしく、彩はようやく安堵の息を吐いて、ゆっくりと胸を撫で下ろした。

「それにしても、ここは?」

落ち着いてから周囲を見渡すと、夕暮れの神社であった。かつて巫女だったとはいえ、よほど自分には縁があるのだろうか。どうやら風音神社でも千歳村のものでもないようだ。穏やかにそよぐ風の音と虫の声によるアンサンブルが心地良い。

それから、ハッとして、境内に小柄な少女が立っている事に気付いた。

大きな大きな黒い帽子。足首までかかる漆黒のマント。

肩上で揺れる銀の髪。燃え上がる夕陽を受けて、なおも煌めく赤い瞳。

帽子の両端から、涼しげな鈴の音が、リン、と鳴った――