第二景「常盤の檻」
「儀はもう僅かの日数後に執り行われるか」
「ええ。兄様が村の禁忌を犯して暢気に見聞の旅へ出ている間に、私たちは命運をかけた儀式の準備を滞りなく進めてきましたから」
「耳に痛いな。言葉に棘がないか?」
「何を戯言を……本来なら村を追放されているところです。兄様が今ここにいられるのは、この地の神に仕える一族である家系の長兄だからですよ」
「神降ろしの儀……か」
「そう。根津村には大きく遅れをとりましたが、これでようやく長年の悲願が成就に移せます。尤も、兄様は最早儀式に参加することは叶いませんけど」
「根津か。だがあそこは招来した神の子を村に留めておくために、代償として恒久的に生贄を捧げねばならなくなったと聞くぞ。今は月代一族の唯一の生き残りである巫女がその役目を負っているようだが」
「心配には及びません。分かっているでしょうが、私たちの願いは成就すれば犠牲を必要とする事などありません」
「失敗しなければな」
「大丈夫です。何故なら――」
それは何の変哲もない夕食の光景。
香り立つ味噌汁の匂い。そこから漏れる野菜の匂い。炊きたての御飯。
焼き加減の香ばしい、脂の乗った鯖。お新香に野菜炒め。
それを一組の若い男女がテーブルを挟んで向かい合わせに座っていれば、同棲中のカップルか、新婚ほやほやの若夫婦における、ごく普通の食卓にすぎない。
真は眼前の彩と楽しく会話しながら、料理に箸をつけていた。
「今日は和食にしてみました」
「ああ、美味しいよ」
「ありがとうございます」
照れたように微笑む少女を瞳に映し、真も穏やかな気持ちになる。
幾度となく様々な情景の体験を繰り返す事で、流石に慣れが生じていた。
過去に正しくあった情景なら、普通に終わりを待つだけ。行動によってはありえたかもしれない情景なら、途切れるまで状況に合わせる。
そんなことを繰り返して、どこかにあると思われる出口を探しているのだが。
ここで初めて異変が起きた。
「なっ!?」
何の前触れもなく、いきなり発生した現象に真は目を剥いて腰を上げた。
それは倒れている人間だった。正確に言うなら「死体」と呼称するもの。
ひとつではなかった。仰向け、うつ伏せ、老若男女問わず、折り重なるように倒れていた。
事態を説明するなら何の事はない。食卓を囲むように死体の山が沸いて出ただけだ。
と、ぴくりとも動かない身体から、淡く輝く碧の粒子――無数の風蛍が浮かび上がると、それはまるで泡沫の夢のように死体という死体が溶けて消えたのである。呆気にとられるのも一瞬、再び床上に同じ現象が起きた。
その死体は先程のとはまた違う人間達のものであったが、風蛍となって消失するのは変わらなかった。
「これは……いったい」
ハッとして彼女の方を向くと。
そこには懐かしい風音学園の制服に身を包んだ彩が、腕に片肘を突いて微笑していた。
「どうかしましたか、真さん。お料理が冷めてしまいますよ?」
「彩、これは――」
「私がこの千年間で同化体にしてきた人間たちですよ」
「な……っ!」
ビールのつまみに枝豆を頼むような感覚で、さらりと言ってのけたものだ。
「真さんは私の過去も罪も全部背負ってくれると言いましたよね。だったらこんなもの、何でもないじゃないですか」
話している間にも数十体単位で死体の山が発生と消失を繰り返している。
その中で平然と唇の端を歪める彩の冷笑に、真の背筋はぞくりと震えた。
「君は……誰だ」
確信した。目前の少女は自分のよく知っている少女ではない。いくら不思議な空間の情景の中とはいえ、人間性そのものが変化するわけではなかった。ましてや心を改めた後の彩なら尚更だ。
「私は常盤」
玲瓏とした笑みを貼り付けたまま、少女はそう名乗った。容姿はそのままで。
「ときわ?」
「そう。そして貴方たち三人は私の檻歌という劇に上がった役者のようなもの。はたして見事、舞台に幕を下ろすことができるでしょうか」
「君はいったい……」
何者だ――と続けようとした瞬間、ぐにゃりと歪曲する視界。
世界の暗転に飲み込まれる寸前、耳に残ったのは嘲笑の響きだけだった。
彩は見晴らしのいいなだらかな丘の上に腰を下ろし、絵を描いていた。
もともとこれが本来の目的だったのに、奇妙な事態の気晴らしに転化されてしまっていることに内心苦笑した。
「彩ちゃん、何を描いてるのかな?」
ひょこりと現れた白河さやかに、肩越しに覗き込まれ、彩はくすぐったそうに首筋を弛緩させる。
大人と少女が混濁したような、白い帽子の下に映える女面に、
「あの辺りの風景を」
と返事して、目の前に広がる長閑なあで道や草むら、彼方に見える山の稜線を指差した。
「さやかさんはいつ戻ったんですか」
「さっきだよ。もう一回くらい空間に飛び込もうと思ってここまできたら、彩ちゃんが絵を描いているのが見えて。真くんはまだ戻ってないみたいだね」
彩の隣に座ったさやかは、画材一式が入ったトートバッグに目をやった。
画材道具と一緒に詰め込まれた、何冊かのスケッチブックが顔を覗かせている。
「スケッチブック、見てもいいかな」
「構いませんよ」
「それじゃ遠慮なく」
ランチパックからサンドイッチをつまむような仕種で、数冊のスケッチブックを取り出すと、興味深そうにぱらぱらとめくり始めた。
自分の絵を他人に見られるのは、やはり少なからず緊張するらしく、彩は、鉛筆を走らせる指を止め、ちらちらと隣を盗み見た。
「絵を描くのが好きなんだね、彩ちゃん」
視線に気付いているのか、いないのか、スケッチブックに目を通しながら、さやかは言った。
「えっと……その」
思わず、「えっ」の部分の声が裏返ってしまう彩。
「はい、好きです。以前はあまり実感した事はなかったんですが、今は声を大にして言えます。私の趣味ですね」
その声は、とても嬉しそうだった。
一番古めのスケッチブックをめくり出したさやかが、あれ、と目をぱちくりさせた。
「空の絵ばかり……」
「あ、それはもう5年くらい前のですね。昔は空ばかり描いてましたから」
恥ずかしそうに微笑む彩の横で、さやかは、その絵と最近のスケッチブックの絵とを交互に見直して、僅かに柳眉を寄せた。
それがあまりにも様になっていたので、彩には一瞬、彼女が芸術家のように見えた。
「まるで、この空は、心の在処を、写しているよう――だね」
「えっ」
「自分にとっての世界全てをここに集約したような、手を伸ばせば届くかも、という。遠すぎた空への羨望……かな。わたしにはそういう幻視に見えるよ」
「…………」
限りなく抽象的だが、限りなく的を得ている「感想」に、彩は言葉も出なかった。
それから、さやかは現在の絵を見やり、
「想いは拡散しているけど、ありのままの世界が写実されていて、それが逆に充実している。んっんん〜、ほしいものが手に入ったんだね」
にこやかに笑顔を見せた。
彩はというと、その表現にどう返事すればいいか戸惑っていた。さらにスケッチブックがめくられ、さやかの指はあるひとつの絵で動きを止める。
思わず「あっ」という表情になる彩。
「それは前の滞在先で描いたものなんです。この村を訪れる数日前ですから、一番新しい絵ですね」
「はやや、そうなんだぁ〜」
食い入るような眼差し。
それは黄金色に実った、秋の田園風景を描いたものだった。
その中を颯爽と歩いている一組の男女は、真と彩自身に他ならない。そして、彩の顔は満面の笑顔に満ち溢れていた。
「う〜ん、いい絵だね」
「そ、そうですか?」
「うん。だって、愛情のエッセンスが篭もっているから!」
びしっ、と力を込めて指先を突きつけるさやか。
彩はぽかんとしたものの、すぐに照れたように頬を赤らめて、微笑した。照れ臭さと嬉しさが入り混じったような表情だ。
「これは大切なことなんだよ〜」
おどけているのか真剣なのか、さやかの変に真面目な態度に、彩は緊張が解けた。
「ありがとうございます」
微笑んで、
「さやかさん、もしかして何か絵の心得でもあるんですか」
と訊いた。
さっきの会話でそんな気がしたからだ。
「う〜ん……そうだね〜。彩ちゃんがそう思うなら、そうなんだと思うよ」
考えるような仕種。不思議な間。
その薄紫の双眸は、彩を映しているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。
まもなく、空間から戻ったらしい、グレーの着衣で上下を揃えた青年がやってきた。
「……そんなことがあったんですか」
真から情景内で起きた出来事を聞かされ、彩は軽くまばたきした。
隣から「わたしの住んでる村と同じ名前だね〜」と、ほがらかな声。
少なくとも、自分たちの身に起こっている現象が、第三者による何者かの意思が絡んでいるらしいということは判明した。
「常盤……」
「どうしたんだ、彩」
「いえ、遠い昔にそんな名前を聞いたことがあるような気がしたんですが」
記憶の彼方は深い霧に包まれていた。
「――何故なら、永久(とこしえ)を意味する私の名は、このときのために付けられたものなのですから」
「それで、私たちの願いと口にしたが、その中にお前自身は入っているのか?」
「…………兄様の仰る言葉の意味が理解しかねます」
「本当にお前もそう望んでいるのかと、そう訊いている」
「当然至極」
「……なら、いいのだがな。だがもし儀式が失敗したら、俺は全身全霊をかけて事の収拾にあたらせてもらう」
「ご随意に」
「では俺はそうなったときのための準備にかかろう。そうならないよう願いたいものだが……ああ、そうだ」
「何ですか、急に改まった声で」
「――お茶くらい出してくれ」