第一景「ifにおける情景」
彩は戸惑っていた。
目の前には見慣れた家の玄関が、さも手招きをしているように佇んでいる。
間違いなく丘野家の玄関だ。手の平にある鍵でドアは開くだろう。
何を戸惑っているのかは簡単だった。つい先程まで遠く離れた地にいたはずが、気が付いたらここに立っていた。
事態を把握できないが、下手に慌てるよりは状況に身を任せたほうが良いと思った。
彩は心を落ち着けて鍵をドアノブに差し込んだ。予想していたとおり、いつもの手応えが伝わって、カチャリと開錠の音がした。
靴を脱いで中に一歩入ってから、
「ただいま」
と言った。お邪魔しますも頭に浮かんだが、ここは自分の家だ。
キッチンへ上がると、ダイニング・テーブルに丘野真の姿があった。入ってきた彩を見て、読みかけの新聞を取り落としそうなくらい、眼を丸くした。
驚愕、動揺と流れた表情は、やがて平静を装うと、優しい声で彩を迎えた。
「お帰り。今日は遅かったな」
「商店街でついウインドウショッピングが長びいてしまって……」
と彩は、小さく頭を下げて、申し訳なさげに微笑んだ。
目の前で苦笑する青年が、さっきまで自分のそばにいた真かどうか判別がつかない。
なら状況の変化を待つほかは無い。
「食事にします? それとも、お風呂を沸かしたほうがいいですか?」
「食事にしてくれ。もうお腹がすいてすいて」
「はい、わかりました」
にっこりと笑って料理場へ向かうと、備え付けのエプロンを手に取る。
違和感に気付いたが、心配させないように手早く着ると、調理に取り掛かる。しかし冷蔵庫の中を覗いて、それはひとつの確信に変わった。
ぱたんと閉めて彫像のように固まる少女の背中を、真は複雑な目で見つめた。
「どうしたんだ、彩ちゃ……彩」
ぎこちない呼び捨ては不協和音のようだ。
「なんでもありませんよ。それより真さん、少し老けました?」
「おいおい、いきなり何を言い出すんだ。俺はいつもどおりだよ。そういえば彩は、ちっとも変わらないな」
「そうですか? これでも成長したんですよ」
不思議な会話だ。こんなに近いのに、お互いの声がひどく遠くに聞こえる。決して交差する事の無い十字架のように、二人の距離は狭まる様子を見せなかった。
やがて、終わりを告げるチャイムが鳴った。
二対の視線は玄関に向いた。
動けなかった。声も出なかった。二人は呼吸をする彫像だ。
もう一度、チャイムが鳴った。反応がないのにしびれを切らしたか、開錠の音とともに、玄関のドアはひとりの女性を飲み込んだ。
「どうしたの? まこちゃん、インターホンの音が聴こえなかったの?」
女性の声が戸口から聞こえる。馴染みの声――名前をみなもという。
「ごめんね。ちょっとスーパーでお買い物してたら遅くなっちゃって」
「あ、ああ、どうしたんだ、みなも。こんな遅くに」
「えっ?」
きょとんとした声を上げるみなも。キッチンへ上がって、言葉を失った。
瞳の中で揺らいだ。テーブルに座る青年と。調理場に立つ少女の姿が。
「どうした。俺と彩の顔に何かついてるか?」
自然を装うとしているのは誰の目にも明らかだった。彩が何か言い出す前に、みなもは調子を合わせるように笑った。
「あ、あはは……。ちょっと用があったから来たんだけど、チャイムを鳴らしても出なかったから……ええと、鍵が開いてたから勝手に上がっちゃったの。不用心だよ?」
「みなもさん……」
「でも、食事時はまずかったね。それじゃあ、お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げて出て行こうとするみなも。その手を、そっと彩が掴んだ。
「待ってください、出て行くのは私のほうですよ。こちらこそこんな時間にお邪魔してしまってすみませんでした」
「えっと、その――彩ちゃん……」
彩はエプロンを脱ぐと、丁寧に元の場所へ戻した。それは彼女の背丈には少し大きく、足首まであった。冷蔵庫の中の食材も、よくよく見れば室内の調度品も、違ったのだ。
場違いなのは自分ひとりだった。
「彩……」
立ち上がる真を少女は手で制した。
「いいんです。ここは私の家ではありませんから」
「彩ちゃん、待って」
「みなもさん、真さんのことをよろしくお願いします」
微笑して、彩は二人の横を通り過ぎる。戸口で靴を履いてから、クルリと振り返った。
茫然と立ちすくむ真とみなもに笑顔を向けて、
「大丈夫です。私にも傍にいてくれる人がいますから」
と、言った。
もし四年前のあの日に、あの夜に、真と指きりを交わしていたら――
これはその先にあった光景なのかもしれない。何となく彩はそう思った。
そして、呆気なくドアは閉じた。
薄暗い室内。
丘野真は、ソファにうずくまる人影に気付き、不審な表情になった。
そもそも自分は何故、こんなところにいるのか。
村外れの神社跡の帰り道で急に世界が暗転したと思ったら、ここにいた。ついさっきまで隣にいたはずの、彩の姿はない。
闇に目が慣れてくる。記憶が確かなら、ここは鳴風みなもの部屋だった。
「まこちゃん……何しにきたの」
薄闇の中で人影が立ち上がる。ツインテールの少女がゆらゆらと近付いてきた。
「みなも、どうし……」
「来るのが遅いよっ!!」
いきなり激昂したみなもに壁際へ追い詰められ、真は胸倉を締め上げられた。
突然の出来事に困惑するよりも、その気迫に圧倒される。激しい表情で真を凝視する少女の眼からは、ぼろぼろと熱い涙が流れていた。
「お父さんがいなくなって……私、どうしていいか分からなくなって……でも来てくれたのはひなたちゃんだけで……まこちゃん、まこちゃんは私のことをどう思ってるの!?」
「まて、何のことを言ってるんだ、みなも」
「まこちゃん! まこちゃんにとって私は何なの! ただのお友達なの!? 浜辺でのキス……あれは私からの精一杯のアプローチだったんだよ!?」
もしかして四年前のことを言っているのだろうか。だが浜辺でのキスなんか記憶にはない。
とても宥められる状態ではなく、真はただひたすら問い詰められる他はなかった。
十分後、ようやく解放された真の顔には疲労の色が濃い。
それはあまりにも深いみなもの想いをぶつけられたからだが、それでも、
「ごめん、みなも……俺はお前の気持ちには応えられない」
と言った。
「まこちゃん……」
みなもの顔を見ることが出来ず、真は拳を握り締めて、その場から逃げ出した。
玄関のドアを抜けたところで、再び世界が暗転した――
蝋燭の明かりが燈る室内で、二人は目を見合わせた。真と彩である。
互いに起こった状況を説明しあうのに時間はかからなかった。不思議な出来事のあと、気が付いたらここにいた。同時というわけではなく、彩の方が少し遅かった。
「いったい、何がどうなってるんだ?」
「分かりません……」
「それにここはどこだろう」
薄暗い室内は、真にはあまり馴染みのない和風の内装をしていた。置かれている物や家具や何やらを見ても、相当に古めかしいものばかりだ。
「昔の神社の寝室に似ていますね……というよりは、そのものかもしれません」
部屋を観察して言う彩。
「そうなのか?」
「はい。女性、それも巫女を生業とする者の寝室です」
淡く揺れる蝋燭の炎に照らされた瞳は、追憶の光を宿しているようだった。真はそんな彼女を優しく抱きしめた。彩は安堵の微笑を浮かべ、頬を寄せる。
しばらくそのままでいた二人は、やがて身体を離した。
「とりあえず、部屋から出てみようか」
「そうですね」
このままここでじっとしていても仕方ない。部屋の出入口である障子の前に進むと、慎重に横へ開いた。
途端、視界が真っ白に染まったかと思うと、二人の姿は別の場所にあった。神社の境内らしい。振り向くと、そこには歴史を感じさせる、古びた社が建っていた。
してみると、先ほどまでいた部屋は、この神社の一室だったのだろうか。
「わけがわからないな」
夜空には、都会ではまずお目にかかれないだろう一面の星空と、幻想的に輝く満月。
ひとつだけ分かるのは、それがとても綺麗だということくらいだった。
狐につままれたような表情で辺りを見回していると、あることに気が付いた。
「なあ……何だかこの風景、見覚えがないか」
「真さんもそう思いますか」
鳥居の向こうに続く道。神社を囲む木々のあちこちで輝く、白い花。
「あの石燈篭のあったところか?」
「たぶん、そうだと思うよ」
返事は鳥居の方からした。
驚いて顔を見合わせる二人。それはとても聞き覚えのある声だった。
果たして、鳥居の影から出てきたのは、白いレースの帽子が印象的な少女。
「はろはろ〜、白河さやかだよ♪」
背中まで流れる黒髪が、月光を受けてきらめいた。
目の前に近づいてくるやいなや、くしゅん、とクシャミ一回。
「うう〜、秋の夜風が身にしみるね。二人を驚かせようと思って外で待ってたんだけど、ちょっと遅いから身体が冷えちゃったよ……とりあえず部屋に戻ろう」
そう言って、すたすたと社へ歩いていくさやか。その途中で空間が歪んだとみるや、一瞬にして少女の姿は消えた。
あわてて後を追う真と彩も、同じ地点で空間に飲み込まれたのだった。
寝室で三人がくつろいでいた。
どうも神社の境内の一箇所とこの部屋は直接繋がっているらしい。
そして、さやかも真たちと同じようにここを訪れた後に今の状況に陥ったという。
連れと旅行で村に到着し、別行動を取っているときに神社跡のことを耳に挟んだ。興味を持って、そのままひとりで見に行ったら、帰路を辿る途中でこの有様だった。
何度も空間に飛び込んで不可思議な体験をしても、その度にこの部屋に戻ってきて、まったく抜け出すことが出来ない。それでも諦めずに繰り返して、変化が起きたのは三日目だ。
それまで空間内では自分に関係ある情景だけだったのが、突然に身に覚えのない光景が出てきたのである。
再び部屋に戻り、不思議に思いながら外を歩いていると、目の前に麦藁帽子が落ちてきた。
そして、彩と真に出会ったわけだ。
「そうだったのか……」
「それで私たちのことを仲間って言ったんですね」
「うん。三人寄ればもんじゃ焼きが美味しいっていうし」
ことわざも、ここまで間違えると新語である。
「でも三日間も食事はどうしていたんですか?」
「それがね、ここに迷い込んでからお腹がすくことはないの。行動して消費したエネルギーも、この部屋で一晩眠れば回復するみたいだよ」
「なんだそりゃ……まるでゲームだな」
「まあ、少なくとも飢え死にする心配はないということですね」
ホッとしたように言う彩とは対照的に、さやかは「はあ〜」と声に出して溜息をついた。
「食事と料理は人間が作り出した最高の娯楽なのに……それを味わえないなんて悲しいことだと思うよ」
一理あるが、この状況でそんな言葉が飛び出すのもある意味大したものだ。
あまり物に動じないのか、マイペースなのか、その辺はよく分からない。
「でも、そう感じられるのは、私たちが人間ということの証なんじゃないですか?」
「なるほど〜。彩ちゃん、物の表現が豊かだね」
それはさやかさんの方ですと思ったが、口には出さなかった。
さて、問題はこれからどうするか。話題がそれに移ると、さやかはとりあえず三人で同じ事を繰り返すしかないと、自分の考えを述べた。
「それじゃ意味がないような気がするが」
「そんなことないよ真くん。わたし、あの空間はすべて違うもののように感じ取れるから」
「違うもの?」
「なんていうのかな……ひとつひとつが別のものだから、何度飛び込んでも違う情景が現れるんだと思う。限りもあるはずだよ。それで、きっとその中に終わりと出口があると見てるんだけど」
三人なら通常の三倍のスピードで進行するから、決して無意味じゃないと。
片手を顎に添えて、やや眉根を寄せるさやかの表情は、それまでのおてんこ空気とは別の顔をのぞかせている。
「そんな考え方もあるか。そうだな、他に何も浮かばないし、彩もそれでいいか?」
異論はなく、明日に備えて今日はもう就寝につくことになった。
ふと、さやかの目が真のリュックからはみ出している新聞紙に吸い寄せられた。薄紫の双眸が数回まばたきをして、きょとんとなる。
「この新聞はいつの?」
「ああ、今日のだな。近くの売店で買ったものだけど」
「そうなんだ……ふうん」
食い入るように見つめていたが、そのうち納得したかのように目を離す。そういうこともあるよね、とひとりで頷いていた。
横になる三人。この部屋は不思議と暖かく、布団を羽織る必要はなかった。
一息で蝋燭の火は消え、闇が舞い降りる。
睡魔はすぐにやってきた――