プロローグ「秋幻想の開幕」





がたん ごとん がたん ごとん
 
がたん ごとん がたん ごとん


不規則に揺れる列車。粗野な揺り篭のように定まらず、緩やかに。

同じフィルムを連続して投影しているような変わり映えの無い景色。

それでも網膜に記憶される風景は、ひとつひとつが独立した個を焼き付ける。

やがて、ぷしゅー、という音がして、流れる景色が固定された。

「着いたぞ、彩」

「…………あっ、はい、真さん」

隣で熱心に詩集を読んでいた少女が、はっとして意識を取り繕う。

前の滞在先で買った本だが、思わず読み耽ってしまうほど興味深いらしい。

閑散とした、障害物の皆無なホームに降り立った一組の男女は、自然の緑と青に覆われた一面の世界に顔を綻ばせた。

遠くに見える紅葉が、秋も頃合になったことを感じさせる。

少女は十代半ばから後半といった面影。清楚で爽やかな白いワンピース姿。

肩には愛用の画材一式が詰まったトートバッグ。若干銀色がかった白髪のボブカットの頭部分を、大き目の麦藁帽子が彩っている。

青年は二十代前半の風貌。ラフなグレーのシャツとスラックス。片手には中サイズの旅行用バッグが持たれていた。

澄み渡る紺碧の空の下、ふたりはしっかりと手を繋いで歩き出した。



澄み渡った夜空には、これで何日目かの中秋の名月が瞬いていた。

まったく変わらない。まったく欠けない。まったく同じ。不変というのは退屈なものであるらしい。

「満月は1日だけだからありがたみがあるのに〜」

大きな白いレースの帽子が月明かりを受けてきらめいた。

「お団子食べたいなぁ」

それでもお腹がすくことはなかった。



ピピパピピー キーコーキー

ピピパピピー キーコーキー

「変わった鳥の鳴き声だな」

森の茂みから響く聞き慣れない鳴き声に、真は眼前の石燈篭から目を離した。

「鵤ですよ」

傍らの彩が真の方に視線を移して言った。

さっぱり知識にない単語らしく、真はオウム返しに聞き返す。

「イカル?」

「はい。真さんは斑鳩という言葉をご存知ですか?」

「いかるが牛乳の斑鳩とか」

真っ先に牛乳が飛び出したのに、思わず口元を押さえて微笑み、彩は頷いた。

「はい、その斑鳩です。では斑鳩ってどんな意味か分かりますか?」

「うーん、分からないな」

「斑鳩という名の由来は、かつて聖徳太子ゆかりの地に、イカルという鳥が群をなしていたためだと言われています。そして、イカルは漢字で鵤・斑鳩とも書くんですよ」

「そうなのか?」

「ええ。もっとも、現在のイカルがその当時のイカルかどうかは、まだ定かではないそうなんですけどね」

へえー、と感心しながら、真は再び眼前に視線を戻した。

村外れの森の中、ぽつりと小さな空間を埋めるように、ひとつの古びた石燈篭が立つ。

遠い昔、この場所には神社があったらしい。

だが、九百年程前に消失し、その後にこの石燈篭が立てられたと伝えられている。その原因や経緯は一切不明だという。

二人が訪れたのは、この近くにある地図にも載っていない小さな村。

彩が千年の呪縛から解放されて四年。

仲間内だけで結婚式を挙げた真と彩は、新婚旅行に出かけた。

といっても南の島とかの有名どころではなく、生まれてからずっと街を出たことのない彩のために、色々な場所をあてもなく旅して見てまわることになったのだ。

そして、流れ流れて季節は実りの秋。

この地に降り立った二人は小さな村を訪れ、村人からかつて神社があった跡地の事を耳に挟み、好奇心の赴くままにこの場所まで足を運んだというわけである。

「それにしても、あれは何の花だろう」

薄暗い藪の中のいたるところに顔を覗かせている真っ白い花。

その白さは遠目にも目立つほどに輝いており、興味を引くには十分だった。

「トキワツユクサですよ」

和名は常盤露草と書くらしい。

「彩は物知りだな」

「そんなことはないです」

ほんのりと頬を赤らめているのを見ると、照れ臭いながらも嬉しいようだ。

でもおかしいですね――――と、彩は僅かに眉を寄せた。常盤露草の花期は5月〜8月のあたりだというのだ。

「まあ蝉だって10月まで鳴いているときもあるし、気にするほどのことでもないだろ。そろそろ村に戻ろうか、彩」

「……そうですね」

木々の間から差し込む光条は、鮮やかなオレンジに変わっていた。

この場を後にする二人の頭上で、今一度イカルが鳴いた。石燈篭が一瞬だけ淡白く燈ったのに気付くことがないのも無理からぬこと。

森を出たところで、真が思い出したように口を開いた。

「そういえば、常盤ってどういう意味なんだ?」

「常盤というのは『いつまでも変わらない』という意味で、つまりは――きゃっ」

説明は最後まで言い終わる前に小さな悲鳴と化した。突風で麦藁帽子が宙を舞い、近くの納屋の屋根を越えて落ちていく。

「すみません、ちょっと帽子を拾ってきますね」

言うが早いか彩は軽く頭を下げると、小走りに駆けていった。俺が取りに、と言うタイミングを逃した真は苦笑して頭を掻いた。

納屋の反対側まで走りついた彩の目に入ったのは、地に落ちている麦藁帽子。

「ほっ」

小さく息を吐いてそれに手を伸ばす彩。

と、すくそばの人影に気付き、顔を上げた――――


さっきの突風のときよりは高い悲鳴が風に溶けた。

「彩っ!?」

真は駆け出していた。

走る。走る。走る。全速力で走る。

急激に加速する動悸など気にもせず、ひたすら疾走を続ける。たいした距離ではないが、その時間が真にはもどかしく感じた。

「どうした、彩!」

納屋の向かいに到着し、大声で呼びかける。

もし誰かに襲われているのなら問答無用で助けに入って追い払い、転んで怪我をしたとかならすぐに手当てをする。

駆けつけるときの脳内はそんな思考で充満していた。

だから、人間とは予想外の事態に出くわすと、頭の中で想定していた事柄が吹き飛んでしまうのである。

「真さん……」

ほら、彩も困ったような表情だが、とりあえず大丈夫だというサインを出している。

さあ安心したところで目の前の状況を整理しよう。できるだけ簡潔に、分かりやすく。

――ひとりの女性が、彩を後ろから抱きしめていた。

ああ、一言で事足りた。そんなものだ。

「はやや、もうひとり」

女性がパッと手を離し、長閑な声を出す。

解放された彩は麦藁帽子を被り直すと、とてとてと真のそばに寄った。

「えーと」

どう切り出したものか、真の口が詰まる。よく見ると、女性というよりはまだ少女という外見だった。

十代後半といったところだろうか。大きな白いレースの帽子が目を引く。

そこからこぼれる綺麗に整った長い黒髪と、白と黒の組み合わせによるワンピース姿は、まるでどこかのお嬢様のようだ。

少女のあどけなさもあるが、まあ美人といえる。

「ごめんね、その娘があんまりにも可愛いからつい抱きしめたくなったの。うん。決してそのまま持って帰りたいなーなんて思わなかったよ♪」

意外と陽気だった。

「あ、わたしはさやかだよ。白河さやか。あなたたちは?」

屈託ない笑顔は緊張感も警戒心も霧消させてしまう。

「俺は真。丘野真」

「私は彩。丘野彩です」

「あ〜、兄妹なんだ」

ぽんと手を打つ少女に、真と彩は沈黙した。

無論さやかに悪気があったわけではなく、落ち度もないことは分かっている。

むしろそう思われても全然、それは不思議なことではない。

「わあ〜、いいなぁ〜、わたしも彩ちゃんみたいな可愛い妹欲しいなぁ。ううー、ねえ彩ちゃん、1日だけわたしの妹になってくれないかな」

「……………………夫婦……です」

「えっ?」

「兄妹じゃありません……私と真さんは、夫婦なんです」

「彩……」

しっかりとした口調で、彩は両腕をぎゅっと真の腕に絡ませた。

さやかが目をぱちくりとさせる。

「夫婦?」

「ああ、俺と彩は結婚してるんだ」

彩の気持ちに応えるように、きっぱりと強く言った。

「ええーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」

ちょっとオーバーすぎるくらい大声を出して驚くさやか。

まあ無理もない。あれから四年経ったとはいえ、彩の容姿はまだ幼さが残っている。大抵の人間は驚くだけで済ませてくれるが、中には好奇心剥き出しで嫌なリアクションを取られた事もあった。

だが。

「うわぁ、そうなんだ〜」

どうも、この白河さやかという人物は、そのどちらでもないタイプのようらしい。

確かに好奇に満ちた眼差しを向けてくるのではあるが。

「夫婦なんだぁ。幼な妻というやつなんだよね〜」

何故かとても喜びの篭もった声音。薄紫の瞳は妖しい輝きを佩び始め、うずうずしているように見える。

何だか危なそうだと感じた真は話題を変えようと先手を取った。

「ところで白河さんはこの村の人……じゃなさそうだな。旅行者かな?」

「さやかでいいよ。うん、日本諸国漫遊の途中なの♪」

切り替わりが早いのか、単なるマイペースなのか、諸国漫遊などと越後のちりめん問屋のご隠居のような言い方だ。

「一人旅なんですか?」

彩の質問にさやかは、ぶんぶんっ、と首を振って否定した。

「愛しの蒼司く――――もとい、連れがいるんだけどね。うう〜、心配してるだろうなぁ」

言い換えたが、どうやら恋人と一緒に旅行中らしかった。

後半で言葉が詰まり気味なのはよく分からない。

「真くんと彩ちゃんも旅行?」

「ああ、新婚旅行で色んなところを巡っているんだ」

自分より年下だと思われる女性から名前を「くん」付けで呼ばれるのに、少々照れ臭さを感じる真だった。

「ふぅん、それでこの村には来たところなのかな」

「今日着いたばかりです。今は村の人から聞いた、昔の神社の跡地を見てきたところなんです」

「え……」

彩の返事を聞いた途端、さやかの目が大きく広がり、ぱちぱちとしたまばたきが二度三度。

それまでの朗らかさとは対照的に目を細め、ロダンの考える人のように片手を口元に当てて思案を始めると、やがて納得がいったらしく何度も顎を上下させた。

「じゃあわたしたちは、同じ目的を持ったお仲間さんというわけなのね、びしっ!」

アニメのような大袈裟な動作で人差し指を突きつけてくるさやか。

何だか異様にテンションが高まってきたのか、バックに特殊効果でもつきそうな仕種で嬉しそうに身震いする様は、クスリの切れた中毒患者を思わせるところだが、そこは可愛らしい容姿のせいで全くそうは見えない。

「うぅ〜、よかったよ〜、わたし一人でも最後まで頑張る自信はあったけど、やっぱり名探偵にも協力者は必要だよね、うんうんうん♪」

ひとりではしゃいで喜んでいる。

「あ、あの……」

汗マークを後頭部にくっつける真と彩。

ようやく落ち着いたさやかは、ぽかんとしている二人にニッパリと微笑んだ。

「うん、大丈夫、すぐに分かることになると思うから。それじゃあわたしは向こうで待っておくことにするね。ではでは」

鼻歌でも歌いそうなオーラを発散しながら、白河さやかさんは、ついさっき二人が訪れてきた神社の跡地へとスキップしていった。


「変わった人でしたね」

「……ああ」

夕焼けの中、そんな感想しか浮かばなかった。

「でもまあ、彩が無事でよかったよ」

「心配してくれたんですね」

「当たり前だ」

「ふふふ、嬉しいです」

真の顔を覗き込んでくすくすと笑う彩。

四年前までは考えられなかったことだが、今ではこんな風に彼女の笑顔が普通に見られる。

それは二人がとても幸せだという事の何よりの証だ。

「さあ、村に戻るか」

「はいっ」

そうして意識を目の前に向けたとき、異常に気付いた。

「…………あれ?」

二人して疑問の声を上げる。

森を出たときに気付いてもおかしくはなかったが、さやか嬢との一件で疑問に感じる暇もなかった。

言葉にすればそれはとても単純な事――人の気配がないのである。いくら田舎とはいえ、まだ夕方だ。しかもこの人気の無さは普通ではない。

人影が見えないとかいうレベルではなく、まるでこの周辺が世界から切り離されているかのような、そんな不可解さだった。

「真さん」

不安げに寄り添う彩を安心させるように、真は肩をぽんと叩く。

「きっと何でもないさ。さあ行こう」

「…………はい」

そう、なんでもない。数十分後には民宿の客間でくつろげるはずだ。

そのはず――――だった。

だから、物語というのは主人公達にとって皮肉なものであるのかもしれない。

村へと続く平地をしばらく歩いたとき、世界はぐにゃりと歪んだ。

「あ」

口をついて出たのはそれだけだった。

次の瞬間、地に足がつく感覚が消え、二人の意識は歪んだ世界に溶けていった――



ここに秋幻想の幕は上がった。

図らずも主演に選ばれたのは三人。

丘野真。

丘野彩。――旧姓月代。

そして、白河さやか。

終わらない茶番劇から、はたして抜け出す事ができるのか。




しかし、抜け出すという表現は少しおかしくないだろうか。

幕を下ろせばいいのではないか、と。

「幕は下ろしたら、終わっちゃうんだよ?」

そう言って、白河さやか嬢は空になったコーヒーカップを置いた。

「このコーヒー、苦いよ〜」

線目でうるうると涙を流した――