最終話「絆」
「とんでもない! あ、あんたに会計された日にはあとが怖いわよ。……き、気にしなくていいからね、今度ばかりは私の不注意なわけだし」
何かと沙英を目の敵にしている少女、夏目が、食堂で沙英とヒロをまえにごたごたを起こしたあと、照れたように頬を赤らめて会話を一方的に終了する。
その様子を少し離れたところから見ていたゆのの横を通り過ぎるとき、夏目が一瞬怪訝な顔をしたことに何の疑問も抱くことはなかった。
当然だ。ゆのは彼女との間には殆ど接点などないのだから、ごく些細な違和に気づかなくても仕方ないのだ。
ゆのは最近たまにおかしな夢を見るようになっていた。
彼女自身は憶えていないが、五月闇のひろがる季節に公園で見た白昼夢のような内容。
たとえば、蒼穹を羽ばたく鳩の群れを眺め、そこに自分は決して加われないのだと実感している。
たとえば、果てしなき大海原に浮かぶ緑の草原にひとりで佇み、世界の崖へ流れ落ちてしまう予感。
たとえば、雪の積もった街路に延々と続く足跡が自分のものであるにもかかわらず、何処へ行くのか判然としない心象。
そんな幻想的ともいえる夢を見るようになってから、徐々に、しかし確かに、不可解な波紋は大きくなっていくのだった。
休み時間に吉野屋先生に呼び止められた。
「あらあら、部外者が制服着て校内に入っちゃいけませんよ〜」
ほがらかな笑顔でそう嗜めてきたので、ゆのは苦笑いしてまじめにリアクションを返す。
「私ことゆのは、立派にやまぶき高校一年の生徒で、担任は吉野屋先生ですよ」
「またまたご冗談を♪」
あくまで冗談を通すのか天然なのか、吉野屋先生だからわからなかった。
それから首をかしげて、
「……そうそう、ゆのさんでしたね。駄目ですよ、教師をからかっちゃ」
などと吉野屋先生らしいといえばいえる理解不能な態度をとったあと、背後から近づいてきた校長先生に首根っこを掴まれて引きずられていく。
いつもの光景に些細な差異をあげるとすれば、校長先生の登場がいくらか遅かったくらいである。
まるで、校長先生までもが、ゆののことを部外者なのかと思案していたかのように。
自身を取り巻く異変をゆのがはっきりと意識するに至ったのは、紅葉の映える季節が過ぎて十二月に入った辺りだった。
その頃には上級生はもとより同学年の生徒達も、ゆののことを不審な目で見ることが多くなり、わりと仲のいいクラスメイトである真美と中山さえもがたまに、知らない人を見るような顔をすることがあった。
幸いというべきなのか、ひだまり荘の仲間たちという現在一番関係の深い人間はまだそういう状態になったことはなかったが、とにかく確かなのは、周囲から自分の存在が忘れられていってしまっている――ということなのだ。
あまりに非現実すぎて理由も原因もわからない。
言い知れぬ恐怖を感じると同時に、べつにそうなっても構わないという、奇妙な充足にも似た傍観の情も湧き出していた。
それに比例するように不思議かつ幻想的な光景の夢を見る頻度は増していった。
何度か夢の中で何処か遠くへ旅立とうとすると、謎の少女の声がして引き止められる、そんなことも度々あるが、回を増すごとに少女の声が弱まっていくのを感じた。
やがて事態は深刻な方向に加速し始めた。
沙英やヒロまでも、ゆのの存在がごくたまに脳裏から薄れ始めてきたのだ。
いまや彼女のことをしっかりと自覚しているのは宮子だけであり、それゆえに、沙英やヒロとの不自然な事態に遭遇すると、宮子はぽかんとするばかりである。
次第にゆのは人目を避けるようになり、学校でも、ひだまり荘でも、主に宮子としか触れ合わないようになっていた。事情は知らずとも状況がおかしいことはわかっている宮子だが、あえて問いただすようなことはせず、安心させるかのごとくゆののそばにいてやるのだった。
さらに状況は悪化し、とうとうゆのは学校にいられなくなり、大家にも忘れられたがため、宮子の部屋に匿われるように潜み住むまでになった。
そしてついに決定的なことが起きた。
実家に電話したゆのは、自分の存在が両親の記憶からも消失してしまったのを知ったのである。
もはや絶望的だった。いまや宮子だけが最後の頼りだが、それもいつまでもつかと思うと気が気でならない。そうなったらどこにもいられない。自分の居場所がこの世界からなくなってしまう。
一度アスリエルを求めて彼女が宿泊しているホテルへ足を運んだことがあるが、いつの間にかホテルを引き払っていた。
外を歩いているとき、澄み渡る青空が、いまにも落ちてきそうな、そして、そこへ溶け込んでしまいそうな感覚に陥った。微かに聴こえた少女の声で、現実へ繋ぎ止められたが、もう限界で、次はないだろうと、なんとなく理解できてしまう。
クリスマス・イブ。恐れていたことが現実になった。
夕方の散歩から帰ってきた宮子が、自分の部屋でくつろいでいる少女を見て、きょとんとしたのだ。
それは間違いなく、知らない人間を見る顔。
しかしそこは宮子だからか、驚いたり邪険な態度をとることはなかったが、ゆのにとっては全ての終わりを把握するに充分であった。
ゆのは口早に謝ると、荷物をまとめてダッシュでひだまり荘を飛び出した。
頭の中はからっぽだった。
クリスマス当日の朝、二〇二号室のドアがたたかれた。
寝ぼけまなこでドアを開けると、来訪者はベレー帽をかぶった薄桃色の髪の外国人少女。片手にはトートバッグを提げている。
「あー、アスやんだー。久しぶりだねー」
「メリークリスマス、宮子」
「おお、メリークリスマスー♪ 今晩みんなでパーティやるんだけど、アスやんも参加する?」
「……ううん、私はいいの。そのみんなのなかに、あなたが忘れてしまった人を、あなたたちが忘れている人をくわえてあげて」
静かな声音と、落ち着いた態度で、アスリエルはトートバッグから一枚の絵を取り出して宮子に見せた。
それは、車窓をバックに電車の席に腰を下ろしたアスリエルの絵。
変化は一瞬で衝撃的なものだった。
その絵を眼にした途端、宮子のなかで失われたもののすべてが、鮮烈に甦ったのである。
「それ……あれ……なんで……」
「私の声はもう彼女には届かない……私では世界からの別離を引き止めることができない。彼女を助けることができるのはあなただけなの。早くしないと間に合わなくなってしまう」
「わかった。どこへ行けばいいの」
理由も理屈も聞かずにその言葉が口から出るところに、アスリエルは宮子という人物の本当の意味での良さを感じた。
繊細な手が指差したのは、ひだまり荘の正面、その建物の最上部。
「ありがとアスやん!」
寝起きのままの状態も気にせず、宮子は部屋を飛び出してやまぶき高校へ駆けていく。
その背中を見つめ、アスリエルはふっと優しく眼を細めた。
ゆのはやまぶき高校の屋上に座り込んでいた。
昨夜は毛布にくるまって屋上で一夜を過ごした。眠っている間に消えてしまうんじゃないかと思ったが、朝起きたとき、まだ自分の存在が残っていることを知った。
だがそれも束の間のことだというのは不思議と理解できた。もうすぐ自分は間違いなくこの世界から消える。だから、どうせ消えるのならそれにふさわしい場所をと思って、ここを選んだのだ。どこまでも広がる青空と、思い出のひだまり荘が眺望できる屋上を。
朝陽の美しさに涙腺がゆるんだ。
そして、未来へと澄み渡るはずの青空に溶け込んでしまえるのなら、それでもいいと感じることを抑えることはできなかった。
すべてとの別れを迎えようとしていた。
覚悟を決めた、そんなときなのだ。一人の少女が屋上のドアを抜けてきたのは。
いかにも寝起きのままという格好が彼女らしいと思った。
名前を呼びたかったが、また他人の反応をされるのが怖くてできなかった。
そうこうしているうちに少女はゆのの前までやってきて、そして、腕組みをして言った。
「この世界にゆのっちはひとりだけなのだ」
「え……っ」
「だから、ゆのがゆの殿であるかぎり、私も私なんだよー」
言葉の意味はよくわからない。本人も自分でわかっているかどうかは怪しい。
しかし。
「宮ちゃん……?」
「うん。私は宮子だから、ゆのっちはゆのっち以外の何者でもないのだっ」
それはいつもの、なにも変わらない、太陽の笑顔。
「っ……宮ちゃん!」
ゆのは宮子に抱きついた。大事な親友の名前を何度も呼びながら、ぼろぼろと涙を流す。
するうち、いくつかの足音が新たに屋上の床を鳴らした。
「ゆの!」
「ゆのさん!」
沙英とヒロを先頭に、見知った顔の何人かがなだれ込んできたのだ。
朝陽の照りつける屋上でゆのはもみくちゃにされた。
涙が堰を切って止まらない。
その瞬間、彼女を飲み込もうとしていた世界は、その存在意義を失って完全に消失した。
早朝の屋上には、暫くの間、にぎやかな歓声が湧いた。
〜エピローグ〜
一年の歳月が流れ、ふたたび訪れる雪の季節。
朝食を終えたゆのが部屋でくつろいでいると、ドアをノックする音が聴こえた。
そろそろと玄関へ移動し、ドアを開いて、ゆのは思わず「あっ」と声を漏らした。
この町からいなくなってから一年ほどだろうか。随分と懐かしい気がする。
腰まで届くなめらかな薄桃色の髪。エメラルドグリーンを連想させる翠の瞳。純白の雪のように白い肌。
紺色で統一した、洒落たデザインのベレー帽、落ち着いたゴシックロリータ調の足首まで掛かる衣服。
アスリエル・ヤーン。
西洋のアンティークドールのような幻想感を抱かせる少女。
その隣に、一人の青年が立っていた。
いつか写真で見たとおりの真面目で優しそうな男性だ。
幸せそうなふたりを見て、ゆのはひだまりのようなあたたかい笑みを浮かべた。
部屋の奥に、半年前に完成したひとつの絵があった――
(了)