第10話「アスリエル・ヤーン」
夏休み最終日。
宿題も課題も終えたゆのは、自室で真っ白な画板に向かっていた。
先日、車窓をバックにしたアスリエルの絵を完成させたゆのは、彼女が宿泊しているホテルへと赴き、その絵を手渡した。
アスリエルはたいへん嬉しそうにしたが、そこでしばらく考え込むような沈黙があり、やがて彼女はゆのにひとつのお願いをしてきたのだ。
アスリエルには、この世界で誰よりも大切な男性がいて、わけあって長いこと会っていないのだが、来年の夏にようやく再会することができるのだという。
その男性とのツーショット絵を描いてほしい――それが彼女のお願いだった。
何を思ってそんなことを自分に頼んできたのかはわからない。しかし、逡巡した末、ゆのはそれを引き受けた。真剣な様子だったのもあるが、なにより、アスリエルから何かをお願いされたのは初めてだったからだ。
そういうわけで、ゆのは画板に向かっている。
彼女から渡された写真には、現在のその男性が写っていた。長いこと会っていないのに新しい写真があるのは変に思ったが、気にしないことにした。
二十代半ばから後半だろうか、真面目で優しそうな青年だ。名前は黒森嵩秋というらしい。
ゆのは瞳を閉じてイメージを膨らませた。
幸せそうに寄り添うふたり。背景はどこまでも澄み渡る一面の青空。
シンプル・イズ・ベスト。
青空は、そう、まえに宮子と一緒にスケッチに行った小さな山で出会った少女が描いていた鮮やかなスカイブルー、それを思い起こしてモチーフとすることに決めた。
そうやってイメージを固めているとき、ドアの開く音がした。
買い物に出かけた宮子たちが帰ってきたのだろうか。それにしては早いような気がする。
誰だろうと思って振り向き、ゆのは予想もつかなかった人物を眼にして硬直した。
「は……ハンス先生!?」
薄緑のスーツを着た飄々とした風貌の男が、くわえ煙草でつまらなそうに口をにやつかせていた。
今年の春にやまぶき高校に転勤してきた外国人の非常勤講師、ハンス・ヴェルナー。教師としては優秀らしいが生徒達からは怖がられていてあまり評判はよくないという。
部屋にいきなり土足で侵入してきたハンスは、突然のことに驚いて口をぱくぱくさせているゆのを見下ろし、温かみのない声で言い放った。
「少し質問に答えてもらおう」
「ちょ、だ、だめですよ! いくら先生でも、ここは男子禁制なんですからっ」
あわてふためきながらも非難の姿勢をみせるゆの。ひだまり荘の規則の一つに、特別な場合を除いて、住人の家族等以外に該当する男子の立ち入りは原則禁止とある。
しかしハンスは気にとめた風もなく、大の男でもぞっとするような眼光をぎらつかせて、いらついた声を発した。
「余計な口を聞くな。俺の質問に答えろ」
ぶるぶると、ゆのは見る間に蛇に睨まれた蛙のように萎縮した。ハンスが満足げに厭らしい笑みを浮かべ言葉を続ける。
「そうそう、聞き分けのいい生徒は好きだぞ。さて最初の質問だが、お前はカサフを知っているか?」
「……カサフ? なんですか、それ」
「ふん、だろうな。ネイチャーでもないくせに知っているわけがない。では本題だ。そんなお前がオリジナルや老人と会って何を話していた?」
「な、なんのことかさっぱり……」
「ほう、嘘をつくか。身の程を知らないとみえる」
ハンスの顔つきが剣呑なものに変わったので、ゆのは涙目で椅子からずり落ちた。
「け、けけけ、警察さん呼びますよっ!?」
「呼んでも構わんが、こっちも暇じゃないのでな。場所を変えるとしよう」
そう言ってハンスが眼を細めた途端、ゆのは唐突に体の自由を失った。
それどころか、信じられないことに自分の意思とは関係なく勝手に身体が動き出し、すたすたと部屋を出ると階段を降りる。声さえも出せないことに、ゆのは恐怖した。
そのまま歩かされた先は、やまぶき高校の校舎内。
数分後には屋上に到着してようやく動きは止まったが、体の自由は奪われたままだ。
死角になっている壁を背に立たされ、口だけは動くようになった。
「わ、私をどうするつもりなんですかっ」
「何故オリジナルと何度も会っていたのか、答えてもらうぞ」
「そんなこと言われても、オリジナルなんて知りません」
「外見は、乳臭い餓鬼の姿をした女のことだ。桃色の髪に翡翠の眼をしている」
「……アスリエルさんのこと? べつに普通の話をしているだけですけど」
彼女との会話はどれも他愛のない穏やかな内容ばかりだ。アスリエル自身の詳しい素性や事情のことは殆ど話してくれなかったし、こんな暴力的な詰問をされることに思い当たる節はない。
「話さなくていい。直接調べるまでだ」
ハンスがゆのの額に片手を当てた。次の瞬間、またも信じられないことが起きた。
ゆのは頭の中を探られているという奇怪な感覚をおぼえて戦慄した。言葉どおり、「直接」調べられているのだ。
「ふん、普通の話というのは本当のようだな。生まれは山梨、中学卒業後にこの町へ引っ越して一人暮らしを始める。専攻は美術科。だが将来の指針はまだ定まっていない、か。どれもこれもつまらんことばかりだ。ご苦労な青春だな」
頭の中を、記憶を覗き込まれるということの気味悪さを感じると同時に、ゆのは少なからず怒りもおぼえた。やまぶき高校での生活、ひだまり荘の仲間たちとの日々を無思慮にけなされたくはない。
それなのに声を上げるどころか抵抗の一つもできないことが悔しかった。
「それにしてもなぜこんな小娘にオリジナルと老人が干渉する? やはり隠された何かが……」
「その子は只者です」
突然の透き通るような声音に、ハンスは愕然としてゆのから手を離した。
屋上のフェンスの上に腰かけたひとりの少女――
「貴様、オリジナル!」
「その子は、何気ない日常をあたたかな人たちの輪に包まれながら、夢に向かって精一杯歩み、ただ一生懸命に、ゆっくりと毎日を過ごしていく……正真正銘の凡俗です」
「あ……アスリエルさん」
へなへなとその場に腰を落とすゆのを優しく見つめ、アスリエルはフェンスから降りると冷たい瞳でハンスを凝視した。
「その子は私達とは何も関係ないわ。それ以上手を出すなら――」
「関係がないなら、なぜそこまで執着する」
「それは……私にとっての、可能性の模索のひとつだから」
一瞬なにかを言いよどむようにバツの悪そうな顔をするアスリエルだったが、すぐに冷静さを取り戻して淡々と紡いだ。
「フセスラフ翁の未来視によると、今夜にも、この学園は外れだという連絡があなたの上から入るはずよ」
「……チッ。いまはお前と争うつもりはない、命拾いしたな」
忌々しげに吐き捨てると、ハンスは傲慢さを剥き出しにした態度で屋上を後にした。
乱暴にドアの閉まる音がして少し経ってから、放心状態の少女のところへゆっくりと近づいていくアスリエル。
へたり込んだままのゆのの眼前にしゃがみ、顔を覗き込む。
「ごめんなさい。こうなることがわかっていたのに、私はあなたとの触れ合いを続けてしまった」
悲しげに謝るアスリエル。しかし、茫然とした意識のまま、ゆのは精一杯ふるふるとかぶりを振った。
「優しいのね、ゆのさんは。私は自分の可能性のためにあなたを利用しようとしたのに」
「アスリエルさん……」
「今日のことは忘れてもらうわね。都合のいい言い方だけど、こんな出来事の記憶は、あなたにはふさわしくないから」
それから、あなたにお願いした絵はもう描かなくてもいいから、とつけ加えた。
そうして顔を近づけてくるアスリエルに、ゆのは、ひたむきな眼差しで言った。
「わ、わたし、アスリエルさんにお願いされた絵は――描きます!」
「ゆのさん……?」
「ぜったいに描きますから、いつかきっと、受け取ってくださいっ」
アスリエルは、神秘的なエメラルドグリーンの双眸をぱちぱちとさせて面食らった。十数年前の、ある少年の姿が、言葉が、フラッシュバックする。
それは『約束』――かけがえのないもの。
想いは一瞬、アスリエルはそっとゆのの額に口づけした。
たちまち安らかなまどろみに包まれ、少女の意識は遠くなっていく。最後に眼に入ったのはやわらかい微笑。
ゆのが眼を覚ましたとき、そこには誰の姿もなかった。
「あれ? 私、どうしてこんなところに……」
きょとんと周囲を見回す少女の顔を、鮮やかな夕陽が照らしていた。
その夜、ゆのがいつものようにバスタイムを楽しんでいると、裸にタオルを巻いた宮子が入浴用具片手にバーンと浴室に入ってきたではないか。
「み、宮ちゃん、また水道止まったの?」
「さすがゆのさま、慣れていらっしゃる。ということで一緒に入らせてー」
「もう〜。うちだからいいけど、ほかでやっちゃいけないよ?」
「もちろんですとも。――やるときはここと決めておりますんで」
時代劇口調の宮子に、湯船の上で思わず苦笑するゆのだった。
夏休みが終わり、そして始まる新学期。
非常勤講師だったハンス・ヴェルナーが転勤でやまぶき高校を去ったことを知ったとき、ゆのはなぜか心の底から安堵をおぼえたのだが、その理由はわからなかった。
「事は済んだようだね」
杖をついた外国老人が、やまぶき高校を眺めているアスリエルに近づく。
「もう連中が彼女を狙うことはないだろう。私たちもこの町を離れるかね?」
暫しの静寂の後、薄桃色の髪の少女は、ううんと首を振ってみせた。
「もう少し留まろうと思います。あの子にはまだ大きな問題が残っているから……このまま放っておいたら彼女がこの世界から消えてしまうことになるかもしれない」
「だが、それはあの少女自身の問題だ。君が関与することではないだろう」
「あの子は、ゆのさんは、私がお願いした絵を、描きますと言ったの。ぜったいに描きますって、まっすぐな眼をして……」
アスリエルは確たる意思を込めて言った。
「だから、私は彼女を助けてあげたい」
「君がそう決めたのであれば私が口を挟む余地はない。君の思うとおりにするといい。その行動が君の未来を変えることはないのだから」
そうして老人と少女の瞳は微かに交錯するのだった。