第9話「姉と妹」


「泥棒だー!」

 事件は、ひだまり荘の一〇二号室から響いたその一声から始まった。

「どうしたの沙英?」

 隣室からの大声を真っ先に聞きつけたヒロが、一〇一号室からおっとり刀で駆けつけた。料理でもしていたのか、エプロンを身につけたままである。

 しかし彼女のそんな状態にも突っ込む余裕がないらしく、

「ああ、ヒロ、大変だよ! 私の部屋が泥棒に入ったみたいなの」

「ええ? 言いたいことはわかるけど、落ち着いて。それは本当? なにか盗られたの?」

「あそこ!」

 ビシッとテーブルを指差す沙英。

 そこには衣服が包まれていたと思しき、空の紙包みがあった。

 ヒロが困惑のまなざしを向けると、幾分か落ち着いてきた沙英が、こほんと咳払いして眼鏡のズレを直し、その瞳に理性の光を宿しだす。

「昨日買ったばかりの服をそこに置いていたんだけど、編集者との打ち合わせから帰ってきたら……」

「なくなってた、ってわけなのね」

「そう。せっかく綺麗にラッピングしてもらったのに」

「ああ……明日は智花ちゃんが来るんだものね」

「べ、べつに、そういうわけじゃないよ? ただちょっと懐に余裕ができたし、たまには妹に服でも買ってあげようかなって思っただけで」

「はいはい」

 真っ赤になって言い繕う親友にゆったりしたほほえみを向けるヒロ。ここ最近、沙英がこっそりとファッション雑誌を買い漁って読んでいたことを知っていてのほほえみだ。

「仮に盗まれたとして、犯人はどこから入ったのかしら」

「それが……出かけるとき急いでたから、ベランダを閉めるの忘れてたみたいで」

 沙英が半開きになったベランダの窓をがっくりと指差す。ついでに携帯を持っていくのまで忘れてしまっていたのだがこれは口にしないでおく。

 普段ならそんなミスは犯さないのだが、締め切りが近くてついうっかりという体たらくだ。

「でもおかしいわね、他に何も被害がないなんて」

 なくなっているのは妹へのプレゼントだけで、金目のものはもとより他に何も盗られていないというのだ。

「やっほー、沙英さん、ヒロさん、なにか事件でも?」

 二階から降りてきた宮子がいつもの笑顔であっけらかんと部屋に入ってきた。

「ああ宮ちゃん、大変よ。実は……」

 ヒロに事情を聞かされ、本物の事件らしいことを知った宮子は、頭を抱えている沙英のほうを向いて真剣な表情で眼を細めたではないか。

「して盗まれた服はどんなものだったので?」

「普通のカジュアルなやつだよ」

「裏は花色木綿?」

「違うけど……なんで?」

「それなら丈夫で暖かかな〜と思って」

「いや、この真夏にそんなのプレゼントしたら嫌がらせでしょっ」

 どうも宮子を相手にするとペースが狂う。

 沙英はぶんぶんと頭を振って、現状どうするかを考えた。

 完全に空き巣に入られたということが明確ではない以上、警察沙汰にするには早すぎる。まずは自分達のできる範囲で調べてみるべきだろう。

「ところで沙英さん、その服は智花ちゃんの好みに合うようなやつー?」

「それはわからないけど……たぶん問題ないと、思う」

「智花ちゃんの全てを知っていると思ったら大間違いだっ!」

「少なくとも宮子よりは知ってるつもりだよ」

 そう言いながらも、どこか心配げな挙動を見せる沙英であった。

「まあまあ、そのためにそういう雑誌に眼を通して選んだんだから大丈夫よね」

「う、ヒロには気づかれてたかぁ」

「それに、沙英が心を込めてプレゼントしてくれたものなら、智花ちゃんはきっと嬉しいはずよ」

「だ、だからそこまでのことじゃ……」

 おおいに赤面して言葉を詰まらせる。やはりヒロにはかなわない。

 話題を変えようとして、ふと気づいたことを口にした。

「そういえばゆのはどうしてるの」

「ゆのさん? さあ、私は知らないけど」

「はいはーい、ゆのっちならさっき散歩に出かけたよー」



 ゆのは、最近よく足を向けるようになった公園を訪れていた。

 周囲をぐるりと見まわしても、儚げな雰囲気の外国人少女の姿はなかった。

「そんな都合よくいるわけないよね」

 思わず苦笑するゆの。

「誰を探しているのかね」

「わっ」

 突然背後から声をかけられ、びっくりして振り向く。

 そこには、ひと目で外国の人間とわかる、青い眼をした老人が立っていた。

「君が探しているのは、桃色の髪に翡翠の瞳をもつ少女かね」

「!」

 とても流暢な日本語だと感心する前に、かけられた言葉の内容に困惑を隠せない。

 どうしてという顔をしていると、老人は静かに口を開いた。

「私の名はリオ・フセスラフ。彼女……アスリエルの、保護者ということになるかな」

「アスリエルさんの!?」

 突然現れた外国老人の思わぬ自己紹介に、ゆのは眼をぱちぱちとさせて驚きをあらわにする。

「少し話をさせてもらってもいいかね?」

 そう言われたものだから、反射的にこくこくと頷くほかなかった。

 噴水広場のベンチに腰をかけ、老人と少女は穏やかに会話を交わす。といっても、基本的にはリオ老人が話をふってはゆのが受け答えするという感じである。

 ゆのにはリオ老人のことは判然としないところが多かったが、アスリエルと似た不思議な雰囲気、どこか達観したような人間性が垣間見えるのだった。無論、リオ老人の場合は見た目から歳相応という言葉がふさわしいため、ギャップを感じることはない。

 しばらく話をして、おもむろに老人が口もとを綻ばせた。

「成程、アスリエルが何度も会う気になったのがわかったような気がするよ」

「えっ?」

「私と彼女は特定の個人への干渉はしないことにしているのだよ、かれこれ十数年も前からね。だから君は、『彼』に関すること以外の件でアスリエルが心を寄せた数少ない人間ということになる」

「えと、あの?」

「本当なら私は君に近づくつもりはなかったのだが……人間どうしても興味だけは抑えられないようだ」

 自嘲気味に薄い笑みを浮かべ、リオ老人は、きょとんとする少女へおごそかな眼差しを向けると、すまなさそうに眼を伏せた。

「すでに彼女が何度も君に干渉しているとはいえ、私まで出張ったら連中が動くだろうな。何も話せないのは心苦しいが、先に謝らせてもらおう」

 深々と頭を下げられて、ゆのは何がなんだかわからずおろおろするばかりだった。

「ではそろそろお別れだ。私が君に接することはもうないと思うが、ひとつだけ聞かせてほしい。……君はアスリエルのことを大事に思っていてくれているかね?」

 リオ老人の言うことは殆どわからないことだらけだったが、

「はいっ」

 それだけははっきりと答えることができた。

 陽光のもと、少女のさわやかな返事と、老人の微笑との間を、真夏のそよ風がそっと通り過ぎていった。



 散歩の帰り道、正面から声をかけられた。

「あっ、ゆのさーん、こんにちわー」

 濃紺の髪をした人懐っこく明朗そうな少女が、にこやかに手を振って近づいてくる。

 沙英の二つ年下の妹、智花だった。

「智花ちゃん?」

 今度は見知った顔なのに、ゆのはまたもびっくりしてしまう。智花が来るのは明日だと聞いていたからだ。

「こっちに来るのは明日じゃ」

「それが、急に前倒しになっちゃって……一応午前中にお姉ちゃんにメール送ったんですけど、聞いてません?」

「そうなんだ。私、今日はまだ沙英さんと会ってなくて」

「ゆのさん散歩の途中か何かですか」

「うん。ちょうど帰りなんだけど、よかったら智花ちゃんも一緒にいく?」

「はい♪ わたしもまだお姉ちゃんとも誰とも会ってなくて、今日ゆのさんが最初だったり」

 そうしてゆのは、智花と一緒にひだまり荘への帰路を辿ることになった。

 楽しくやりとりしているうちに、ゆのは智花の服装へと話題を移す。

「その服かわいいね」

「そうですか?」

 智花が妙に嬉しそうにして頬を桜色に染めた。

「実はこれ、お姉ちゃんからのプレゼントなの」

「わっ、そうなの?」

「正午過ぎにひだまり荘に到着したんですけど、ベランダにまわってみたら窓が半分開いてて……中に入ってみたら誰もいなくて」

 それでテーブルに眼をやると、きれいにラッピングされた紙包みが置かれてあり、『智花へ』と書かれたメッセージカードが添えられてあったのだという。

「お姉ちゃん粋なことするなあって思って、その場で着てみちゃいました♪」

「よかったね、智花ちゃん」

 おおきく頷く智花の笑顔に、ゆのはなんだか自分まで嬉しい気持ちになった。



 ひだまり荘一〇二号室では悩ましい空気が室内を充満していた。

 各々の部屋などをいくら探しても見つからず、とりあえず今から隣町のデパートまで服を買い直しに行こうかという方向に思考を寄せる沙英。

「一応ゆのさんにも電話して事情を話したほうがいいんじゃない?」

 ヒロにそう言われ、仕事机の脇に置き忘れていた携帯をそそくさと手にすると、二通の着信メールがあった。

 送信者は二件とも妹。

 一通目は、来訪が前倒しになったので昼前には到着するという旨。

 そして二通目の内容を眼にし、沙英は呆気にとられたようにあんぐりと口を開けた。

 プレゼントに対する喜びとお礼の言葉だった。

 ゆのと智花がひだまり荘に戻ってきたのは、ちょうどその直後である。



「ふう〜」

 ゆったりと浴槽に浸かりながら、ゆのは見ているだけでほほえましくなってくる姉妹の様子を思い返していた。

 それから自分も家族のことを考えてあたたかい気持ちになった。

 以前両親がひだまり荘を訪ねに来て、父が沙英のことを男だと勘違いして慌てふためいたりしたのもいい思い出で、宮子たちのことを好ましく思って安心してくれたのは何より嬉しかった。

 そして――

「アスリエルさんにも家族に近い人がいるみたいでよかった」

 公園で出会った不思議な老人。事情はよくわからないけれど、それでも、両親のことを知らないというアスリエルにも近親者らしい人間がいることにホッとしたのだ。

 夏休みも半ばを過ぎた、穏やかな日のことだった。