第8話「スケッチブック」
ふらふらの足が最後の一歩を踏んだ。
「はあ〜、やっと頂上だよー」
「ゆのっちお疲れー」
中腰ではあはあと息を切らすゆの。先に到達していた宮子が手を振って迎えた。
浅葱町から電車で数駅ほど行ったところにある小さな山。その頂上から見える景色がとても鮮やかだと校長先生から聞いたゆのは、宮子を誘ってスケッチに足を運んだのだ。
同じ美術科でも、活発な宮子と違って完全インドア派、しゃがんだ瞬間にパキッと大きく膝が鳴るゆのだけあって、体力の消耗も結構なものだった。
しかし、頂上にはそんな疲労を吹き飛ばすくらいの風景が広がっていた。
「絶景かな、絶景かなあ」
歌舞伎口調でポーズを決める宮子の隣で、ゆのは眼を閉じて静かなそよ風を感じた。汗ばんだ肌にまとわりつく空気が清涼この上ない。
「それじゃ宮ちゃん、私向こうで描くから」
「じゃあ私はあっちー」
指差した方向は正反対。ひとりだと落ち着いて描けるので問題はない。
午後三時にこの場所に戻ることを約束し、ゆのは宮子と別れた。
「う〜ん……」
鉛筆を走らせる手を止め、ゆのは小さくのびをした。
山の稜線はすらすらと描けたのだが、青空が思うようにいかない。確かに素晴らしい景色ではあるものの、眼前に広がる一面の空をうまく表現できないのだ。
だからといってなるべく妥協はしたくない。少なくとも自分で描いたものは自分が納得できるものでなければ。
「ちょっと休憩しよう」
煮詰まった頭をリフレッシュするため、スケッチブックを閉じて腰を上げた。
なだらかな傾斜を少し下った先に――同士を見つけた。
宮子ではない。見た限りはゆの自身とさして変わらない幼さだ。銀色がかった白髪のボブカットに、麦わら帽子をかぶった白いワンピース姿の少女。
「わ――」
ゆのは思わず声を漏らした。
少女が画板に広げた用紙には、驚くほど深く鮮やかなスカイブルーが絵筆から生み出されていたのだ。
「ん?」
くるりと振り向く少女――その赤い瞳はさながら紅玉のよう。
吸い込まれそうな赤眼に見つめられ、ゆのはあたふたと手を振った。
「い、いえっ、なんでもないですっ。きれいな空だなあと思いまして……あ、私もスケッチにきていて、その」
「……ありがとうございます」
テンパったゆのの様子をきょとんと眺めていた少女だが、やがて、ゆっくりと、穏やかな微笑を向けるのだった。
歳というか、容姿はさして変わらないのに、その落ち着いた表情や態度はどこかアスリエルを思い起こさせる。
「空が、好きでした」
「え――?」
「ううん、好きというよりかは、憧れていたんです。あの大空が、自由な空が。だから、ずっと空ばかり描いてました」
まるで年輩の老人が昔を懐かしむような、そんな静かな声音で眼を伏せる少女。ゆのは暫しきょとんとして、でも、そこに優しい空気を感じ、ふっと温かな気持ちになった。
「いいですよね、空。私もたまに学校の屋上から見渡すんです」
「そうなんですか?」
「はい。穏やかに広がる水色は、ぼんやりとした優しい色の空で、世界はひとつで私たちの未来もそのなかに流れているのかもしれない……って、そんなことを思ったりもします」
「世界はひとつ……そうですね、長いこと閉じた場所にいた私も空を見るとそれを感じることができた。風の息吹が運んできてくれるものだから」
何か思うところがあるのか、少女はゆのを見つめてルビーの瞳をまたたかせる。
「思い思いに流れていく雲がそう感じさせるのかもしれませんね」
そう言ってほほえむ少女はとても魅力的で、
「あ、あのっ。見ていてもいいですか」
「なにを?」
「その、絵を描いているところを、しばらく見ていたくなって……邪魔しないように後ろでじっとしてますから」
いつの間にかゆのはそんなことを口走っていた。
初対面でこんなことを言うのもどうかと思ったが、しかし少女は気にした風もなく快い返事をくれた。
「構いませんよ。退屈でなければ好きなだけどうぞ」
「ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げて、斜め後ろに移動するゆの。そうして、少女が空に向き直ってふたたび絵筆を走らせる様子を眺めるのだった。
「こんなとこかなー」
涼やかな景色をスケッチした紙を見つめ、宮子はうんうんとひとり頷いた。
それからおもむろに立ち上がって周囲の散策に移る。
程なくして一人の少女が木々をスケッチしているのを発見した。
歳は同じくらいだろうか、黒髪ボブカットの控えめそうな少女は、開いたスケッチブックに、真剣な表情で黙々と鉛筆を上下左右に動かしているのだった。
宮子が背後からじーっと眺めていると、それに気づいた少女が恥ずかしそうにスケッチブックを手で隠した。
「えっと、あの……?」
「あ、ごめんごめん。うまい絵だなーって」
太陽のようなにっこりとした笑顔で、裏表のない素直な感想を口にする宮子。
一気に警戒心が解けた少女は、続いて眼をぱちぱちとさせて、びっくりした表情を形作る。
「ほ、本当ですか?」
「うん。独特の発想に基づいた描画がすごいって感心したよー」
「……ありがとうございます!」
よほど褒められたことがなかったのか、少女は見る間に喜色満面となって嬉しさをこれでもかとあらわにした。
「うーん、私も負けてられないなー。それじゃっ」
創作意欲を新たに刺激された宮子は、そのままスパッと山道を駆けていった。
それから入れ替わるように、ラフな格好の青年が近づいてきて、少女の隣にしゃがんだ。
「どうした栞、やけに嬉しそうな顔して」
「祐一さんっ。あのですね、今さっき一人の女の子が、私の絵をうまいって褒めてくれたんです!」
「な、なんだってー!」
驚天動地のリアクションを見せる青年に、少女は得意そうにスケッチブックを開いた。それをまじまじと凝視した青年は、ひとつ溜息をついて少女の肩をたたいた。その眼には軽い哀れみの光が宿っている。
「きっとあれだ、その女の子はあまりにも衝撃を受けすぎてどうフォローしていいかわからなくなったんだ。それでとりあえず誰にでも言える褒め言葉を口にしたってとこだな」
「祐一さん、ものすごく失礼なこと言ってますよ?」
「悪い、これでもオブラートに包んだつもりだったんだが」
「そんなこと言う人、嫌いです」
唇をとがらせて拗ねた顔をする少女だったが、青年が優しげに口もとを綻ばせると、つられるように微笑に転じた。二人の関係がこのうえなく良好なことをあらわしていた。
「さて、そろそろ帰るか?」
「そうですね。あんまり遅くなったらお姉ちゃんが心配するかもしれませんし」
笑顔で返事して、少女は、異次元の潅木にしか見えない風景画の描かれたスケッチブックを水色のトートバックに仕舞うのだった。
画板の用紙に完成された青空に、ゆのは惜しみなく賛美の声をはずませた。
「すごいです、こんなにきれいな空が描けるなんて……」
「ありがとうございます」
穏やかにほほえむ少女は、静かな、あたたかい眼差しでゆのを見つめる。その純粋さを愛でるように、包むように、そっと。
遠くから声がした。振り向くと、グレーのシャツを着た青年が少女を呼んでいた。
ひかり、と。
まことさん、と少女が返した。
「ごめんなさいゆのさん、私はもうこれで――」
「あっ、はい、その……絵を描いてるところ、見させてもらってありがとうございました。勉強になりましたっ」
ぺこりと頭を下げて、ゆのはあたふたと少女と青年を交互に見やった。
「お兄さん、ですか?」
ゆのが何気なくそう言うと、少女の顔にほんの少し苦笑が浮かんだ。
それから小さく首をふるふると振って、
「夫です」
満面の笑顔を残し、青年のもとへぱたぱたと駆けていく少女。
ゆのはただ、呆気にとられたように、ぽかんと立ち尽くすのみだった。
「ゆのっちー」
「あ、宮ちゃん」
宮子が傾斜を下ってきたのは、ちょうど青年と少女の姿が見えなくなった頃である。
互いのスケッチを見せ合う二人。当然ながらゆのは描きかけの空が広がっていたが、宮子はそれをいつかの発表会のときのように深く解釈しようとしたので、ゆのは照れながら説明する羽目になった。
「それでね、その女の人の描く青空がものすごく心に訴えかけてくるものがあって……さっきまで見ていたの。宮ちゃんにも見せたかったなあ」
「そういうことなら私もあったよー。さっき風景画を描いている女の子に会ったんだけど、すごい独創的で見事だったなー」
「そうなんだ。私たち、なんだか得した気分だね」
「だねー。うむ、きっとおいなりさんが出逢いと発見を与えてくれたのだ」
「あはは、もしかしたら近くに稲荷神社があるのかも」
なごやかに笑いあう。
こうして思いがけぬ充実感とともに日は暮れてゆくのだった。
ひだまり荘二〇一号室のバスルームで、ゆのは心地よくお風呂に浸かっていた。
「今日はいいことがあったな……私と宮ちゃんのほかにもスケッチに来てる人がいるなんて、あの山は本当に穴場なんだ。そういうところを知っていて教えてくれる校長先生はやっぱり立派かも」
湯船のぬくもりに包まれながら、校長先生の大きさを感じるゆのであった。
翌日、そんな気持ちを吉野屋先生に話してみたら、彼女はほがらかにこう言った。
「校長先生は、大きくは見えましても、半分は顔です♪」
「……」
どうリアクションしていいかわからず、あ然と眼を丸くするゆの。
楽しげにほほえむ吉野屋先生の背後から、こめかみをぴくぴくさせた面長の影が近づいていた。