第7話「ゴールデン・サラスヴァティー」
初夏の日差しがオレンジに変わりつつある放課後。
『みんなで今晩七時に大家宅へ集合するべし 大家』
一〇二号室のテーブルに置かれた一枚の用紙を前に、ゆの、宮子、沙英の三者が眼をぱちぱちさせる。ひだまり荘の玄関に貼られていた手書きの紙切れだった。
「大家さん、いったいなんの用なんでしょう」
「みんなでってところが引っかかるね……わざわざ全員を自宅へ呼びつけるんだから、普通の用件じゃあないとみていいかもよ」
推理風の仕種で眼鏡の奥の瞳を細める沙英に、ゆのは小さく眉をひそめる。
「わ、私たちに何か関係あることなんでしょうか」
「そこまでは分からないけど。この一文から読み取れる情報量は少なすぎるし……宮子はどう思う?」
「うーむ……」
ダメもとで訊いてみる沙英だったが、存外に宮子が頭を悩ませる様子を見せたので、思わずゆのと顔を見合わせた。
単刀直入な思考回路を持っている感性主体の人間というイメージが強い宮子。しかし中学の時は優等生だったようで、やまぶき高校にも推薦で試験を受けて入学したほどだ。
何か鋭い答えを提示してくるかもしれない――期待に満ちた二対の眼差しが、ロダン作の彫像のごときポーズを取る少女に注がれた。
「もしかすると……」
「もしかすると?」
「今日、吉野屋先生が無断欠勤したことが原因では」
「……そういえば校長先生、すっごく怒ってたよね」
「いや、それはそれで気になるけど、大家と関連性はないでしょ」
「じゃあ――私が先月の家賃をまだ払っていない件についてかも」
するりと口から排出した言葉は、ゆのと沙英をしばらく沈黙させるに不足はなかった。
やがて、溜め空気は一気に放出。
「み、宮ちゃん、お家賃払い忘れたの!?」
「ちょ……普通よっしーの欠勤よりそっちが先に浮かぶでしょ!」
驚きのあまり吉野屋先生をあだ名で口走ってしまう沙英。猛烈なツッコミにも宮子はあっけらかんとしたものだ。
「いや〜、予想外の出費をする羽目になってさ、先月分が払えなくなって……大家さんには一応ワケを話して待ってもらったんだけどなあ」
「払い忘れたんじゃなくて、払えなかったんだね……」
宮子の経済状況は推して知るべし。ジト汗を垂らすゆのであった。
「と、とにかく、呼び出しの見当は宮子のそれで間違いないわ。連帯責任で全員にお小言って寸法だよ」
「宮ちゃん、話してくれれば相談に乗ったのに……」
「とりあえず今から大家のとこへ頭下げに行かないと。不足分は私がなんとかするから」
「おお……二人とも、私のためにかたじけないっ」
「こっちにとばっちりが来るからよっ!」
感涙する宮子に、沙英はたまらずグオーッと声を張り上げる。そのまま宮子の首根っこを引っ掴んで部屋を出ようとしたところで、ドアが開いた。
買い物袋を手に提げたヒロだった。
「あら、みんなしてどうかしたの?」
「遅いよヒロ。大家の呼び出し。ワケあって小言もらうだろうから謝りにいくところなの」
手短に伝える沙英だが、
「ああ……なるほどね。――ううん、それ、小言じゃないわよ」
と、ヒロは訳知り顔で微笑んだ。
「実はさっき大家さんから電話があってね……」
テーブルを囲む四人。事情を知っているらしいヒロが説明を始めた。
「今日の昼下がり、大家さんが空き部屋のチェックをしにきたら、一〇三号室で金の弁財天の置物を見つけたみたいなの」
「金の置物って、そんなものが一〇三号室に置いてあったの?」
「といっても金メッキらしいけど……それで、おめでたいから店子一同を呼んでご馳走することにしたんだって」
「ご馳走!?」
「こら宮子、目を輝かせないのっ」
「そうだったんですか。でもそれでみんなを呼んでお祝いなんて、大家さんらしいですね」
ゆのが両手を合わせて優しい笑顔を見せる。それだけで、どうしてそんなものが部屋に置いてあったのかという疑問は三人の頭から消し飛んだ。
「それでは皆さん、さっそく大家宅へ向かいましょうっ」
「宮子……紙には今晩七時って書いてあったでしょ」
「そうだ、もうひとつ。おめでたいお祝いの席だから、一張羅を着て上がってほしいって言ってたわ」
「ええっ!?」
追加情報に声を揃えてどよめく三者。伝えたヒロ自身も顎に手を添えて難しい顔をした。
「お祝いの席での一張羅っていったら、やっぱりちゃんとした盛装ってことよね……」
脳裏に浮かぶのはパーティーで着るような、きらびやかなドレスの数々。
「わ、わたしそんなの持ってません……」
「私もー」
「うーん、じゃあ、沙英は?」
「残念だけど右に同じ」
「そっかあ……うん、わかった、ちょっと待ってて」
三人の返事を聞き、何事か思案していそいそと出て行くヒロ。数分後、戻ってきた彼女は右腕に絹の衣装を抱えていた。
バッと広げられたそれは、落ち着いたデザインをしたスカイブルーのドレスであった。
「わあ〜、きれいなドレスですね」
「中学のとき、親に買ってもらったものなの。これなら盛装として申し分ないとは思うんだけれど……」
「けれど?」
「それ一着しかない。そういうことでしょ」
ヒロは沙英にこくんと頷いてみせた。つまり盛装できるのは一人だけ。
他の誰かに借りようにも、間に合わせの素材で自作しようにも、今はもう夕方。はっきりいってそんな猶予はない。悩んでいるうちにも刻々と約束の時間は近づいてくる。
やがて、ゆのが言った。
「こうなったらみんなで交代に着るほかないんじゃないでしょうか」
大家の家はひだまり荘から二十分ほどのところにある。
濃い空色のドレスで着飾ったゆのを見て、くわえ煙草の女が感心の笑みを浮かべた。
きっぷのよさそうな顔をした若い女性。ひだまり荘の大家である。
「うわ、見違えるようだね。そんなおめかししてくるなんて驚いたよ」
「見違えるなんて、そそ、そんなことないですよっ」
ヒロが中学のときのものとはいえ、ゆの自身の背格好的にロングドレスに見える。
いつもとあまり変わらないラフな格好の大家に違和感を覚えながらも、ゆのはわざとらしく周囲をきょろきょろと見回した。
「誰も来てないようですから、ちょっとその辺で連絡してきます」
「ん? ここですればいいじゃないの」
「えと、私の携帯いま調子が悪いみたいで、ここじゃ電波が繋がらないようなんですっ」
「そうなん?」
「そ、そうなんです、ごめんなさいっ」
ぺこりと謝って道の角のほうへ消えていくゆの。
しばらくして、やって来たのは宮子だった。スカイブルードレスは言うまでもなく使いまわしであるが、ゆのとの身長差もあってスカート丈は膝上までだ。
「大家さん、こーんばんわー」
「よっ、相変わらず元気がいいね。なに、あんたも同じドレス?」
「あれー、じゃあゆのっち来てたんだー」
「ついさっきね。携帯の調子が悪いから向こうのほうで電話してくるって」
「それじゃ、ゆの呼んできまーす」
「ここで待ってればいいじゃん。すぐにあの子から電話かかってくるだろうし……って、なんでそこで固まる」
「しまったー、携帯を部屋に置き忘れてきたんだったー。ちょっと取ってきまーす」
いま思いついたかのような物言いで走り去ろうとする宮子を、大家はがしっと引き止めた。
「いいからあんたは上がりな」
「……そーしたいのは山々なのですが、トイレに行きたくなってもきましたので」
「ならうちのを使えばいいから」
「大家さん……ここで私がお宅に上がっちゃうと、ほかのみんながこのドレスを着てこらんないとか思ったことないでしょ」
「は?」
肩越しに線目でそう言われ、目が点になる大家。嘘のつきようがなくなり、思わず本音を口走ってしまった宮子の真意など分かるはずがない。
大家がふと視線を逸らすと、向こうの角からこちらを覗き見ている少女たちと目が合った。
「悪い悪い、余計なこと言ったみたいだね。一張羅っていっても、よそいきくらいの感覚だったんだけどさ……とりあえず今日は無礼講だから、上がってちょうだい」
理由を知った大家はあっけらかんと笑って四人を家に上げた。
通された部屋の奥には、ひだまり荘の一〇三号室で発見されたという金の弁財天が置かれていた。驚くべきことに等身大である。
そして、テーブルに盛り付けられたオードブルを前に、宮子を筆頭に歓声が沸いた。
「い、いいんですか? こんないっぱい、ご馳走になっても」
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然――かどうかはともかく、夢を目指して頑張ってる子たちに、親からの景気づけくらいしようかなってね」
「大家さん……」
じーんときて瞳をうるませるゆの。大家の粋な計らいに感動。
「ヒロは食べる量セーブしないで大丈夫?」
「う……い、いいのっ、今日は無礼講なんだからっ」
「じゃあ始めようか。みんな遠慮なく飲んで食べてって」
「おおお、ではいただきまーす!」
そして宴は始まった。
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎの最中、その音は突然にした。
沙英とヒロが眼をやると、金の弁財天がガタガタと動き出していたのだ。
「おわっ!」
「きゃああっ?」
眼を剥いて背後の襖まであとずさる二人。ひょいと視線を移した大家は、
「ありゃ、弁財天さま、あんまり騒々しいから逃げ出すんですか?」
ジョッキ片手にそう言った。もうすっかりできあがっている。
「だめだこりゃ。おーい、ゆの、大変だよ。――ゆの?」
沙英が顔を向けた先、ゆのはテーブルに突っ伏していた。近くにビールの入ったグラスが転がっていることから、間違って飲んでしまったらしい。
「弁財天お前もかーっ!」
今度は何事かと振り向くと、こちらも酔っているらしい宮子が、弁財天の置物を両手でのっしと持ち上げていた。男子にも劣らぬ結構な力持ちだったりする。
ぐらりと揺れた。沙英とヒロが止める間もなく、持ち上げた弁財天ごと床にぶっ倒れる宮子。そのまま寝息をかき始める始末だった。
「あっ、見て、沙英!」
「どうしたのヒロ……って、うわっ、よっしー!?」
二つに割れた置物の中から吉野屋先生が出てきたのだから、驚くのも無理はない。
「あらあ、ここはどこですか? あらあらみなさん、この騒ぎはいったい?」
「それはこっちのセリフですよ……どうして吉野屋先生が」
「どうしてって、私は今朝、弁財天の衣装制作の参考に、雰囲気を実感するため置物を作って中に入ってみたんです。そしたら出られなくなってしまって……そのまま寝てしまったんです〜」
そして目が覚めたらこの状況だったというわけだ。泥酔しているゆのと宮子を除いた一同、呆れた理由に空いた口が塞がらない。
「先生、あなたまた一〇三号室を無断使用したんですかっ!」
「ひううっ、寝起きに怒鳴らないでくださいー」
さすがに酔いが覚めた大家が一喝する。吉野屋先生は以前、一〇三号室が空き部屋で鍵がかかっていないのをいいことに、ワードロープとして利用していた前科があった。
――もはや収拾つかず。
深夜の二〇一号室。一眠りして目が覚めたゆのは、水を飲んでからお風呂に入った。
「今日はもう何がどうなったのかよくわからなかったな……」
なにしろ気がついたら自室のベッドの上である。きっと三人のうちの誰かがここまで運んでくれたのだろう。
「とりあえず明日ちゃんとお礼を言おう」
今はただ、湯船の心地良さに身を委ねるゆのだった。