第6話「五月闇」


 梅雨の合間、珍しく晴れた日の夜。

 朝から天日干ししていたサンマを皿の上に載せ、

「いただきます」

 軽く両手を合わせてから、宮子は、意気揚々と「夕食」を口にした。

 十分後――テーブルの上には、空になった皿一枚。

 宮子は満足気な表情で幸せを満喫した。



 数日後。

 どんよりと曇った空。夏も間近に迫った晩春の日曜。

 公園のベンチで、ゆのはアスリエルとなごやかに談笑していた。

 天気が悪いからと家に閉じこもるのもなんなので、気晴らしに散歩に出た。公園に足を踏み入れたところで、なんという偶然か、ぼんやりとたたずむアスリエルを見つけたのだ。

「ふうん、ゆのの実家は山梨なのね。その歳で一人暮らしなんて、えらいわ」

「そ、そんなことないですよ〜。宮ちゃんたちがいなかったら、うまく生活に馴染めたかどうかわかりませんし……あ、そうだ、アスリエルさんはどこの生まれなんですか?」

 なんとなく訊いただけなのだが、翡翠の双眸はほんの少し憂いを佩びた。

「……ロシア」

「わあー、そうなんですか。じゃあロシア人なんですね」

「どうかしら……私は生まれたときからひとりだったから、両親がどこの国の人間なのか知らないの」

「え……あの……そのっ」

 言葉のニュアンスに違和感を覚えたものの、答えにくい質問をしてしまったようなのは確かだ。

 二の句が出ない。話題を変えないと。

「あ、えっと、一人暮らしの話に戻りますけど、アスリエルさんのお住まいは?」

 こうして何度も出会うことを考えると、同じ浅葱町に住んでいるのだろうか。

「わけあって、この近くにあるホテルで暮らしてるわ」

「わ、ホテル生活なんて……リ、リッチガールなんですねっ」

「そうなのかしら? 自分ではよくわからないけど」

「あれっ、でも確かこの近くでホテルっていうと――」

 ふと思い出し、ゆのはあるホテル名を告げた。アスリエルが頷いた。

 それは、やまぶき高校の入試前日に、ゆのが泊まったところだった。

「あそこですか〜。三時間も電車に乗った後で試験なんて受けられないでしょって、お母さんがホテルとってくれたんですよ。懐かしいなあ……部屋も広めでベッドもふかふかで、あっ、でも、眠れないと大変だから自分の枕持ってきたんですけど、そしたらぐっすり寝すぎちゃって……翌朝お母さんに慌てて起こされました」

 照れ笑い。つい声が弾んで次々と喋ってしまったが、ハッとして顔を赤くした。

「わ、ごめんなさい。一方的にべらべらと――しかも自分のことばかり」

「ううん、いいの。ゆのの話を聞いていると楽しいし、それに、私には人が聞いて愉快になるような過去や出来事はないから」

「そんなこと……」

 ないですよ、とフォローするには眼前の少女のことを知らなさすぎる。ゆのは何も言えなかった。

 アスリエルは気にしていない風だが、なんとなく軌道修正を図りたい。スカートのポケットに手をやって、あっと思った。

「そうだアスリエルさん、携帯持ってますか?」

 もともと連絡先を訊くつもりだったのだ。できれば電話番号を交換したい。

 ところが、返ってきたのは予想外の返事だった。

「……携帯って、なに?」

「え? 携帯電話……ですけど」

 まさかとは思うが携帯を知らなかったりするなんてことは。――ゆのは水色の折りたたみ式携帯電話を見せた。アスリエルは眼をぱちくりとさせ、やがて納得がいったというような表情に変わった。

「ああ、よく街の人が片手に持ってる、――小型通信機のことね」

「こ、小型通信機」

 ぽかんと反芻した。意味的には間違っていないが、そんな呼び方をするとは。

「残念だけど持ってないわ」

「そうですか……」

 それなら仕方ないが、少しがっくり。

 そんな態度を見て取ったか、アスリエルはメモ帳を取り出して何か書き出した。一行で事足りたそれを、ゆのに手渡す。

「ホテルの、私の部屋の番号。こんなのでよかったら」

 ゆのはみるみる眼を丸くした。

「あ、ありがとうっ! あのっ、それじゃこれ、私の携帯の番号です、よかったら」

 液晶ディスプレイに映った番号をメモし、アスリエルは薄く微笑んだ。

 距離が縮まったような気がして、ゆのは嬉しさがこみ上げてきた。

 気分は晴れやかだが、ふと見上げると、朝から変わらず厚い雲で覆い隠された曇り空。

「……こういうのって、たしか、五月闇って言ったような」

「さつきやみ?」

「はい。五月雨が降る頃の、どんよりと曇った暗さのことをそう言うみたいです」

 カーキの瞳いっぱいに広がる、今にも崩れそうな不安定な空。

 晴れた日の校舎屋上で見上げる青空は、どこまでも高く果てしなく、どこまでも広がる未来のような爽やかさを感じる。

 しかし、いま眼の前に映るのは、まるで閉ざされた世界。未来のない静寂。

 風薫る五月の闇――

 噎せかえるような緑の薫りを感じ、ゆのの意識は遠くなっていった。



 気がつくと、赤黒く染まる夕焼けの街路に立っていた。

 その赤は辰砂。

 その黒は烏の濡れ羽。

 一面を覆う、燃えるような落日の残照。

 周囲を見渡しても誰もいない。世界の果ての如き静けさが漂うだけ。

 遥か遠く、彼方に、街の喧騒らしきものが見える。

 手を伸ばそうとして躊躇し、足を踏み出そうとして躊躇し、ただ羨望の眼差しを向ける。

 震える指先。遠くで聞こえる柔らかい声。

 後ろを向くと、赤黒く伸びた自分の影。空に浮かぶ雲の影と混じった、暗く鮮やかな色彩が瞳に焼きつく。

 辿り着けない喧騒に背を向け、一歩を踏み出す。

 その瞬間。

『そっちへ行っては駄目』

 透明な声が脳内に染み渡った。



 眼を開けると、ベッドの上。ぼんやりと上体を起こすと、そこは自分の部屋。

「目が覚めた?」

「あ、アスリエルさん……? あれ、わたし、なんで……」

「あなたが眠ってしまったから、ここまで背負ってきたの。勝手に上がらせてもらってごめんね」

「え――わ、そんな、私ったらいつの間にか寝ちゃったんですか!? しかもアスリエルさんに家まで運んできてもらうなんて……うう〜、謝るのは私のほうです。ごめんなさい、ありがとうございます」

 恥ずかしい。情けない。申し訳ない。

 顔を火のように真っ赤にさせる少女へ、アスリエルは優しい表情を浮かべた。

「ところで、あれは?」

 翡翠の瞳の先には布をかぶせた一枚のキャンバスがあった。ゆのが、あっと口を押さえる。

「あの、もしかして……見ちゃいました?」

 アスリエルが首を横に振ると、ゆのはホッと胸を撫で下ろした。

「それ、前に会ったときの、車窓を背にしたアスリエルさんの絵を、キャンバスに描いているんです」

「ああ……あのときの?」

「はい。それで、いつになるか分からないけれど、完成したら、アスリエルさんに見てもらいたいなって思って」

「そう――ありがとう、嬉しいわ」

 そっとアスリエルが微笑んだ。

 それが、どこか一抹の寂しさを秘めたように儚げで、ゆのはどうしてか胸が疼いた。

 そんな気持ちをかき消すように、

「あ、あのっ、何か食べていきますか?」

 ベッドから床に足を下ろして訊いてみるが、

「ごめんなさい。私そろそろおいとましないと」

「そうですか……えっと、今日はどうもありがとうございました」

 都合があるのなら仕方ない。ぺこりと頭を下げてお礼を口にした。

 玄関まで見送ったところで、ふいにアスリエルが振り返る。

「ゆの」

「えっ、はい、なんですか」

「……今度またお話しましょう」

「あ――はいっ!」

 ゆのは口もとを綻ばせ、満面の笑顔を返した。



 買出しから帰ってきた沙英が、ゆのと宮子に声でもかけようと階段にまわったとき、二階から下りてきた誰かと鉢合わせした。

 ベレー帽をかぶった、童話のヒロインのように可愛らしい外国人の少女。

 思わず、固まる。

「フ……フーアーユー!?」

 パニクって声がどもる。やってしまった、第一印象最悪。

 しかし――

「沙英さん、ですね? ゆのさんと宮子さんから話は聞いてます」

「え……うわ、日本語上手……じゃなくて、ゆのと宮子からって……――あれ、そういえばどこかで見たような?」

 記憶がフラッシュバックした。ゴールデンウイークの最終日、ゆのに見せてもらったスケッチブックに描かれていた少女。

 沙英がそこまで思い出したとき、少女は軽く頭を下げて通り過ぎていった。

「あーっ、アスやんだ。おーい、アスやーん!」

 二〇二号室から出てきた宮子が、遠ざかる少女に向かって大声で手を振った。

 振り向いた少女が宮子の姿を認めると、唇を薄い笑みの形に変え、小さく手を振って去っていった。

「あの子、アスヤンっていうんだ」

「そうだよー。アスリエル・ヤーンだからアスやん」

「愛称かい」

 沙英は苦笑した。ゆののこともゆのっちと呼んでいる宮子ならではだ。まあ年上にはさん付けして敬語を使っていたりするので、決して礼儀が欠けているわけではない。

「ところで沙英さん、その袋の中身、サンマですな?」

「やらんぞ」

「いやいや滅相もない。サンマは日干しにかぎる」

「それを言うなら目黒でしょ」

 突っ込むと、宮子はハテナ顔で首をかしげた。どうやら深読みしすぎたようだ。

「目黒というと寄生虫館?」

「イヤーっ! 私これから夕食でお刺身食べるのに〜っ」

 何気ない宮子の言葉に、たまたま通りがかったヒロが、涙目でぶるぶる震えていた。

「ヒロさん、よく噛めば寄生虫は噛み潰されて死ぬんだってー」

「キャー、言わないでーーーーーッ!!」

 ありがたくないアドバイス。ヒロの悲鳴が閉じた空に上がった。



『春の湯』と書かれた温泉入浴剤を淹れた浴槽に浸かり、ゆのは身体を隅々までリラックスさせた。

「お話してる最中に、いつの間にか寝ちゃうなんて……私ったら恥ずかしいなあ」

 昼間のことを思い出して自己反省。別に睡眠不足というわけでもないのに、どんより曇った春の陽気に気が緩んでしまったのだろうか。

 そういえば何か夢を見ていたような気がするが、思い出せない。

 誰かの声が聞こえて目が覚めた、おぼろげな記憶――何故だかアスリエルと重なる。

「あ……お風呂のこと聞き忘れた〜」

 がくりと肩を落とすゆのだった。