第5話「学校のえらいひと」


 陽気に包まれた校庭の花壇で、ゆのはスケッチブックに鉛筆を走らせていた。

 しかし、思うように筆が進まない。何度か消しゴムで修正している。

「どうですかな、絵の塩梅は」

 と、「被写体」が喋った。ぶるぶると震えた、しかし、年季の入った腰のある声。

 鼻の下の白ヒゲが立派すぎて、喋っていても口は見えない。

「えと、あの、ごめんなさい、難しくてなかなか……」

 謝る必要はないのに、ゆのはつい反射的にペコペコと頭を下げてしまった。

「気にすることはありませんよ。生徒の向上のため、この身が糧となるならば」

「あ、ありがとう、ございます……」

 必死に微笑を形作る。

 私、何やってるんだろう――そんな思いが一瞬よぎるが、すぐに頭から追い払った。

 簡単なようで難しい、独特の顔立ちをした対象を、ゆのはじっと見つめなおす。

 被写体は「校長先生」だった。



 ほんの二十分ほど前、屋外写生の授業でモチーフを探し、校舎の敷地内を歩いていた。

 気がついたら竹林の前まで足を運んでいた。以前の授業で初めてその存在を知った場所だ。

 何とはなしに立ち入ると、変わった造形の地蔵が眼前に鎮座していた。やまぶき地蔵と呼ばれ、一部の女生徒たちが、あるご利益のためによく拝みに来るという。

「……さすがにこれをスケッチするのは考えものだよね」

 あははと苦笑いしたところへ、

「あらあら、ゆのさん、スケッチ対象は見つかりました?」

「吉野屋先生!」

 びっくりして振り向いた先に、担任の女教師が立っていた。地蔵――へと昇華された「彫刻」を作った本人だ。

「えっと、被写体を探して歩き回っている最中です。……それ、なんですか?」

 きょとんと指差すゆの。

 吉野屋先生は菫色の真ん丸な壷を両手に抱えていた。

「校長室に飾る美術品ですよ。今朝、校長先生から持ってくるように頼まれていたのを思い出しましたので」

「はあ……それでどうして先生がここに?」

「校長室に行っても校長先生がいなかったので、探している最中なんですよ〜」

 ほがらかに笑う。竹林に校長先生がいるとは考えにくいが、そこは吉野屋先生、思考や行動が分かりやすかったり突拍子もなかったりするだけのことはある。

 モチーフ探しと校長探し、それぞれの目的で歩調を合わせる二人。

 竹林を後にして暫く歩いていると花壇に差し掛かった。

「ん……ここにしようかな」

 色とりどりの花々を描くのも悪くない。そう思ったとき、

「きゃあっ?」

「え――あっ!?」

 立ち止まったゆのの背中に、どん、と衝撃が加わった。吉野屋先生がぶつかったのだ。

 破砕音。

 足もとに散らばった菫色の破片を見つめ、沈黙。

「あ……あ……あああああああっ!!」

「あらあら、見事に割れちゃいましたね」

「そ、そんな暢気に!?」

「形あるものはいつかは壊れると、昔の偉い人が言っていました」

「先生……」

 ゆのは感心の眼差しを向けた。普段はついジト汗を垂らしたりしてしまうことがある吉野屋先生だけど、こういうとき慌てずに落ち着く様は、やはり教師であり大人なのだ。

「さあゆのさん、先生がついてますから、怖がらずに謝りに行きましょうね〜」

「ええぇぇぇーーーーーーっ!?」

 ちょっと尊敬の念が芽生えたそばから、とんでもない横車の押し方である。

「冗談ですよ、冗談♪」

「どえらい冗談ですね……」

 いつかどこかで宮子が言った突っ込みが口から出る。

 それこそテニスボールの直撃を顔面に受けるくらいの衝撃度だった。

「それでは私はホウキとちりとりを持ってきますから、ゆのさんここお願いね」

 パタパタと走り去る吉野屋先生。

 その場を任された以上、離れるわけにもいかず、ゆのはスケッチブック片手にぽつねんと立ち尽くす。

 やや遠くから足音。もう戻ってきたのかと思って振り向いた瞬間、仰天のあまり飛び上がりそうになった。

 ジョウロを持った校長先生――花壇に水をやりにきたのだ。

 気が動転して、ゆのは、散らばった破片をスケッチブックでかき集めて近くの花壇の後ろに隠してしまった。

「おや、また屋外写生ですかな」

「はいっ! あの……い、いい天気ですねっ」

「ふむ……夏も、近いですねえ……」

「そ、そうですね……あっ!」

 それ以上近づかれると花壇の後ろが見えてしまう。ドキドキは最高潮に達し、このままでは風邪をひいたときのように熱暴走してしまいそうだ。

「あのっ、校長先生、スケッチ対象になってもらえませんか!?」

 思わずそんな言葉が飛び出した。前の屋外写生時、校長先生から申し出られたときは、びっくりして断ってしまった。

 これで遠慮されたらおあいこだが、

「ふむふむ、自信がついてきたということですね。よろこんで若き成長の礎を担うとしましょう」

 面長の禿頭を陽光にきらめかせた校長先生は、やおら満足気に頷いたものだ。

 ――かくして冒頭に至る。



 集中する。とにもかくにも校長先生をクロッキーするのに集中する。

 クロッキー。対象を短時間で大まかに写し取ること。

 しかし、見れば見るほど顔が長い。始業式のとき、校長先生を初めて見た宮子が思わず「顔長っ!」と叫んでしまったのも頷ける。――不思議な風貌だ。

 たとえば、その頭に山高帽をかぶせたとして、

「失礼ですが、その帽子の中身はいっぱいに詰まってらっしゃるので?」

 と訊いたら、

「勿論です」

 方程式がぴたりと合ったような声で返ってくるに違いない。

 違いない。――違う。

 そうだ違う! 

 いま考えるべきはそんなことじゃなくて。

「どうしましたかな?」

「あっ、いえっ、なんでも!」

 慌ててかぶりを振り、クロッキーに再度集中。ひたすら集中。

 集中。一か所に集めること。

 集める。

 何を? 

 一か所に。

 どこに?

 菫色の破片を――花壇の後ろに。

「やっぱり、だめっ」

 スケッチブックを閉じて、バッと立ち上がる。

「校長先生ごめんなさい!」

 頭を下げて謝り、花壇の後ろを指差した。

 足音が近づいてきた。指先で示した場所を凝視しているものと思われる。

 ぎゅっと眼を閉じてこうべを垂れたままでいる少女の肩に、そっと手が置かれた。

 まぶたを開く。

「あ……」

 ゆのの瞳に映ったのは、はにかむ校長先生の顔だった。



「ゆのっちー」

「あ、宮ちゃん」

 校庭を見てまわっていると、中ほどから声。芝生の方で宮子が手を振っていた。

「こんなところでクロッキーしてたんだ」

「そうだよ〜。ゆのは描き終わった?」

「うん、さっき」

「見せて見せてー。――おっ、これはもしや校長先生っ」

「ちょっとメルヘン風になっちゃったけど」

 タイトルをつけるなら、『花とたわむれる校長』といったところか。

 すっきりした気分ですらすらっと描けた。妙に可愛くなってしまったのはご愛嬌。

「いやいや、校長をここまでイラスト風に描けるとは、ゆのっちならでは」

「宮ちゃんはなに描いたの?」

「私? じゃーん! これだよー」

 どーだとばかりに宮子が突きつけた用紙には、ナスカの地上絵にモザイクをかけたような幾何学的模様が異彩を放っていた。

「……なに?」

「なにって、小鳥だよ? さっきまで芝生にとまってたの」

「こ、とり……?」

「普通に描くのもなんだから、ちょっと視点を変えてみたのです。――どうかなぁ、結構自信作なんだけど」

「えっと……」

 あまりに前衛的すぎて、どうコメントしたらいいのか分からない。宮子のこういうアバンギャルドなところは素直に凄いとは思うのだが。

「あっ、吉野屋先生だ」

「――えっ!?」

 ゆのが仰々しい声を上げた。あの後、吉野屋先生はそのまま戻ってこなかったのだ。

 見ると、グラウンドの隅に座って二年生のテニス授業を観戦している女教師の姿。そばには所在なそうにホウキとちりとりが横たわっていた。持ってくる途中で、ついテニスに眼が行ってしまったのかもしれない。

 ゆのは大きく溜息を吐いた。



 放課後、帰り支度を終えたゆのが廊下を歩いていると、ぺちッ、という音が聞こえた。

 そこは校長室――思わず立ち止まる。すると、何やらすすり泣く声。

 ジト汗を浮かべ、通り過ぎるタイミングを失っていると、ドアから誰かが出てきた。

「よ、吉野屋先生……」

「あら、ゆのさん?」

 目尻に涙の粒を滲ませた担任教師がきょとんと小首を傾ける。

 何故か、その額が赤らんでいた。

「おでこ、どうかしたんですか?」

 ゆのが訊くと、

「私の顔が腫れました。校長先生の顔が晴れました」

 そう言って、吉野屋先生はメソメソと泣いた。



 バスタブに浸かり、ゆのは今日一日を振り返る。

「今日はいろいろ大変だったな……」

 いろいろ。

 色々。

 いろはにほへと。

 どうでもいいことを連想しながら、ざぷんと湯船に顔を沈めた。

 お風呂に浸かって毎日入浴する習慣があるのは日本くらいのもので、諸外国はシャワーで済ませるのが基本らしい。バスタブがあっても入浴に使用することは殆どなく、ゆえに日本人は「無類の風呂好き」と言われ、世界的に見れば珍しいのだとか。

「こんなに気持ちよくてリラックスできるのに……文化の違いって不思議だなあ」

 しみじみと漏らす。

 ――ある少女の顔が浮かんだ。

「アスリエルさんはどうなんだろう。今度きいてみようかな」

 と呟いてから、ゴールデンウイークの最終日、彼女の連絡先を聞くのを忘れていたことに今更ながら気がついた。

「わたしったら、肝心なときにうっかり〜」

 思わず頭を抱える。

 その日、珍しくゆのは湯冷めしたのだった。