第4話「憂愁の色」


 ゴールデンウイーク三日目の昼下がり――

「それで警部、わざわざ遠方から私を呼ぶとは、どんな事件が起きましたかな」

「警部じゃないし、階段ひとつ分の距離だし」

 部屋に入ってくるなりボケかます宮子に、沙英は反射的に突っ込み返した。

「事件っていうほどでもないんだけど……ちょっと宮子に頼みたいことがあるんだわ」

「ほうほう、またぞろヒロさんの体重でも増えましたか?」

「アンタそれ本人の前で言うなよ?――ってヒロの話じゃなくて、頼みたいのは、ゆののこと」

「ん、ゆのっちがどうかしたー?」

「いや、それがね……」

 弱った顔で、沙英は事の次第を話し出した。

 今朝、たまたま、どこかへ出かける風のゆのを見かけた。

 挨拶したら、うきうきした笑顔を返してきた。何か楽しいことでもあるようだった。

 腕に提げたトートバッグからスケッチブックが見えたので、写生かもしれない。

 それから数時間、やけに沈んだ様子で帰ってきたゆのを見かけたのは、つい正午前のことだった。

「ワケを訊いても、気を遣って教えてくれなくてさ……こっちも無理に問いただすわけにはいかないし、どうしようかと思ってたところなの」

「それで私に、因幡の白兎が立ったと」

「白羽の矢っ!」

 今度は素なのかボケなのか判別つかないが、とりあえず突っ込んで話を進める。

 既に四人は友達であり親しい仲間だが、それでも沙英とヒロは面倒見のいい先輩という役割が強い。やはりゆのにとって最も距離が近いのは、同じ学年とクラスで、一番の親友といえる位置付けの宮子だろう。

「そういうわけで、お願いできるかな?」

 返事はイエス・アイ・ドゥだった。



「ゆのー」

 ノックをしても返事がなかったので、宮子は二〇一号室のドアを開けて中に入った。いつの間にか彼女たちは、基本的に外出時以外は部屋に鍵をかけないようになっていた。鍵がかかっていると、好きなときに遊びにいけないからと宮子が提案したからだ。

「あ……宮ちゃん、どうしたの?」

 気が沈む、というよりは、思い悩む。窓を見ていたゆのは、そんな表情だった。

 それでも宮子に向けられた顔はほがらかで――だからこそ。

「ゆのこそどうしたー。なんか元気ないみたいだけど」

「え? あはは、そんなことないよ〜」

「……」

「わ、ほんとだよ? 宮ちゃんにそんな顔で黙られたら、こっちまでそうなのかなっていう気になっちゃうよ」

 苦笑とともに、殊更になんでもないことを強調する。

 それだけ無言の凝視に焦ったのだ。

 らしからぬ腕組みをしていた宮子は、突然、教師に質問する生徒のように手を挙げた。

「はいはーい、実はゆのっちにお願いがあって来ましたー。我が家の水道が止まったので、お風呂借してっ」

「ええっ、宮ちゃんまた水道代払い忘れたの!?」

「うむ、どうやらそのようなのだ。だからいまお風呂借りていい〜?」

「う、うん、別にいいけど……」

「それではゆのさまもご一緒にー」

「えっ、私もっ?」

「白羽の矢を立てられた因幡の白兎は寂しいと死んでしまうのです」

「???」

 眼を閉じて涙腺をうるませる宮子に押し切られる形で、浴室に連行されるゆのだった。

 そして――

「旅行けば〜♪」

「宮ちゃん、ほんとに歌うまいね〜」

 湯気の立ち込める浴室に、さながらプロ顔負けのソングが響き渡る。幼少時、夜に店を回ってよく歌っていただけの歌唱力はあった。但し、最近の流行歌はよく知らないらしい。

 向かい合わせで肩まで湯船に浸かり、真昼のバスタイムを愉しむ。

 ゆのがそっと眼を伏せた。

 互いの足の指先が、いっとき触れた。

「……ありがとう、宮ちゃん」

「んっ? こんなことでよければいつでも付き合うよ」

「そうじゃなくて……水道が止まったっていうの、本当は嘘だよね?」

「ば〜れ〜た〜か〜」

「さすがにわかるよー」

「それで、何があった?」

「ん――あのね」

 ゆのは、しっかりと宮子を見据えて口を開いた。



 部屋のドアがノックされたのは、昼食を終えた後のこと。

「やっほー、ヒロさーん。ちょっとい〜い?」

「なあに、宮ちゃん……と、ゆのさん?」

 元気よく入ってきた宮子の後ろに眼をやって、ヒロは、あら、という顔になる。ゆのがぺこりと会釈した。

 颯爽と、宮子が一枚の紙切れ――短冊を見せた。

 綺麗な字で『私の心は躍る、大空に――』とだけ書かれていた。

「え、と、なに?」

「それをヒロさんに訊いてるわけで。ちなみに私はスターの歌だと思ってます」

「あ、知ってる、西木乃さんだよね?」

「ちょ、ちょっとまって。確か……虹がかかるのを見たときに、って続くはずよ。ワーズワースの詩だったと思うけど」

 えっ、太陽じゃないの?――首を捻る宮子。

 その名前がついたテレビ番組があったような?――ぽかんと思い浮かべるゆの。

「よし、ゆのっち、ここは任せたっ」

 そう言って、返事も待たずに部屋を飛び出すと、宮子は隣の一〇二号室のドアを叩いた。

 顔を出した沙英に、水戸黄門の印籠よろしく短冊を取り出す。

「私の心は躍る、大空に……なにこれ」

「スター西木乃の歌のサビ部分だと思いますがどーか」

「いや、思わない。これはワーズワースの詩で、続きは、虹がかかるのを見たときに、だったかな」

「おそろしいものですなぁ。夫婦というのは言うことが同じだ」

「……夫婦?」

 感心を満面に出してのたまう宮子に、沙英は訳が分からず眉を寄せた。

「それより宮子、ゆのは?」

「悩み解決のため現在二人で情報収集中〜♪ 野望は寝て待てっ」

「果報っ!!」

 宮子が意外に成績優秀なことが信じられない沙英だった。



 おやつの時間を過ぎた空の下、二人の少女が緑市浅葱町をひた歩く。

「う〜む。あの詩のタイトルが『虹』っていうから、虹のかかりそうな場所に足を運びまくってみたものの……全然見つかりませんなー」

 探しているのは、アスリエルという名の外国人の少女。

 今朝、意気揚々として出かけたゆのだが、待ち合わせ場所である公園のベンチには、一枚のメモと短冊が置かれていただけだった。

 短冊には例の一文。メモには、短冊の場所で待っていますと書かれていたのである。

「ごめんね、宮ちゃん。連休最後の日なのに」

「んん? 気にしなくていいよ〜。町内探索みたいで楽しいしー」

 宮子の嘘混じりっけない言葉に、嬉しさといたたまれなさが同時にこみ上げてくる。

「もしかして、私の絵のモデルになるの、嫌になっちゃったのかなあ……」

 体よく断られてしまったのではないかと、そんな不安に駆られてしまう。

 そこへ、宮子に背後から覆いかぶさられて驚きの声を上げた。

「ゆーのー、ほら、ワーズワース某の本発見〜♪」

 古本屋の前――宮子の指差した先、ワゴンの中に「ワーズワース詩集」という文庫本があった。

 手にとってパラパラめくってみると、『虹』の全文も掲載されてあった。

 短めで、とくにヒントらしいものは見受けられない。

 何気なくページを開く指が、ふと、止まった。目で追った宮子が、その詩のタイトルを声に出して読む。

「発想の転換をこそ」

 内容は、教養体験よりも直接的な自然体験の中にこそ真実な人間的生き方があると説いたものだが、今のゆのには、題名の意の方が重要であった。

 局面の転換、――つまりは、考え方の転換。

「もしかして……虹っていうのは」

「おっ、ゆの、何か閃いた?」

「うん、ありがとう宮ちゃんっ」

「どーいたしまして♪ それで、どこー?」

 ゆのは携帯を開いてデジタル時計を確認した。

「前に一度行ったことあるきりだけど……今からだと、往復も考えると時間的にギリギリかな」

「ありゃ、遠いとこ?」

「……ちょっと遅くなるかも」

「ほうほう、どこまでもお供いたしますぞー」

「えっ、そこまで付き合ってもらったら悪いよ〜」

「よいではないかよいではないかー。水臭いぞ、ゆのっちー」

「でも……お金かかるよ? 片道だけで英世さん一枚じゃお釣りこないと思うけど」

 途端に固まる宮子。

 こころとからだの問題と同じように、財政的事情は如何ともしがたい。

「う〜ん……明日の食事を犠牲にすれば……なんとか、なる」

「わっ、まってー! 全額は無理だけど、宮ちゃんの分も半分出すからっ」

 ぶつぶつと身を削る算段を練る宮子に、たまらず温情を傾けるゆのだった。



 茜色に色濃く染まるホームに、一時間に二本しか停車しない電車が到着した。

 楢崎駅。一年中消えない虹が空にかかる不思議な町、楢崎の玄関口である。

「なるほどー、虹の町・楢崎か〜」

「うん。考えてみれば浅葱町内だけにしか目が行ってなかったんだよね。――あ」

 改札を出たゆのの瞳が、オレンジの色彩に映える薄桃色の髪を捉えた。

「アスリエルさん!」

「え――っ」

 待ち合わせした相手に呼びかけられたというのに――少女は困惑の表情を浮かべる。

「ゆのさん? よく……わかったのね」

「あの、もう一度、返事を聞かせてください。――絵のモデルになってもらえますか?」

 ゆのには彼女の真意が分からない。だから、もし嫌ならはっきりと答えてもらいたかった。

 一瞬の静寂。

 アスリエルは、どこか腹を据えたような笑顔を見せた。

「そのために私を探したんでしょう?」



 ゆのと宮子がひだまり荘に帰宅したのは午後十時前だった。

 沙英の部屋を訪ねると、ゆのはぺこっと頭を下げた。それだけで意図は通じた。

「まあ、元気になったみたいで何よりだよ」

 後で宮子に礼をすることを考えながら、沙英は、充足に包まれた少女を見つめる。

「それで、目的は果たせたの?」

「はい♪」

 ゆのが嬉々としてスケッチブックを開く。

 虹の広がった車窓を背に微笑する、ベレー帽を被った少女のラフ描き。

 今後おいおいキャンバスに移して完成させるつもりだ。

「可愛い子だね。へえ、虹が出てたんだ」

「虹がかかる町を出たときに――」

 そう言って、ゆのはにっこり笑った。