第3話「サイレン」


 注・この夢にはショッキングなシーンが含まれております



 おっとりした顔立ちをした女が、やまぶき高校の校門に立った。

 十代にしか見えないが、立派な二十五歳。

 懐かしそうに校舎を眺めながら、女――ゆのは在りし日の光景を頭に思い浮かべた。

 三年間の学生生活が、夢に向かって歩んでいた楽しかった日々が、蒼天を流れる雲のように、緩やかに記憶の漣へと懐古を重ねていく。

 やがて、腕を伸ばして深呼吸。眼を閉じて、開いて、現実に戻った。

 あれから十年――

 宮子は、独特の感性と発想が見る人の目に止まり、現在は新鋭の天才芸術家として注目の的だ。

 沙英は、長期的な売れっ子小説家の地位を確立し、挿絵も自分で手がけている。

 ヒロは、沙英の女房役として同棲中だ。

 いつでも一緒とはいかなくなったけど、三人とは今でも仲良くやっている。

「あら、もしかして……ゆのさん?」

 声をかけられ、振り向くと、モスグリーンの髪と瞳をしたロングヘアーの女が立っていた。

「あ――吉野屋先生!?」

 ゆのが声を弾ませると、女はほがらかに会釈した。

 やまぶき高校一年のときの担任教師だった、美術教師の吉野屋先生である。

「お久しぶりです、先生。全然変わらないですねー」

「ありがとう♪ ゆのさんも充分に中高生で通用するくらい若いですよ」

「そ、その言い方は複雑なんですけど……」

 中身も相変わらずだなあと思った。

 なにか、この人は一生このままなのではないかと感じるときもある。

「ゆのさん、イラスト関係のお仕事に就いたそうですね。おめでとう」

「あ、はい。ありがとうございます……まだまだ駆け出しですけど」

「大丈夫。ひとつの夢を叶えたら、また次の夢に向かってステップアップです。あなたには、まだまだ無限の未来が広がっているんですから」

「先生……」

 思わずうるっとくるゆのだったが、

「そう――それに比べて私は……心はまだ青春の輝きに満ちたあの頃のように純粋なのに、いつまでも夢見る少女ではいられない、時の残酷さにその輝きを刈り取られようとして……ううっ」

 悲劇のヒロインのように、いやいやと首を振る吉野屋先生に唖然。

「あっ、ごめんなさいね、ついつい憂鬱風を吹かしてしまって。そうだ、もしよかったら今日は先生の家に泊まっていきません? 積もる話もあるでしょうし」

「えっと、私は構いませんけど……いいんですか?」

「ええ。今は夏休みですし、昨日から親が旅行で外泊していて、寂しかったんですよ〜」

「わかりました、それじゃ遠慮なく――」

 とりたてて断る理由はない。ゆのは二つ返事で言葉に甘えることにした。



 吉野屋先生の家は、やまぶき高校から程遠くない近所にある。

「そういえばゆのさん、ひだまり荘の大家さんになったって聞きましたよ?」

 居間でお菓子を食べながら談話。

「はい。前の大家さんが、ひだまり荘を手放すことになって、買い手の見当がつかないみたいだったので……私が申し出たんです」

「まあ、それはそれは。よくそんなお金ありましたね〜。……はっ、もしかして、何か人には言えない商売を!? そんな、出張ヌードモデルなんて危険な真似をしたらいけないって、先生あれだけ言ったのに――」

「ちちち、違います! この数年間で貯金したお金を全部使って、それでなんとか」

 顔を赤くして否定し、算段を説明するゆの。ひだまり荘は彼女にとって思い出に満ち溢れた場所だ。だから、自分の手で存続させたかったのである。

「ところで、ゆのさん、お酒はいける口ですか?」

「えっと……得意じゃないですけど、飲めないことはないです」

 十年前、それとは知らず口にして、酔いつぶれて眠ってしまった頃が懐かしい。

 仲良く酒を酌み交わして昔話に花を咲かせる、かつての教師と教え子。

 すっかり夜の帳が降りた頃、ゆのがふとテレビに目をやると、今日はこれから空模様が大荒れだと天気予報が知らせていた。

 窓を見ると、既に雨が降り始めており、風の音が強くなってきていた。

「すみません、先生、ひだまり荘が心配なので、少し様子を見てきていいですか」

「ええ〜、せっかくお酒の席も酣に入ってきたところなんですから、ゆっくりしていってくださいー」

「いえ、でも、火事の危険があるので……」

 ひだまり荘の二〇二号室は、前の大家が過去に行なったリフォームの都合上、フローリング風シートの下に生石灰の乾燥剤が大量に置かれており、水をこぼすと発火する恐れがあるのだ。さらに、台風などが来ると雨漏りが発生する構造的欠陥もあるため、前述の事柄と総合して、かなり危険な部屋になっているといえた。

 その代わりに家賃が他部屋と比べて安く、金欠の入居者にとっては御の字状態となり、大家もその辺の状況を汲んでそのままにしておいた経緯がある。

 いま二〇二号室は空き部屋だが、それゆえに危険性は否定できない。

 すぐにでも様子を見に行きたいゆのだったが、

「もしひだまり荘が火事にあって焼けたら、私が責任もって弁償します」

 ほろ酔い加減の吉野屋先生に強く引き止められ、仕方なく断念した。

 気にはなりながらも、床を並べて二人で話などしていたが、そのうち深い眠りに落ちていく。

「むにゃ……青虫ってどっちかというと緑に近いのに、なんで青なんでしょう……わたしそういうの気持ち悪いんですよね……」

 そんな寝言が漏れる真夜中、消防車のけたたましいサイレンが鳴った。

 飛び起き、急いで駆けつけたゆのの目に映ったのは、炎に包まれた思い出のアパート。

 不幸中の幸いにして死傷者は出なかったが、ひだまり荘は全焼してしまった。

 数日後、失意のどん底で吉野屋先生に会いに行った。

 慰めの言葉をかけられながら、弁償の件を切り出すと、

「……残念♪」

 の一言で却下され、ゆのは耳を疑った。

「ま――待ってください! あの夜言ったことはなんだったんですか?」

「私が言ったんじゃありません。あれはお酒が言わせたんです」

 あっさりと返され、目が点どころか、唖然呆然。

「お酒を飲むと人は気が大きくなるんです。ですから、酒の上での約束を真に受けるなんてもってのほかですよ」

「えぇええっ!?」

「そんなことより聞いてください。親戚の子たちにたっぷりお年玉をせびり取られてしまって、それはそれは大変だったんですから〜」

 しくしくと泣き出す吉野屋先生。

 もう何が何だか、頭の中が真っ白だ。ホワイトアウト。

「泣きたいのは私のほうです……」

 涙が溢れてくる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 そのとき、ぽたりと、額に雫が落ちた。

 ――部屋の中なのに?

 見上げると、そこは曇り空。透明な青い雨が降ってきた。

『私の心の涙が溢れているのだな』

 それは誰の言葉だったか。

 涙のブルー。

 今の心境を表すに相応しい色なのかもしれなかった。



「ゆのさん……ゆのさーん」

 まどろみの中、ゆっくりとまぶたを開くと、担任の美術教師と目が合った。

「よ、吉野屋センセっ!」

「きゃー、またまたすごい顔っ」

「吉野屋先生、あんまりです! ひどいです!」

「お、落ち着いてください。ひどいのは、ゆのさんの顔ですよ」

「え……?」

 手鏡を見せられてびっくり。鏡面に映ったのは、数種の絵の具に濡れた自分の顔。

 見回すと、粘土細工の授業中。机の上では絵皿がひっくり返っていた。

 意識がはっきりして、状況を理解するや、みるみる羞恥に染まっていく。

「よく眠れましたか?」

「あ……えと……か、顔洗ってきますっ」

 追い打ちをかけるような先生の笑顔。

 恥ずかしさのあまり、ダッシュで教室を飛び出した。

「宮ちゃん起こしてくれればよかったのに……」

 そんなことを呟きながら洗面所に辿り着くと、

「お、ゆのっちもお揃いー?」

 先客が手を振って出迎えてくれたのだった。



 放課後、ゆのはスーパー「DaDaマート」へと向かっていた。トイレットペーパーが残り少なくなっているのを思い出したからだ。

 DaDaマートはひだまり荘から少し遠いため、普段はあまり足を運ばないが、コンビニより安いので生活用品などをまとめ買いするときはお得だ。

「今日は散々だったなぁ……」

 美術の実技授業のことが浮かび、少し肩を落とす。

 学校の帰り際、職員室に寄って吉野屋先生に夢の内容を話したら、それは漠然とした将来への不安の表れなんじゃないかと言われた。

 夢に向かって一生懸命頑張って、夢で無意識の悩みを感じているのでは世話がない。

 だいたい、いくら吉野屋先生でもあんな薄情な態度を取るわけがないし、火事にしても、水に濡れた乾燥剤が実際に燃えるかどうかなど分からないのだ。

 それはそれとして、

『ところでゆのさん。あなたの夢に出た、十年後の私はどんな感じでしたか』

『どんな……って?』

『ほら、色々あるじゃないですか、顔とか身体とか容姿とかっ』

『ええと……今とほとんど変わってませんでしたけど』

『まあ! ゆのさんは実に聡明で素晴らしい感性を持っていますね!』

『は、はあ』

『なら気にすることありません。悪いことがあった後は、必ず良いことがあるものです』

 という会話に流れていったのは吉野屋先生ならではだろうか。

 そんなことを考えながらスーパーを後にしたとき、消防車のサイレンが鳴った。

「――!」

 思わず、駆けた。

 あれは夢だとわかっているのに、炎に揺らめくひだまり荘が脳裏をちらつく。

 道の曲がり角で――どんっ。

 デジャヴ。

 カーキとエメラルドグリーンの双眸が交錯した。

 地に転がったのは、スーパーの袋と、そして、見覚えのあるベレー帽。

 遠ざかるサイレンの音。

 次の瞬間、ゆのの口から出た言葉は――

「あの――絵のモデルになってもらえませんか?」



 バスタブに音程の狂ったトンチンカンな歌が響き渡る。

 俗に言う音痴というやつなのだが、本人はまったく自覚していない。

 それでも、声の調子からして、機嫌がいいのだということは明白だ。

「悪いことがあった後は良いことがある、か」

 歌を口ずさむのを中断し、ゆのは湯気の中で微笑した。

「ゴールデンウイークが楽しみだなあ」



 ――ゆのさんっていうのね

 ――はい。この近くにあるやまぶき高校に通ってます

 ――ふうん……でも、いいの? モデルが私で

 ――是非お願いします! えっと……

 ――私の名前?

 ――は、はい

 ――私は、アスリエル



 ――アスリエル・ヤーン