第2話「睦まじきもの」
薄暗いドアを開けると、視界一杯に青空が広がった。
口もとを綻ばせ、ゆのは、ゆっくりと、校舎屋上に足を踏み入れた。
鞄から取り出したビニールシートを敷き、スカートを押さえながら腰を下ろす。それから、爽やかなそよ風を肌に感じつつ、お弁当に手をつけ始めた。
基本的には立ち入り禁止なのだが、たまに屋上で昼食をとることもある。平凡な自分が少しはみ出した気分になれるため、中学の時から屋上は好きだ。
屋上へのドアは施錠されているときもあるが、今日は開いていた。
おにぎりを頬張っていると、鼻先に、あまり心地の良くない香りが漂ってきた。
煙草の煙だが、ひだまり荘の大家が吸っていたものと違って匂いが独特できつい。外国製のものであることは、ゆのには分からない。
振り向いてドキッとなった。先客がいたのだ。
薄緑のスーツを着た男が、くわえ煙草でフェンスに寄りかかっていた。
飄々とした風貌の外国人。
「あ……ハンス先生?」
つい最近やまぶき高校に転勤してきたらしい非常勤教師だった。
「生徒か。こんなところで何をしている」
流暢な日本語だが、声に温かみは感じられない。
「ご、ごごご、ごめんなさいっ。屋上、気持ちよくて、つい……っ!」
「わざわざ立ち入り禁止の場所へ上がり込んで、暢気にランチか。――ご苦労なことだ」
「……ごめんなさい」
嘲るような口調で言われ、ゆのはしゅんとなって俯いた。
と――そこへ、
「冗談だ。俺は常勤じゃないからな、細かいことは気にしない」
明るい調子で、ハンスがおどけたように両手を開いてみせる。
とても冗談には聞こえなかったが、外国ならではのエスプリなのだろうと思い直した。
「まあ、学業の息抜きは大切だ。ゆっくり気晴らしするといい」
「あ、ありがとうございます……」
幾分か安堵する少女をにやにやと見下ろし、ハンスは階段へ足を向けた。
ドアの開閉音を耳に、ゆのは気持ちを切り替えるように青空を見上げた。
「ハンス先生って、ハンス・ヴェルナー先生?」
セミロングの髪を頭の左右でお団子にした少女が、軽く小首を捻る。彼女の名はヒロ。美術科二年で、ひだまり荘の一〇一号室に住んでいる。
人差し指を口もとに添え、ひとしきり考える仕種をして、
「どんな人って言われても……うーん」
髪と同色であるサーモンピンクの瞳を、ちらりとゆのへ向けた。
「こういうことは、あまりゆのさんには言いたくないんだけど……評判はよくないみたい」
「よくないんですか?」
「その、嫌われてるとか、そういうのじゃなくて、――怖がられてる、っていうのかしら?」
ヒロ自身もよくは知らないのだが、飄々としている反面、ときたまものすごい威圧感を発してくることがあるという。
ゆのは屋上でのことを思い返す。確かにいい感じはしなかったが。
「あの、でも、最近来日したばかりみたいですし、まだ日本に慣れてないだけかもしれませんよ。だから、不器用な冗談を口にしたりして、溶け込もうと頑張ってるのかも……」
ヒロは眼をしばたたかせた。ふっと唇がゆるむ。
「優しいわね、ゆのさんは」
「え? そんなこと、ないですけど」
唐突に言われ、ゆのはびっくりしたように顔を赤くした。
ヒロさんのほうが優しいと思いますけど――
「謙遜しなくってもいいのよ。厭味なく優しい子なんて、国宝にして大切に仕舞っておきたいくらい」
「わ、そんな――わたし、ろくろなんて上手にまわせませんしっ」
「……ろくろ?」
きょとんと首をかしげるヒロ。
ゆのの頭の中では、国宝→人間国宝→陶芸家、という方式が浮かんでいた。
「まあ、ハンス先生にはあまり関わらないほうがいいと思うけど」
「あ、違いますよ、私、人の秘密を探ろうだなんてこと考えてませんから」
「そうなの? そうよね、ゆのさんはとてもいい子だもんね」
「も、もう……だから、私はそんなできた子じゃないんですってば」
「ごめんごめん、じゃあそういうことにしておいてあげる」
困ったようにあたふたと両手をパタパタさせる少女の頭を、ヒロは、はにかみながら、穏やかに見つめた。
「あ、そうそう。沙英が素直に謝ったら許してあげてね」
「え……?」
不意に言われ、ゆのはハテナマークを浮かべるばかりだった。
ひだまり荘は、やまぶき高校から徒歩一分圏内――校門の真向かいに建っている、二階建て六部屋の小さなアパート。
二〇一号室。ゆのがのんびりとテレビを見ていると、強い調子でドアが叩かれた。
入ってきたのは宮子と沙英。なにやら剣呑な空気が漂っている。
「え……っと、宮ちゃん? 沙英さん?」
テーブルを挟んで睨み合う二人に挟まれる形で、ゆのはおろおろと両者を見やるばかりだ。
「ゆのっちー、実は沙英さんはとんでもない悪代官なのだ」
「……え?」
「私の目の前でお菓子を食べているのに、分け与えてくれないのだー!」
「……は?」
切実な物言いに、ただただ目が点。
何故か神妙な顔つきで黙っている沙英を気にする風もなく、宮子は続けた。
「そういうことで、ゆのからも沙英さんに物申してくだされー」
「……えっと、宮ちゃん、お腹すいてるんだね」
言うなり、席を立つゆの。そして冷蔵庫から何かを持ってきた。
宮子の眼がテーブルに置かれた小皿の上に吸い付く。一個のレアチーズケーキが、食欲をそそる芳香を存分に放っていた。
「美味しそうだったからケーキ屋さんで買ってきたの。後で持っていくつもりだったんだけど……お腹すいてるなら、いまここで食べる?」
「ありがたくいただきます」
「ちょ――こら宮子っ!」
「まってください、沙英さんの分もちゃんとありますから」
「あ、いや、そういうことじゃなくてね……はあ、まあいいか。あまり気乗りしなかったし」
「? どういうことですか」
どうにも要領を得ない。
そういえば、さっきの宮子の物言いは、どこか演技がかっていたようにも思える。
「あのね、今のは芝居なの」
「お芝居……ですか?」
首をかしげるゆのに、沙英は苦笑いで白状した。
「今度書く小説で、普段はおっとりしてて優しい良い子が、本気で他人を非難するっていうシーンを表現したいんだけど、なかなかうまいこと浮かばなくてさ」
「それでイメージぴったりのゆのっちに実践してもらいたかったんだって〜」
「知恵熱で冷静さを欠いてて……いや、言い訳はよくないね。ほんとゴメン」
「ああ……――そういうことなら別にいいですよー」
ヒロの言葉の意味がようやくわかった。納得できる理由なら問題ない。
「いやはや、いくら正気を失っていたとはいえ、沙英さんに頼まれたときは良心が……」
「人聞きの悪いこと言わないっ。大体、やっちゃえば良いやん?――って後押ししたの宮子でしょっ!」
「えっ、そうなの?」
「そだよ? だって私はゆのっちも沙英さんも信じてるし〜」
あっけらかんとした爽やかスマイルに、二人は冷水を浴びせられたようにハッとなった。
「宮ちゃん……」
「あはは、コリャまいったね……」
口もとを和らげるゆの。照れ隠しに、指先で自分の鼻の頭を撫でる沙英。
なんとも気恥ずかしい。
「あの、沙英さん、私でよかったら協力しますけど」
「えっ――いいの?」
「はい。優しい良い子っていうのは買いかぶりすぎですけど……沙英さんの仕事に役立てるなら」
「ああ、うん、全然、助かるよ」
かくかく頭を上下に振る沙英だった。
「そ、それでは……い、言いますよ」
「その……ゆの、別に無理しなくてもいいから」
ガチガチに固まっている小動物的な後輩を見て、沙英は心配の汗をたらたら。
「ゆのっちー、頑張れー、骨は拾ってあげるー」
「ほ、ほね、ホネホネロック!?」
「宮子っ、余計なこと言わないの!」
無責任だが実の篭もったエールを送る宮子は、既にケーキをぺろりと食べ終えていた。
ゆのは手の平に「人」という文字を書いて三回飲み込んだ。
大丈夫。やればできるは魔法の合言葉。おしゃれ探偵ラブリーショコラで事件も解決だ。
「み、宮ちゃんが飲まず食わずで頑張って、床下に乾燥剤ばら撒いてある雨漏りしたら発火の危険性がある部屋で家賃少なくて、それなのに、仕送り無しで生活できる沙英さんが、そんな宮ちゃんの前でお菓子食べて分け与えず、やまぶき高校の美術科を選んだ理由は自分の小説の挿絵は自分で描きたいからなんて、とても立派な理由で――どうもおめでとうございます」
ところどころ詰まりながら、それでも一気にまくし立てた。
自分でも何を言っているのかさっぱりだったが、聞き終わった二人はぽかんとしている。
やがて、沙英がぷっと吹き出した。宮子は拍手喝采だ。
「ひゅーひゅー、ゆのっち格好いいぞー」
「えと、あの、お役に立てましたでしょうか……?」
緊張から解き放たれて、目をぐるぐる廻すゆのの頭を、沙英はくしゃっと撫でた。
「ありがと。参考になったよ」
ホッとしてテーブルに突っ伏すゆの。
そこへ、ヒロが入ってきた。
「あら……八方丸く収まったのかしら?」
「あ、ヒロさん。そうだ、ヒロさんの分もケーキ買ってあるんですけど、食べます?」
そう言って顔だけ上向けるゆのに、ヒロは困ったような作り笑いをした。
「ごめんなさいね、今はダイエット中だから――」
「そうですか。それなら仕方ないですね」
「と言いたいところなのだけど、実はさっき喫茶店でイチゴタルトを三つほど……」
しくしくと両手で顔を覆う。ゆのと沙英は言葉を失った。
それならとばかりにヒロの分のケーキをいただこうとする宮子と、しかしガッチリ引き止めるヒロ。
大岡裁きの判決やいかに。
湯船に浸かり、ゆのは小さく溜息を吐いた。
「みっともないところ見せちゃったなぁ」
さんざん緊張して固まった挙句、口から出たのは論旨が不明確な言葉の羅列。今から考えると、沙英に申し訳ないやら恥ずかしいやらいっぱいいっぱいだ。
演技とはいえ、誰かを強く非難するのがあんなに大変だとは思わなかった。
いや、演技だからこそだろうか?
じゃあ昼休みのハンス先生の言葉は、冗談じゃなくて自然な発言ということに。
「わ、だめだめだめ、そんな風に考えちゃっ」
ぶんぶんと頭を振って否定する。
教師なのだから、感情をコントロールしてのジョークなど容易に違いない。きっとそうだ。
まあ、ストレートに自分の感情を垂れ流す担任教師なんかもいたりするが。
「でも――」
思わず小さな笑みがこぼれる。
少し残念? 少し安心?
その辺はよく分からないけれど――
「明日も頑張ろう」
秘湯の香りに包まれたアヒルの玩具を、指先でつんとつついた。