第1話「宮子と餅」
ゆのは私立やまぶき高校に通う美術科の一年生。
瞳と同じカーキ色の髪の左右につけた、バッテン型の黒いヘアピンが特徴的な少女。
夕陽も落ちた空の下、コンビニ「ベリマート」へとひた走る。肩上で不揃いに跳ねた髪が軽く風に揺れる。
「うう〜、急がないと閉まっちゃうよ」
午後七時過ぎ。ベリマートは七時半には閉店してしまうので、せくせくと駆け足。
店のおばちゃんを起こせば二十四時間買えるらしいが、そんな非常手段に訴えるほどの買い出しではない。
が、急いでいるときは、とかく注意が散漫になってしまうもの。
道の曲がり角で――どんっ。
見事、勢いよく、通行人と衝突。互いに尻餅をついてしまう。
「いたた……わわっ、ごめんなさい、怪我はありませんか!?」
自分の心配もそこそこに立ち上がると、今しがたぶつかった相手に、あたふたと声をかける。
ゆっくりと腰を起こす対象者を視界に収めた瞬間、ゆのの足が硬直した。
腰まで届くなめらかな薄桃色の髪が、エメラルドグリーンを連想させる翠の瞳が、純白の雪のように白い肌が、明かりの燈った街灯の下にうっすらと浮かび上がった。
外国人と思しき少女。
見た目は、ゆの同様の幼児体型だが、紺色で統一した、洒落たデザインのベレー帽と、落ち着いたゴシックロリータ調の足首まで掛かる衣服は、まるで意思を持った西洋のアンティークドールのような幻想感を抱かせる。
可愛らしさと綺麗さを併せ持ったその風貌に、ゆのは、一時、見惚れた。
それから、ハッとして、
「え、えっと、あのっ! え、えくすきゅーずみー、どーゆーのー、あんだすたんっ?」
頭の中がパニックになり、わけのわからない片言の英語が飛び出す有様。
英語力ゼロというわけではないが、まともに外国の人間と会話できるはずもない。
しどろもどろになっているゆのを見て、少女が薄く微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あなたのほうこそ、お怪我は?」
「えっ……あ、へ、平気……です」
少女が発する日本語に、驚きのあまりぽかんとした。
なんて流暢で綺麗な発音なんだろう。
「よかった。――急いでいたみたいだけど、時間のほうはいいの?」
「え――あっ、わわわ、大変っ」
携帯のデジタル時刻は午後七時十五分を表示していた。
「あの、どうもすみませんでした。それじゃっ」
ぺこりと頭を下げ、ゆのは慌ててその場を後にした。
駆け出してから、一度だけ振り返ると、少女の後ろ姿が視界の隅に映る。
触れたら壊れてしまいそうな、そんな儚さが印象として残った。
ゆのがひだまり荘に戻ったのは、ベリマート閉店時刻から十数分後のこと。
ひだまり荘は、やまぶき高校のドまん前にある、二階建ての小さなアパートである。
一〇二号室のインターフォンを鳴らすと、眼鏡をかけたショートカットの少女がドアを開けて出迎えた。名前は沙英。濃紺の髪と瞳をした、やまぶき高校美術科の二年生で、プロの小説家としても活動している。
「ゆの、お帰り。ちょっと遅かったけど、何かあった?」
「行く途中で人とぶつかっちゃいました。――はい、頼まれた栄養ドリンクとおつまみ数点です」
「ありがとー、助かったよ。追い込みで買い物に出る暇もなくてさ……あ、ジュースくらいしか出せないけど、折角だしあがっていって」
「そんな、いいですよー。お仕事の邪魔しちゃ悪いですし」
「いいからいいから。そのほうがこっちも気が楽だし」
「それじゃ……お邪魔します」
おずおずと部屋の中に入る。
クッションに腰を下ろして、用意されたオレンジジュースをストローでちゅうちゅう飲っていると、テレビ画面に目が釘付けになった。
「あっ、私これ欲しいんですよね〜」
「ん――リスの置物?」
原稿用紙にペンを走らせながら、テレビを確認する沙英。
「はい。ちょっとまえに流行ってたんですけど、やっとブームが収まって。……でも今月ピンチで手が出ないんですよ」
「ゆのってそういうの好きだっけ?」
「尻尾に本物のリス毛を使ってるらしくて、感触がよさそうだから……」
そう答えるゆのの声は、少し夢見心地で、うっとりした表情を浮かべていた。
やがて我に返ったゆのは、ジト汗を浮かべている沙英に気づいて顔を赤くした。
恥ずかしさを隠すようにジュースをストローで吸い上げ、
「そ、それじゃ私、そろそろおいとましますねっ」
「あ……ああ、うん」
「小説頑張ってください沙英さん」
社交辞令抜きで口に出し、そそくさと腰を上げた。
沙英の部屋を後にしたゆのは、階段を上がって、自分の部屋である二〇一号室の前に立つ。
ふと隣を見ると、二〇二号室のドアに結構な隙間が。明かりが漏れているのは、同じ美術科一年かつ同じクラスでもある宮子の部屋だ。
足が自然とそちらへ向く。
「宮ちゃんったら、不用心だなあ……」
いくらひだまり荘が美術科の変わり者達が集うことで有名なアパートとはいえ、年頃の娘が一人暮らしという状況なのを、ふと、考える。
親元を離れるとき、両親に心配されたことを思い出すゆのだった。
「宮ちゃん、ドア開いてるよ?」
そっと玄関に足を踏み入れると、女の子の部屋とは思えないくらいに色々なものが散乱した室内が視界を覆い、思わず苦笑した。ここ最近、実技の授業や宿題が多かったからだろう。
「宮ちゃ――」
かけようとした声を抑えるゆの。
足の踏み場はある程度に散らかった部屋の真ん中、ややボサボサ気味のセミロングの金髪を後ろでくくった少女が、見てる方まで笑みがこぼれそうな至福の表情を浮かべていた。
餡ころ餅に金の胡麻ダレを垂らして、次から次へと口へ放り込む。
その頬張る様があまりに幸せそうなので、なかなか声をかけるタイミングが掴めない。
と、そのとき。
「う――むぐぉぉぉっ」
餅を喉に詰まらせたらしい苦鳴に、ゆのはぎょっとして室内に駆け込んだ。
「宮ちゃん、大丈夫!? しっかりっ」
大慌てで宮子の背中をぱんぱん叩いたりさすったりしていると、ごほっという咳と同時に餅の残骸がテーブルの皿に吐き出された。
呼吸が安定して落ち着いてきたのを確認して、ゆのは安堵の吐息を漏らす。
「おお、勇者ゆの、我が命の恩人よ!」
「びっくりしたよ〜……お餅はゆっくり食べなきゃダメだよ」
「いやー、クロスワードの景品が当たってさ。嬉しくてついもぐもぐと」
悦びのあまりドアロックも忘れたといったところか。
「ふうん、何が当たったの?」
「この餡ころ餅と、おまけでそれ」
「それって……えっ!?」
先程、沙英の部屋でテレビに映っていたリスの置物が、散乱する物海に浮かんでいた。
景品当選の紙には、「和のこころ風流セット」と書かれていた。明らかにオマケなのは餅のほうである。
「み、宮ちゃんっ、こんな、汚れちゃうよっ」
「いいんだよー、置物なんだから。欲しかったらゆのっちにあげる〜」
えっ、と眼を丸くするゆの。――くれるって、私に?
「い……いいの? 私、これ、もらっても」
「うん、いいよー。私が欲しかったのはこっちだし」
新しい餡ころ餅を皿の上の残骸とくっ付けて、ぽんっと口の中に放り込む。
もぐもぐと、今度はしっかり咀嚼しながら頬をゆるませる宮子へ、
「宮ちゃん――ありがとうっ!」
嬉しさを顔に出して抱きつくゆのだった。
「む――ぐぉぉぉぉぉ」
再び苦鳴があがった。
数日後の夕刻、ゆのは宮子の部屋を訪れた。
放課後に隣町の大きなデパートへ行った帰りで、制服のままだ。
「宮ちゃん、このまえはリスの置物ありがとう。これ、そのお礼」
手に提げていた袋を差し出す。
受け取った宮子が袋から取り出したものは、黄金餅だった。
たちまち感動の涙を溢れさせる。
「おおー、神様ゆの様仏様! なんとかたじけない、感謝の極みっ」
いつも金欠・腹ペコがデフォルトの宮子にとって、棚から牡丹餅とはこのことだろう。
或いは、結果的に、情けは人のためならず状態か。
「ところで、こがねもちをチョイスした理由はなに?」
「えっと……宮ちゃん、あのとき金の胡麻ダレかけてたでしょ? それが頭に残ってて、お餅と金のイメージで」
「ほうほう。おかげで私の心に金蔵と家が建ちましたー♪」
「それはコガネムシだよ〜」
苦笑い。
でも、心晴れやか。気持ちあったか。
「ではさっそく黄金の餅を五臓六腑に行き渡らせ――」
「あっ、その前に、部屋の掃除しよっ」
「誰の?」
「誰のって……周り見えてる?」
足の踏み場はなくなっていた。
「うむ、まず食べてから」
「ダメだよ〜、私も手伝うから、ほらっ」
渋る宮子の手を取って、掃除を促す。心の広いゆのさんにも譲れないことはある。
天真爛漫で活発な宮子だけあって、手を付け始めたら後はスムーズだった。
「ふう〜」
温泉の素を淹れた湯船に浸かり、ゆのは浴槽で心地良く息を吐いた。
掃除で疲労した身体に、安らぎと充実感が浸透していく。
湯船に浮かぶカルガモの玩具をぼんやりと眺めているうちに、ふと、数日前のことを思い出した。
コンビニへ向かう道すがら、曲がり角でぶつかった、流暢な日本語を話す外国人の少女。
その風貌はまるでお伽噺の中から抜け出たかのようで。
「もしまた会うことがあったら、絵のモデルをお願いしてみようかな……」
そんなことを考えながら、名湯の香りに鼻腔をくすぐらせるゆのだった。